「『彼女』は別に『ノマド』に預けなくても、『ホライズン』で治療をしたほうが万全だと思うが」
社員用のレストランに向かうフロアをカインと並んで歩きながらヨクは言った。彼の言葉にカインはうなずいた。
「もちろん『ホライズン』のプロに任せれば治療は完璧かもしれない。でも、必要なのは消えた記憶を取り戻して一日も早く普通の生活が営めるようにすることだし……。」
カインはそこでふと言葉を切った。ヨクはカインの横顔を見た。わずかに伏せられた切れ長の彼の目にかすかな不安の色が見える。
「『ノマド』だとアシュアやリアがいる。彼らに任せたほうがぼくも安心なんです。……それに、ケイナもいずれ『ノマド』に来るはずだ」
ヨクはカインから目を離すと肩をすくめた。
「でも、『アライド』にいるケイナの情報は入ってきてないんだろ?」
カインはうなずいた。
「ユージーが報告を受けているはずなんですが……」
そして少し眉をひそめた。ユージーから聞かされた言葉が蘇る。
『ケイナはたぶん右腕を失うことになると思う。それと右目と左足も。あっちの技術なら優れた義手義足もつけられる。それを使えば日常生活はいつもどおりだということだった。ただ、なんにしても覚醒まで導かないことにはね……』
7年前、ケイナとセレス、そしてユージー・カートとセレスの兄のハルドは『トイ・チャイルド・プロジェクト』を破壊するために氷に閉ざされた地に入った。地下の無人の研究所に眠る数々のプロジェクトの痕跡と被験体として眠り続けていた『グリーン・アイズ・ケイナ』を葬るために。
そして『トイ・チャイルド・プロジェクト』は崩壊した。
『グリーン・アイズ・ケイナ』も死んだ。
あのときのことを思い出すと、カインは今でも体中が緊張でこわばるような気がする。
カインは遠く離れた地からモニター越しに必死になって『グリーン・アイズ・ケイナ』に声をかけ続けていた。でも、助けられなかった。
兆候が出てから1時間にも満たないわずかな時間で大規模な地震が襲った。ユージーとハルドは脱出したものの、ケイナとセレスはそのまま地下に取り残された。
脱出後、諦めきれずにふたりの無事を願っていたのはユージーだった。
彼らを助けるために動いたのもユージーだ。
あの地震のあと、すでにカインのいるカンパニーには実動力が残っていなかったということもあったが、もしかしたら自分は諦めきれないようでいて、とっくの昔に諦めてしまっていたのではないかとカインは時々自己嫌悪に陥ることがある。
ユージーは時間をかけて氷の下を掘り起こし、そして仮死状態だったふたりを見つけた。
氷の部屋から救出されたケイナの状態はひどかった。彼はそもそも負傷をしていたし、セレスよりも早く仮死状態に陥った。 その時間差は6時間だったという。つまり、ケイナが動かなくなってから、セレスはあの凍える部屋に6時間もケイナを抱いて堪えていたことになる。いったいどれほどの孤独と絶望を味わっただろう。
白く凍えたふたりを見つけたとき、少し離れた場所に黒く小さくなった『グリーン・アイズ・ケイナ』の亡骸があった。
彼女の体は少し焼け焦げていた。セレスが6時間もったのは、もしかしたらそのわずかな熱のせいだったのかもしれない。
助け出されてからふたりとも『アライド』に送られた。気の遠くなるような時間をかけて、ゆっくりとゆっくりと覚醒に導かれている。遺伝子治療を行いながら、無理な冷凍仮死状態でただれてしまった皮膚や粘膜の治療を行った。ケイナはかなり損傷がひどかったが、セレスは約1年半で治療も終わり、目覚めるのもケイナよりはるかに早い可能性があるということで地球に戻された。
『アライド』に残ったケイナはユージーが、セレスは地球の『ホライズン研究所』カインがそれぞれ治療責任を負い、お互いに1ヶ月から3ヶ月くらいのスパンで情報交換をしていたのだ。
先に連絡を寄越すのはたいがいユージーのほうだった。彼は一見近寄りがたい雰囲気もあるが、実際はかなり几帳面で面倒見のいい性格の持ち主だ。『ライン』の講師をときどき依頼されるのはそのせいもある。彼が短期間でも講師を務めたときのライン生は、彼が来る前と後とでは成果が全く違うとカインは風の便りに聞いたことがある。
しかし、そのユージーとここ半年ほどカインは会話ができていなかった。
もともとお互いが大きな組織を担っているので会うことは滅多にない。簡単なメッセージのやりとりを残す形での情報交換だったが、彼からのメッセージは半年間ぷっつりと途絶えている。カインが送った二回目のメッセージにユージーからの返答がなかったとき、さすがに不審に思えて直接ユージーのオフィスに連絡をした。しかしユージーは『アライド』に発ったあとで、その後は『コリュボス』で講師の任につくことになっていた。
三回目のメッセージを残して彼からの連絡を待っていたが、その間にセレスが治療を受けている『ホライズン』から「覚醒の兆しがある」と連絡が入ったのだった。
「ちょっと待って」
カインはふと手をあげると足を止めた。耳につけた小さな通信機が何かを受信したのだろう。壁際に寄って彼が耳元に手をやったので、ヨクも一緒に周囲の人の邪魔にならないようそれに続いた。
「ユージー。今きみの話をしていたところだ」
カインは数回まばたきをして言った。相手はどうやらユージー・カートらしい。
「『ホライズン』からの連絡をメッセージで送ったんですが……」
(ああ。昨日、聞いた)
ユージーの落ち着いた低い声はいつもと変わらなかった。
(悪いがこっちの仕事が明日の11時までかかる。そっちに戻ったときにエアポートで君と会いたいと思ってる。都合がつきそうか?)
会いたい? いったいなんだろう。カインは思ったがうなずいた。
「分かりました。……『アライド』ではどうでしたか?」
(それなんだが……)
曖昧な物言いはしないユージーがめずらしく言いよどんだ。カインは眉をひそめた。
「ケイナに何かあったんですか?」
(いや、そうじゃない。彼は順調だ。……今、まわりに誰かいるか?)
カインはヨクの顔をちらりと見あげた。カインは平均よりもかなり身長が高いほうだが、ヨクはそれよりもまだ高い。
「ヨクと一緒だけれど……。オフィスじゃないんです」
(そうか。ならいい。会ったときに話すよ)
カインはユージーの口調に何か妙なものを感じとった。何かあったのだろうか。隣のヨクが少し心配そうな顔をしてカインの顔を見つめている。カインの声の調子に彼も何か感じ取ったらしい。
「ユージー……」
長く連絡がとれなかったのはどうしてかを聞こうとしたとき、ユージーが再び話し始めたのでカインは口をつぐんだ。
(明日の午後2時頃、183番の空路で戻る。できれば俺の個人機まで来てもらいたいんだが)
「ええ……。いいですよ。アシュアも一緒でいいですか?」
(ああ、そのほうがいいな。じゃ、明日)
ユージーはそこで一方的に切った。カインは口を引き結んだ。
「何かあったのか?」
ヨクがカインの顔を覗き込むようにして言った。カインは首を振った。
「いえ……。ケイナは順調らしいけれど……。明日、183番の空路で戻るから個人機まで来て欲しいと」
「企業のトップがオフィスでもホテルでもなく、個人機の一室で密談かい? 穏やかじゃないな」
ヨクは険しい顔をした。
「いったいなんなんだ? 護衛はついているのか」
「ユージーは数人くらいつけているでしょう。ぼくはアシュアと同行するから心配はいらないですよ」
「カイン」
ヨクは一瞬口を引き結んだあと言った。
「常々思っているんだが、君は外に出るときに防弾服を身につけておいたほうがいいぞ。前にも……」
「何度も言ってるけれど、ぼくは『ビート』の訓練を受けてるんです。ええ、もちろんつけますよ。分かってます」
言い募ろうとするヨクをさえぎってカインは言った。そしてため息をついて壁にもたれかかった。ユージーとの会話でさらに気持ちがざわめいている。
「……なんだか……。治安は前より悪くなったような気がするな……。リィ・カンパニーの転落は貧富の差を増大させただけだったんでしょうか。余波がほかの企業にまで影響を及ぼしているとか?」
「来るべき未来が今来ているというだけの話だよ」
ヨクは言った。
「永遠の繁栄などあり得ない。カンパニーは遅かれ早かれ縮小する運命だった。ミズ・リィの時代ですでに限界だったんだ。前にも言っただろう?」
カインはヨクの顔を見て目を伏せた。
そうだ。
トゥの時代までのカンパニーの在り方が異常だったのだ。
カインはふと、もしかしたらトゥはこういう時代が来ると察知して、自分に『ビート』の訓練を受けさせたのかもしれないと思った。自分にとっては不必要なほど戦闘力を身につける訓練だった。『自分の身は自分で守る』。そういう時が来るかもしれないと彼女は考えたのだろうか。
「くよくよ考えるな。今の君には君が考えるべきことがあるはずだ。これからのカンパニーの在り方と、そして“彼女”と“彼”のこと」
カインはヨクの顔を見上げた。ヨクの目にいつもの笑い皺が刻まれていた。
この目を見ると、いつもそのとき感じている不安が和らぐ。
「どんな立場でどんな状態であっても優先すべきことはある。俺はそう思うよ。とりあえず今はメシだな。さあ、めしを食いに行こう。さっさと食って、さっさと書類を作ってもらわなきゃ」
ヨクの手に押され、カインは促されるままに歩きだした。
社員用のレストランに向かうフロアをカインと並んで歩きながらヨクは言った。彼の言葉にカインはうなずいた。
「もちろん『ホライズン』のプロに任せれば治療は完璧かもしれない。でも、必要なのは消えた記憶を取り戻して一日も早く普通の生活が営めるようにすることだし……。」
カインはそこでふと言葉を切った。ヨクはカインの横顔を見た。わずかに伏せられた切れ長の彼の目にかすかな不安の色が見える。
「『ノマド』だとアシュアやリアがいる。彼らに任せたほうがぼくも安心なんです。……それに、ケイナもいずれ『ノマド』に来るはずだ」
ヨクはカインから目を離すと肩をすくめた。
「でも、『アライド』にいるケイナの情報は入ってきてないんだろ?」
カインはうなずいた。
「ユージーが報告を受けているはずなんですが……」
そして少し眉をひそめた。ユージーから聞かされた言葉が蘇る。
『ケイナはたぶん右腕を失うことになると思う。それと右目と左足も。あっちの技術なら優れた義手義足もつけられる。それを使えば日常生活はいつもどおりだということだった。ただ、なんにしても覚醒まで導かないことにはね……』
7年前、ケイナとセレス、そしてユージー・カートとセレスの兄のハルドは『トイ・チャイルド・プロジェクト』を破壊するために氷に閉ざされた地に入った。地下の無人の研究所に眠る数々のプロジェクトの痕跡と被験体として眠り続けていた『グリーン・アイズ・ケイナ』を葬るために。
そして『トイ・チャイルド・プロジェクト』は崩壊した。
『グリーン・アイズ・ケイナ』も死んだ。
あのときのことを思い出すと、カインは今でも体中が緊張でこわばるような気がする。
カインは遠く離れた地からモニター越しに必死になって『グリーン・アイズ・ケイナ』に声をかけ続けていた。でも、助けられなかった。
兆候が出てから1時間にも満たないわずかな時間で大規模な地震が襲った。ユージーとハルドは脱出したものの、ケイナとセレスはそのまま地下に取り残された。
脱出後、諦めきれずにふたりの無事を願っていたのはユージーだった。
彼らを助けるために動いたのもユージーだ。
あの地震のあと、すでにカインのいるカンパニーには実動力が残っていなかったということもあったが、もしかしたら自分は諦めきれないようでいて、とっくの昔に諦めてしまっていたのではないかとカインは時々自己嫌悪に陥ることがある。
ユージーは時間をかけて氷の下を掘り起こし、そして仮死状態だったふたりを見つけた。
氷の部屋から救出されたケイナの状態はひどかった。彼はそもそも負傷をしていたし、セレスよりも早く仮死状態に陥った。 その時間差は6時間だったという。つまり、ケイナが動かなくなってから、セレスはあの凍える部屋に6時間もケイナを抱いて堪えていたことになる。いったいどれほどの孤独と絶望を味わっただろう。
白く凍えたふたりを見つけたとき、少し離れた場所に黒く小さくなった『グリーン・アイズ・ケイナ』の亡骸があった。
彼女の体は少し焼け焦げていた。セレスが6時間もったのは、もしかしたらそのわずかな熱のせいだったのかもしれない。
助け出されてからふたりとも『アライド』に送られた。気の遠くなるような時間をかけて、ゆっくりとゆっくりと覚醒に導かれている。遺伝子治療を行いながら、無理な冷凍仮死状態でただれてしまった皮膚や粘膜の治療を行った。ケイナはかなり損傷がひどかったが、セレスは約1年半で治療も終わり、目覚めるのもケイナよりはるかに早い可能性があるということで地球に戻された。
『アライド』に残ったケイナはユージーが、セレスは地球の『ホライズン研究所』カインがそれぞれ治療責任を負い、お互いに1ヶ月から3ヶ月くらいのスパンで情報交換をしていたのだ。
先に連絡を寄越すのはたいがいユージーのほうだった。彼は一見近寄りがたい雰囲気もあるが、実際はかなり几帳面で面倒見のいい性格の持ち主だ。『ライン』の講師をときどき依頼されるのはそのせいもある。彼が短期間でも講師を務めたときのライン生は、彼が来る前と後とでは成果が全く違うとカインは風の便りに聞いたことがある。
しかし、そのユージーとここ半年ほどカインは会話ができていなかった。
もともとお互いが大きな組織を担っているので会うことは滅多にない。簡単なメッセージのやりとりを残す形での情報交換だったが、彼からのメッセージは半年間ぷっつりと途絶えている。カインが送った二回目のメッセージにユージーからの返答がなかったとき、さすがに不審に思えて直接ユージーのオフィスに連絡をした。しかしユージーは『アライド』に発ったあとで、その後は『コリュボス』で講師の任につくことになっていた。
三回目のメッセージを残して彼からの連絡を待っていたが、その間にセレスが治療を受けている『ホライズン』から「覚醒の兆しがある」と連絡が入ったのだった。
「ちょっと待って」
カインはふと手をあげると足を止めた。耳につけた小さな通信機が何かを受信したのだろう。壁際に寄って彼が耳元に手をやったので、ヨクも一緒に周囲の人の邪魔にならないようそれに続いた。
「ユージー。今きみの話をしていたところだ」
カインは数回まばたきをして言った。相手はどうやらユージー・カートらしい。
「『ホライズン』からの連絡をメッセージで送ったんですが……」
(ああ。昨日、聞いた)
ユージーの落ち着いた低い声はいつもと変わらなかった。
(悪いがこっちの仕事が明日の11時までかかる。そっちに戻ったときにエアポートで君と会いたいと思ってる。都合がつきそうか?)
会いたい? いったいなんだろう。カインは思ったがうなずいた。
「分かりました。……『アライド』ではどうでしたか?」
(それなんだが……)
曖昧な物言いはしないユージーがめずらしく言いよどんだ。カインは眉をひそめた。
「ケイナに何かあったんですか?」
(いや、そうじゃない。彼は順調だ。……今、まわりに誰かいるか?)
カインはヨクの顔をちらりと見あげた。カインは平均よりもかなり身長が高いほうだが、ヨクはそれよりもまだ高い。
「ヨクと一緒だけれど……。オフィスじゃないんです」
(そうか。ならいい。会ったときに話すよ)
カインはユージーの口調に何か妙なものを感じとった。何かあったのだろうか。隣のヨクが少し心配そうな顔をしてカインの顔を見つめている。カインの声の調子に彼も何か感じ取ったらしい。
「ユージー……」
長く連絡がとれなかったのはどうしてかを聞こうとしたとき、ユージーが再び話し始めたのでカインは口をつぐんだ。
(明日の午後2時頃、183番の空路で戻る。できれば俺の個人機まで来てもらいたいんだが)
「ええ……。いいですよ。アシュアも一緒でいいですか?」
(ああ、そのほうがいいな。じゃ、明日)
ユージーはそこで一方的に切った。カインは口を引き結んだ。
「何かあったのか?」
ヨクがカインの顔を覗き込むようにして言った。カインは首を振った。
「いえ……。ケイナは順調らしいけれど……。明日、183番の空路で戻るから個人機まで来て欲しいと」
「企業のトップがオフィスでもホテルでもなく、個人機の一室で密談かい? 穏やかじゃないな」
ヨクは険しい顔をした。
「いったいなんなんだ? 護衛はついているのか」
「ユージーは数人くらいつけているでしょう。ぼくはアシュアと同行するから心配はいらないですよ」
「カイン」
ヨクは一瞬口を引き結んだあと言った。
「常々思っているんだが、君は外に出るときに防弾服を身につけておいたほうがいいぞ。前にも……」
「何度も言ってるけれど、ぼくは『ビート』の訓練を受けてるんです。ええ、もちろんつけますよ。分かってます」
言い募ろうとするヨクをさえぎってカインは言った。そしてため息をついて壁にもたれかかった。ユージーとの会話でさらに気持ちがざわめいている。
「……なんだか……。治安は前より悪くなったような気がするな……。リィ・カンパニーの転落は貧富の差を増大させただけだったんでしょうか。余波がほかの企業にまで影響を及ぼしているとか?」
「来るべき未来が今来ているというだけの話だよ」
ヨクは言った。
「永遠の繁栄などあり得ない。カンパニーは遅かれ早かれ縮小する運命だった。ミズ・リィの時代ですでに限界だったんだ。前にも言っただろう?」
カインはヨクの顔を見て目を伏せた。
そうだ。
トゥの時代までのカンパニーの在り方が異常だったのだ。
カインはふと、もしかしたらトゥはこういう時代が来ると察知して、自分に『ビート』の訓練を受けさせたのかもしれないと思った。自分にとっては不必要なほど戦闘力を身につける訓練だった。『自分の身は自分で守る』。そういう時が来るかもしれないと彼女は考えたのだろうか。
「くよくよ考えるな。今の君には君が考えるべきことがあるはずだ。これからのカンパニーの在り方と、そして“彼女”と“彼”のこと」
カインはヨクの顔を見上げた。ヨクの目にいつもの笑い皺が刻まれていた。
この目を見ると、いつもそのとき感じている不安が和らぐ。
「どんな立場でどんな状態であっても優先すべきことはある。俺はそう思うよ。とりあえず今はメシだな。さあ、めしを食いに行こう。さっさと食って、さっさと書類を作ってもらわなきゃ」
ヨクの手に押され、カインは促されるままに歩きだした。