「アシュア。アシュア」
揺り動かされてアシュアは呻きながら目を開けた。
そばに立っていたのはナナだった。
ナナは変わらず化粧気のない顔に髪をひとつに束ねてアシュアを見下ろしていた。目が大きく鼻筋が通っているので、彼女は自分でもあまり化粧をする必要性を感じていないらしい。
「もう…… 起きたの?」
アシュアは目をこすりながらげんなりして起き上がった。
「勘弁して欲しい……。なんか食わせて……」
「だから食事をしてからと言ったのに……。寝てしまうほうが先なんだから。手を繋ぎながら点滴しましょうか」
ナナの言葉にアシュアはかぶりを振った。
「口から食べるほうがいいっす。手ぇ繋ぎながら食います」
「用意するわ」
ナナは苦笑すると部屋を出て行った。
アシュアはやれやれというようにベッドから降りた。
もう何日こんなことを続けているだろう。ケイナと手を繋ぐのは信じられないほど疲れる。エネルギーを吸い取られていくようだというのは大袈裟ではなく本当のことだった。疲労の度合いが生半可ではない。
体を動かしているわけでもないのに空腹感が襲いかかってきたが、それよりも疲労感のほうが勝っていつも途中で半分気を失うようにして眠ってしまった。
眠ったと思ったら起こされる。その繰り返しだ。
ケイナはもともと人と触れ合うことが苦手なほうだった。それがなんで今このときに自分と手を繋ぎたがるのか分からなかった。
ここ数日、夜は数時間寝て昼間に起きているらしい。黒いガラスのはめ込まれたガードがついているので彼の目を確かめることができない。だからナナやほかの医師たちが言うことを信じるとすればそうなる。
なんだか生まれたばかりの赤ん坊の世話をしているのと同じような気分になった。
ダイとブランが生まれたばかりの頃がこんな感じだった。
双子だから夜中に小刻みに目を覚まして泣き出すと、リアと一緒に自分も起きた。
リアが片方に授乳しているあいだ、自分がもう片方を抱いてあやす。
ダイは生まれたときから抱いてやればおとなしくなる子だったが、ブランはひたすら耳をつんざくような大声で泣く子で大変だった。
最初の一ヶ月は慣れなくて寝不足が続いていたように思う。それがだんだん夜中に起きる回数が少なくなっていく。でも、自分の子供だから我慢ができた。
ケイナの場合は赤ん坊ではないし、抱きながら動き回れるわけでもない。彼が起きている間はずっと座って手を繋ぎっぱなしなのだ。トイレが近くなるから水分もそんなにとれない。ナナは尿道に管を通そうかと提案したが、アシュアはそれだけはやめてと懇願した。
そんなことをしたら本当に倒れてしまいそうだ。
「ケイナぁ。おまえさ、ほんとに目ぇ覚めてる?」
アシュアは左手をケイナと繋ぎながら、右手でナナの用意してくれたパンを持ち、もさもさと食べながらつぶやいた。
『アライド』のパンって固い……。アシュアは思った。ナナはハムらしい肉と野菜を挟んでくれていたが、あまり美味しくなかった。
ケイナの指が自分の手の中でかすかに動くのが感じられた。アシュアはパンにかぶりつくのを止めた。
(待てよ……)
アシュアはそっとナナと数人の医師たちのほうをうかがった。ケイナと少し離れたところで計器類を見つめている。ふっと浮かんだ自分の考えは彼女たちに筒抜けになるだろうか。ケイナの脳波に出てしまうんだろうか。
アシュアは意を決して彼女たちに気づかれないよう、そっとケイナの耳元に顔を寄せた。
「ケイナ、おれの言うことが聞こえてるんなら指動かしてくれよ。イエスなら1回、ノーなら2回」
そして続けた。
「こんなふうにおまえと会話したら向こうで分かっちまうと思う?」
しばらくして2回、小さく彼の指が動いた。答えはノーだ。
「つまり、分からないってこと?」
1回。イエス。
ばれたらばれたときのことかな。アシュアは思った。
「おれのこと、分かるの?」
1回。イエス。
「セレスやカインのことは?」
1回。イエス。アシュアは震えそうになった。
「覚えてるのか……? おまえ……」
固唾を呑んで待った。答えは1回。イエスだった。
アシュアはもう少しで持ったパンを落としてしまうところだった。
ケイナは記憶を失っていない……!
「おまえ、声は出せないの?」
1回。イエス。
「カインに…… 教えてやりたいんだけど……」
2回。ノー。どうして? なぜカインに知らせてはいけない?
「なんで……」
つぶやきかけてアシュアはかぶりを振った。こんなことの答えは返せない。
ナナがこちらを向いたので、アシュアは慌ててパンをほおばった。ナナはすぐに顔をそらせた。
「みんな心配してるぜ……。セレスもさ、もうちょっとしたら目を覚ますかもしれないってさ」
1回。イエス。
「地球に…… 早く帰ろうな」
ちょっと涙がこぼれそうになった。
「みんなでまた一緒に暮らそう……」
ケイナの指は動かなかった。再びパンを口に入れようとしたとき、アシュアは思わず大きな声をあげていた。自分の手を思いもかけない力でケイナが握ったからだ。
それは途方もない力だった。振りほどきたくても振りほどけないほどの。
「ど、どうしたんですか!」
ナナが飛んできた。アシュアは小刻みに喘ぎながら床にひっくり返っていた。
ケイナとの手は離れている。
「あ、いや、その、ええと……」
アシュアは困惑して立ち上がった。
「食べながら寝ていたの?」
ナナが呆れ顔で言ったので、アシュアは慌ててうなずいた。
「そ、そうなんだ。なんか夢を見たみたいでさ」
「子供みたいね」
ナナはそう言うとさっさと背をむけた。ポニーテールが背中で揺れた。
アシュアは自分と一緒に倒れてしまった椅子を元通りにし、再びおずおずとケイナの手を握った。
「びっくりさせやがって……」
そうつぶやくと、しばらくして彼の指が動いた。
1回…… 2回…… 3回…… 4回…… 5回。5回? 5回ってなんだろう。
アシュアは首をかしげてケイナの顔を見た。
仰向けのまま横たわる彼の口がほんのかすかに開き、そしてわずかに笑った。
見間違えではないかとアシュアは何度もまばたきをした。しかし、一瞬のちには彼の顔は再び無表情に戻っていた。
その夜、気を失うように眠りについたアシュアはほどなくして再びナナに起こされた。
「もう勘弁して……。寝かせて……」
アシュアは毛布をかぶって呻いた。
「ケイナじゃないわ、アシュア。『リィ・カンパニー』から連絡が入ってます」
「あ……」
アシュアはげんなりして毛布から顔を出した。数日連絡をしていなかった。またカインにどやしつけられるのかもしれない。
でも、出ないともっと怒られるよな……。
アシュアは渋々ベッドから降りた。
ふらつく足取りで通信室に行くと、画面の向こうでカインが待っていた。
「アシュア……。大丈夫か」
カインはアシュアの顔を見て少し驚いたように言った。アシュアの目の下には黒いクマができ、顔もげっそりやつれていた。
アシュアのこんな顔を見たのは初めてかもしれない。
「大丈夫じゃねぇよ……。おまえ、おれと代わってくれ……」
アシュアは涙声でつぶやいた。
「ごめん、アシュア。ぼくは動けないんだ」
「冗談だよ」
アシュアはモニターの前に頬杖をついて答えた。
「おまえはそこから出ないほうがいい」
「ケイナの様子は?」
「ん、ああ……」
アシュアは首筋を撫でた。どうしよう……。ケイナはカインに伝えるなと言っていたし……。ちらりと後ろを振り向くとナナの姿が見えた。
やっぱり言わないほうがいいかもしれない。
「うん……。変わりないよ。おれ、ずっと手を繋いでる」
「近くに誰かいるの?」
「ん? ああ、いるよ」
アシュアは答えた。カインの表情にさすがにアシュアも気がついた。
カインはこの通信機では話せないことを話したいと思っているのだ。
「大変そうだな」
カインは言った。
「大変だよ。疲れきってる」
「明日かあさってあたり、差し入れが届くと思う。それでちょっと元気を出してくれ」
「そりゃ嬉しい」
アシュアは欠伸をした。
「ねえ、カイン。リア呼んでくれないかなあ」
「何言ってんだ」
カインは苦笑した。
「おれ、もう毎日腹空かしてんだよ。腹いっぱい食いてぇ。ここのメシあんまし美味しくないんだよ」
「もうすぐ彼女と会えるようになるよ」
(ふーん)
アシュアは思った。差し入れって星間通信機か……。それなら『ノマド』に連絡を入れることもできる。
「じゃあ、差し入れ楽しみに待ってるよ」
アシュアは嬉しさを押し隠して再び欠伸まじりに言った。
「ケイナのことを頼む」
カインが言ったので、アシュアはうなずいた。
画面からカインが消えたので立ち上がって振り向くと、ナナが腕を組んで口を歪めていた。
「まずいメシで申し訳なかったわね」
「あ、いや……」
アシュアは頭を掻いた。
「明日はもう少しましなものを作るわ」
ナナはそう言ってアシュアをじろりと見ると、くるりと背を向けて部屋を出て行った。
彼女の背中で揺れる髪を見ながらアシュアはため息をついた。
ナナは言葉通り、『アライド』のパンではなく地球人向けのパンを用意し、片手でもアシュアが食べやすいように小さく切って皿に盛ってくれた。
「あの…… ほんと、気にしなくていいから。おれ、何でも食うし」
アシュアは恐縮したが、ナナはつんとして素っ気無く皿を置いていった。
よほど癪にさわったのかもしれなかった。
しかし、その生活も2日で終わった。ケイナが身を起こすことになったからだ。
アシュアはようやく手を繋ぐことから解放された。
本当なら地球に戻ってもいいはずだが、アシュアはリィ社長の指示だからという理由でそのまま滞在することになった。
アシュアはカートと『A・Jオフィス』の両方からもそういう指示が『ゼロ・ダリ』に言い渡されていることは知らなかった。
3社から指示が出ているということは、アシュアの身の保護のためにも重要なことだった。
ケイナはイエスとノーを首の動きで伝えられるようになっていたが、相変わらず声は発しない。脳波と心拍を測る装置は取り外され、彼につけられているものは右手と左足の大きなカバーと目を保護する黒いガラスだけになった。
体は上半身を徐々に起こしていって、ソファに座るのと同じくらいの姿勢になるまでにさらに2日を要した。
ナナが言うには2日でも早いほうだという。3日目にはケイナは左手に筒を持って指を動かす訓練をし、その次は義手である右手の訓練にもはいった。
義手である右手の手首から先のカバーが取り外され、それを見る限りでは全くその指が作りものであることは分からない。しかしケイナはやはり右手のほうは触感が違うのか動かし辛そうだった。それでも1週間たったときにはケイナの腕は肩の高さまであがるようになっていた。
声は相変わらず発しなかった。
目は覆われているのでリアクションがないと何も聞こえていないのではないかとアシュアは思うことがある。
呼ぶとかすかに顔を向けるので、聞こえていないわけではない。でも、彼はすぐにそっぽを向いてしまう。
ケイナは体力を回復することに専念しているのかもしれない、とアシュアは思った。
それも常人離れした速さで。
『トイ・チャイルド』の遺伝子はこういったことでも威力を発揮するのだろうか。
『リィ・カンパニー』でのアンリ・クルーレとの会話の一端は送られてきた通信機でカインから聞かされた。アシュアは『ノマド』に連絡をとり、ケイナの受け入れを準備するよう伝えた。
しかし『ノマド』のエリドから聞いた言葉が蘇る。
(ケイナは帰れない)
でも、帰る手はずは整えなければならなかった。
「ケイナ」
アシュアは無言でリハビリを続けるケイナに話しかけた。
「やっぱりカインに言っちゃだめなわけ?」
ケイナは錘を上げ下げしながらかぶりを振った。顔はこちらに向けない。
「なんでなんだよ……」
もちろんその答えはなかった。
誰かが部屋に入ってきたと思って顔を巡らせると、ナナが顔を覗かせていた。
「アシュア。食事、とりませんか」
彼女はそう言ってケイナに目を向けた。
「ケイナ。根を詰めないようにね。もうすぐしたら昼食がくるわ」
ケイナはちらりと顔をあげたが、やはり無言のままだった。目に覆いをされているとケイナの表情は本当に分からない。
アシュアは立ち上がってナナとともに部屋を出た。
「良かったわね。自由になって」
ナナは言った。頭のうしろのポニーテールが彼女の動きに沿って面白いほど飛び跳ねる。
ふたりは『ゼロ・ダリ』の職員用のダイニングに入り、窓際のテーブルについた。
「ここって、混血の人ばっかりなの?」
アシュアは周囲を見回しながら、ナナに尋ねてみた。ナナは小首をかしげた。
「そうね……。地球の人はあんまりここの生活は合わないみたいだし」
「ナナって、地球人だよな?」
アシュアが言うと、ナナは少し笑った。彼女の顔つきは明らかに『アライド』系ではない。
「わたしは地球のほうの血が濃いだけ。『アライド』の血はもう10分の1以下よ」
「じゃあ、『見える力』っていうのはあんまりないの?」
ナナはさらに笑った。
「地球の人は時々そういうことを聞くわね」
彼女は皿の上の小さな肉片をフォークで刺すと口に入れた。アシュアが怪訝そうな顔をすると、ナナは肩をすくめた。
「『アライド』の種が『見える力』を持つなんて言われるのは、地球に行ったときだけよ」
アシュアが意味が分からないというような顔をして自分を見たので、ナナは持ち上げようとしていたフォークを止めた。
「『見える』とかいうのは、地球と『アライド』の環境の変化で脳細胞が影響を受けるからじゃないかしら。だから『アライド』の血が入ってる人はすぐこっちに戻ってきちゃうの。こっちだったら別に普通だから」
「じゃあ、ここにいたら何にも見えないわけ?」
「当たり前じゃない」
ナナは笑った。
「早い話、幻覚よ。地球の人は『見える力』だなんて、大袈裟なふうに言ってるけれど、そんなものあるわけないわ。もっとも、個体としての特性もあるだろうから、勘がいいとか、そういう人はある程度現実的なものを見るのかもしれないけど、それだって稀だわ」
じゃあ、カインは『稀』なほうに入るのかもしれない。
アシュアは思った。
「脳に影響があるっていうことは、体にも何らかの影響があるわ。だから『アライド』の血が入っている人は地球には永住したがらないのよ」
アシュアは無言でうなずいた。『見えて』いると体に負担をかける。そのことはカインを見ているからよく分かっていた。
しばらくしてアシュアは再び口を開いた。
「ナナって『ゼロ・ダリ』にはどのくらいいるの」
ナナは考え込むように視線を泳がせた。
「そうねえ……。8年くらいになるかしら……」
「ふうん……」
アシュアはフォークで皿をつつくナナを見つめた。彼女は年齢的には20代後半くらいに見える。意志の強そうな黒い眉にぴしりと通った鼻筋はいかにも医療に携わっていそうなタイプだ。
ここに来る前はどうしていたのか聞いてみたい気もしたが、あまりしつこくいろいろ聞くのも失礼に思えてアシュアはそれきり食べることに専念した。食べながら、『アライド』の食事はやっぱりまずい、と思った。
「アシュアは結婚しているの?」
急にナナが口を開いたので、アシュアは目をあげた。
「うん。子供もいるよ。双子でさ。今、6歳だ」
「そう……」
ナナはがしがしと食事を口に運ぶアシュアを見つめた。
「家族と離れて寂しいわね」
「んん…… まあ、仕事だしな」
そう答えてアシュアはふと彼女の顔を見た。ナナは慌てて目を逸らせた。
「ねえ、ケイナのあの義手義足のことだけどさ。あの動きにくそうな袋みたいなのって、いつとれるわけ?」
アシュアが尋ねると、ナナは再び考え込むような顔をした。
「そうね……。目のほうはあと1ヶ月もすれば外せると思うけれど、腕と足はもっとかかると思うわ。……3ヶ月くらいかしら」
アシュアは大変だなというようにうなずいた。
「でも、ガードは少しずつ薄いものになっていくと思う。たぶん明日あたりから歩行訓練も始まる。曲げ伸ばしができないと困るから、だいぶん動きやすいものに変わると思うわ」
「歩行訓練か……」
アシュアはつぶやいた。
「早いな……。7年も眠ってた人間とは思えねぇ……」
「確かにね」
ナナも同調した。
「あの飛躍的な回復は何かしら。まるで焦っているみたいな気がするわ。早く地球に帰りたいのかしら」
アシュアは思わずナナの顔を見た。ナナは肩をすくめた。
「そういう気がしただけよ」
早く地球に帰りたい……。セレスが待っているからか?
アシュアには分からなかった
揺り動かされてアシュアは呻きながら目を開けた。
そばに立っていたのはナナだった。
ナナは変わらず化粧気のない顔に髪をひとつに束ねてアシュアを見下ろしていた。目が大きく鼻筋が通っているので、彼女は自分でもあまり化粧をする必要性を感じていないらしい。
「もう…… 起きたの?」
アシュアは目をこすりながらげんなりして起き上がった。
「勘弁して欲しい……。なんか食わせて……」
「だから食事をしてからと言ったのに……。寝てしまうほうが先なんだから。手を繋ぎながら点滴しましょうか」
ナナの言葉にアシュアはかぶりを振った。
「口から食べるほうがいいっす。手ぇ繋ぎながら食います」
「用意するわ」
ナナは苦笑すると部屋を出て行った。
アシュアはやれやれというようにベッドから降りた。
もう何日こんなことを続けているだろう。ケイナと手を繋ぐのは信じられないほど疲れる。エネルギーを吸い取られていくようだというのは大袈裟ではなく本当のことだった。疲労の度合いが生半可ではない。
体を動かしているわけでもないのに空腹感が襲いかかってきたが、それよりも疲労感のほうが勝っていつも途中で半分気を失うようにして眠ってしまった。
眠ったと思ったら起こされる。その繰り返しだ。
ケイナはもともと人と触れ合うことが苦手なほうだった。それがなんで今このときに自分と手を繋ぎたがるのか分からなかった。
ここ数日、夜は数時間寝て昼間に起きているらしい。黒いガラスのはめ込まれたガードがついているので彼の目を確かめることができない。だからナナやほかの医師たちが言うことを信じるとすればそうなる。
なんだか生まれたばかりの赤ん坊の世話をしているのと同じような気分になった。
ダイとブランが生まれたばかりの頃がこんな感じだった。
双子だから夜中に小刻みに目を覚まして泣き出すと、リアと一緒に自分も起きた。
リアが片方に授乳しているあいだ、自分がもう片方を抱いてあやす。
ダイは生まれたときから抱いてやればおとなしくなる子だったが、ブランはひたすら耳をつんざくような大声で泣く子で大変だった。
最初の一ヶ月は慣れなくて寝不足が続いていたように思う。それがだんだん夜中に起きる回数が少なくなっていく。でも、自分の子供だから我慢ができた。
ケイナの場合は赤ん坊ではないし、抱きながら動き回れるわけでもない。彼が起きている間はずっと座って手を繋ぎっぱなしなのだ。トイレが近くなるから水分もそんなにとれない。ナナは尿道に管を通そうかと提案したが、アシュアはそれだけはやめてと懇願した。
そんなことをしたら本当に倒れてしまいそうだ。
「ケイナぁ。おまえさ、ほんとに目ぇ覚めてる?」
アシュアは左手をケイナと繋ぎながら、右手でナナの用意してくれたパンを持ち、もさもさと食べながらつぶやいた。
『アライド』のパンって固い……。アシュアは思った。ナナはハムらしい肉と野菜を挟んでくれていたが、あまり美味しくなかった。
ケイナの指が自分の手の中でかすかに動くのが感じられた。アシュアはパンにかぶりつくのを止めた。
(待てよ……)
アシュアはそっとナナと数人の医師たちのほうをうかがった。ケイナと少し離れたところで計器類を見つめている。ふっと浮かんだ自分の考えは彼女たちに筒抜けになるだろうか。ケイナの脳波に出てしまうんだろうか。
アシュアは意を決して彼女たちに気づかれないよう、そっとケイナの耳元に顔を寄せた。
「ケイナ、おれの言うことが聞こえてるんなら指動かしてくれよ。イエスなら1回、ノーなら2回」
そして続けた。
「こんなふうにおまえと会話したら向こうで分かっちまうと思う?」
しばらくして2回、小さく彼の指が動いた。答えはノーだ。
「つまり、分からないってこと?」
1回。イエス。
ばれたらばれたときのことかな。アシュアは思った。
「おれのこと、分かるの?」
1回。イエス。
「セレスやカインのことは?」
1回。イエス。アシュアは震えそうになった。
「覚えてるのか……? おまえ……」
固唾を呑んで待った。答えは1回。イエスだった。
アシュアはもう少しで持ったパンを落としてしまうところだった。
ケイナは記憶を失っていない……!
「おまえ、声は出せないの?」
1回。イエス。
「カインに…… 教えてやりたいんだけど……」
2回。ノー。どうして? なぜカインに知らせてはいけない?
「なんで……」
つぶやきかけてアシュアはかぶりを振った。こんなことの答えは返せない。
ナナがこちらを向いたので、アシュアは慌ててパンをほおばった。ナナはすぐに顔をそらせた。
「みんな心配してるぜ……。セレスもさ、もうちょっとしたら目を覚ますかもしれないってさ」
1回。イエス。
「地球に…… 早く帰ろうな」
ちょっと涙がこぼれそうになった。
「みんなでまた一緒に暮らそう……」
ケイナの指は動かなかった。再びパンを口に入れようとしたとき、アシュアは思わず大きな声をあげていた。自分の手を思いもかけない力でケイナが握ったからだ。
それは途方もない力だった。振りほどきたくても振りほどけないほどの。
「ど、どうしたんですか!」
ナナが飛んできた。アシュアは小刻みに喘ぎながら床にひっくり返っていた。
ケイナとの手は離れている。
「あ、いや、その、ええと……」
アシュアは困惑して立ち上がった。
「食べながら寝ていたの?」
ナナが呆れ顔で言ったので、アシュアは慌ててうなずいた。
「そ、そうなんだ。なんか夢を見たみたいでさ」
「子供みたいね」
ナナはそう言うとさっさと背をむけた。ポニーテールが背中で揺れた。
アシュアは自分と一緒に倒れてしまった椅子を元通りにし、再びおずおずとケイナの手を握った。
「びっくりさせやがって……」
そうつぶやくと、しばらくして彼の指が動いた。
1回…… 2回…… 3回…… 4回…… 5回。5回? 5回ってなんだろう。
アシュアは首をかしげてケイナの顔を見た。
仰向けのまま横たわる彼の口がほんのかすかに開き、そしてわずかに笑った。
見間違えではないかとアシュアは何度もまばたきをした。しかし、一瞬のちには彼の顔は再び無表情に戻っていた。
その夜、気を失うように眠りについたアシュアはほどなくして再びナナに起こされた。
「もう勘弁して……。寝かせて……」
アシュアは毛布をかぶって呻いた。
「ケイナじゃないわ、アシュア。『リィ・カンパニー』から連絡が入ってます」
「あ……」
アシュアはげんなりして毛布から顔を出した。数日連絡をしていなかった。またカインにどやしつけられるのかもしれない。
でも、出ないともっと怒られるよな……。
アシュアは渋々ベッドから降りた。
ふらつく足取りで通信室に行くと、画面の向こうでカインが待っていた。
「アシュア……。大丈夫か」
カインはアシュアの顔を見て少し驚いたように言った。アシュアの目の下には黒いクマができ、顔もげっそりやつれていた。
アシュアのこんな顔を見たのは初めてかもしれない。
「大丈夫じゃねぇよ……。おまえ、おれと代わってくれ……」
アシュアは涙声でつぶやいた。
「ごめん、アシュア。ぼくは動けないんだ」
「冗談だよ」
アシュアはモニターの前に頬杖をついて答えた。
「おまえはそこから出ないほうがいい」
「ケイナの様子は?」
「ん、ああ……」
アシュアは首筋を撫でた。どうしよう……。ケイナはカインに伝えるなと言っていたし……。ちらりと後ろを振り向くとナナの姿が見えた。
やっぱり言わないほうがいいかもしれない。
「うん……。変わりないよ。おれ、ずっと手を繋いでる」
「近くに誰かいるの?」
「ん? ああ、いるよ」
アシュアは答えた。カインの表情にさすがにアシュアも気がついた。
カインはこの通信機では話せないことを話したいと思っているのだ。
「大変そうだな」
カインは言った。
「大変だよ。疲れきってる」
「明日かあさってあたり、差し入れが届くと思う。それでちょっと元気を出してくれ」
「そりゃ嬉しい」
アシュアは欠伸をした。
「ねえ、カイン。リア呼んでくれないかなあ」
「何言ってんだ」
カインは苦笑した。
「おれ、もう毎日腹空かしてんだよ。腹いっぱい食いてぇ。ここのメシあんまし美味しくないんだよ」
「もうすぐ彼女と会えるようになるよ」
(ふーん)
アシュアは思った。差し入れって星間通信機か……。それなら『ノマド』に連絡を入れることもできる。
「じゃあ、差し入れ楽しみに待ってるよ」
アシュアは嬉しさを押し隠して再び欠伸まじりに言った。
「ケイナのことを頼む」
カインが言ったので、アシュアはうなずいた。
画面からカインが消えたので立ち上がって振り向くと、ナナが腕を組んで口を歪めていた。
「まずいメシで申し訳なかったわね」
「あ、いや……」
アシュアは頭を掻いた。
「明日はもう少しましなものを作るわ」
ナナはそう言ってアシュアをじろりと見ると、くるりと背を向けて部屋を出て行った。
彼女の背中で揺れる髪を見ながらアシュアはため息をついた。
ナナは言葉通り、『アライド』のパンではなく地球人向けのパンを用意し、片手でもアシュアが食べやすいように小さく切って皿に盛ってくれた。
「あの…… ほんと、気にしなくていいから。おれ、何でも食うし」
アシュアは恐縮したが、ナナはつんとして素っ気無く皿を置いていった。
よほど癪にさわったのかもしれなかった。
しかし、その生活も2日で終わった。ケイナが身を起こすことになったからだ。
アシュアはようやく手を繋ぐことから解放された。
本当なら地球に戻ってもいいはずだが、アシュアはリィ社長の指示だからという理由でそのまま滞在することになった。
アシュアはカートと『A・Jオフィス』の両方からもそういう指示が『ゼロ・ダリ』に言い渡されていることは知らなかった。
3社から指示が出ているということは、アシュアの身の保護のためにも重要なことだった。
ケイナはイエスとノーを首の動きで伝えられるようになっていたが、相変わらず声は発しない。脳波と心拍を測る装置は取り外され、彼につけられているものは右手と左足の大きなカバーと目を保護する黒いガラスだけになった。
体は上半身を徐々に起こしていって、ソファに座るのと同じくらいの姿勢になるまでにさらに2日を要した。
ナナが言うには2日でも早いほうだという。3日目にはケイナは左手に筒を持って指を動かす訓練をし、その次は義手である右手の訓練にもはいった。
義手である右手の手首から先のカバーが取り外され、それを見る限りでは全くその指が作りものであることは分からない。しかしケイナはやはり右手のほうは触感が違うのか動かし辛そうだった。それでも1週間たったときにはケイナの腕は肩の高さまであがるようになっていた。
声は相変わらず発しなかった。
目は覆われているのでリアクションがないと何も聞こえていないのではないかとアシュアは思うことがある。
呼ぶとかすかに顔を向けるので、聞こえていないわけではない。でも、彼はすぐにそっぽを向いてしまう。
ケイナは体力を回復することに専念しているのかもしれない、とアシュアは思った。
それも常人離れした速さで。
『トイ・チャイルド』の遺伝子はこういったことでも威力を発揮するのだろうか。
『リィ・カンパニー』でのアンリ・クルーレとの会話の一端は送られてきた通信機でカインから聞かされた。アシュアは『ノマド』に連絡をとり、ケイナの受け入れを準備するよう伝えた。
しかし『ノマド』のエリドから聞いた言葉が蘇る。
(ケイナは帰れない)
でも、帰る手はずは整えなければならなかった。
「ケイナ」
アシュアは無言でリハビリを続けるケイナに話しかけた。
「やっぱりカインに言っちゃだめなわけ?」
ケイナは錘を上げ下げしながらかぶりを振った。顔はこちらに向けない。
「なんでなんだよ……」
もちろんその答えはなかった。
誰かが部屋に入ってきたと思って顔を巡らせると、ナナが顔を覗かせていた。
「アシュア。食事、とりませんか」
彼女はそう言ってケイナに目を向けた。
「ケイナ。根を詰めないようにね。もうすぐしたら昼食がくるわ」
ケイナはちらりと顔をあげたが、やはり無言のままだった。目に覆いをされているとケイナの表情は本当に分からない。
アシュアは立ち上がってナナとともに部屋を出た。
「良かったわね。自由になって」
ナナは言った。頭のうしろのポニーテールが彼女の動きに沿って面白いほど飛び跳ねる。
ふたりは『ゼロ・ダリ』の職員用のダイニングに入り、窓際のテーブルについた。
「ここって、混血の人ばっかりなの?」
アシュアは周囲を見回しながら、ナナに尋ねてみた。ナナは小首をかしげた。
「そうね……。地球の人はあんまりここの生活は合わないみたいだし」
「ナナって、地球人だよな?」
アシュアが言うと、ナナは少し笑った。彼女の顔つきは明らかに『アライド』系ではない。
「わたしは地球のほうの血が濃いだけ。『アライド』の血はもう10分の1以下よ」
「じゃあ、『見える力』っていうのはあんまりないの?」
ナナはさらに笑った。
「地球の人は時々そういうことを聞くわね」
彼女は皿の上の小さな肉片をフォークで刺すと口に入れた。アシュアが怪訝そうな顔をすると、ナナは肩をすくめた。
「『アライド』の種が『見える力』を持つなんて言われるのは、地球に行ったときだけよ」
アシュアが意味が分からないというような顔をして自分を見たので、ナナは持ち上げようとしていたフォークを止めた。
「『見える』とかいうのは、地球と『アライド』の環境の変化で脳細胞が影響を受けるからじゃないかしら。だから『アライド』の血が入ってる人はすぐこっちに戻ってきちゃうの。こっちだったら別に普通だから」
「じゃあ、ここにいたら何にも見えないわけ?」
「当たり前じゃない」
ナナは笑った。
「早い話、幻覚よ。地球の人は『見える力』だなんて、大袈裟なふうに言ってるけれど、そんなものあるわけないわ。もっとも、個体としての特性もあるだろうから、勘がいいとか、そういう人はある程度現実的なものを見るのかもしれないけど、それだって稀だわ」
じゃあ、カインは『稀』なほうに入るのかもしれない。
アシュアは思った。
「脳に影響があるっていうことは、体にも何らかの影響があるわ。だから『アライド』の血が入っている人は地球には永住したがらないのよ」
アシュアは無言でうなずいた。『見えて』いると体に負担をかける。そのことはカインを見ているからよく分かっていた。
しばらくしてアシュアは再び口を開いた。
「ナナって『ゼロ・ダリ』にはどのくらいいるの」
ナナは考え込むように視線を泳がせた。
「そうねえ……。8年くらいになるかしら……」
「ふうん……」
アシュアはフォークで皿をつつくナナを見つめた。彼女は年齢的には20代後半くらいに見える。意志の強そうな黒い眉にぴしりと通った鼻筋はいかにも医療に携わっていそうなタイプだ。
ここに来る前はどうしていたのか聞いてみたい気もしたが、あまりしつこくいろいろ聞くのも失礼に思えてアシュアはそれきり食べることに専念した。食べながら、『アライド』の食事はやっぱりまずい、と思った。
「アシュアは結婚しているの?」
急にナナが口を開いたので、アシュアは目をあげた。
「うん。子供もいるよ。双子でさ。今、6歳だ」
「そう……」
ナナはがしがしと食事を口に運ぶアシュアを見つめた。
「家族と離れて寂しいわね」
「んん…… まあ、仕事だしな」
そう答えてアシュアはふと彼女の顔を見た。ナナは慌てて目を逸らせた。
「ねえ、ケイナのあの義手義足のことだけどさ。あの動きにくそうな袋みたいなのって、いつとれるわけ?」
アシュアが尋ねると、ナナは再び考え込むような顔をした。
「そうね……。目のほうはあと1ヶ月もすれば外せると思うけれど、腕と足はもっとかかると思うわ。……3ヶ月くらいかしら」
アシュアは大変だなというようにうなずいた。
「でも、ガードは少しずつ薄いものになっていくと思う。たぶん明日あたりから歩行訓練も始まる。曲げ伸ばしができないと困るから、だいぶん動きやすいものに変わると思うわ」
「歩行訓練か……」
アシュアはつぶやいた。
「早いな……。7年も眠ってた人間とは思えねぇ……」
「確かにね」
ナナも同調した。
「あの飛躍的な回復は何かしら。まるで焦っているみたいな気がするわ。早く地球に帰りたいのかしら」
アシュアは思わずナナの顔を見た。ナナは肩をすくめた。
「そういう気がしただけよ」
早く地球に帰りたい……。セレスが待っているからか?
アシュアには分からなかった