夕方、カインがヨクと仕事の打ち合わせをしていると、リアは来たときと同じように騒々しくオフィスに入ってきた。
「カイン、ねえ、見て! どうかしら!」
 リアは入るなりカインの前でくるりと回ってみせた。
 カーキ色のショートジャケットに白いセーター、黒いパンツ、黒いブーツ、確かに彼女の雰囲気には合っていたが、普段見慣れない女性の格好にヨクが目を丸くした。
 ブランはリアのミニチュアだ。色こそ違うが似たような格好をしている。
 ティがドアのところで笑みを浮かべながらふたりを見ていた。
「お母さん、お仕事中みたいよ」
 ブランが言ったので、リアははっとして顔を赤らめた。
「ごめんなさい、つい……」
「ヨク、アシュアの奥さんのリアと娘のブラン」
 カインは手元に散らばっていた書類をまとめると、ヨクにふたりを紹介した。
「へえ……」
 ヨクは立ち上がると、リアをまじまじと見た。
「アシュアはこんな美人の奥さんがいたのか」
「リア、社長室のヨク・ツカヤだ」
 カインはリアに言った。
「初めまして、ツカヤさん」
 そう言って顔を近づけかけて、リアは動きを止めてカインに顔を向けた。
「『ノマド』のご挨拶をしても…… いいの?」
 カインがくすりと笑って顔を背けたので、それを了承と思ったリアはヨクの口の端にキスをした。たちまちヨクは顔を真っ赤にした。
「『ノマド』の挨拶?」
 ヨクはカインを睨んだ。カインは肩をすくめてみせた。
「あの、ツカヤさんっていうのはやめて。髪が逆立ちそうだ。ヨクでいいから」
 赤い顔のままでしどろもどろになったヨクに、リアは笑ってうなずいた。
「彼女を連れて『ホライズン』に行ってくる」
 カインが言うと、ヨクはさっと顔を険しくした。
「誰か護衛を……」
「大丈夫」
 カインは遮った。
「彼女、アシュアと同じくらいの動きができる」
 ヨクが疑わしげにリアを見た。
「大丈夫だよ」
 カインはそう言いながらも、銃を上着の内側に入れた。
「ブランも連れて行っていい?」
 リアが尋ねると、カインは一瞬ためらったのち、うなずいた。
「いいよ」
 3人が並んで歩いて行く後ろ姿をヨクとティは見送った。
 ブランが母親の手ではなく、カインと手を繋ごうと彼の手をとった。カインがそれを何のためらいもなく握り返したので、ヨクとティは顔を見合わせた。
「あいつは、おれたちの知らない面をまだ持ってるんだな……」
 ヨクはつぶやいた。
「リアさんって、すごくいい人よ。あの人と一緒にいると、とてもリラックスするの。初めて会う人なのに、不思議だわ」
 ティが言った。
「カインさんの顔も穏やかだったわね」
「ん……。そうかな。」
 ヨクは答えて、リアにキスされた口の端に手をやると幽かに笑った。

 カインはリアとブランをプラニカに乗せて『ホライズン』に向かった。
 ブランはめずらしそうに外の景色を眺めている。
「ティって、優しくていい人よねぇ。あたし、好きになっちゃった」
 リアの言葉にカインは笑った。
「彼女も喜ぶよ」
 ブランは窓から目を離すと、後ろの座席から身を乗り出してきてカインの横顔に自分の顔を近づけた。
「ねえ、カインさんって、あのお姉さんが好きなのよね?」
「え?」
 カインはちらりとブランを見て、再び前に目を向けた。
「そりゃ好きだよ。一緒に仕事してるんだし」
「あたしを子供だと思って、いい加減なことを言うと承知しないわよ」
 ブランは顔をしかめて座席にひっこんだ。カインはかすかに肩をすくめた。
「一緒に守るんだから、いろいろ教えておいてよね」
 ブランは言った。
「何の話?」
 リアが怪訝そうにふたりを交互に見た。
「あたしにはあたしの役目があるってこと」
 ブランはつんとして答えた。
「リア、ダイは『ノマド』に置いてきて良かったの?」
 カインが尋ねると、リアではなくブランが答えた。
「そのほうがいいの。ダイはあっちで夢見たちと手を繋いでくれるから」
 カインはブランの返事を聞いて曖昧にうなずいた。
 この子はいったい何をしようとしているんだろう?
 カインには分からなかった。

 『ホライズン』に着いて病室に入ると、前より部屋は明るくなっていたが、セレスは相変わらずベッドの背を起こしてもらってぼんやりと宙を見つめていた。
 離れた計器類の前に2人の医師がいて、カインたちの姿を見て会釈をした。
 ドアーズはいないようだ。
「セレス!」
 リアがセレスの姿を見るなり駆け寄った。彼女の声にセレスはゆっくりとリアに目を向けた。
「セレス、リアよ、分かる?」
 セレスの顔を覗きこみながらリアは言ったが、セレスの表情には変化がない。目も本当に彼女の姿を捉えているのかどうか分からない感じだ。
 ブランが近づいてじっとセレスを見つめた。
 彼女はその目をセレスの手に移動させると、腕を伸ばして小さな手で握った。ブランの手が触れたとたん、セレスはリアから目を離してゆっくりと自分の手に視線を移した。
「ねえ」
 ブランはカインを振り返った。
「カインさんを呼んでるよ?」
「え?」
 リアが場所を移動したので、カインはベッド脇に近づいた。しかしセレスはじっとブランと繋いだ自分の手を見つめたままだ。
「手、握ってあげてよ」
 ブランはそう言うと、自分の手を離した。カインはブランの顔を見た。
「手、繋いであげたほうがいいよ」
 ブランはもう一度促した。カインはかすかに首をかしげると腕を伸ばして彼女の手を握ってやった。
 前と同じように、自分の手を握り返す細い指の動きが感じられた。セレスの目が手から自分のほうに移動するのをカインは見た。
 これも前と同じだ。カインの額から鼻、頬、口と視線を移動させ、やがて彼女はかすかに笑みを浮かべて目を閉じた。かくんと顔が傾いた。
「眠った……」
 カインはつぶやいた。
 後ろでドアが開く気配がしたので振り向くと、ドアーズが入ってくるところだった。
「いや、すみませんでした。ちょっと会議が長引いて」
 カインはそっとセレスから手を離すと、ドアーズのほうを向いた。
「セレスのそばにいてくれる、リアです」
 カインが紹介すると、ドアーズはうなずいてリアに手を差し出した。
「これは、どうも。彼女の治療の統括をしているドアーズです」
 リアはカインの顔をちらりと見たあと、『ノマド』の挨拶ではなく彼の手を握り返した。
「セレスは目覚めてからずっとこの調子ですか?」
 カインは尋ねた。
「そうです。だいぶん起きている時間も長くなりましたけどね」
「おじさん」
 ブランがドアーズを見上げて言った。
「ドアーズさんよ」
 リアが小さな声で叱咤した。
「すみません、娘なんです」
 ドアーズは笑ってうなずいた。
「ドアのおじさん、このお姉ちゃんはカインさんのそばにいたほうがいいと思う」
「ブラン」
 カインはびっくりして思わず声をあげた。ドアーズは手をあげてカインを押しとどめると、ブランの目の高さに身をかがめた。
「どうしてですか? お嬢さん」
「だって、ずっとカインさんを呼んでるみたいだもの」
 ブランは言った。ドアーズがカインを見上げたので、カインは分からないというように小さく首を振った。彼は再びブランの顔に目を移した。
「お嬢さん、確かにセレスはご子息の声に反応したし、ご子息がいると安心できるみたいなんだけどね、ここから出ていくことはまだ難しいよ。ご子息も忙しい体だ」
「でも、カインさんと会えないと、お姉ちゃんは寂しいと思うよ?」
 ブランは口を尖らせた。
「ねえ」
 リアがカインに言った。
「ケイナがアシュアと手を繋いだみたいに、セレスにとってはあなたが必要なんじゃないの?」
「それは無理だよ……」
 カインは面食らった。ケイナと手を繋いでいたときのアシュアのことが思い出される。
 そんなことはとてもできない。
「しかたないなあ……」
 ブランはふてくされたようにつぶやいた。横顔がリアそっくりだ。彼女はカインを見上げた。
「じゃあ、カインさんの髪をひと房ちょうだい。わたしが手を繋ぐから」
「髪?」
 カインは目を細めた。
「ダイが夢見たちと手伝ってくれるから、大丈夫だと思う」
 ブランは不機嫌そうに言った。
「その代わり、時々ちゃんと来て。でないと危ないよ」
「危ないって、なにが」
「カインさんがだよ!」
 ブランは小さく怒鳴った。
「わかんないかなあ、もう。カインさんて、頭いいんじゃなかったの?」
「ちょっと、ブラン!」
 リアが真っ赤な顔になってたしなめた。
 ドアーズが立ち上がってカインの顔を見た。
「お嬢さんのおっしゃることの全てがわたしには理解できるわけじゃありませんが、当たっている部分はあると思いますよ」
 ドアーズはブランの頭を撫でながら言った。
「セレスはご子息の声や体温にとてもよく反応するんです。彼女は記憶がないかもしれないが、ご子息に関することだけはしまい込まずに置いていると思えるんですよ」
 カインはため息をついた。それがケイナだというならカインも納得しただろう。
 なぜぼくなんだ?
 カインには分からなかった。
 リアはブランの顔を覗きこんだ。
「ブラン、セレスはまだ外に出るのは無理なのよ。それまでお母さんと一緒にここに来よう。ね? それならきっとセレスも寂しくないよ」
「分かってるわよ。あたしがそう言ったでしょ?」
 ブランはふてくされながらうなずいた。
 3人はかすかに笑みを浮かべながら眠るセレスを見て、部屋を出た。
 帰りのプラニカの中では誰もしゃべらなかった。
「何か食べて帰る?」
 しばらくして、とっくに夕食の時間が過ぎていることに気づいたカインが尋ねた。リアがブランの顔を見たが、ブランはかぶりを振った。
「いいわ、遠慮しとく。部屋にキッチンがあったから、何か作って食べるわ」
 リアは答えた。
 オフィスのあるビルの駐車場にプラニカを停めると、降りるなりブランはカインに走り寄って、彼の手をとった。カインは出たときと同じように手を繋いでやったが、どうしてこの子はこんなに自分と手を繋ぎたがるのだろうと不思議に思った。
 オフィスの前ではティが待っていた。
「お帰りなさい」
 彼女は3人の姿を見て笑みを浮かべた。
「ティ、もう今日は帰っていいよ。遅くなると危ないし」
 カインが言うとティはうなずいた。それを見てリアが慌てて彼女の腕を掴んだ。
「待って、わたしたちも一緒に。この建物、広くって部屋に戻れるかどうか自信ないの」
「いいですよ」
 ティは笑ってうなずいた。
「じゃね、カイン」
 リアはそう言うと、ブランの手をとった。カインは彼女たちと別れてオフィスに戻りかけて、ふと気がついてその足を止めた。
「ティ」
 カインは振り向いた。
「はい?」
 ティはカインの顔を見た。
「きみ…… アパートに戻っていないの?」
 ティの顔がはっとした。
「あ、あの……」
 ティは必死になってヨクの言葉を思い出そうとした。
「か、帰るには帰ったんですけど、まだアパートの前に記者がいて……」
「……と、ヨクに言えと言われた?」
 カインは不機嫌そうに彼女を見下ろした。
「どうしたの?」
 リアは心配そうにふたりを交互に見つめている。
 ティは俯いた。
 うっかりしていた。朝にあれだけヨクと話をしたのに、あっという間にカインにばれてしまった。
「ちゃんと話してください。何があった?」
 ティはしかたなく、朝のクルーレからの話を伝えた。
 カインは口を引き結び、黙っていた。
「カインさん」
 ブランがカインを見上げた。
「お部屋に戻るまでお姉ちゃんと手を繋ぐから。お姉ちゃんを怒らないでよ」
 カインは目を細めた。
「手を繋ぐって…… どういうこと?」
「カインさんと手を繋ぐとカインさんを覚えるの。お姉ちゃんと手を繋いだらお姉ちゃんを覚えるの。覚えるから、緑のお姉ちゃんとも手を繋げるの。あたしには分かるから。ダイと夢見たちが助けてくれるから」
「たぶん、ブランが危険を察知するんだと思う」
 リアが助け舟を出した。
「ダイは『ノマド』でずっと夢見たちと寝起きしてるの。ダイが夢見たちといれば、ブランに力を飛ばせるからって、長老が言ってた」
 『ノマド』の話……。カインは束の間ぎゅっと目を閉じた。
 現実と、そうでない世界の間に挟まれて眩暈がするような気分になる。
 カインはブランを見つめて、それからティとリアに目を移した。
「分かった…… 今日はもう、いいよ。疲れてるだろ?」
 ため息まじりにそう言って背を向けた。
「いこ、ブラン」
 リアはブランの手を引いた。ブランが手を差し出したので、ティは彼女の反対側の手を握った。カインはオフィスに入る前にちらりと3人を振り返り、そして部屋の中に入っていった。