カインは水差しに水を汲んでサイドテーブルに置き、ブランの顔を覗きこんだ。
「ブラン、2時間ほどオフィスに行ってくる。また戻るから」
 そう言うと、ブランはいやいやと首を振った。カインは身をかがめて彼女の髪を撫でてやった。
「本当に戻るよ。約束する」
「行っちゃだめ……」
 懇願するような口調だった。カインはため息をついた。
「じゃあ、1時間」
 しかし、ブランは首を振った。
「行っちゃだめなの……」
 カインはしばらく思い悩みながら彼女の髪を撫でていたが、結局立ち上がった。
 寝室を出る前にブランの小さな泣き声が聞こえたので可哀想だと思ったが、振り切るようにして部屋をあとにした。
 オフィスに入ったカインに気づいてティがすぐにやってきた。『ホライズン』に送ったにしては早すぎると思ったのだろう。
「ブランは?」
「熱を出したみたいだ。ぼくの部屋で寝かせてる」
「ひとりで置いてきたの?」
 ティは目を丸くした。
「リアとは連絡をとったんだけど、そのままでいいと言うし……」
 ティのことだから、必ず抗議すると思った。案の定彼女は口を開きかけたが、デスクの通信音が鳴ったので、彼女は不機嫌そうに口をつぐんだ。
「出社していたか。良かった」
 ヨクだった。ティをちらりと見上げると、彼女は口を引き結んでカインを見ていた。
「ウォーター・ガイドとの契約はうまくいったよ。昼食会をする予定だったんだが先方の都合でキャンセルになった。で、別件が入ったんだ。サウスエンド医療グループの代表がきみに会いたいと言ってる。出られるか? 12時半からなんだが」
 時計を見ると11時半だった。出られないと答えるわけにはいかないだろう。カインはうなずいた。
「分かりました」
「じゃあ、あと15分ほどしたらそっちに着くから、エントランスまで降りてきてくれるか?」
 ヨクがモニターから消えたので、カインは上着をとりあげた。
 その様子を見つめるティの視線とカインの目がぶつかった。
「ブランはどんな様子なの?」
「熱が出てる」
 カインは上着に腕を通しながら答えた。
「どのくらいの熱?」
「計ってない」
「どうかしてるわ……」
 ティはかぶりを振った。
「それで放っておいて仕事に行っちゃうの? リアさんを呼ぶべきよ。」
「ティ……」
 カインは眉をひそめて彼女を見た。
「リアがそのままにしておけと言ったんだ。彼女はできるだけ早くこっちに戻ると言ってる」
 『ノマド』の夢見のことを彼女にどう説明すればいいのかカインには分からなかった。何をどう言ってもティは納得しないだろう。
「サウスエンドにはアプローチしていてなかなかアポイントがとれなかったんだ。先方からのリアクションを断るわけにはいかないよ。それくらいきみにも分かるだろう」
 カインは引き出しの奥からクルーレが用意してくれた銃を取り出すと、上着の内側につけたホルダーに入れた。ティは険しい目でそれを見ていた。
「そんな状態でやらなきゃならない仕事って、いったい何なの」
 彼女はつぶやいた。カインはその顔をちらりと見て無言でデスクを離れた。
 部屋から出ようとするカインの背にティは言い募った。
「ブランのこと、心配じゃないの?」
 カインは足をとめて少し振り返った。
「じゃあ、時間があるときでいいから、きみが時々見てやって」
「最低」
 ティが思わず声をあげたが、カインは構わずオフィスを出た。

 心配じゃないわけないだろ……。カインは心の中でつぶやいた。
 エレベーターに乗り込んでひとりになった途端、ため息が漏れた。
 できるんなら、リアが来るまで一緒にいてやりたいよ。
 ブランには1時間といったのに、結局戻らないことになる。
 たぶん、自分の子供ができたってこういう生活になるのかもしれない。
 ティが最後に自分に向けた「最低」という言葉が胸を突いた。
 エントランスに着いて振り切るように足を踏み出したとき、カインは思わず立ち止まった。
 上階よりはるかに冷たい空気を感じたからだ。
 周囲を見回した。
 いつもと変わらない人の群れとざわめきの波。
 空調だってちゃんと効いている。……いや、効いているはずだ。
 だのに、どうしてこんなに空気が凍えているのだろう。まるでクラッシュアイスをばらまいたような冷たさだ。
 訝しく思いながら歩き出し、自分で気づかないうちに懐の銃を確認していた。
(勝てないって。青い目のお兄ちゃんに)
 ブランの言葉が思い出される。
 まさか、とカインは心の中でつぶやいた。
 こんな人ごみの中でいくらなんでも。
 でも、あいつはユージーを狙って撃った。
 心臓の鼓動が速くなった。
 吹き抜けの3階部分や、この広いエントランスの端から、もしあいつが狙っていたら自分には視線も殺気もきっとキャッチできないだろう。
 強烈な緊張感の中でヨクの姿を見つけた。
「カイン、こっちだ」
 ヨクはカインの姿を見つけて、いつもと変わらない表情で手をあげた。カインは早足で彼に近づくと、その腕を掴んだ。
「どうした?」
 カインの表情に気づいたヨクは目を細めたが、カインはそれに構わず彼の腕を掴んだままエントランスを飛び出した。
「どうしたんだ?」
 もう一度ヨクが尋ねたがカインは答えなかった。
 凍えた空気が消えた。

 サウスエンドを出たときには午後5時近くになっていた。
「いい手ごたえだったな。先方はきみのことをえらく気に入っていたみたいだ」
 ヨクは上機嫌だった。サウスエンドと契約を結べばエアポートの事件での損失もほぼ相殺されるかもしれない。ヨクが上機嫌なのも当然だった。
 カインはプラニカに乗りこむとすぐにティのオフィスに連絡を入れた。
「急ぎの連絡事項はありません」
 ティは事務的に答えた。
「No.42の最終結果が出ましたので、お戻りになられましたら報告書を見てもらいたいそうです」
「なんか、機嫌悪い?」
 ヨクが運転をしながらティの声の調子に気づいてつぶやいた。
「ブランは熱が下がったわよ」
 ティは画面の向こうでかすかにカインを睨みつけて言った。
「ずっとあなたの名前を呼んでいたわ」
 カインは無言だった。
「ブランが熱を出したのか?」
 ヨクが口を挟んだ。
「ええ。39度も出ていたわ。こんな子供を放り出して出て行くなんて信じられない」
「言ってくれりゃあよかったのに」
 無責任に言うヨクをカインは思わず険しい目で睨んだ。
「2時間くらい前だったかしら、リアさんが戻ってきたの。お母さんの顔を見たら安心したみたいで、すがりついて泣いていたわよ」
「15分くらいで戻る」
 カインはそう言って強引に画面を切った。向こうでティが憤慨しているだろうが、もう何を話す気もなかった。
「喧嘩でもしたのか?」
 ヨクが気遣わしげに尋ねてきた。カインはそれには答えず窓の外に目を向けた。
 ゆっくりと夕刻の色になっている。
 苛立たしいとも、情けないともつかない気分に陥った。
 どうしてこんなことで不信感を抱き合わねばならないのだろう。
 ティはなぜぼくのことを信じてくれない?
 ぼくはどうして彼女なら説明をすれば分かるはずだと信じてやれない?
 カインは外の景色を眺めながら思った。
 そのときには、出るときに感じた冷気のことを忘れていた。
 だから、駐車場にプラニカが入り、ビルの中に足を踏み入れた途端、カインはその冷たい空気を再び感じて緊張状態に陥った。
(まだいる? まさか……)
 ヨクはいつもどおり慣れた様子でエレベーターに乗り込んだ。
「どうした? 行くぞ?」
 彼が不思議そうな顔をしたので、カインは慌ててエレベーターに飛び乗った。
 ここからはエントランスは通らない。そのままオフィスのある上階に向かう。
 3階を過ぎてから視界が開けた。シースルーの壁から周囲の建物に灯り始めた明かりが見える。
「日が暮れるのが早くなったな……」
 ヨクは外を見てつぶやいた。
 隣のエレベーターが下から昇ってくるのが見えた。カインはヨクの肩越しにそれを眺めていた。空気が冷たい。ヨクはそのことを感じないのだろうか。
 9階で一度エレベーターが止まってドアが開いたが、誰も乗ってくる気配がないのでヨクがドアの外に顔を突き出して不思議そうな顔をした。その後ろで隣のエレベーターが追い越していくのを見たとき、カインは冷たい空気を吸い込んで心臓までが凍りついたように思った。
 青い目が、すれ違う一瞬の間にカインを捉えてかすかに笑った。
 カインは慌てて昇っていったエレベーターを目で追った。
 3階ほど上で止まっているようだ。
「どうしたんだ」
 ヨクが怪訝な顔をしたが、カインはそれには答えることができなかった。
 どうしたら……。どうしたらいいだろう。
 ヨクの顔を見た。
 彼と一緒にいるのはよくないんじゃないだろうか。
 自分と一緒にいると彼も巻き込まれる可能性がある。
「なに?」
 ヨクは相変わらず不思議そうな表情だ。彼の頭の中には今、仕事がうまくいったという喜びしかないだろう。
 エレベーターが再び動き始めた。隣のエレベーターは3階上でそのまま止まっている。カインは咄嗟に4階上の停止を表示させた。
「ヨク、忘れものをした」
「忘れ物?」
 ヨクはカインの言葉を聞いて首をかしげた。
「出る前に見たけど……」
「ぼくのプラニカだ。取りに行ってくる」
 ヨクは少し不審そうだったがうなずいた。忘れ物を取りに行くのに、なぜ4階上でエレベーターが停まるようにしたのか、そこまでは頭が働かなかったようだ。
 その間にエレベーターは隣のエレベーターを追い越していった。1階上ならお互いに相手の動きが分かる。
 ヨクじゃなくて、ぼくについて来い。おまえが狙っているのはぼくだろう?
 カインは祈るような気持ちでこちらを見あげる青い目を見た。
 開いたドアに向かうと、青い目も降りる姿が見えた。
「すぐ帰る」
 カインはヨクにそう言うなりエレベーターから走り出した。