ユージーの秘書、アンリ・クルーレは12時きっかりにヨクと共にカインの部屋にやってきた。
 がっしりした体つきはヨクよりも大きい。軍人らしい四角い顔に高い鼻梁、浅黒い肌を持った50代くらいの男だった。カインは立ち上がると彼に手を差し伸べたが、クルーレはぴしりと敬礼をした。
 カインは少し戸惑ったのち、彼にソファに座ることを勧めた。
「お体は大丈夫ですか」
 クルーレは感情のこもらない口調で尋ねてきた。
「ええ」
 カインは彼の対面に座って答えた。その横にヨクが座る。
「しばらくはここに軟禁状態ですが」
 クルーレはうなずき、わずかに顔を動かして部屋をぐるりと眺めた。棒でもあてがってあるように背筋がぴんと伸びている。
 背もたれにもたれかかるということを知らない人間のようだ。
「賢明な選択です」
「早速ですが、『ゼロ・ダリ』のことで話をしたいと思っています」
 カインが口を開くとクルーレは再びうなずいた。
「エイドリアス・カートからはこちらにも連絡がありました。返事は保留にしてあります。だからそちらにも連絡が行ったのでしょう」
「それは…… カートではケイナの治療の続行は検討中ということですか」
 カインは注意深く彼を見つめて言った。
「ケイナの目が覚めた時点で新しく治療方針が出されますので、契約は更新する必要があります。ユージー・カートは自分に万が一のことがあってもケイナの治療は続行するように指示を出しています」
 淡々としたクルーレの返事に、ヨクとカインはちらりと顔を見合わせた。
「では、なぜ保留に?」
 カインが尋ねると、クルーレはかすかに眉を吊り上げた。
「万が一、のときと判断できないからです」
「……」
 カインは戸惑って彼の顔を見つめた。クルーレは表情があまり出ないらしい。何を言ってもずっと同じ顔のままだ。
「それは、つまり……?」
「万が一、とは、ユージー・カートが死亡したときです」
 相変わらず淡々とした答えだった。
 しかし、カインはその答えに顔をこわばらせた。
「彼が生きている間は彼の意思なしで治療費の契約ができません」
「だからエイドリアス・カートはこっちに振ってきたのか……」
 ヨクが小さな声でつぶやいた。
「エイドリアス・カートは『ゼロ・ダリ』の運営者なのか?」
 ヨクが尋ねると、クルーレはかすかに眉間に皺を寄せてうなずいた。
「そうです」
「彼には悪いんだけど、ちょっと…… その…… 言い出すタイミングが早急すぎるというか……。こっちも納得できないんだけどね」
 ヨクの言葉にクルーレの眉間の皺がさらに深くなった。
「わたしもそう思っています」
 クルーレは答えた。
「『ゼロ・ダリ』は『アライド』でもっとも医療技術の高い機関です。カートの名でもお分かりいただけるように、運営責任者のエイドリアス・カートはカートの流れを汲んでいます。ただ、もうどこで繋がっているか分からないくらいの遠い流れですが」
 カインはちらりとヨクを見た。ヨクは厳しい表情だ。
「ケイナ・カートの治療は『ゼロ・ダリ』以外には考えられなかったのですが……」
 クルーレは初めてふたりから目を逸らせた。
「こんな状態になってしまって申し訳ないのですが、エイドリアス・カートは人格者ではなかったように思います。当初から契約交渉の面では難航していました」
「相当ふっかけられたのか」
 ヨクがつぶやくと、クルーレはあからさまに顔を歪めた。無表情な彼が顔を歪めるくらいなのだから、よっぽどエイドリアス・カートは鼻持ちならない人間なのだろう。
 カインは口を引き結んだ。そもそもアシュアに契約のことなどを伝えてくる相手なのだから妙だという気持ちはあったのだが、そういう人間なら費用の面で期待できないと思えばケイナを放り出すこともやりかねない。
 ユージーと会った日、ケイナに会いに行くと言ったらユージーは一瞬躊躇した。エイドリアス・カートと自分が何らかのコンタクトをとったとき何か面倒が起こるのではないかと危惧したのかもしれない。
「そちらでは何か考えていますか」
 クルーレに問われてカインはちらりとヨクの顔を見たあと、再びクルーレに目を向けた。
「正直なところ全面的にバックアップするのは難しい状況です。『ホライズン』にということを考えなかったわけでもないのですが……」
「そうでしょうね」
 クルーレはうなずいた。セレスひとりを預かっているのだから無理だというのは分かっていたのだろう。
「わたしは早い時期にケイナには『ノマド』に行ってもらうしかないと思っています」
「『ノマド』に?」
 カインは目を細めた。
「聞くところによると二ヶ月ほどすれば身を起こすところまでは回復するそうです。『ノマド』に行けば少なくとも人件費はない。医療にかかる費用だけなら我々がサポートできるでしょう。それまでの費用も向こうが要求するだけの額を支払うゆとりはあります」
「そりゃ…… まあ、最終的には『ノマド』に託す予定だったけれど……」
 カインは浮かない顔でつぶやいた。ケイナの命とお金が天秤にかけられているような気分になったのだ。
「率直に申し上げて、わたしはこのままケイナを『ゼロ・ダリ』に置くよりはそのほうが彼のためでもあると考えています」
「なぜ?」
 カインは眉をひそめて彼を見た。
「カート社長は現地の『A・Jオフィス』と提携をして『ゼロ・ダリ』でのケイナの治療に対して監視を行っています。その『A・Jオフィス』と当社は水面下で『ゼロ・ダリ』の買収計画をたてていました」
「買収計画?」
 カインとヨクが同時に声を出した。
「このことは一切他言しないでいただきたい」
 カインとヨクは顔を見合わせた。ヨクはカインから目を逸らせると、眉をひそめてクレールの顔を見た。
「失礼な言い方かもしれないが、それは今回の狙撃事件に関係しているんじゃないんですか?」
 ヨクの言葉にクルーレは眉を吊り上げた。
「その可能性はありますが、なんともいえません。こちらでも現在調査中です。ただ、目的の達成が遠ざかったことは確かです」
「じゃあ、買収は中止されたと?」
 カインは探るようにクルーレを見た。
「ええ。でも中止ではなく休止です。『A・Jオフィス』が再び動き出すでしょう。我々は残念ながらこの計画からは降りるしかありません」
「そのことと、ケイナのことがどう関係するんです?」
「彼が『ゼロ・ダリ』にとっての商品になってしまう可能性があるからです。最先端の義手、義足、義眼を持ち、病気遺伝子を持たないという彼の治療の達成が『ゼロ・ダリ』としての価値を高め、『A・Jオフィス』の買収を阻害することになるかもしれません」
 カインは呆然とした。
『彼らがプロジェクトの資料そのものだってことだけは忘れるなよ』
 昨日、奇しくもヨクが口にした言葉の危険が目の前に突きつけられたような気分だった。ヨクも自分で思い出したのか、険しい表情をしている。
「今…… 今はアシュアがそばにいる」
 カインは思わずつぶやいていた。
「リィ社長」
 クルーレが自分の顔を覗き込むようにして見つめていることに気づいてカインははっとして顔をあげた。
「『ゼロ・ダリ』にいる人間すべてがエイドリアス・カートと同じことを考えているわけではありません。チームは優秀なスタッフで構成されています。カート社長がきちんと会っています。『A・Jオフィス』も監視を続けています」
「それでも早急な対応が必要だとあなたは考えるんですね」
 カインの言葉にクルーレはうなずいた。
「ケイナの安全が確保されたら『A・Jオフィス』は再び買収に乗り出すでしょう」
「元からエイドリアス・カートは費用云々が聞きたかったわけじゃなかったんだな」
 ヨクが苦々しげにつぶやいた。
「受け入れ先についてはあなたが道をつくるはずと聞いていますが」
 クルーレの言葉にカインはうなずいた。
「ええ。アシュア・セスが『ノマド』に拠点を置いています。彼は今ケイナのそばにいるので、『ノマド』に情報を渡すには都合がいいかもしれませんが……」
「なら、その交渉をお願いしたい。我々は『ノマド』に直接コンタクトをとることができません」
 カインは無言で考え込むように視線を泳がせた。
 何かしっくりこない。どこか自分は見落としていることがあるような気がする。いったい何なのだろう……。
「あの……」
 カインは口を開いた。
「ユージーはあの日、ぼくに話しがあると言ってきていたんです。渡したいものがある、とも言っていました。このことだったんでしょうか」
 クルーレはそれを聞いてかぶりを振った。
「失礼ながら買収計画についてはそちらには一切お話をする計画はありませんでした。実はあの日、わたしはカート社長があなたにお会いする予定であることも知りませんでした」
 カインは考え込んだ。秘書にも伝えないで、いったい何の話があったんだろう。
 ユージーはあの時、内側のポケットに手を入れていた。何かを確かめるように。
「彼の……」
 カインはその時のことを思い出しながら言った。
「あの日の彼の上着の内側のポケットに…… 何か入っていませんでしたか?」
「ありましたよ」
 クルーレは即座に返事をした。カインは目を見開いた。
「何があったんです?」
「セレス・クレイのブレスレットとケイナのネックレスです」
 ブレスレットとネックレス? いったいどうして……。
「ユージーは解析をしたらブレスレットもネックレスも焼却すると言っていたはずなのに……」
 カインはつぶやいて、再びクルーレに目を向けた。
「それは今どこにあるんですか?」
「保管してあります」
 クルーレの返事にカインは戸惑った。渡して欲しいといって渡してくれるものだろうか。
「そちらにお渡しするのはもう少し待っていただきたい。あとで必ずお渡しします」
 カインの心の中を察したようにクルーレは言った。
「今後は定期的にわたしが窓口となってリィ社長に連絡を入れます。そちらからもお願いしたい」
 クルーレの言葉にカインはうなずいた。
「それと……。あなたの部下が『アライド』に行っているのなら、あなたは直接『アライド』に出向くようなことはなさらないほうがいいと思います」
 カインは目を細めた。
「でも、買収計画にはリィは関与していません」
 カインが言うと、クルーレは片眉を幽かに吊り上げた。
「あなたにもしものことがあると、ケイナの身請け人はさらに減ることになりますよ」
「だったら…… アシュアも……」
「彼が『ノマド』の人間だということは『ゼロ・ダリ』の誰かが知っていますか?」
「いえ……。アシュアが直接話さなければ誰も知らないと思います」
「なら大丈夫でしょう。彼らは単にリィ・カンパニーの社員だと思っているはずだ」
 カインは視線を落とした。アシュアに念押ししとかないといけないかもしれない。
「彼は星間連絡用の通信機を携帯していますか?」
 考え込むカインにクルーレは尋ねた。
「いえ……。長引く滞在の予定ではなかったので……」
「なら、こちらで軍用のものを届けさせます。彼との連絡はそちらを利用されたほうがいい」
 クルーレは立ち上がった。
「それでは、わたしはこれで」
 カインもヨクも慌てて立ち上がった。クルーレが手を差し出したのでカインはびっくりして一瞬その手を見つめたあと、腕を伸ばして握り返した。
「リィ社長」
 握手を交わしたあと、クルーレはひたとカインを見つめた。
「ケイナ・カートはプロジェクトの子供であるかもしれないが、カート社長にとっては弟であり、先代のレジー・カートにとっては息子です。おふたりとも、ケイナのことを何よりも気づかっておられた。そしてあなたを信頼しています。ご協力いただきたい。お願いします」
 カインはうなずいた。
「分かっています」
 クルーレはそこで初めて小さな笑みを見せた。そして踵を返してドアに向かいかけ、その足をとめて再び振り返った。
「射撃の勘を取り戻したい場合は、当方の施設をご自由にお使いください。ここからならサウス・ドームの訓練場が一番近いでしょう」
 彼はそう言うと部屋から出て行った。
 ヨクがどさりとソファに座り込んだ。
「はあ……」
 彼の大きなため息を聞きながら、カインはそのまま無言で立ち尽くしていた。