アシュアは眉を潜めて目の前の男をじっと見た。
『ゼロ・ダリ』の責任者、エストランド・カートが困ったような顔でアシュアを見つめ返す。
「ちょっと理解できないんだけど」
アシュアは言った。
「ケイナはもう十分自分で動ける。そりゃ、おれは医者じゃないけど、星間移動するくらいは大丈夫だと思うんだけど」
「ですから……」
エストランドは駄々をこねる子供に言い聞かせるような口調になった。
「それは調整された環境の中だからです。彼はまだ『ゼロ・ダリ』からすらも一歩も外に出ていない。ましてや星間機の中で彼の血圧や脈拍が正常を維持できるという保証はないんですよ。これは専門家としての注意ですよ、アシュア・セスさん」
アシュアはむっとして口を引き結んだ。
(あんただって別に専門家じゃないんじゃないの?)
そう思ったが口には出さなかった。
「じゃあ、いつだったらケイナはここから出ても良くなるんです?」
「今のところはなんとも言えません」
エストランドは答えた。
風貌だけなら物腰の柔らかい男に見える。低い声も言い含めるようにしてゆっくりしゃべる口調も誠実さをかもし出している。それでもアシュアはどうも納得ができなかった。
カートがケイナを引き取ると連絡をしてきたと思ったら、どうして自分が彼に呼ばれなければならないのだろう。
カートを説得するように仕向けたいのだろうか。
「でも、そっちだってケイナの治療はこれ以上続行できるかどうか、契約のめど、立ってないんじゃないんですか?」
アシュアが言うと、エストランドはため息をついた。
「わたしたちは契約が決まらなければもう知らない、というような人道に外れたことはしませんよ。彼の命を必ず救うとお約束して引き受けたんです。お金はその次です」
(でも、ケイナが目覚めた途端にそういうこと言ってたじゃねぇか)
アシュアは心の中で毒づいた。
アシュアが引き下がろうとしないので、エストランドはうなずいた。
「とりあえずこちらからも、もう一度地球のカートに連絡をします」
アシュアは仕方なくうなずいた。
「おれに言われても返事はできないんで…… そうしてください」
そう答えて彼のオフィスを出た。
オフィスを出てすぐにナナがアシュアを見つけて駆け寄ってきた。そして不機嫌そうなアシュアの顔を見て肩をすくめた。
「あんたどう思う?」
アシュアは歩きながら彼女に言った。
「ケイナはやっぱりまだ星間機に乗るのは無理?」
ナナはアシュアをちらりと見上げてかぶりを振った。
「その判断をしたのはわたしじゃないわ。わたしより上の人よ」
「あんたはどうなんだ?」
アシュアは再び尋ねた。
ナナはくっきりとした黒い眉をひそめたきり、何も言わなかった。
「もう、いいよ」
アシュアはそう言うと、ナナを追い抜いてさっさと先に歩いていった。
ナナはその後ろ姿を黙って見送った。
ケイナの部屋に戻ると、アシュアはエストランドとの会話を彼に伝えた。
「地球のカートが出るって言ってんのに、なんで引き止めるかね。これじゃあ、強引に出るっきゃねぇって感じだよ」
アシュアはそう吐き出すと腕を組んで椅子に腰掛けた。ケイナはベッドの上で錘を握って上げ下げしていたが、何も言わなかった。
「おれ、とりあえずカインと連絡とってくる」
アシュアはそんなケイナをしばらく見つめていたが、不機嫌そうに口を尖らせながら立ち上がってそう言った。
やはりケイナは何も言わなかった。
自分の部屋に戻ったアシュアはカインに連絡をした。
しかしいくら待ってもカインは呼び出しに応じなかった。
出られない状況にあるのかもしれない。
『ノマド』にも連絡を入れたが、やはり誰も応答しなかった。
アシュアは仕方なく諦めた。
その日の夜、ケイナは部屋に誰かが入ってきたことに気づいて顔をめぐらせた。
「起こしてしまいましたか」
時々顔を見る男だった。歩行訓練のときにひどくぶつけた足の痛みを軽減させる薬を処方してくれた。
「もうすぐ出るそうだね。栄養補助剤を点滴しておこうと思って。体力的にもだいぶん違うと思う」
男はケイナの頭上に透明な袋をセットすると、針を引き出した。
「2時間くらいかな。そのまま眠ってもらってかまわないから」
彼はそう言うと、ケイナの左腕に針を刺した。そしてポケットから小さなアンプルを取り出すと、メインの袋にセットしようとした。
「何の薬」
ケイナの声に男はびっくりしたような顔を向けた。
「しゃべれるんだ?」
「何の薬?」
ケイナは再び尋ねた。男はにっこりと笑った。
「栄養補助剤だよ」
そう答えた途端、男の口から小さな悲鳴が漏れた。ケイナの右腕がアンプルを持つ自分の右腕を掴んだからだ。
ケイナは身を起こして黒いガラスでガードされた目で男を真正面から見据えた。
「何の、薬」
「だから……」
男は義手であるはずの彼の右手が思いのほか強烈な力を持っていることに愕然としていた。
ケイナは自分の顔をさらに男の顔の近くに寄せた。
「この腕。なかなかいいよ。……ほんの少しで力が出る」
ケイナの口元にかすかに笑みが浮かんでいた。男の目が見開かれた。
「人の腕を折るくらいなんでもないみたいだ。……どうして、こんな、腕を、つけたの……」
「お、折らないで……」
男は震えながら言った。
「何の、薬」
「だから……」
口を開きかけた途端、男の目が宙を見て、彼はそのまま床に崩れ折れた。
ケイナは倒れた男の後ろにナナが立っているのを見た。
「手、離しなさい」
ナナはポケットに小さな銃をしまい込みながら言った。ケイナは黙ってそれに従った。
男の腕がどさりと床に落ちた。
「あなたがこういうことしなけりゃ、もうちょっとましな方法で眠ってもらうつもりだったのに」
ナナはそう言うと、ケイナの左腕から針を抜き取った。
「警報システムとカメラを止めてきた。アシュアを起こしてここから出るわよ」
「やっぱり…… ここの人じゃなかったんだ」
ケイナは言った。
「専門は医学よ」
ナナはそう答えて、ケイナに包みを押し付けた。
「ただし、わたしのボスは『A・Jオフィス』だわ」
「ひでえ……」
ケイナは笑った。
「給料、二重取り」
「着替えて」
ナナはそれを無視して押しつけた包みを顎で示した。
「システムは1時間したらまた動き始めるわ」
ケイナはうなずいた。
アシュアはナナが揺り動かしてもなかなか目を覚まさなかった。
ナナが困った顔をすると、ケイナはナナの肩を掴んだ。
「どいて」
彼はそう言うと、アシュアの腕を義手の右手で掴んで、思い切り手前に引っ張った。
アシュアは妙な声をあげながらベッドの下にずり落ちていった。
ケイナはナナの顔を振り向いた。
「起きた」
ナナは呆れたように首を振った。
「腕をあまり無茶な使い方しないで」
ケイナは肩をすくめた。
アシュアは床の上でぼんやりした顔でふたりを見上げた。
「どうしたんだ……」
「逃げるわよ。用意して」
ナナが彼の顔を覗き込むようにして言った。
「逃げる?」
アシュアが不思議そうな顔をしたので、ナナは舌打ちをした。
「2分で用意しないと殴るわよ」
アシュアはようやくはっとした顔になった。手早く荷物をまとめ、最後に星間通信機をとりあげようとしたとき、ナナが言った。
「それは捨てておけばいいわ。たぶん壊れてる」
「壊れてる?」
アシュアはびっくりした。
「今日、どことも繋がらなかったでしょ」
いったいいつ、誰が……。アシュアはいまいましそうに通信機をデスクの上に放り投げた。
ナナはアシュアに銃を渡した。
「もしものときのために」
彼女はそう言い、ケイナを振り向いた。
「あなたには武器を持たせないようにと言われてる」
ケイナは無言で肩をすくめた。
ケイナはナナに渡された軍服のような服を着ていたが、アシュアが見たことのないものだった。上から下まで真っ黒だ。左足と右腕はまだカバーされているので、そこだけ大きな鎧でもつけているように見える。
「右腕と左足は絶対無茶な使い方しないで」
ナナは念を押すようにケイナに言った。
「義手はとにかく使わないで。相手の顔を本気で殴ったり蹴ったりしたら、頭を潰すわよ」
「ひえ」
それを聞いてアシュアが声をあげた。この間ケイナはその義手で自分を殴ったではないか。
ナナはアシュアに顔を向けた。
「生身じゃないのよ。それくらい分かるでしょ。まだ脳の指令とうまく動作してない。加減ができないわ」
アシュアはケイナの顔を見た。ガラスで目を隠されているので、ケイナの表情は分からない。
「勘弁してよ……」
思わず声が漏れた。
「行くわよ」
ナナがそう言ったので、2人は彼女について部屋を出た。
ナナはふたりを従業員用の細い通路に案内するとすぐに建物の外に出た。そして広い駐車場を横切ってアシュアの大嫌いなキューブタイプの乗り物の前に立った。
「どこに行くんだ?」
アシュアが尋ねると、ナナはドアをあけて彼を振り向いた。
「『A・Jオフィス』よ。かくまってくれる」
ナナが乗り込んだのでアシュアはケイナを促したが、ケイナは動こうとしなかった。
「何してるの、早く乗って」
ナナが叱咤するように言うと、ケイナはかぶりを振った。
「『A・Jオフィス』には行かない。地球に帰る」
「地球には今は行くことができないわ」
ナナの声に異常さを感じ取ったアシュアはナナの顔を覗きこんだ。
「なんかあったのか?」
「エアポートが軒並み爆破されてる。被害はそんなに大きくないみたいだけど、数が多くて大混乱してるわよ。星間機は着陸できないわ」
アシュアはケイナの顔を見たが、彼はかぶりを振った。
「『A・Jオフィス』には行かない」
彼は言い張った。
「どうしてもと言うならあんたとは一緒に行動しない」
「子供みたいなわがまま言わないでよ!」
ナナは小さく怒鳴った。
「時間がないのよ、早く乗って!」
「『A・Jオフィス』には行かない」
ケイナは頑として譲らない。ナナは思わず額を押さえた。
「地球には行けないのよ。今言ったでしょ? お願い、分かってよ」
しかしケイナは動かなかった。ナナはとうとう根負けした。
「分かった! 分かったわ! とりあえずここから離れましょう。せめてメインタウンから離れないと」
ケイナがようやく動いたので、アシュアもそれに続いて乗り込んだ。ナナはほっとしたようにため息をついた。
キューブは駐車場から滑り出していった。
『ゼロ・ダリ』の責任者、エストランド・カートが困ったような顔でアシュアを見つめ返す。
「ちょっと理解できないんだけど」
アシュアは言った。
「ケイナはもう十分自分で動ける。そりゃ、おれは医者じゃないけど、星間移動するくらいは大丈夫だと思うんだけど」
「ですから……」
エストランドは駄々をこねる子供に言い聞かせるような口調になった。
「それは調整された環境の中だからです。彼はまだ『ゼロ・ダリ』からすらも一歩も外に出ていない。ましてや星間機の中で彼の血圧や脈拍が正常を維持できるという保証はないんですよ。これは専門家としての注意ですよ、アシュア・セスさん」
アシュアはむっとして口を引き結んだ。
(あんただって別に専門家じゃないんじゃないの?)
そう思ったが口には出さなかった。
「じゃあ、いつだったらケイナはここから出ても良くなるんです?」
「今のところはなんとも言えません」
エストランドは答えた。
風貌だけなら物腰の柔らかい男に見える。低い声も言い含めるようにしてゆっくりしゃべる口調も誠実さをかもし出している。それでもアシュアはどうも納得ができなかった。
カートがケイナを引き取ると連絡をしてきたと思ったら、どうして自分が彼に呼ばれなければならないのだろう。
カートを説得するように仕向けたいのだろうか。
「でも、そっちだってケイナの治療はこれ以上続行できるかどうか、契約のめど、立ってないんじゃないんですか?」
アシュアが言うと、エストランドはため息をついた。
「わたしたちは契約が決まらなければもう知らない、というような人道に外れたことはしませんよ。彼の命を必ず救うとお約束して引き受けたんです。お金はその次です」
(でも、ケイナが目覚めた途端にそういうこと言ってたじゃねぇか)
アシュアは心の中で毒づいた。
アシュアが引き下がろうとしないので、エストランドはうなずいた。
「とりあえずこちらからも、もう一度地球のカートに連絡をします」
アシュアは仕方なくうなずいた。
「おれに言われても返事はできないんで…… そうしてください」
そう答えて彼のオフィスを出た。
オフィスを出てすぐにナナがアシュアを見つけて駆け寄ってきた。そして不機嫌そうなアシュアの顔を見て肩をすくめた。
「あんたどう思う?」
アシュアは歩きながら彼女に言った。
「ケイナはやっぱりまだ星間機に乗るのは無理?」
ナナはアシュアをちらりと見上げてかぶりを振った。
「その判断をしたのはわたしじゃないわ。わたしより上の人よ」
「あんたはどうなんだ?」
アシュアは再び尋ねた。
ナナはくっきりとした黒い眉をひそめたきり、何も言わなかった。
「もう、いいよ」
アシュアはそう言うと、ナナを追い抜いてさっさと先に歩いていった。
ナナはその後ろ姿を黙って見送った。
ケイナの部屋に戻ると、アシュアはエストランドとの会話を彼に伝えた。
「地球のカートが出るって言ってんのに、なんで引き止めるかね。これじゃあ、強引に出るっきゃねぇって感じだよ」
アシュアはそう吐き出すと腕を組んで椅子に腰掛けた。ケイナはベッドの上で錘を握って上げ下げしていたが、何も言わなかった。
「おれ、とりあえずカインと連絡とってくる」
アシュアはそんなケイナをしばらく見つめていたが、不機嫌そうに口を尖らせながら立ち上がってそう言った。
やはりケイナは何も言わなかった。
自分の部屋に戻ったアシュアはカインに連絡をした。
しかしいくら待ってもカインは呼び出しに応じなかった。
出られない状況にあるのかもしれない。
『ノマド』にも連絡を入れたが、やはり誰も応答しなかった。
アシュアは仕方なく諦めた。
その日の夜、ケイナは部屋に誰かが入ってきたことに気づいて顔をめぐらせた。
「起こしてしまいましたか」
時々顔を見る男だった。歩行訓練のときにひどくぶつけた足の痛みを軽減させる薬を処方してくれた。
「もうすぐ出るそうだね。栄養補助剤を点滴しておこうと思って。体力的にもだいぶん違うと思う」
男はケイナの頭上に透明な袋をセットすると、針を引き出した。
「2時間くらいかな。そのまま眠ってもらってかまわないから」
彼はそう言うと、ケイナの左腕に針を刺した。そしてポケットから小さなアンプルを取り出すと、メインの袋にセットしようとした。
「何の薬」
ケイナの声に男はびっくりしたような顔を向けた。
「しゃべれるんだ?」
「何の薬?」
ケイナは再び尋ねた。男はにっこりと笑った。
「栄養補助剤だよ」
そう答えた途端、男の口から小さな悲鳴が漏れた。ケイナの右腕がアンプルを持つ自分の右腕を掴んだからだ。
ケイナは身を起こして黒いガラスでガードされた目で男を真正面から見据えた。
「何の、薬」
「だから……」
男は義手であるはずの彼の右手が思いのほか強烈な力を持っていることに愕然としていた。
ケイナは自分の顔をさらに男の顔の近くに寄せた。
「この腕。なかなかいいよ。……ほんの少しで力が出る」
ケイナの口元にかすかに笑みが浮かんでいた。男の目が見開かれた。
「人の腕を折るくらいなんでもないみたいだ。……どうして、こんな、腕を、つけたの……」
「お、折らないで……」
男は震えながら言った。
「何の、薬」
「だから……」
口を開きかけた途端、男の目が宙を見て、彼はそのまま床に崩れ折れた。
ケイナは倒れた男の後ろにナナが立っているのを見た。
「手、離しなさい」
ナナはポケットに小さな銃をしまい込みながら言った。ケイナは黙ってそれに従った。
男の腕がどさりと床に落ちた。
「あなたがこういうことしなけりゃ、もうちょっとましな方法で眠ってもらうつもりだったのに」
ナナはそう言うと、ケイナの左腕から針を抜き取った。
「警報システムとカメラを止めてきた。アシュアを起こしてここから出るわよ」
「やっぱり…… ここの人じゃなかったんだ」
ケイナは言った。
「専門は医学よ」
ナナはそう答えて、ケイナに包みを押し付けた。
「ただし、わたしのボスは『A・Jオフィス』だわ」
「ひでえ……」
ケイナは笑った。
「給料、二重取り」
「着替えて」
ナナはそれを無視して押しつけた包みを顎で示した。
「システムは1時間したらまた動き始めるわ」
ケイナはうなずいた。
アシュアはナナが揺り動かしてもなかなか目を覚まさなかった。
ナナが困った顔をすると、ケイナはナナの肩を掴んだ。
「どいて」
彼はそう言うと、アシュアの腕を義手の右手で掴んで、思い切り手前に引っ張った。
アシュアは妙な声をあげながらベッドの下にずり落ちていった。
ケイナはナナの顔を振り向いた。
「起きた」
ナナは呆れたように首を振った。
「腕をあまり無茶な使い方しないで」
ケイナは肩をすくめた。
アシュアは床の上でぼんやりした顔でふたりを見上げた。
「どうしたんだ……」
「逃げるわよ。用意して」
ナナが彼の顔を覗き込むようにして言った。
「逃げる?」
アシュアが不思議そうな顔をしたので、ナナは舌打ちをした。
「2分で用意しないと殴るわよ」
アシュアはようやくはっとした顔になった。手早く荷物をまとめ、最後に星間通信機をとりあげようとしたとき、ナナが言った。
「それは捨てておけばいいわ。たぶん壊れてる」
「壊れてる?」
アシュアはびっくりした。
「今日、どことも繋がらなかったでしょ」
いったいいつ、誰が……。アシュアはいまいましそうに通信機をデスクの上に放り投げた。
ナナはアシュアに銃を渡した。
「もしものときのために」
彼女はそう言い、ケイナを振り向いた。
「あなたには武器を持たせないようにと言われてる」
ケイナは無言で肩をすくめた。
ケイナはナナに渡された軍服のような服を着ていたが、アシュアが見たことのないものだった。上から下まで真っ黒だ。左足と右腕はまだカバーされているので、そこだけ大きな鎧でもつけているように見える。
「右腕と左足は絶対無茶な使い方しないで」
ナナは念を押すようにケイナに言った。
「義手はとにかく使わないで。相手の顔を本気で殴ったり蹴ったりしたら、頭を潰すわよ」
「ひえ」
それを聞いてアシュアが声をあげた。この間ケイナはその義手で自分を殴ったではないか。
ナナはアシュアに顔を向けた。
「生身じゃないのよ。それくらい分かるでしょ。まだ脳の指令とうまく動作してない。加減ができないわ」
アシュアはケイナの顔を見た。ガラスで目を隠されているので、ケイナの表情は分からない。
「勘弁してよ……」
思わず声が漏れた。
「行くわよ」
ナナがそう言ったので、2人は彼女について部屋を出た。
ナナはふたりを従業員用の細い通路に案内するとすぐに建物の外に出た。そして広い駐車場を横切ってアシュアの大嫌いなキューブタイプの乗り物の前に立った。
「どこに行くんだ?」
アシュアが尋ねると、ナナはドアをあけて彼を振り向いた。
「『A・Jオフィス』よ。かくまってくれる」
ナナが乗り込んだのでアシュアはケイナを促したが、ケイナは動こうとしなかった。
「何してるの、早く乗って」
ナナが叱咤するように言うと、ケイナはかぶりを振った。
「『A・Jオフィス』には行かない。地球に帰る」
「地球には今は行くことができないわ」
ナナの声に異常さを感じ取ったアシュアはナナの顔を覗きこんだ。
「なんかあったのか?」
「エアポートが軒並み爆破されてる。被害はそんなに大きくないみたいだけど、数が多くて大混乱してるわよ。星間機は着陸できないわ」
アシュアはケイナの顔を見たが、彼はかぶりを振った。
「『A・Jオフィス』には行かない」
彼は言い張った。
「どうしてもと言うならあんたとは一緒に行動しない」
「子供みたいなわがまま言わないでよ!」
ナナは小さく怒鳴った。
「時間がないのよ、早く乗って!」
「『A・Jオフィス』には行かない」
ケイナは頑として譲らない。ナナは思わず額を押さえた。
「地球には行けないのよ。今言ったでしょ? お願い、分かってよ」
しかしケイナは動かなかった。ナナはとうとう根負けした。
「分かった! 分かったわ! とりあえずここから離れましょう。せめてメインタウンから離れないと」
ケイナがようやく動いたので、アシュアもそれに続いて乗り込んだ。ナナはほっとしたようにため息をついた。
キューブは駐車場から滑り出していった。