ティは午前5時前に目を覚ますとカインを起こさないようにそっとベッドから抜け出した。
 とにかくアパートに戻って、ある程度片づけをして着替えをして、それから出社……。
 そう考えていた。
(大丈夫かな……)
 身支度を整えながら思った。
 オフィスでカインの顔を見ていつものようにしていられるのだろうか。
 上着をとりあげたときカインのデスクで通信音が鳴り響いたので、ぎょっとして飛び上がった。
 しばらく様子を見ていたが、レコードシステムに切り替わる気配がない。緊急連絡なのだろうか。緊急だったらいつまでも鳴り続けているだろう。
 どうしようかと迷ったが、通信音が鳴り止まないのでしかたなく寝室に戻った。
「カインさん……」
 肩を揺さぶったが、カインは全く起きる気配がなかった。こんなに深く眠る彼はめずらしいかもしれない。何度か揺さぶったがやはり起きる気配がないので再び部屋に戻ると、通信音はまだ鳴っていた。
 ティは深呼吸すると両手で髪をなでてカインのデスクに近づき、キィを押した。モニターに映ったのはクルーレだった。
 彼の顔を確認しながら、視界の隅に昨晩渡した書類のチェックが全て終わってデスクの上に乗っているのを見た。
 カインは起き出して仕事をしていたらしい。この量だと、眠ったのはほんの一、二時間前だろう。
 目が覚めないはずだ。
「早朝にすみません。社長は?」
 クルーレはティの顔を見て少しびっくりしたような表情になった。
「まだお休みなんです。さっき声をかけましたが起きる気配がなくて……」
 ティはできるだけ普段通りを心がけながら答えた。
「あなたも大変ですね。こんな早くから仕事ですか?」
 クルーレの言葉にティはどきりとした。
「ずいぶん疲れた顔をしておられますよ」
「あ、いえ、大丈夫です」
 必死になって答え、咄嗟にデスクの上の書類をとりあげた。
「これが、朝一番に必要だったので、入らせてもらったんです」
 クルーレはティの返事に特に興味がないような表情で小さくうなずいた。単なる挨拶程度のつもりだったのだろう。ティはうろたえた自分が少し恥ずかしかった。
「クルーレさんこそ、こんな早くからどうかなさったんですか?」
「今日はこれから現場に出ます。一日不在になりますので、それで先にお知らせをと。社長にお伝えください。ケイナとアシュアが『A・Jオフィス』の小型星間機で飛びます」
 クルーレの言葉に、ティは慌ててカインのデスクからペンと紙をとりあげた。
「こちらで受け入れ準備をする予定です。『アライド』を飛び立つときはあちらのエアポートを経由しませんので、通常よりは戻って来るのに時間がかかるのと、彼らが星間機に乗り込むまでは連絡がとれません。詳しい日時はまだ不明ですが、そこまでの確認はしましたので」
「……分かりました。伝えます」
 ティは自分で走り書きをしたメモを頭の中で読み直し、クルーレの顔を見た。その顔を見てクルーレはとりあえず彼女に伝わったと思ったようだ。うなずいたあと、一瞬視線を落とし、再びモニターの向こうから目をこちらに向けた。
「さしでがましいようですが……」
「はい……?」
 ペンを元に戻していたティは彼の顔を見て小首をかしげた。クルーレの声の調子にさっきと違う雰囲気を感じ取ったからだ。
「あなたは今、ビル内で生活をしておられますか?」
「え?」
 ティは目をしばたたせてクルーレの顔を見た。
「どういうことですか……?」
「いえ、数人の方は先日の事件でそちらに泊まり込んでいるとうかがったものですから」
「ええ……」
 ティは戸惑った。なぜクルーレはそんなことを聞くのだろう。
「マスコミ対応が大変だったので…… ヨクとわたしと、あと数人の者がこちらに。でも、昨日から自宅のほうに戻っています。わたしも今日には戻ろうと思っていましたけれど……」
 そう答えて、クルーレの顔をうかがうように見た。
「それが…… なにか?」
 クルーレはうなずいて少し息を吐いた。
「できればもうしばらくビル内で生活したほうがいいかもしれません」
 ティは目を細めた。
「どうしてですか?」
「昨日、わたしの直属の部下が撃たれました」
「撃たれた?」
 ティは呆然としてクルーレを見つめた。
「命に別状はなかったのと、状況的に強盗ではないかという判断でしたが、彼はそのとき軍服でしたから……。公表はされていないようですが、軍服をわざわざ狙う強盗はあまり考えられない」
 ティは戸惑ったように視線を泳がせた。
「こちらではいろいろと妙なことが続いていましてね。撃たれたようなことは今回初めてなのと、一連の事件と何か関係があるかどうかはまだ不明ですのでリィ社長に申し上げるにはまだ曖昧な点が多すぎたのですが、あなたがお出になられたので失礼を承知のうえで申し上げています」
「あの、それって……」
 ティは口の渇きを覚えながらつぶやいた。
「ツカヤ氏は長くご経験があると思いますので、ご自身の身の置き方やこういった状況についても冷静に判断なさるでしょう。おふたりで相談なさってください」
「社長には報告せず、ふたりで相談しろと?」
「そうです」
 クルーレは答えた。
「あなたやツカヤ氏にもしものことがあるかもと考えると、リィ社長は冷静ではいられなくなるのではありませんか?」
 返事をしようと思ったが、ティは次の言葉を思い浮かべることができなかった。
 クルーレはしばらく画面の向こうで彼女の顔を見つめていたが、かすかに肩をすくめた。
「個人的なことですが……」
 ティはクルーレの顔を見た。顔つきはいかめしいが、目はそんなに怖くない。そんなことをふと思った。
「わたしにはあなたと同じくらいの娘と息子がいます。ふたりとも軍人ですので、ある程度自分の身は自分で守ることができますが、それでも常に誰かがそばにいるようになっています。お恥ずかしい話ですが、これが事実です」
 ティはどう言えばいいのか分からず、ただクルーレの顔を見つめていた。
「では、そろそろ行かなければなりませんので」
 ティは小刻みにうなずいた。
「はい」
 クルーレはぷつりと画面から消えた。
 ティは大きく息を吐くと、カインの机の上に両肘をついて頭を抱えた。

 ティは自分のアパートに戻ることをやめた。
 着替えてオフィスに出たあと、自分の部屋から出勤してきたカインに朝のクルーレからの連絡を伝えた。
「メモは残して来ましたのでお分かりかと思いますが……」
「うん、読んだ」
 カインはそう答えていつものようにオフィスの自分のデスクの前に座った。座った途端にもうモニターを見つめている。
 あまりにも普段と変わらない彼の様子にティは少しびっくりしながらオフィスをあとにした。
 そりゃ、ここはオフィスだし、プライベートなことは持ち込んじゃいけないかもしれないけれど……。
 あまりにも素っ気無い彼の態度に少し物足りなく思えたのは正直なところだった。
 立ち止まって考え込んでいると廊下の向こうからヨクが歩いてくるのが目に入ったので、彼に駆け寄った。
「おはようございます」
「おはよう。昨日、ちゃんと帰れた? 荷物は全部運べた? ほんとに送らなくて大丈夫だったの?」
 ヨクは帰る前に送るからと声をかけてくれていたが、ティはそれを断っていた。さすがに少し後ろめたさを感じて一瞬ヨクから目を逸らしかけ、慌てて再び彼の顔を見上げた。
「大丈夫です。それより、あの、ちょっと時間、いいですか?」
 ヨクは不思議そうな顔をしたが、腕の時計を確かめてうなずいた。
「いいよ。ちょっとくらいなら」
 ティは彼を自分のオフィスに招きいれた。
「どうしたの」
 ヨクはティの表情を見て怪訝そうな顔をしている。ティはアシュアとケイナの無事が確認されたこと、クルーレから言われたことを手短に話した。
 ヨクは首をかしげて黙って聞いていたが、聞き終わっても無言のままだった。
「朝、ひとり暴漢に襲われたってニュースは見たけどね……」
 彼はつぶやいた。
「クルーレの部下だったとはな」
「カインさんには伝えないほうがいいだろうって」
「なんで?」
 ティは困った。なんと言えばいいだろう。
「まだ曖昧なところがあって、リィにも影響があることなのかどうか分からないのと、あの…… たぶん、動揺するだろうからって……」
 気乗りのしない口調で言うと、ヨクは首をかしげたまま不審そうに彼女の顔を見た。
「カインはそんなやわな男じゃないと思うけど?」
 ティは俯いた。
「でも……」
「きみが狙われるかもしれないっていうことにだろ?」
 ヨクがそう言ったので、ティは思わず顔をあげて彼の顔を見た。ヨクは少し呆れたような顔をしていた。
「クルーレもよく見ているもんだな」
「何をですか」
「カインにとってきみが特別な存在だってことに決まってるだろ」
「変なこと言わないでください」
 ティは真っ赤になって言った。
「こういう大事なこと言ってるときに、どうしてそんな茶化すようなこと言うんですか。もう!」
 ティは髪をゆらしてヨクに背を向けると自分のデスクに向かった。
「アパートにもう荷物を運んでしまったか?」
 ヨクはそれを無視してティのデスクに手をつくと彼女の顔を覗きこむようにして尋ねた。
「いえ……」
 ティはかぶりを振った。
「まだ…… 残ってます。」
「じゃあ、そのままいることにしたほうがいい。足らないものを取りに行くときはおれにひとこと言って、誰かに送迎してもらうんだ」
「ヨクは?」
「うん、おれもまたこっちに移動する。今までこっちにいた人間はまた戻ったほうがいいかもしれないな。おれが伝えるよ」
「カインさんにはなんていえばいいんでしょう」
「別に…… 適当でいいんじゃない? あえて知らせる必要もないよ」
 ヨクは笑った。
 ティは不安げにうなずいた。カインの目をそんなことでごまかせるのだろうか。
 ヨクは両手をポケットに突っ込んでティを見下ろした。
「カインは馬鹿な男じゃないよ。黙っていたってそのうち気づく。クルーレだってそんなことは分かってる。ただ、こっちから言わなけりゃ気づくまでには時間がかかるだろう。ケイナのことやエアポートの一件や、いろいろと重なっているからな。手のうちようがあるなら、カインの手を煩わせることなく自分たちで動けってことだよ」
 ティはうなずきながらも、心配そうに視線を泳がせた。
「クルーレさん、娘さんと息子さんにも護衛がついているようなことを仰っていたわ。『コリュボス』の母は大丈夫かしら」
 ヨクは肩をすくめた。
「それを考えたら、そのうち社員全員がここで寝泊りしなくちゃならなくなる。ただね、普通は会社にダメージの大きい人間から狙われていくもんなんだよ」
 ヨクの言葉にティはすっかり気が滅入ってしまった。ヨクはそんな彼女の肩に手を置いた。
「きみが危ない目に遭うと、会社にダメージが大きいってことだよ。いや、カインにかな?」
 ティはいたずらっぽい視線を向けて言う彼を少し睨みつけた。
「どうしてそんなふうになんでも茶化してしまうんです? あんまりだわ」
 ヨクは笑った。
「そうそう、その意気。今までだって乗り越えてきたんだ。もう少し伸びるくらいどうってことはない。頑張ろう」
 彼はティの肩を数回軽く叩くとオフィスをあとにした。
 ティはその後ろ姿を見送って息を吐いた。
 単にマスコミから逃れるためだけにビル内に居を構えていたのに、まさか命の危険があるから帰ることができなくなるとは思わなかった。
 いったい何が動いていて、誰がみんなの命を狙っているんだろう。
 いやな予感がする。
 不安まみれになってしまった頭をティは慌てて振った。
 しっかりしないといけない。
 彼女は自分に言い聞かせた。