ブランを連れてカインが自分の部屋に戻ったあと、リアがティに連れられてブランの着替えや、戻ってきてから急いで作ったらしい夕食を持ってやってきた。
 カインは自室に戻っても仕事を続けていたが、自室だとブランが騒いでもほかに人がいないだけに気は楽だった。
 ブランは部屋に入るなりカインのベッドの上でひとしきり飛び跳ね、書架から写真集を出して眺めたり、壁のモニターを出してはいろんな局を見てはしゃいだ。
 2時間くらいするとさすがに飽きてきたようだったので、ゲームのできるチャンネルを教えてやり、ブランはそれに夢中になった。リアがやってきたのはその30分後だった。
「いい子にしてる? ブラン」
 リアは心配そうにブランに言った。
「してるよ」
 ブランはモニターから目を離さない。『ノマド』暮らしだったブランにとってここで見るもの体験することすべてが目新しくてしようがないのだろう。
「夕食、作ってきたわ。わたしあまり上手じゃないから口に合わないかもしれないけど、食べて」
 リアはカインにそう言うとテーブルに皿を置いた。
「カインさん、これ、追加の報告書です。これだけ今日中に見てもらいたいそうです。データも既に送ってあります」
 ティはカインのデスクに近づくと紙の束を置いた。
「分かった」
 カインはそれをちらりと見てデスクのモニターに目を戻した。
「あの……」
 ティが小さな声で言ったので、カインは顔をあげた。
「大丈夫ですか?」
 彼女はブランにちらりと視線を投げかけて言った。リアがブランの肩越しにゲームをめずらしそうに見ている。
「なんとかなるよ」
 彼女の視線の先を辿ったあと、カインは答えた。
「また、事情を話すから」
 ティはうなずいた。
「今日、リアさんはわたしの部屋に泊まってもらうことにしたの。何かあったらわたしのところに連絡をして」
 彼女はそう告げるとデスクから離れた。
「行きましょうか」
 ティが声をかけると、リアははっとして立ち上がった。
「あ、ごめんなさい。仕事の邪魔しちゃ悪いわね。退散するわ」
 そしてブランに声をかけた。
「ブラン、迷惑かけちゃだめよ」
「はーい」
 ブランは生返事だ。顔も向けない。
「ごめんね、カイン。明日の朝、迎えに来るからね」
 リアはそう言うとティと一緒に部屋を出ていった。

 1時間ほどしてカインはモニターから顔をあげた。
「ブラン。食事しようか。お母さんが作ってくれたみたいだぞ」
 カインが声をかけると、ブランはかすかに顔をしかめた。
「いい。あとで食べる」
 カインはテーブルの皿を見た。ブランが食べやすいように小さく切られたサンドイッチと煮込んだ肉、温野菜類が乗っている。典型的な『ノマド』の食事だ。
「カインさんはいつも何を食べてるの?」
 ブランは顔を向けないまま尋ねてきた。
「ぼくは適当だよ。プログラムされたものを少しだけ」
「だから手を繋いでも続かないんだよ」
 カインは小さくため息をついた。キッチンでブラン用にミルクを注いだカップを持って戻って来ると、カインは「クローズ」と言った。壁のモニターが一瞬のうちに閉じた。
「やだ! どうしてっ!」
 ブランが憤慨したように声をあげてカインを振り返った。
「ゲームはもう終わり。食事して、ちゃんとシャワーを浴びて、子供は寝る準備」
「子供扱いしないでよ」
「子供だろ」
 ブランは渋々テーブルにやってきた。そのままサンドイッチをつまもうとするのをカインは見咎めた。
「手を洗っておいで」
「カインさんて、お父さんよりうるさい」
 ブランは口を尖らせたが、それでも椅子から滑り降りて手を洗いに行った。
 確かにアシュアはこんな躾はしないかもしれない。
「ねえ、カインさんはいつもずーっと仕事をしているの? 今日みたいに」
 テーブルについてサンドイッチをほおばりながらブランは尋ねた。
「ん、まあそうかな……。今ちょうど忙しい時期だし」
 ブランの対面に座ってコーヒーを飲みながらカインは答えた。
「カインさんてシャチョウサンなんだよね? シャチョウサンて、長老みたいなもの?」
 ブランの無邪気な言葉にカインはかすかに首をかしげた。
「そうだな…… そんなものなのかな……」
「長老はもっとぼーっとしてるよ?」
 思わず吹き出した。
「それはきみにそういうふうに見えるだけじゃないかな」
「そうかな」
 ブランはもぐもぐと口を動かしながら考え込んだ。
「夢見たちだって、座ってるだけみたいに見えるけど、そうじゃないんだろ?」
「ん、まあ、そうね」
 ブランは部屋の中を見回した。
「カインさんのお部屋ってきれいだし、広いし、いっぱいいろんなものがあって楽しいね」
 ブランは床につかない足をぶらぶらさせながら言った。
「毎日いっぱい遊ぶの?」
「遊ぶことなんかないよ」
 カインは苦笑した。
「部屋に戻ったら、たいがい仕事するか寝るだけだ」
「こんなにいっぱいいろいろあるのに、遊ばないの?」
「……ん、まあね」
 カインはあいまいに答えてコーヒーを口に運んだ。
「ブラン」
 カインが声をかけると、ブランは無邪気な顔でカインを見た。
「今日は、本当にごめんな」
「いいよ、もう。お泊りしてるもん」
 ブランはミルクのカップを持ち上げた。
「明日からも…… やっぱり手を繋いでもらいたくないんだ」
「うーん……」
 ブランはミルクを口に運んだ。カップから口を離したとき、白い筋がついていたので、カインはナプキンを渡してやった。
「青い目のお兄ちゃんが来ると大丈夫って言われたんだけど……」
 ブランは口を拭きながら言った。
「青い目のお兄ちゃん? ケイナのこと?」
 カインは目を細めた。
「名前知らない。ケイナって笛の名前だよ?」
 カインは視線を泳がせた。ケイナが来ると大丈夫? どういうことだろう。
「ごちそうさま」
 ブランは丸めたナプキンをテーブルに放り出すと椅子から滑り降りた。
「まだ残ってるぞ」
 カインが注意すると、ブランはかぶりを振った。
「あとはカインさんの分」
 ブランの言葉にカインは皿に半分以上残っているサンドイッチを見てげんなりした。
 食欲はあまりなかった。それでもしかたなく一切れ持ち上げて口に運ぼうとしたとき、通信音が鳴ったので立ち上がった。ブランはまた壁のモニターを開こうとしていた。
 デスクでキィを叩き、画面に映った姿を見てカインは目を丸くした。
「アシュア!」
 ブランがぱっとこちらを振り向き、転げるようにして走ってきた。
「お父さん!」
「ブラン!」
 ブランの顔を見るなり、画面の向こうでアシュアが目を剥いた。
「おまえ、なにやってんの、そんなところで……」
「緑のお姉ちゃんところで手を繋いでる。お母さんもいるよ」
「手を繋いでる?」
 アシュアの目がさらに大きく見開かれた。
「手、繋いでるって、どういうこと」
「セレスが目を覚ましたんだ」
 カインが言うと、アシュアは呆然とした顔をした。
「それでね、あたしが手を繋いでるの。カインさんの髪をもらって。今日ね、声出したよ」
「ち、ちょっと待って」
 アシュアは顔をしかめた。
「セレスの目が覚めたの?」
「そうだよ、でもまだぼんやりしてるの」
「おまえ、黙ってて。カインと話をするから」
 アシュアの言葉にブランは口を尖らせた。
「カイン、もしかしておれと同じことさせられてる?」
 カインは小さくうなずいた。
「ん…… まあ……。実際手を繋いでいるのはぼくじゃないけど」
「カインさんの髪をもらったんだってば!」
 ブランが再び口を挟んだ。
「だめだ、そんなの!」
 アシュアは画面の向こうで怒鳴った。
「だめ! だめだ! そんなことしたら、カインは死んじまうぞ!」
「えー、だって、長老が……」
「長老が言ったってだめ! おれが許さねえ! だめだぞ!」
 アシュアはブランを睨みつけた。
「どれだけ大変か分かってるのか?! おれでもぶっ倒れそうになってんだぞ! カインは絶対だめだからな! やめろよ!」
「分かったよ……」
 ブランは渋々答えた。
 カインは内心ほっとした。アシュアが言えばブランも聞き入れてくれるだろう。
「カインと話をするから、おまえ、あっちに行ってろ」
 アシュアの声を聞いて、ブランはふてくされてモニターの前から離れていった。
「なんか、えらいことになってるみたいで、悪かったな」
 アシュアはカインの顔を気遣わしげに見た。
「リアを呼んだのはぼくなんだ。セレスのそばに誰かよく知っている人がついていたほうがいいと言われたから……」
 そしてブランをちらりと見た。
「ブランがついてきたのは予定外だったけれど」
 アシュアはため息をついた。
「今、どこなの」
 カインが尋ねると、アシュアは初めて気づいたような顔をした。
「そう、それで連絡したんだ。『アライド』は飛び立ったよ。遠回りして地球に向かうらしい。着くのは6時間後だ」
「良かった……」
 カインは息を吐いた。
「ノースドームの近くの軍用ポートに臨時着陸すると言われた。手続きもなしに飛んでるし星間機用の空港じゃないけど、着くまでになんとかするそうだ。メインのエアポートはまだごちゃごちゃらしい……。だからそっちに着くのは明日の夕方かな。とりあえずケイナも一緒に行くよ」
「ケイナは?」
「いるよ。一緒に乗ってる」
 アシュアはちらりと後ろを振り向いた。
「飛び立ってからずーっと眠ってるんだ。さっき何回か起こしてみたんだけど、全然目ぇ覚まさなくて」
「そうか」
 カインは少しがっかりしながら答えた。
「久しぶりにサバイバルな生活したから疲れてんだと思うよ。手足を動かす練習もなしにいきなりだったし」
 アシュアは慰めるように言った。
「いいよ。それより、リアを呼ぼうか? 彼女は別の部屋なんだ」
 カインが言うと、アシュアは首を振った。
「いや、おれもいいよ。どうせすぐに会えるんだし」
 そして顔をしかめた。
「ところで、なんで、ブランがそこにいるの?」
「あ…… うん、ちょっといろいろあって……」
 カインは言葉を濁した。
「ダイは?」
「ダイはコミュニティに残ってるそうだ」
 アシュアはため息をついた。
「あっちにも連絡しとくよ。手を繋ぐことだけはやめておけよ。ほんとに死んじまうぞ」
 カインはうなずいた。
「帰ったらまた話す。こっちでもいろいろあったんだ」
「そうだろうね……」
 アシュアの顔には少し疲労の色が浮かんでいた。ケイナが眠って起きないくらいなので、アシュアも相当疲れているのだろう。
「ブラン、通信切るよ。いいか?」
 カインが声をかけると、ブランは再び駆け寄ってきた。
「お父さん、いつ帰って来るの?」
 ブランは画面の中のアシュアに言った。
「明日だよ」
「早く戻ったほうがいいよ」
「そりゃ、ま、おれだってそうしたいけど」
「青い目のお兄ちゃん、いるの?」
「ケイナのこと?」
 アシュアは怪訝な顔をした。
「いるよ。寝てるけど」
「そのお兄ちゃんでないと、勝てないってダイが言ってる」
 カインはブランの言葉を聞いて目を細めた。
「なんのこと?」
 アシュアはブランの顔を見つめた。
「勝てないって。青い目のお兄ちゃんに」
 アシュアとカインは顔を見合わせた。
「ブラン、何のことを言ってるの?」
 カインは彼女の肩を掴んだ。ブランはカインの顔を見た。
「青い目のお兄ちゃんのことよ?」
 何を分かりきったことを、という表情だ。
「勝てないって、どういうこと?」
「どういうことって……?」
 カインは眉をひそめた。聞き方を変えないとブランには分からない。
「ええと…… 誰が、誰に勝てないの?」。
「カインさんが、青い目のお兄ちゃんに」
 カインは呆気にとられて彼女の顔を見つめた。
「ちょっと待て、ブラン、青い目のお兄ちゃんってケイナのことか?」
 アシュアが口を挟むと、ブランは父親に顔を向けた。
「ケイナって?」
「ええと、おまえが青い目のお兄ちゃんって言ってたやつだよ」
 アシュア、違う、余計ややこしくなってしまう。カインは顔をしかめた。
 カインはブランを自分のほうに向かせた。
「ブラン、よく聞いて。ぼくが勝てないのは、アシュアと一緒に乗ってる人なの?」
「違うってば。青い目のお兄ちゃんって言ったじゃない」
 ブランは口を尖らせた。
「青い目のお兄ちゃんって、誰?」
「知らない。ダイがそう言うんだもん。青い目のお兄ちゃんでないと、青い目のお兄ちゃんに勝てないって言ってるんだもん」
 カインは眉をひそめた。エアポートで会ったケイナによく似た少年……。彼は実在する。そしてまだ自分を狙っている。ブランの話はそうとしか思えなかった。
「カイン、できるだけ早く戻るよ」
 アシュアは言った。カインが考えたことと同じことを思ったらしい。
「ケイナにも話をしとく。おまえ何か身を守るもの、持ってるのか?」
 カインはうなずいた。
「カートが軍用の銃を用意してくれた」
 アシュアは混乱したように額を押さえた。
「とにかくできるだけ早く戻るよ。くれぐれも気をつけてな」
「アシュアも」
 アシュアは画面から姿を消した。
「ゲーム、していい?」
 ブランはカインに無邪気に尋ねた。カインがうなずくと、彼女は嬉しそうにモニターの前に走って行った。
 赤い火がちらりと頭の中に浮かんで、消えたのを感じた。