ケイナは薄暗いエレベーターホールに行くと、隅に置いてある椅子に腰掛け足を小さなテーブルの上に乱暴に乗せた。
 仏頂面で横のガラス張りの外に目を向けた。
 もうすっかり夜だ。小さな光の群れしか見えない。
 クルーレは何か隠してる。でも、それが見えない。ユージーはそのことを知っているんだろうか。
 人の気配がしたので、そちらに目を向けると女の子の姿が見えた。
 栗色の長い髪にちょっと泣き出しそうな顔。
 ブランだ。
 彼女はケイナに近づくと、その表情とは裏腹に、ケイナのテーブルに乗せた足を指差して強い口調で言った。
「お行儀が悪い」
 ケイナは無言で彼女から目を逸らせた。
「足、下ろしなさい」
 再び言ったがケイナが無視をしたので、彼女はケイナの足を叩いた。ケイナはうっとうしそうな表情でブランを見た。
「あっちに行け」
 そう言い捨てると再び彼女から目を逸らせた。
「勝てそう?」
 ブランは小首をかしげてケイナの顔を覗きこんだ。
「あの青い目のお兄ちゃんに」
 ケイナは黙っていた。
「あの青い目のお兄ちゃんには、青い目のお兄ちゃんしか勝てないってダイが言ってた」
「夢見か」
 ケイナは興味がなさそうにそうつぶやいた。
 ふいに組んだ腕にブランが手を伸ばしたので、ケイナはぎょっとした。
「触るな」
 拒んだが、ブランは両手でケイナの組んだ腕をひっぱってなんとかほどこうとする。
「なんなんだよ……」
 顔に不快感を滲ませてケイナは言ったが、ブランは全身の力をこめて腕を引っ張った。
「手、繋がせて」
「うるさいな」
「つな…… っ…… がせ…… っ…… てっ!」
 ブランはようやくケイナの腕をほどくと、すばやく彼の左手を掴んだ。ケイナは眉をひそめてそれを振り払うと立ち上がった。
「ぶん殴るぞ」
「お兄ちゃんはそんなことしない」
 ブランはケイナを見上げてそう言うと、再び彼の手をとった。振りほどこうとはしなかったが、ケイナはブランを険しい目で見つめた。
 ブランはケイナの手を両手でぎゅっと掴むと、その甲に自分の額を押しつけた。
 小さく温かな感触がケイナの手に伝わった。
 しばらくふたりはその状態でいたが、やがてケイナが口を開いた。
「ブラン」
「ん」
 ブランは小さな声で答えた。
「やめておいたほうがいい」
 ブランは顔をあげた。怒りが解けたケイナの顔があった。
「おまえの後ろにたくさんの夢見たちが繋がってるんだろうけど、出口が小さかったらドアが壊れる」
 ブランは小さな口を尖らせて俯いた。ケイナはその顔の高さまで身をかがめて彼女の顔を覗きこんだ。
「セレスと手を繋いだんだろ? そのときだって辛かったんだろ?」
「お兄ちゃん」
 ブランは言った。
「今日、お兄ちゃんのお部屋にお泊りして一緒に寝てもいい?」
 ケイナはブランの顔を見つめて、小さくかぶりを振った。
「だめ」
「怖くない?」
 ケイナはかすかに笑った。
「怖いよ。でも、自分でなんとかする」
 ブランはケイナの青い目をじっと見つめた。
「あたし、明日帰っちゃう。なにかしてあげなくちゃ」
 ケイナは少し目を伏せたあと、再びブランの顔を見た。
「辛いこと、無理にやらなくてもいいよ。もう十分頑張っただろ?」
 ブランの口がゆがんで、目にみるみる涙が溜まった。
「おれの前で泣くな」
 ケイナは言った。
「泣くんだったらリアかアシュアんとこに行け」
 ブランはこくんとうなずいて服の袖口で目をこすった。
「お兄ちゃん」
 ブランはケイナの青い目を見つめて言った。
「お兄ちゃんは緑のお姉ちゃんが好きなんだよね?」
 ケイナは少しびっくりしたような顔でブランを見た。
「あのね、緑のお姉ちゃんがふたりいるの」
 ブランは右手の人差し指を立てるとケイナの額にその指先をつけた。
「ひとりはね、このへんにいるの」
 そして今度はその指をケイナの胸のあたりに落とした。
「もうひとりのお姉ちゃんはね、このへんにいるの」
 ケイナは無言で彼女の顔を見つめた。ブランは指をもう一度ケイナの額につけた。
「あたしね、こっちのお姉ちゃんだと思ってたの。だからこっちのお姉ちゃんを起こしちゃったの。カインさんをずっと呼んでたから、カインさんの髪をもらったの。……でも、間違えちゃった……」
 ブランの目に再びじわりと涙が滲んだ。
「お兄ちゃんと手を繋いで分かったの。あたし、間違えちゃった。ごめんなさい……」
 ケイナは彼女が何のことを言っているのか分からなかった。セレスとはまだ会ってもいない。
「こっちのお姉ちゃんはお兄ちゃんを呼んでる。どうしたらいいんだろ……」
 泣き出しそうな声で話すブランの小さな手がケイナの胸に当てられた。ケイナはその手を見た。
「ブラン、もういいよ」
 ブランが小さくしゃくりあげた。
「泣くなって言ったろ」
「うん」
 ブランはまた袖口で目をこすった。そしてケイナの左手を再び持ち上げた。
「お兄ちゃん、勝つと思う。でも、緑のお姉ちゃんが呼んでくれるまで大変かもしれない」
「うん……」
 ケイナはつぶやいた。
「大丈夫だよ」
「お兄ちゃん」
 ブランはワンピースのポケットをさぐると、苦労して何かを取り出した。
「これ」
 彼女はそれをケイナに差し出した。ノマドの剣。柄しか見えない剣だった。
「渡しなさいって言われてたの」
 ケイナはうなずくと、彼女の手から剣を受け取った。
「お兄ちゃん、あたしのこと嫌いになったりしない?」
 ブランは少しおずおずとした口調でケイナの顔を覗きこんで尋ねた。
「なんで?」
「間違えちゃったから……」
 ケイナは小さく笑った。
「ブランは何も悪くない」
「あたしのこと怒ってない?」
「怒ってない」
 ブランの顔にほっとしたような笑みが浮かんだ。
 その彼女の肩越しに、アシュアの姿が見えた。
「こんなところにいたのか。どこに行ったのかと思った」
 アシュアを振り返るなり、ブランは彼のところに走りこんでそのまま大声を張り上げて泣き出した。アシュアが険しい目をケイナに向けた。
「おまえ、子供相手に……」
 ケイナに詰め寄ろうとするアシュアの足をブランは叩いた。
「お父さん、違う! お兄ちゃんじゃない!」
 アシュアは困ったようにブランを見て、彼女を抱き上げた。
「じゃあ、なんで泣いてるんだよ」
 ブランはそれには答えず、アシュアの首に腕を回してさらに泣いた。アシュアがケイナに目を向けると、彼はその視線から逃れるように目を伏せた。
「とりあえず、今日は軍のほうで護衛をしてくれるそうだ。おまえも休めとさ。ティが部屋に案内してくれる。明日からカインのそばにいることになるぞ」
 アシュアは言った。そしてブランを抱いたままケイナに背を向けた。


「今は最低限のものしかありませんけど、必要なものがあればそろえますからおっしゃってください」
 ティはケイナを部屋に案内して言った。
「カインさんの部屋は隣です。何かあれば部屋の通信音とこれが鳴ります」
 彼女はそう言って、小さな腕時計型の軍用通信機をテーブルの上に置いた。たぶんクルーレが置いていったのだろう。
 ケイナは部屋を見回した。記憶にある『ライン』の部屋よりずっと広い。
 あの小さなブースの仕切りが全て取り払われたほどの大きさのリビング、壁一面の大きな窓、椅子とテーブル、ソファ、コンピューターの置いてあるデスク……。
 もちろん、自分の住んでいたアパートよりも広い。
「こちらは寝室になってます」
 ティは奥のドアを指差して言った。
「クローゼットの中に部屋着も入っています。明日、クルーレさんがあなたのサイズに合う軍服を持って来られると思います。そのほうが動きやすいからとおっしゃってましたけど……」
 ティはケイナの顔を見て小首をかしげた。
「何か好みがあるんでしたら、そろえますよ?」
 ケイナはそれには答えず、ガラス張りの壁に寄った。
「ここ、閉めるときどうすんの」
「ウィンドウ」
 ケイナの問いにティは言った。一瞬のうちに透明なガラスが曇った。
「開くときも同じ。曇っていれば開くし、開いていれば曇るし。壁のモニターはオープンとクローズで。ほかの言葉に変えることもできます。もちろん手動も可能です」
 ケイナはティに目を向けず、興味がなさそうに小さくうなずいた。
「アシュアとリアさんは向かいの部屋です。わたしは一階下の左側の一番奥。ヨクはその対面です」
 ティはそう言うと、言葉を切った。
 ケイナの姿をまじまじと見つめて、この子はなんて綺麗な子なんだろうと思った。
 全身が美術品のようだ。人目も惹くだろうし、愛想が良ければ女の子にもてるだろう。それなのに妙に反抗的な態度はやはり18歳という年齢だからだろうか。
「あの……」
 彼女は口を開いた。ケイナの目がこちらを向いた。
 ぞくりとするほどの鋭い目にティは思わず目を伏せたが、顔をあげて思い切って口を開いた。
「あなたはクルーレさんを好きじゃないって言ってたけど…… あの人はいい人よ。あなたのことも迎えに行ってくれたんでしょう?」
 ケイナはデスクの端に体重を預けると、腕を組んで彼女の顔を見た。かすかに首をかしげて、いったい何を言い出すんだろうという表情だ。
「わたしのこともとても心配してくれたの。あの人はあなたの思うような人じゃないと思うわ。嘘をつくような人でもないわ」
 ティはそう言って、再び目を伏せた。
「……わたしが言うことじゃないかもしれないけど」
 ケイナはかすかに肩をすくめた。
「クルーレはユージーの命令で迎えに行ったって言ってた」
彼の言葉にティは思わずケイナの顔を見た。
「わたしが言うのはそれだけのことじゃないわ。これまでだってずっといろいろ尽力してくださってたのよ。今日だって警備をつけてくれてるわ」
「あんたさ……」
ケイナはかすかに首をかしげると、身を起こしてティに近づいた。
「クルーレはユージーの部下だって分かって言ってるの?」
「分かってるわ」
見上げるほどにケイナが近づいてきたので、ティは少し後ずさりながら答えた。
「ユージーは1週間で意識を回復したって言ってただろ。そりゃ、すぐにしゃべれたわけじゃないだろうけど、クルーレが自分の意思で動いたのは7日だけだ」
「あとは全部カート社長の命令だというの?」
 ケイナは顔をそむけるとティから離れてソファにどさりと腰掛けた。
 背もたれに肘をかけて馬鹿にしたように見上げる仕草が小憎らしい。
 実際にはケイナはそんなつもりで彼女を見上げたわけではなかったが、ティは彼の表情が無機質なだけに馬鹿にされているような気分に陥った。
「おれはいい人とか悪い人とかそんなことで言いたいことを選別したりしない」
 ケイナは言った。
「彼はたぶんユージーの右腕で有能な人なんだろうと思う。でも、おれは恩とか義理とかそんなの関係ない。それで言いたいことを押し込めてたら動かせるものも動かせない。カインだっておんなじだ」
 ティは言い返すことができず口をゆがめた。たかだか18歳の子供に言い負かされてしまったことが悔しかった。
 ケイナはしらけたような表情でティから目をそらせた。
「カインさんが一生懸命になっていたっていうのに…… こんな生意気な子だなんて思わなかったわ」
 ケイナのうっとうしそうな視線がこちらを向いた。
「カインさんは一生懸命だったのよ、あなたのことをずっと心配して!」
 ティは言った。悔しさのあまり気持ちを抑えることができなくなっていた。
「どんなに命令だっていっても、クルーレさんはあなたを迎えに行ったのよ。こっちはエアポートの事件でどれだけ混乱していたか分かってるの? その中であなたを迎えに行ったのよ? どうしてそんな言い方しかできないの?」
「おれに、どうして欲しいの?」
 彼の言葉にティは顔を歪めた。
「なんなの、それ……」
「あの状態でクルーレにぺこぺこ礼を言ってなんの意味があるんだよ」
 ティは口を震わせた。
 信じられない。この子は感情が欠落しているわ。
「おやすみなさい」
 ティはくるりと身を翻すと足音をたてて部屋を出て行った。
 ケイナはため息をついてソファに身を沈めた。
 彼女とはあまりうまくいきそうにない。
「ひねくれた子」とナナもつぶやいていた。
『ライン』にいたときは「無愛想」と言われたが、場所が変わると「ひねくれた」「生意気」人間になった。
 ケイナは顔をあげて視線を宙に泳がせた。
 ……いや、そんなことよりクルーレだ……。
 クルーレはユージーの直属の部下だ。ユージーの命令なしに個人で動くことはない。軍人世界のカートの一員ならなおさらだ。
 でも、彼は絶対何か知っている。
 7年前の自分を鏡で見るようなあの男。
 なんでおれのコピーみたいなやつがおれの前に現れる?
 どうしておれの姿でないといけないんだ?
 ケイナはブランが渡してくれたノマドの剣を取り出した。
 この剣を最後に持ったとき、とても後悔した。
 もう誰とも戦いたくないと思った。
 殺めたくない人を殺めなければならないような気がする。
 今はそれもただの予感でしかなかった。