翌朝、カインは鼻っ柱を何かではたかれてびっくりして飛び起きた。
身を起こすと横にブランのあどけない寝顔があったので、彼女の手が自分の顔を叩いたのだと悟って苦笑した。
カインはベッドをブランに譲って自分はソファで横になるつもりだったのだが、ブランが眠るまで話をして欲しいとせがんだので、しかたなく適当な本を書架から取って一緒に横になってやった。結局そのままふたりとも眠ってしまったらしい。
それにしてもすごい寝相だ。
ベッドから半分投げ落ちているブランの足をベッドの上に戻し、毛布をかけてやって時計を見て思わずため息をついた。午前10時半だった。朝は7時には起きるつもりだったのに。
どうして誰も起こしに来なかったのだろう。リアはいったいどうしたのだろう。
髪をかきあげて首をかしげながら寝室を出てキッチンでコーヒーを淹れた。
デスクに行ってティのオフィスに連絡を入れると、彼女はすぐに画面に現れた。
「おはようございます、社長」
ティはいつも通りの笑みを浮かべていた。
「何か連絡が入ってる?」
尋ねると、ティは目を別のモニターに移した。
「8時半に『ホライズン』のドアーズ博士から、都合のいいときに連絡が欲しいと。それと、クルーレさんから星間機を無事着陸させたのでこちらに向かって出発すると伝えて欲しいと9時15分に連絡が入りました。到着は今日の午後4時だそうです」
カインはうなずいた。
「ヨクは?」
「一時間前にウォーター・ガイド社との契約に出かけました。先方と昼食をとって帰ってくるそうです」
「リアはどうしたの?」
「ヨクが出るときに一緒に『ホライズン』まで送って行きました」
カインは額を押さえた。
「起こしてくれればよかったのに……」
思わずつぶやくと、ティはちらりと外をうかがうように目をモニターから外して再びカインを見た。
「カインさん、起こしたのよ。3回も」
「え?」
カインはびっくりしてティの顔を見た。
「呼び出しをずっと鳴らしたの。8時と9時と9時半に。でも、出ないんだもの。ドアーズ博士もクルーレさんも、一度はそちらに連絡をなさったみたいだったわ。誰も出ないからこちらに連絡が来たの」
誰が聞いているはずもないのに、ティは声を潜めた。
「ヨクが疲れているんだろうから、寝かせてやれって…… リアさんもそれで行くのを遠慮したみたい」
カインは息を吐くと、椅子の背にもたれ込んだ。
自分に呆れた。いったいどれだけ深く眠りこんでいたというのか……。
「それで、悪いと思ったんですけど……」
ティは一瞬ためらったが、口を開いた。
「ヨクとリアさんが出てから、お部屋に一度入りました。昨日の報告書がいただきたくて……。社長決済を待っていたんです」
カインはデスクの上に目をやった。確かに昨日見た報告書の束がなくなっている。
「寝室に入って起こそうかとも思ったんですけど……」
ティは申し訳なさそうに言った。
「今日は会議もありません。そちらで仕事をなさいます?」
気遣わしげにこちらを見るティにカインはかぶりを振った。
「いや、ブランを『ホライズン』に送って出社するよ。ドアーズにも会って用件を聞いてくる」
「わたしがブランを送りましょうか」
「いや、いいよ」
カインがそう答えると、ティはうなずいた。
画面からティが消えたあと、カインはデスクから立ち上がって寝室に戻りブランを揺り動かした。
「ブラン、そろそろ起きろ」
ブランは少し声をあげたが目を開けなかった。
「ブラン」
彼女の頬に手を触れてカインは目を細めた。熱い。
額に手を当てると、自分の手よりもはるかに熱をもってかすかに汗ばんだ感触があった。
カインはベッドの端に腰をおろすと、彼女の顔をかくしている長い髪をかきわけた。
ブランはうっすらと目を開いてカインを見た。
「カインさん……」
ブランは小さな声でつぶやいた。
「暑い……。のどかわいた」
「水でいい?」
カインが尋ねると、ブランはうなずいた。
水を持ってきてやると、ブランは辛そうに身を起こしてコップ一杯の水をごくごくと飲み干し、再びぱたりと横になった。顔が赤い。
「カインさん、今日どこにも行かないで。そばにいて」
「リアを呼ぶよ」
少し甘えたような口調で言うブランにそう答えると、彼女はかぶりを振った。
「カインさんがいい」
カインはしばらく考えたのち、ブランの髪を撫でて立ち上がった。
リアを呼び戻すしかないだろう。医者に診せるにしても、母親である彼女に一度話しておく必要があった。
カインは再びモニターの前に座った。
『ホライズン』を呼び出すとすぐにセレスの部屋に接続された。画面に出てきたのはドアーズだった。
「博士、すみません、あのリ……」
「ご子息!」
言いかけたカインの言葉を遮って、ドアーズは叫んだ。
「すばらしい! 彼女はもう起き上がって自分で食事がとれるようになった! 反応も昨日の比ではない。会話もするよ!」
「え……」
ドアーズは興奮したように目を見開いていた。こんな顔をするドアーズを見たのは初めてだった。
「会話といっても、とつとつとした喋りだがね、単語を並べるような。さすがにひとりで立つことはできないがこの分だと相当なスピードで回復するんじゃないかと思う」
セレスが会話をする……。
面食らって、ただドアーズの顔を見つめるしかない。
昨日までのセレスの記憶しかないカインには信じられないことだった。
「昨日までは夢を見ているような感じだっただろう? 今はもう違う。視線も合うし、リアクションも普通だ。いや、全く信じられん! やはりあのお嬢ちゃんの言うようにきみに会ったからかもしれん!」
ドアーズは画面の向こうでこぶしを握り締めて勢いよく振り始めた。
なにがどうなっているんだろう。
カインは少し不気味さを感じた。
「博士…… すみません、リアを呼んでいただきたいんです。ブランが熱を出していて……」
カインが言うと、ドアーズは振っていたこぶしを頭の上で止めた。
「あのお嬢ちゃんが? 風邪でもひいたかな?」
「さあ…… 分からないんですが、医者に診せるにしてもリアに伝えたほうがいいと思うので……」
「そうだな、ちょっと待ってくれ」
ドアーズは画面から消えた。しばらくしてリアが現れた。
「カイン、置いてっちゃって悪かったわ。熱を出したって?」
リアは言った。
「朝、ぼくが目を覚ましたときは気づかなかったんだけど……」
「しゃべる?」
「そりゃ、まあ……」
しゃべることができないような高熱だったら、こんな悠長なことはしていられない。
「じゃあ、心配ないかも…… 熱以外ないんなら一日くらいで元に戻ると思うわ」
「どうしてそんなことが分かるの?」
カインは訝しげにリアを見た。リアは肩をすくめた。
「昨日、一緒に寝ちゃったんでしょ? ブランはあなたの不安や疲れを自分に吸い込んだんだわ」
また、『ノマド』の不思議な話。カインは戸惑った。
「一緒に泊まるって言ったから、そういうつもりなのかなっていうのはちょっぴり思ってた。トリも小さいときはこういうこと、よくあったのよ。熱出したり、ずーっと寝てたり。ブランはだいたい悪夢は食べないタイプなの。悪夢は食べるとしんどいからね。だからめずらしいけど」
カインは何をどう答えればいいのかわからなかった。リアは彼を安心させるように笑顔を見せた。
「心配ないよ。大丈夫。朝、迎えに行ったら様子がわかって先に伝えられたんだけど、ヨクが寝かせておいてと言うからそのままこっちに来ちゃって……。悪かったわね……。今はたぶんブランからコミュニティの夢見たちに流れていってる最中だと思う。流れきったら夢見たちが引き受けてくれるから心配ないわ。本当に病気だったらダイが察知してあたしに何かコンタクトしてくるはずだし。できるだけ早く引き取りに行くわ。セレスが眠ったら動けると思う。それまで悪いけど寝かせておいて。水をたくさん用意してやったら自分で勝手に飲むから」
本当にそれでいいんだろうか。カインは半信半疑だった。
「それとね、セレスがすごいの。あれからたくさん話したのよ」
リアは興奮気味に言った。ドアーズの興奮が移ったような感じだ。いや、リアが興奮したからドアーズが興奮したのかもしれない。
「でも、あたしのことは覚えてないみたいだった。まあ、あんまりあたしからはいろいろ話してないけど。そうしないほうがいいってドアーズさんが言うから……」
まくしたてるリアを見つめながらカインは困惑したような顔でうなずいていた。
「まだ歩けないけど、車椅子がある。呼んで来ようか。カインの顔を見たらまた変化があるかもしれないよ?」
「いや、でも……」
カインが答える前にリアは立ち上がっていた。
一瞬、セレスの顔を見るのが怖いと思った。
このまま通信を切ってしまいたい……。そう思った。
しばらくしてセレスが画面に映った。リアがセレスの肩越しに顔を覗かせている。
「セレス、カインよ。分かる?」
戸惑い気味に画面に目を向けるセレスを見て、カインはぞっとした。
記憶が蘇る。
画面の向こうで会話した少女。あのとき、マイク越しに必死になって語りかけた少女。
『グリーン・アイズ・ケイナ』
長い髪も、抜けるような白い肌も、大きな緑の瞳も、瓜二つだった。
「カイン……?」
セレスは瞬きを繰り返しながらカインの顔を見た。
「セレス……」
何を言えばいいのか分からなかった。気を許すと『ケイナ』と呼んでしまいそうだ。
セレスの手がついと伸びてきた。彼女はモニターの中のカインの顔に触れようとしているようだった。
「セレス、ここじゃ、カインには手は届かないわよ」
リアが言うと、セレスは慌てて手を引っ込めた。
「そう…… そうか。そうだよね」
その物言いは以前のセレスの感じだ。恥ずかしそうにリアを振り返って、潤んだ大きな緑色の目が再びこちらを向いた。
「また、カインには会えるよ。カインに会いたいでしょ?」
リアが言うと、セレスはカインの顔の造作をひとつひとつ探るように眺めた。
「どこで…… 会ったの?」
セレスはつぶやいた。
「あなたの声…… どこで…… 聞いたの?」
カインは思わずセレスから目をそらせていた。
「疲れちゃうから、このくらいでってドアーズさんが言ってる」
リアが後ろを振り向いて再びこちらを向いた。
「ごめんね、カイン。戻ったらすぐ行くから」
カインは何も言えずにただうなずいていた。セレスが画面から消えたあともカインはモニターの前から動くことができなかった。
『グリーン・アイズ・ケイナ』は最期までカインには会わなかった。ただカインと彼女は声だけで会話をした。
自分の声に反応し、繋いだ手を見つめ、目や鼻をひとつひとつ確かめるように見ていたセレス。
『グリーン・アイズ・ケイナ』とセレスの記憶がすりかわっていたとしたら?
「そんなばかな……」
カインはつぶやいたが、完全に否定できない自分がいることも感じていた。
身を起こすと横にブランのあどけない寝顔があったので、彼女の手が自分の顔を叩いたのだと悟って苦笑した。
カインはベッドをブランに譲って自分はソファで横になるつもりだったのだが、ブランが眠るまで話をして欲しいとせがんだので、しかたなく適当な本を書架から取って一緒に横になってやった。結局そのままふたりとも眠ってしまったらしい。
それにしてもすごい寝相だ。
ベッドから半分投げ落ちているブランの足をベッドの上に戻し、毛布をかけてやって時計を見て思わずため息をついた。午前10時半だった。朝は7時には起きるつもりだったのに。
どうして誰も起こしに来なかったのだろう。リアはいったいどうしたのだろう。
髪をかきあげて首をかしげながら寝室を出てキッチンでコーヒーを淹れた。
デスクに行ってティのオフィスに連絡を入れると、彼女はすぐに画面に現れた。
「おはようございます、社長」
ティはいつも通りの笑みを浮かべていた。
「何か連絡が入ってる?」
尋ねると、ティは目を別のモニターに移した。
「8時半に『ホライズン』のドアーズ博士から、都合のいいときに連絡が欲しいと。それと、クルーレさんから星間機を無事着陸させたのでこちらに向かって出発すると伝えて欲しいと9時15分に連絡が入りました。到着は今日の午後4時だそうです」
カインはうなずいた。
「ヨクは?」
「一時間前にウォーター・ガイド社との契約に出かけました。先方と昼食をとって帰ってくるそうです」
「リアはどうしたの?」
「ヨクが出るときに一緒に『ホライズン』まで送って行きました」
カインは額を押さえた。
「起こしてくれればよかったのに……」
思わずつぶやくと、ティはちらりと外をうかがうように目をモニターから外して再びカインを見た。
「カインさん、起こしたのよ。3回も」
「え?」
カインはびっくりしてティの顔を見た。
「呼び出しをずっと鳴らしたの。8時と9時と9時半に。でも、出ないんだもの。ドアーズ博士もクルーレさんも、一度はそちらに連絡をなさったみたいだったわ。誰も出ないからこちらに連絡が来たの」
誰が聞いているはずもないのに、ティは声を潜めた。
「ヨクが疲れているんだろうから、寝かせてやれって…… リアさんもそれで行くのを遠慮したみたい」
カインは息を吐くと、椅子の背にもたれ込んだ。
自分に呆れた。いったいどれだけ深く眠りこんでいたというのか……。
「それで、悪いと思ったんですけど……」
ティは一瞬ためらったが、口を開いた。
「ヨクとリアさんが出てから、お部屋に一度入りました。昨日の報告書がいただきたくて……。社長決済を待っていたんです」
カインはデスクの上に目をやった。確かに昨日見た報告書の束がなくなっている。
「寝室に入って起こそうかとも思ったんですけど……」
ティは申し訳なさそうに言った。
「今日は会議もありません。そちらで仕事をなさいます?」
気遣わしげにこちらを見るティにカインはかぶりを振った。
「いや、ブランを『ホライズン』に送って出社するよ。ドアーズにも会って用件を聞いてくる」
「わたしがブランを送りましょうか」
「いや、いいよ」
カインがそう答えると、ティはうなずいた。
画面からティが消えたあと、カインはデスクから立ち上がって寝室に戻りブランを揺り動かした。
「ブラン、そろそろ起きろ」
ブランは少し声をあげたが目を開けなかった。
「ブラン」
彼女の頬に手を触れてカインは目を細めた。熱い。
額に手を当てると、自分の手よりもはるかに熱をもってかすかに汗ばんだ感触があった。
カインはベッドの端に腰をおろすと、彼女の顔をかくしている長い髪をかきわけた。
ブランはうっすらと目を開いてカインを見た。
「カインさん……」
ブランは小さな声でつぶやいた。
「暑い……。のどかわいた」
「水でいい?」
カインが尋ねると、ブランはうなずいた。
水を持ってきてやると、ブランは辛そうに身を起こしてコップ一杯の水をごくごくと飲み干し、再びぱたりと横になった。顔が赤い。
「カインさん、今日どこにも行かないで。そばにいて」
「リアを呼ぶよ」
少し甘えたような口調で言うブランにそう答えると、彼女はかぶりを振った。
「カインさんがいい」
カインはしばらく考えたのち、ブランの髪を撫でて立ち上がった。
リアを呼び戻すしかないだろう。医者に診せるにしても、母親である彼女に一度話しておく必要があった。
カインは再びモニターの前に座った。
『ホライズン』を呼び出すとすぐにセレスの部屋に接続された。画面に出てきたのはドアーズだった。
「博士、すみません、あのリ……」
「ご子息!」
言いかけたカインの言葉を遮って、ドアーズは叫んだ。
「すばらしい! 彼女はもう起き上がって自分で食事がとれるようになった! 反応も昨日の比ではない。会話もするよ!」
「え……」
ドアーズは興奮したように目を見開いていた。こんな顔をするドアーズを見たのは初めてだった。
「会話といっても、とつとつとした喋りだがね、単語を並べるような。さすがにひとりで立つことはできないがこの分だと相当なスピードで回復するんじゃないかと思う」
セレスが会話をする……。
面食らって、ただドアーズの顔を見つめるしかない。
昨日までのセレスの記憶しかないカインには信じられないことだった。
「昨日までは夢を見ているような感じだっただろう? 今はもう違う。視線も合うし、リアクションも普通だ。いや、全く信じられん! やはりあのお嬢ちゃんの言うようにきみに会ったからかもしれん!」
ドアーズは画面の向こうでこぶしを握り締めて勢いよく振り始めた。
なにがどうなっているんだろう。
カインは少し不気味さを感じた。
「博士…… すみません、リアを呼んでいただきたいんです。ブランが熱を出していて……」
カインが言うと、ドアーズは振っていたこぶしを頭の上で止めた。
「あのお嬢ちゃんが? 風邪でもひいたかな?」
「さあ…… 分からないんですが、医者に診せるにしてもリアに伝えたほうがいいと思うので……」
「そうだな、ちょっと待ってくれ」
ドアーズは画面から消えた。しばらくしてリアが現れた。
「カイン、置いてっちゃって悪かったわ。熱を出したって?」
リアは言った。
「朝、ぼくが目を覚ましたときは気づかなかったんだけど……」
「しゃべる?」
「そりゃ、まあ……」
しゃべることができないような高熱だったら、こんな悠長なことはしていられない。
「じゃあ、心配ないかも…… 熱以外ないんなら一日くらいで元に戻ると思うわ」
「どうしてそんなことが分かるの?」
カインは訝しげにリアを見た。リアは肩をすくめた。
「昨日、一緒に寝ちゃったんでしょ? ブランはあなたの不安や疲れを自分に吸い込んだんだわ」
また、『ノマド』の不思議な話。カインは戸惑った。
「一緒に泊まるって言ったから、そういうつもりなのかなっていうのはちょっぴり思ってた。トリも小さいときはこういうこと、よくあったのよ。熱出したり、ずーっと寝てたり。ブランはだいたい悪夢は食べないタイプなの。悪夢は食べるとしんどいからね。だからめずらしいけど」
カインは何をどう答えればいいのかわからなかった。リアは彼を安心させるように笑顔を見せた。
「心配ないよ。大丈夫。朝、迎えに行ったら様子がわかって先に伝えられたんだけど、ヨクが寝かせておいてと言うからそのままこっちに来ちゃって……。悪かったわね……。今はたぶんブランからコミュニティの夢見たちに流れていってる最中だと思う。流れきったら夢見たちが引き受けてくれるから心配ないわ。本当に病気だったらダイが察知してあたしに何かコンタクトしてくるはずだし。できるだけ早く引き取りに行くわ。セレスが眠ったら動けると思う。それまで悪いけど寝かせておいて。水をたくさん用意してやったら自分で勝手に飲むから」
本当にそれでいいんだろうか。カインは半信半疑だった。
「それとね、セレスがすごいの。あれからたくさん話したのよ」
リアは興奮気味に言った。ドアーズの興奮が移ったような感じだ。いや、リアが興奮したからドアーズが興奮したのかもしれない。
「でも、あたしのことは覚えてないみたいだった。まあ、あんまりあたしからはいろいろ話してないけど。そうしないほうがいいってドアーズさんが言うから……」
まくしたてるリアを見つめながらカインは困惑したような顔でうなずいていた。
「まだ歩けないけど、車椅子がある。呼んで来ようか。カインの顔を見たらまた変化があるかもしれないよ?」
「いや、でも……」
カインが答える前にリアは立ち上がっていた。
一瞬、セレスの顔を見るのが怖いと思った。
このまま通信を切ってしまいたい……。そう思った。
しばらくしてセレスが画面に映った。リアがセレスの肩越しに顔を覗かせている。
「セレス、カインよ。分かる?」
戸惑い気味に画面に目を向けるセレスを見て、カインはぞっとした。
記憶が蘇る。
画面の向こうで会話した少女。あのとき、マイク越しに必死になって語りかけた少女。
『グリーン・アイズ・ケイナ』
長い髪も、抜けるような白い肌も、大きな緑の瞳も、瓜二つだった。
「カイン……?」
セレスは瞬きを繰り返しながらカインの顔を見た。
「セレス……」
何を言えばいいのか分からなかった。気を許すと『ケイナ』と呼んでしまいそうだ。
セレスの手がついと伸びてきた。彼女はモニターの中のカインの顔に触れようとしているようだった。
「セレス、ここじゃ、カインには手は届かないわよ」
リアが言うと、セレスは慌てて手を引っ込めた。
「そう…… そうか。そうだよね」
その物言いは以前のセレスの感じだ。恥ずかしそうにリアを振り返って、潤んだ大きな緑色の目が再びこちらを向いた。
「また、カインには会えるよ。カインに会いたいでしょ?」
リアが言うと、セレスはカインの顔の造作をひとつひとつ探るように眺めた。
「どこで…… 会ったの?」
セレスはつぶやいた。
「あなたの声…… どこで…… 聞いたの?」
カインは思わずセレスから目をそらせていた。
「疲れちゃうから、このくらいでってドアーズさんが言ってる」
リアが後ろを振り向いて再びこちらを向いた。
「ごめんね、カイン。戻ったらすぐ行くから」
カインは何も言えずにただうなずいていた。セレスが画面から消えたあともカインはモニターの前から動くことができなかった。
『グリーン・アイズ・ケイナ』は最期までカインには会わなかった。ただカインと彼女は声だけで会話をした。
自分の声に反応し、繋いだ手を見つめ、目や鼻をひとつひとつ確かめるように見ていたセレス。
『グリーン・アイズ・ケイナ』とセレスの記憶がすりかわっていたとしたら?
「そんなばかな……」
カインはつぶやいたが、完全に否定できない自分がいることも感じていた。