居住区はあまりにも小さな街だった。
 一本のメイン通りの両側に小さな建物が立ち並んでいるだけで、その道も5分も歩けば抜けてしまいそうだった。
「こんなところで山越えのいったい何を調達すればいいのよ……」
 ナナは通りの真ん中に仁王立ちになり、不機嫌そうにつぶやいた。
「おれはだいたい自分のものでまかなえるから別にいいよ」
 アシュアは自分の荷物を持ち上げて言った。ナナは彼を振り向いた。
「夜は氷点下まで下がるわよ。防寒着あるの?」
「氷点下?」
 アシュアは目を丸くした。
「酸素マスクと携帯燃料と簡易食、それに水」
「なんで酸素マスクが?」
 アシュアが尋ねると、ナナは彼の顔を見上げ、空を指差した。
「夜は気温が下がるだけじゃなくて酸素濃度が低くなる。火星にひっぱられるの。高い場所は特に影響があるわ。気圧も変化するから体に少し影響があるかもしれないわよ」
「ケイナもおれもサバイバルの訓練は受けてるから、ある程度の用意さえあれば何とかなると思うよ」
「わたしはサバイバルの訓練なんて受けてないわ」
 ナナはアシュアをじろりと見た。
「せいぜい射撃の訓練だけよ」
 そして通りを歩き始めた。
 ケイナの姿が異様に目立つ。すれ違う人がめずらしそうに3人を眺めていった。
 人の姿は多かったが、確かにナナの望むようなものは手に入らないかもしれない。
 アシュアも不安を感じたが、よろずやらしき店を覗くと意外にもこまごまとしたものが置いてあった。
「ここ、いいんじゃないの?」
 アシュアの声に、ナナが立ち止まった。そしてウィンドウ越しに店を覗き込むと入っていった。
「山越えでしょ? たまにそういうスポーツイベントがあるのよ。まあ、何年かに一回っきりだけど」
 店にいた女性が言った。全身黒づくめで右腕と左足に鎧をつけたようなケイナを彼女はめずらしそうに見ていた。
 と、いうことは数年前の商品ってこともあるわけだ。大丈夫なのかな。
 アシュアはミネラルウォーターのボトルを持ち上げて心配そうに眺めた。
「ケイナ、おまえ、水の摂取量が生半可じゃなかったよな?」
 アシュアは気遣わしげにケイナを見た。
「目が覚めてからはそうでもない」
 ケイナは答えた。
「水はそれじゃない。こっち」
 ナナは丸い透明な小さな玉がぎっしり詰められた箱を指差した。
「一粒で約300cc。ひとり一日2.5リットルとして、3箱あればいいわ。合計30リットル」
「へええ……」
 アシュアは感心したように箱を見つめた。300ccの水がどうやったこんなに小さくなるのだろう。
「簡易食は地球人の口に合うかどうか分からないけど…… しかたないわね」
 ナナは携帯簡易食の箱を見つめて顔をしかめて言った。
「まずいのは覚悟のうえよ。いいわよね?」
 ナナはそう言い、とりあえず4日、3人分の準備をした。薄くコンパクトに収納される防寒着と簡易酸素マスクもいれた。
 全てそろえると抱えるほどの荷物になったが、アシュアがこれくらいなら持てると言うので、結局彼が自分の荷物とともに背負うことになった。
「夜はべつに危ない動物が出たりはしないけれど、たまに毒虫が来るから気をつけて。たぶん火も高いところは深夜になると酸素が薄くなってだめだと思う」
 ナナはふたりに言うと、通りの向こうに顔を向けた。
「今日はせめてふもとまで」
 彼女の向いた先には遠くに山が見えていた。ここから見る限りではそう遠くにあるような気はしなかったが一本道で見るからそう感じるだけで、たぶん数時間かかるだろう。今日はそこで夜が来てしまうはずだ。
「ケイナ、疲れてない?」
 ナナは尋ねたが、ケイナはかぶりを振った。
 3人は歩き始めた。

 ケイナは疲れていないと言っていたが、2時間ほど歩いた頃に義足の左足を引きずり始めた。同じく義手のついている右の肩を左手で押さえている。
「痛むんでしょう?」
 ナナが言ったがケイナは答えなかった。だがその額にはわずかに汗が滲んでいる。アシュアが心配そうにふたりを振り向いた。
「こんなの、過酷過ぎるリハビリだわ」
 ナナはつぶやいた。
「少し休もうか?」
 アシュアが言ったので、ナナはうなずいた。
「そうね……。それがいいと思う」
「いいよ、別に……」
 ケイナはふたりに言ったが、ナナは許さなかった。
「だめよ。先は長いんだから、無理をすると続かないわ」
 ケイナは何か言おうとしたが、痛みが走ったのか顔をしかめて俯いた。
 何にもない赤い景色の中に小さな岩を見つけて、3人はそこによりかかるようにして腰をおろした。
「水の箱、出してくれる?」
 ナナが言ったので、アシュアはさっき買った箱を荷物の中から取り出した。
 ナナは箱に一緒に入っていた小さな袋を取り出した。袋の口に小さな突起がついている。彼女がそこに水の球を突き刺すと、あっという間に袋の中に水が落ちた。
「へえ…… 便利なんだな」
 アシュアは目を丸くした。
「アライドは水がなかなか手に入らないから」
 ナナはそう言うとケイナにそれを差し出した。
「吸うと飲めるから。それと……」
 彼女はポケットから2粒薬がついたシートを取り出した。
「これ、痛み止め。もしものときのためにいろいろ持って来てる」
 ケイナはナナの差し出した錠剤と水を受け取った。
「足も腕もちゃんとついてると思うけどね。体とまだうまく連動してないのよ」
 ナナはそう言うとあたりを見回しながらポケットから煙草を出した。そしてケイナが自分の風下になると気づいて場所を移動した。
「見てると動きがリアルで全然義手義足に見えないんだけど、これってどうなってるんだ?」
 アシュアは錠剤を口に放り込むケイナを見やってからナナに目を向けた。
 ナナは煙草の煙を吐き出してアシュアを見た。
「足も腕も目も、それぞれがひとつずつ頭脳を持っているのよ」
 彼女は答えた。
「ケイナが動けば動くほどそれぞれが彼のことを覚えていくわ。だから動いたほうがいいの。でも、動かすほうは生身だから」
 そう言ってナナはケイナを見た。彼が頭を抑えたからだ。
「どうしたの?」
「どうした?」
 アシュアもびっくりして近づいた。ケイナはしばらく後頭部を左手で押さえていたが、やがてぽつりと言った。
「……痒い」
「え?」
「頭…… 痒い」
 ナナはびっくりしたような顔をしていたが、やがてくすくす笑い出した。アシュアは怪訝そうにナナを見た。
「ごめんなさい。そうよね、本当なら朝に消毒してるはずだものね」
「なに?」
 アシュアはナナの顔を覗きこんだ。
「目のガードで頭皮がかぶれるのよ。だから一日一回消毒してたんだけど、今日はやってないでしょ?」
「はあ……」
 アシュアはケイナの顔を見た。頭は押さえていないが口元が不機嫌そうだ。
「思い切って外してみるか」
 ナナはそう言うと、持っていた煙草の火を岩に押しつけて消した。
「アイガード外してみよう、ケイナ。たぶんもう大丈夫のはずよ」
 ケイナは反応しない。ナナが笑ったので機嫌を損ねたのかもしれない。
「アシュア、ケイナに直接日が当たらないようにこっちに立って」
 ナナが自分の横を指で示したので、アシュアはそれに従った。ナナはケイナの背後に回った。
「ケイナ、目は閉じておくのよ。外してもいきなり開けちゃだめよ。ゆっくりゆっくりね」
 彼女はそう言うと、彼の頭の後ろのガードの止め具をひとつずつ外していった。かちりかちりと小さな音がする。手をケイナの前に回すとガードを押さえながらゆっくりと彼の顔から取り去った。
 アシュアはケイナの顔を覗き込んだ。目を閉じているケイナは以前のケイナと同じだった。右目には手術跡もない。
「いいよ。ゆっくり開いて」
 ナナはケイナの前に来ると、彼の顔を覗きこみながら言った。ケイナは伏し目がちに薄く目を開くと、まぶしいのか眉をひそめた。
「焦らなくていいのよ。ゆっくりね」
 ナナはケイナの目の動きを見逃すまいと必死になっている様子だ。ケイナは何度かまばたきを繰り返していたが、やがて俯けていた顔をあげた。
 まぶしそうに細められていた目も光に慣れて、普通に開くようになった。
 目が覚めてから初めて見るケイナの目だ。
「ケイナ、これ分かる?」
 ナナは彼の前に指を立ててみせた。ケイナはその指を見た。
「指の動きを目だけで追ってみてくれる?」
 ナナは指を左右に動かし、上下にも移動させながらケイナの目の動きをじっと観察した。
「思っていたよりずいぶん視野が広いじゃない。オッケー。大丈夫よ。見えるでしょ?」
 ナナはにっこり笑った。
「あなたの目って、きれいなブルーだったのね」
「ケイナの目を知らなかったのか?」
 アシュアはナナの顔を思わず見た。
「目のパーツだけは見ていたけど、パーツで見るのと実際に動く目とは違うわよ。それに、わたしの専任は腕と足だもの」
 ナナはアシュアを見上げた。
 アシュアはケイナに目を移した。ケイナはナナの肩越しに遠くを見ている。
 アシュアは彼の視線の先を辿った。道が一本、彼方まで続いている。
「アシュア」
 ケイナが声をかけたので、アシュアは再び彼に顔を向けた。
「誰か来る」
「え?」
 アシュアはもう一度彼の視線の先を追った。しかし何も見えない。
「なんにも見えないけど?」
 ケイナはかぶりを振った。
「30分くらいでここに来る。『ゼロ・ダリ』のマークがついてる」
 ナナとアシュアは顔を見合わせた。アシュアは顔を巡らせて、進行方向の先にここよりも大きな岩があるのを見つけた。急げば10分くらいで行けるだろう。
「あそこまで移動しよう」
 アシュアの言葉にケイナとナナは立ち上がった。
 目的の場所まで行き、岩陰に身を潜めるとケイナはナナの顔を見た。
「ナナ。おれに銃を渡して」
「だめよ。あなたに武器は持たせるなって言われてるわ」
 ナナは即座に首を振った。
「おれ、利き腕は左だ。義手のほうを使うんじゃない」
「そういうのは問題じゃないの」
「あんたの腕じゃ無理だ」
 それを聞いて、ナナの顔が険しくなった。
「なんでそんなこと分かるのよ」
「護身用に訓練受けただけなんだろ。おれとアシュアは軍の訓練を受けてる」
 ナナはアシュアの顔を見上げた。アシュアは肩をすくめてみせた。
「ただのショックガンよ。そんなに威力はないわ」
 ケイナは無言で彼女の顔を見つめていた。ナナは思わず彼の顔から目を逸らせた。目のガードを外したことを後悔した。
(なんて怖い目なの)
 頭の中を探るかのような鋭い目。とても真正面から見られない。
 彼女は渋々自分の小さなバックの中から銃を取り出した。
「当たったとしても、せいぜい一時間程度気絶するだけだわ。このままやり過ごしたほうが賢明よ」
「やり過ごしたってまた戻ってくるぜ。おれたちがここを通るってこと知ってるんじゃないか?」
 アシュアが口を出した。ナナは困ったような顔をした。
「あんたは迂回路を探して。地図持ってるんだろ」
 ケイナは銃を受け取ると言った。
「持ってるけど……」
 ナナは口を尖らせた。
「そんな詳しい地図じゃないわよ。こんなことする予定じゃなかったし……」
「それでもいいよ。せめて平野じゃなくて岩場探して」
 ケイナはあたりの地面に目を走らせると、子供の握りこぶしほどの石を拾った。
「何するの?」
 ナナは目を細めた。
「やめてよ?」
 ケイナはそれを無視してアシュアを見上げた。
「アシュア、その銃でどれくらいの距離、いける?」
 アシュアは小首をかしげた。
「最近あんましこういうのやってないからなあ……。せいぜい2、30メートルってとこかな」
「じゃあ、20メートルで停めるから、中のやつが出てきたら撃って。たぶんふたりいる。片方は引き受けるから」
「ふたり?」
 ナナはケイナの顔を怪訝そうに見た。
「なんでそんなこと分かるの?」
 ケイナは彼女に目を向けて、その顔をついと彼女に近づけた。ナナはびっくりして身を反らせた。
「あなたたちがくれた、目のおかげ」
 ナナは顔をこわばらせた。
 ふざけないでよ。そんなことまで見えるわけがないじゃない。
 そう言いたかったが声が出なかった。視線の先がもろに分かるケイナがこんなに恐ろしく思えるとは想像もしていなかった。
 15分ほどたった頃、ケイナたちが乗ってきたのと同じタイプの車が地面すれすれに走ってくるのがみえた。ナナは必死になって岩陰で紙の地図を睨みつけていたが、ケイナが身をかがめながら移動したので顔をあげた。右手に石を握っている。
「ケイナ?」
 ナナは小さな声をあげた。
「やめてよ?」
 ケイナは無言だった。
「ケイナ!」
 ナナが叫んだときには、目の前を通り過ぎていったキューブに向かってケイナは石を投げつけていた。ナナとアシュアはその石がキューブの下のほうを貫いて勢いよく向こうまで飛んでいくのを見た。
 四角い車体が一瞬上に反ったかと思うと、前のめりになって地面にどすりと落ちた。
 なに? というように顔を出した男をアシュアは撃った。次にびっくりしたように出て来た男をケイナが撃った。
 ふたりが岩陰からキューブに向かって歩き出すのを見ても、ナナは動けなかった。
 しばらくしてようやく彼女は慌てて駆け寄った。
「見事に穴が開いてるなあ」
 アシュアはケイナの投げた石が開けたキューブの穴を覗き込んでつぶやいた。
車体の脇に小さなマークがついている。『ゼロ・ダリ』のマークだ。人間の目を模したような形であまり趣味が良くない。
「なんで……」
 ナナはかぶりを振った。倒れている男たちには見覚えがなかった。
「行こう」
 ナナは戻ろうとするケイナを追って詰め寄った。
「あれほど妙な使い方しないでって言ったのに……」
 ケイナは無言だった。ナナは小走りにケイナを追いかけた。
「ケイナ、使えば使うほど腕も足もあなたを覚えていくの。あなたがそういう使い方をすればそのことを覚えてしまうのよ。兵器はいやなんでしょう……?」
「いやだよ」
 ケイナは足を止めてナナを振り向いた。またこの目だ。ナナは身構えた。
「だったら最初からもっと性能の低いものをつければいいじゃないか」
 ケイナは言った。
「なんで、こんなのつけたんだよ」
 ナナは目を伏せた。
「……別にあんたの責任じゃないけど」
 ケイナはそう言うと顔をそらせて歩き出した。アシュアは俯いたまま立ち尽くすナナに近づいた。
「行こう」
 アシュアは言った。
「あんたの力がなきゃ、おれたち目的地まで行けないし」
「着くまでずーっとこんなふうに責められ続けるのかしら」
 ナナはつぶやいた。
「ケイナはあんたを責めるつもりはないんだと思うよ」
 アシュアはため息をついた。
「あいつ、昔からああいうものの言い方しかできないんだ。許してやってよ」
 ナナはアシュアの顔を少し睨みつけると、顔を背けて歩き出した。