「遅いな……」
 カインは顔をあげると、時間を確認してつぶやいた。時間はもう10時近かった。アシュアはどこかで寄り道でもしているんだろうか。
 いや、もしかしたらこっちに来るのは明日にするつもりかもしれない。
 カインはそう考えてデスクから立ち上がった。
 来客を知らせる音がしてヨクが入ってきた。彼は部屋の中に入って顔を巡らせ、おや、という顔をした。
「アシュアは?」
「うん…… まだ来てない。どこかに寄っているのかもしれない。……それとも、定期便の出発が遅れたとか……」
 カインは疲れた目をこすって答えた。
「そんな話は聞いていないけどなあ……」
 ヨクは解せないというように首をかしげた。
「『アライド』に連絡してみるかな……」
 ヨクはカインのデスクに近づくと、モニターの前に座ってキィを叩いた。
 カインはソファにどさりと身を落とし、軽く息を吐いて頭を背もたれにもたせかけた。
「疲れたか?」
 こちらを見ずにヨクが声をかける。
「少し……。今日はなんだか忙しかったな……」
「一気に50ほどの新薬を発売するからな……。んー……」
 ヨクは顎に手を当てて唸った。
「なに」
 カインはヨクに目を向けた。
「アシュアはまだ『アライド』だぞ。ホテルは出てるが、エアポートでチェックインしていない」
 カインは立ち上がるとデスクに歩み寄った。
「どこに行ってるんだ……」
 カインは眉をひそめた。アシュアのことだからトラブルに巻き込まれるということはないだろうが、連絡がないのはおかしい。
 ホテルを出てしまうと、アシュアにダイレクトに連絡を取ることもできない。
「アシュアはクレイ夫妻のところに寄って帰るって言ってたんだ。そこで引き止められたのかな……」
 カインはそうつぶやいて首を振った。
「いや、それでも連絡がないのはおかしい……」
「ケイナに何かあったんじゃないのか?」
「まさか」
 ヨクの言葉にカインは思わず彼の顔を見た。アシュアはケイナの容態は安定していると言っていた。それに、自分の目にも何も見えなかった。
 『見えなかった?』
 カインは顔をしかめた。
 肝心なことって、まともに見えたためしがないじゃないか。
「しかたないな。『ゼロ・ダリ』に連絡してみるか……。あっちは真夜中だぞ。誰か出るかな」
 ヨクがキィの上に指を置こうとした時、いきなり着信音が響いたので、ふたりそろってぎょっとした。ヨクは慌てて通信回路を開いた。
「ヨク」
 画面に出て来たのはアシュアだった。赤い毛がまとめた部分からあちこち飛び出ている。
「すいません、もうちょっと早く連絡したかったんだけど、おれ、寝ちまって……」
 アシュアの顔はまだ半分眠っているような感じだ。目が腫れぼったく赤くなり、どんよりとしている。ヨクとカインは顔を見合わせた。
「カインは?」
「ここにいる」
 アシュアの声にカインはモニターを覗き込んだ。
「アシュア、どうしたんだ。まだ『アライド』から出てないのか?」
「ああ。すまん……」
 アシュアはため息をついた。
「ケイナの目が覚めたんだ」
「えっ……」
 ヨクとカインが同時に声をあげた。
「そっちには連絡…… 行ってないよな……」
 アシュアは目をこすった。カインはそれを見て眉をひそめると、思わず口を開いていた。
「なにやってんだ。なんですぐに連絡しなかった」
「すまなかったよ。寝ちまって、気づいたらこの時間だったんだ」
「ふざけんな!」
 めずらしくカインが怒鳴ったので、ヨクはびっくりして彼の顔を見た。
「寝てしまっただと? ぶん殴られたいのか、おまえは!」
 画面の向こうでアシュアがびくりと腕をあげて身構える様子が見えた。
「カイン、落ち着け」
 見かねてヨクはカインの肩を掴んだ。そして画面に向き直った。
「どういう状況なんだ? 説明してくれないか」
 ヨクの言葉にアシュアはうなずいた。
「帰るつもりでエアポートに行ったんだ。だけど、こっちの人に連れ戻されちゃって。……ケイナは目が覚めてからおれの名前を呼んでるって言われて」
 アシュアは疲れたように額を撫でた。
「マスクをつけられているから目が開いてるのかどうかは確認できないんだけど、ほんとに途切れ途切れにおれのこと呼んでた。なんでか、わかんねぇけど……」
「それで?」
 ヨクは促した。
「今、まだ全く動けない状態なんだよ。声もほんのいっときだけで続かなかった。おれ、とりあえず連絡をしようと思って部屋を出ようとしたんだけど、また連れ戻されちゃって」
「どうして……」
 カインが言った。
「おれ、あいつの左手を握ってたんだけど、手ぇ離すと脳波が乱れるんだ。それからはずーっと手ぇ繋ぎっぱなし」
 アシュアは肩をすくめた。
「ちょっとでも離すとだめだってんで……。トイレにも行けなくて大変だった」
 アシュアのトイレのことなんかどうでもいい。カインは心の中で思った。
「なんていうのかな…… 手を繋いでると、こう……」
 アシュアは腕を伸ばすと肩から手の先に向かって指し示した。
「エネルギー吸い取られていくっていうの? なんかそんな感じでさ、最後はおれもいつ眠っちまったか覚えてないんだよ。眠ったっていうより、気を失ったって感じかもしれない。気がついたら別室でさ。さっきナナっていう人に通信できる場所まで案内してもらったんだ」
 カインは口を引き結んだ。
「今、ケイナ自身は眠ってるらしいんだ。体のサイクルが正常じゃないから一、二週間は一日のうちで小刻みに覚醒と睡眠を繰り返すだろうってことだった」
「で、覚醒のときにまたきみを呼んだら困るから帰って来られないと」
 ヨクが言ったので、アシュアはしょんぼりした様子でうなずいた。
「そうなるかな……」
 ヨクは横に立つカインの顔を見上げた。カインの表情は相変わらず険しい。
「それでさ、あの……」
 アシュアが少し言いにくそうな表情でこちらを見た。
「おれは事情がよく分からないんだけど、エイドリアス・カートって人が今後の治療について『リィ・カンパニー』があとを引き継ぐ気があるかどうか確認して欲しいって言ってるんだ。たぶん、ここでのケイナの治療の総責任者かマネージャーだと思うけど」
 それを聞いてカインは目を細めた。
「それはどういうこと? ユージーとの契約に期限がついているってことか?」
「うーん、そのへんは彼もはっきり言わなかったけれど、どうもケイナの目が覚めた時点でユージーと何らかの取引を交わすつもりだったみたいだな」
 カインは考え込むような表情になった。
 確かに目が覚めるまでと目が覚めてからでは治療の方法が違う。もしかしたらユージーはケイナの目が覚めてからは改めて治療方針を固めて費用等の再契約をするつもりだったのかもしれない。
 でも……。
「新たに契約が決まらないからといってすぐに追い出すようなことはしないと思うが……。難しいな……」
 ヨクがつぶやいた。カインも同じ意見だった。
 セレスとケイナの治療を二分することにした時点で、彼らにかかる費用はカートとリィで分けた。つまりケイナのほうはユージーが、セレスのほうはカインが治療費を出すことにしたのだ。だが、セレスひとりでもこの5年間で相当の額面になっていた。
 カインは自分の持つ資産の一部をそちらに充当していたが、ユージーも同じようなことをしていたのかもしれない。事業内ではない個人支出になるのだからそう考えるのが妥当だろう。
「ユージーの秘書はなんて名前だったっけかな」
「アンリ・クルーレ」
 ヨクの言葉にカインは事務的に答えた。ヨクはうなずいた。
「そうそう、なんかそういう気取った名前だった」
「一度彼に会って話をして…… それから必要があれば『アライド』に行くしかないな……」
 カインはつぶやいた。
「おれも行くよ」
 ヨクが言った。
「アシュア」
 カインは画面の向こうのアシュアに言った。
「こっちである程度方針をたてる。それまでは何を聞かれても答えなくていいよ。とりあえず、ケイナのことを頼む」
「分かった」
 カインがさっきのように怒鳴らなかったので、少しほっとしたような表情を見せてアシュアはうなずいた。
 アシュアが画面から消えたあと、カインはソファに戻って再びどさりと座り込んだ。
「エイ、なんとかってやつは、なんていうか、唐突だな……」
 ヨクは頬杖をつくと、渋面を作って天井を仰いだ。
 希望と一緒に現実が押し寄せる。何もかもがきれいごとではすまされない。
 カインは宙を見つめて、目を閉じた。