最初はテーブルに皿を並べていたが、ヨクの意向で床の絨毯の上にテーブルクロスを敷き、3人とも床にぺたりと座り込んで食事をした。部屋の中でピクニックでもしているような感じだ。
ティの作ったシチューは最高に美味しかった。ヨクが焼いたというパンもカインにとっては驚きだった。かすかに甘みの感じる温かい舌触りをカインもティも絶賛した。彼にこんな特技があるとは誰も思わないだろう。
「一人暮らしが長いからな。いろいろ暇つぶしを考えるんだよ」
ヨクは持ってきたワインで既にいい気分になっている。
彼が煙草を取り出したのでカインは小さな皿を灰皿代わりに出してやった。
ヨクが煙草の箱を差し出したがカインはかぶりを振った。彼はワインも飲んでいない。
「嗜好品はだめなんだ。美味しいと思わなくて……。せいぜいコーヒーを飲むくらいで」
「味覚っていうのを感じてる?」
ヨクが怪訝そうにカインを見た。
「それくらい分かるよ。シチューもパンも美味しいと思うよ」
背もたれ代わりのソファによりかかってカインは笑った。
「ただ、普段は食べることにあんまり興味がなくて。体に影響が出ないし…… 空腹感がないというか……」
「生命力がないなあ」
ヨクは呆れたように言った。
「おれはきみくらいのときはがつがつ食ってたもんだけどなあ」
彼はワインを一口飲んだ。そしてティを見た。
「これからはもっといっぱい何か作って運んでやらなきゃな」
「わたし、本当はシチューしか作れないの」
ティは白状した。
「これ、母から教えてもらったもので、元のスープを母が目一杯作って置いていったの。わたしがやったのってそれに野菜を入れたくらいだわ」
「じゃあ、今後のためにもっと勉強しろよ。嫁さんになるんだったら必要だろ?」
「何言ってるの」
彼女が苦笑したとき、カインの頭の奥に小さな赤い火が見えた。
なんだろう。ケイナの姿を見てからずっとこうだ。
「疲れました?」
目を押さえるカインを見てティが気遣わしげに言った。
「いや、そうじゃないよ」
カインはなんでもない、というように笑みを見せた。
しばらくすると、ヨクは床にごろりと横になった。ほどなくして彼は大きないびきをかきはじめた。
「ねえ、こんなところで寝ちゃだめよ」
ティがヨクの肩を揺さぶったが、彼は全く起きる気配がなかった。
「いいよ、ヨクも疲れてるんだ」
カインはそう言うと立ち上がって寝室に行き、毛布を持って来てヨクにかけた。
ティがしかたなくソファのクッションをとって彼の頭にあてがってやった。
「こんなこと言うのは不謹慎かもしれないんですけど……」
ヨクの寝顔を見つめながらティは言った。
「あの事件がなければ、カインさんの部屋で晩餐会なんてできなかったでしょうね……」
「そうだな」
カインは答えた。
「明日、ふたりとも普通なら休みの日だろ? ぼくのことはいいからゆっくりするといいよ」
彼はヨクが放り出した煙草の箱を取り上げると一本とりだした。
「煙草は吸わないんじゃなかったんですか?」
ティが目を丸くした。
「吸ったことがないわけじゃないよ。味を感じないだけで」
カインは慣れた様子で火をつけた。しかし吸ってすぐにもみ消してしまった。
つまらなさそうに彼は再びソファにもたれかかった。
「『アライド』の体質って、地球人とは違うんだ。この間の点滴にたぶん精神安定剤か睡眠薬が入っていたと思うけど、量が生半可じゃなかったんじゃないかな。聞くのが怖くて黙っていたけど」
カインは頭をソファの座面にもたせかけ、宙を見つめた。
「空腹感がないっていうのは、早い老いの割には長生きしてしまう『アライド』の種の限界なのかもしれない」
ティが怪訝そうな顔をしたので、カインは彼女に笑ってみせた。
「ほうっておいたら餓死するんだよ。自分で気づかないうちに。眠っている間に逝けるんじゃないかな」
「だめです、そんなの……」
ティは顔を曇らせて目をそらせた。
「そんなの、絶対だめです」
「うん。だから食べるんだ」
カインは視線を再び宙に向けて答えた。
「ぼくはまだ生きていかなきゃならないから」
ティは何か言いたかったがいい言葉を見つけることができず、カインから目をそらせるとふっと息を吐いた。
「さ、片付けようかな」
彼女はそう言うと、皿をまとめ始めた。カインが一緒に片付けようと身を起こすとティはかぶりを振った。
「カインさんはいいです。座っててください」
カインは少し笑みを見せたが、そのまま皿を持って立ち上がった。
ティが慌てて彼のあとを追うと、カインは手馴れた様子で皿を洗浄機に入れていた。
「カインさん、もしかしてずっとハウスキーパーを雇っていないんですか?」
てきぱきとした彼の動きに、ティは思わず言った。
「雇ってないよ。そういうのは好きじゃないし」
カインは彼女に目を向けず答えた。
「じゃあ、掃除も洗濯も?」
皿を洗浄機に入れ終わって、カインはティに顔を向けた。
「スイッチひとつのことじゃないか。何かおかしい? 自分でやるのって」
「そうじゃないですけど……」
生活というものを全く感じさせず、食べることにも執着がないというカインが家事を自分の意思でやっている、ということがティには驚きだった。
オフィスではないからなのかキッチンの中にいるカインはいつもより背が高く感じる。
切れ長の目が自分を見下ろして見つめているのを見て、ティは慌ててカインから目をそらせた。そしてシンクの上の小さなドレッシングボトルに気づいた。
「あ、これ……」
彼女はボトルをとりあげた。
「このドレッシング、美味しかったでしょう?」
「え?」
唐突な彼女の言葉にカインは彼女の手のボトルに目をやった。
「さっき食べたやつ?」
「そうです。社員レストランのハリスが作ってくれたの」
ティは微笑んだ。
「うん…… そうだな……」
カインは視線を泳がせた。
「美味しかったよ……」
そして彼女に目を向けた。
「なんでそんなことを聞くの?」
「カインさんはヨクと社員のレストランに食べに行きますよね? オフィスに食事を運んでもらわずに」
「うん…… まあ……。社員と同じところで食べろってヨクが言うし……」
カインはティが何を言おうとしているのか分からず、不思議そうに彼女を見つめた。
ティは慈しむようにボトルを指で撫でた。
「ハリスはね、カインさんが自分の作ったドレッシングを褒めてくれたことがとても嬉しかったみたいです」
「……?」
カインは小首をかしげた。ハリスという人物には覚えがなかった。レストランにはたくさんの従業員がいたし、ヨクと行くときはたいがい仕事の話をしながら食事をしていたから、そこまで頭が回っていない。
ドレッシングは数種類あって同じ容器に入れて並べてあったので、どれなのかも分からなかった。
「彼の作ったドレッシングって、どれだったの? いつもある?」
カインは尋ねた。ティはそれを聞いてくすくす笑った。
「だから、これです。カインさんがいつも選んでいたの」
「え?」
カインは目を丸くした。
「ぼくが?」
「ヨクが一度聞いたのを覚えてないですか? いつも同じのを選ぶねって」
カインは考え込んだ。全く記憶がなかった。日常のさらりとした会話のひとつだったのかもしれない。
「たまにはほかのにしたら、ってヨクが言ったら、これが一番いいってカインさんは答えたそうですよ。ハリスはそれを聞いていたみたい」
そういえば、いつも同じものを選んでいたような気がする。でも、それが一番美味しかったというよりは、最初に食べてそれが自分の『嫌いな味ではなかった』ということだけだったように思う。
食べることに執着のないカインは『嫌いでなければ』わざわざほかの選択肢を取り入れたりはしない。たぶんヨクが茶化すのでそういうふうに答えたということのほうが大きかっただろう。
「あなたの本心がどうであれ……」
カインの心の中を見透かしたようにティは言った。
「ハリスは嬉しかったんです。自分の作ったものが一番いいって言ってもらえたのが」
カインは少し困ったように視線を泳がせた。
「ハリスはわたしと幼馴染なんです。料理を作るのが好きでここの仕事にも就いたんだけど、しばらくずっと落ち込んでて。なかなか仕事を任せてもらえなかったみたいで。今はもうサブチーフにまでなってます。去年結婚したから、稼がなきゃって張り切ってるわ」
ティはボトルをシンクの端にそっと置いた。
「先代のミズ・リィはほとんどオフィスから出ない人だったそうですね」
カインは彼女の横顔を見た。
「わたしはミズ・リィとはお会いしたこともないけど、先代からここにいる人たちは今の社長は従業員にいろいろ声をかけてくれるから親しみがあるって言ってます」
「へえ……?」
カインは思わずつぶやいていた。自分はどちらかといえば敬遠されているとばかり思っていたからだ。
ティはリビングのほうにちらりと視線を向けた。
「ヨクは先代からの重役でしょ? 食事のみならず、うっとうしいくらいよくカインさんをオフィスの外に連れ出しますよね? 彼はミズ・リィのときのような顔の見えない社長っていうのを払拭しようとしてるんだと思います」
確かに前社長のトゥはわざわざ社員たちのところに姿を見せたりはしなかっただろう。ただ、ヨクにそんな思惑があろうなどとは考えたこともなかった。
「カインさんはいろんな仕事の細部まで覚えていて、それに携わった人と顔を合わせる機会があれば必ず声をかけますよね? すごいなあっていつも思うんです。ヨクはそういうカインさんの特徴をよく知っているんだと思うんです」
カインは返事に困ってティから目をそらせると、シンクに身をもたせかけた。
山のように流れていく仕事だが、もともと覚えておかなければならないことを片っ端から頭に叩き込むことは得意だった。しかし、必ずしも相手の顔と名前を一致させて覚えて声をかけているとは限らない。よほど毎日顔を合わせるか特徴がなければ、数千人いる社員ひとりひとりを自分が覚えているとはとても思えなかった。仕事の内容を覚えておくことと、人の顔と名前を覚えておくこととはまた別だ。
「自分が何気なく出す言葉がいろんな人に影響を与えるのは怖い?」
自分の目を覗きこむティにカインは目を向けた。
「怖くないといえば嘘になるよ」
彼は正直に答えた。
「いつも正しいことを言うとは限らないし」
「それは誰だって一緒です」
ティは笑った。彼女の瞳にカインの姿が映っている。
「たくさんの人がいるから、みんなが同じふうに思っているとは限らないけど、社長であるカインさんのことを信頼して、心配する人もたくさんいます。カインさんがいなくなったら泣く人だってたくさんいると思う」
ティはカインを見つめて言った。
「だから、ちゃんと生きてくださいね」
甘い花の香りがする。彼女の言葉が心地よい音楽のようにカインの耳に響いた。
「ハリスもすごく心配していたから……。ごめんなさい、彼には本当のことを言っちゃったの。彼は絶対ほかには漏らさないから、ヨクには内緒にしておいてください」
ティは人差し指を口の前に立てると、申し訳なさそうに言った。
カインはその指に目を向けた。彼女の手は女性の手というよりは子供の手を思わせた。
しずくのような形の赤い色に彩られたトゥの長い指と違い、彼女の指は小さくてぷっくりとしている。決して太っているわけでもないのに、彼女が手を広げるといつも甲の指の付け根にえくぼのようなへこみがあらわれた。
カインの視線に気がついて、ティは慌てて恥ずかしそうにその手を隠すように体の後ろに回しかけた。カインは手を伸ばすと一瞬抵抗しかけた彼女の指を握った。
「変な指でしょう? 子供の頃からよくからかわれてたの。赤ちゃんみたいだって」
「変な指だなんて思わないよ」
ティの言葉にカインは答えた。
「ぼくにとっては、補佐をしてくれる大事な手だ」
見た目と同じように彼女の手は柔らかくて温かかった。カインの手のひらで包むとすっぽりと隠れてしまいそうな感じがする。手のひらを合わせて指と指を絡めたが、彼女はさっきのように手を引っ込めようとはしなかった。
「カインさんの手はきれいですよね」
ティは繋いだ手を見てつぶやいた。
「指もとても長くて」
少し飲んだワインで酔ってしまったかもしれない。
カインと手を繋いでいる。こんなことをしていいのだろうか。
ティは頭の隅で考えた
彼の体温を顔の近くで感じたので目をあげたときリビングで大きな声がした。
「それは違うって……!」
ヨクの声と共に大きな音が響く。
弾かれたようにティはカインの手を振りほどくとリビングに顔を向けた。ふたりでしばらく立ちすくんでいると、ヨクのいびきが再び聞こえてきた。
「寝言?」
ティはつぶやいた。
「寝言だったの?」
ティはカインを見上げた。
「心臓が破裂するかと思ったわ!」
ヨクが毛布を跳ね除けている姿を見たティは、少し怒ったような顔をしてキッチンから出ていってしまった。
(ヨク、あんたは煽るわりには邪魔をしてくれるじゃないか)
カインはため息をついてシンクにもたれかかると宙を仰いで笑った。
ティの作ったシチューは最高に美味しかった。ヨクが焼いたというパンもカインにとっては驚きだった。かすかに甘みの感じる温かい舌触りをカインもティも絶賛した。彼にこんな特技があるとは誰も思わないだろう。
「一人暮らしが長いからな。いろいろ暇つぶしを考えるんだよ」
ヨクは持ってきたワインで既にいい気分になっている。
彼が煙草を取り出したのでカインは小さな皿を灰皿代わりに出してやった。
ヨクが煙草の箱を差し出したがカインはかぶりを振った。彼はワインも飲んでいない。
「嗜好品はだめなんだ。美味しいと思わなくて……。せいぜいコーヒーを飲むくらいで」
「味覚っていうのを感じてる?」
ヨクが怪訝そうにカインを見た。
「それくらい分かるよ。シチューもパンも美味しいと思うよ」
背もたれ代わりのソファによりかかってカインは笑った。
「ただ、普段は食べることにあんまり興味がなくて。体に影響が出ないし…… 空腹感がないというか……」
「生命力がないなあ」
ヨクは呆れたように言った。
「おれはきみくらいのときはがつがつ食ってたもんだけどなあ」
彼はワインを一口飲んだ。そしてティを見た。
「これからはもっといっぱい何か作って運んでやらなきゃな」
「わたし、本当はシチューしか作れないの」
ティは白状した。
「これ、母から教えてもらったもので、元のスープを母が目一杯作って置いていったの。わたしがやったのってそれに野菜を入れたくらいだわ」
「じゃあ、今後のためにもっと勉強しろよ。嫁さんになるんだったら必要だろ?」
「何言ってるの」
彼女が苦笑したとき、カインの頭の奥に小さな赤い火が見えた。
なんだろう。ケイナの姿を見てからずっとこうだ。
「疲れました?」
目を押さえるカインを見てティが気遣わしげに言った。
「いや、そうじゃないよ」
カインはなんでもない、というように笑みを見せた。
しばらくすると、ヨクは床にごろりと横になった。ほどなくして彼は大きないびきをかきはじめた。
「ねえ、こんなところで寝ちゃだめよ」
ティがヨクの肩を揺さぶったが、彼は全く起きる気配がなかった。
「いいよ、ヨクも疲れてるんだ」
カインはそう言うと立ち上がって寝室に行き、毛布を持って来てヨクにかけた。
ティがしかたなくソファのクッションをとって彼の頭にあてがってやった。
「こんなこと言うのは不謹慎かもしれないんですけど……」
ヨクの寝顔を見つめながらティは言った。
「あの事件がなければ、カインさんの部屋で晩餐会なんてできなかったでしょうね……」
「そうだな」
カインは答えた。
「明日、ふたりとも普通なら休みの日だろ? ぼくのことはいいからゆっくりするといいよ」
彼はヨクが放り出した煙草の箱を取り上げると一本とりだした。
「煙草は吸わないんじゃなかったんですか?」
ティが目を丸くした。
「吸ったことがないわけじゃないよ。味を感じないだけで」
カインは慣れた様子で火をつけた。しかし吸ってすぐにもみ消してしまった。
つまらなさそうに彼は再びソファにもたれかかった。
「『アライド』の体質って、地球人とは違うんだ。この間の点滴にたぶん精神安定剤か睡眠薬が入っていたと思うけど、量が生半可じゃなかったんじゃないかな。聞くのが怖くて黙っていたけど」
カインは頭をソファの座面にもたせかけ、宙を見つめた。
「空腹感がないっていうのは、早い老いの割には長生きしてしまう『アライド』の種の限界なのかもしれない」
ティが怪訝そうな顔をしたので、カインは彼女に笑ってみせた。
「ほうっておいたら餓死するんだよ。自分で気づかないうちに。眠っている間に逝けるんじゃないかな」
「だめです、そんなの……」
ティは顔を曇らせて目をそらせた。
「そんなの、絶対だめです」
「うん。だから食べるんだ」
カインは視線を再び宙に向けて答えた。
「ぼくはまだ生きていかなきゃならないから」
ティは何か言いたかったがいい言葉を見つけることができず、カインから目をそらせるとふっと息を吐いた。
「さ、片付けようかな」
彼女はそう言うと、皿をまとめ始めた。カインが一緒に片付けようと身を起こすとティはかぶりを振った。
「カインさんはいいです。座っててください」
カインは少し笑みを見せたが、そのまま皿を持って立ち上がった。
ティが慌てて彼のあとを追うと、カインは手馴れた様子で皿を洗浄機に入れていた。
「カインさん、もしかしてずっとハウスキーパーを雇っていないんですか?」
てきぱきとした彼の動きに、ティは思わず言った。
「雇ってないよ。そういうのは好きじゃないし」
カインは彼女に目を向けず答えた。
「じゃあ、掃除も洗濯も?」
皿を洗浄機に入れ終わって、カインはティに顔を向けた。
「スイッチひとつのことじゃないか。何かおかしい? 自分でやるのって」
「そうじゃないですけど……」
生活というものを全く感じさせず、食べることにも執着がないというカインが家事を自分の意思でやっている、ということがティには驚きだった。
オフィスではないからなのかキッチンの中にいるカインはいつもより背が高く感じる。
切れ長の目が自分を見下ろして見つめているのを見て、ティは慌ててカインから目をそらせた。そしてシンクの上の小さなドレッシングボトルに気づいた。
「あ、これ……」
彼女はボトルをとりあげた。
「このドレッシング、美味しかったでしょう?」
「え?」
唐突な彼女の言葉にカインは彼女の手のボトルに目をやった。
「さっき食べたやつ?」
「そうです。社員レストランのハリスが作ってくれたの」
ティは微笑んだ。
「うん…… そうだな……」
カインは視線を泳がせた。
「美味しかったよ……」
そして彼女に目を向けた。
「なんでそんなことを聞くの?」
「カインさんはヨクと社員のレストランに食べに行きますよね? オフィスに食事を運んでもらわずに」
「うん…… まあ……。社員と同じところで食べろってヨクが言うし……」
カインはティが何を言おうとしているのか分からず、不思議そうに彼女を見つめた。
ティは慈しむようにボトルを指で撫でた。
「ハリスはね、カインさんが自分の作ったドレッシングを褒めてくれたことがとても嬉しかったみたいです」
「……?」
カインは小首をかしげた。ハリスという人物には覚えがなかった。レストランにはたくさんの従業員がいたし、ヨクと行くときはたいがい仕事の話をしながら食事をしていたから、そこまで頭が回っていない。
ドレッシングは数種類あって同じ容器に入れて並べてあったので、どれなのかも分からなかった。
「彼の作ったドレッシングって、どれだったの? いつもある?」
カインは尋ねた。ティはそれを聞いてくすくす笑った。
「だから、これです。カインさんがいつも選んでいたの」
「え?」
カインは目を丸くした。
「ぼくが?」
「ヨクが一度聞いたのを覚えてないですか? いつも同じのを選ぶねって」
カインは考え込んだ。全く記憶がなかった。日常のさらりとした会話のひとつだったのかもしれない。
「たまにはほかのにしたら、ってヨクが言ったら、これが一番いいってカインさんは答えたそうですよ。ハリスはそれを聞いていたみたい」
そういえば、いつも同じものを選んでいたような気がする。でも、それが一番美味しかったというよりは、最初に食べてそれが自分の『嫌いな味ではなかった』ということだけだったように思う。
食べることに執着のないカインは『嫌いでなければ』わざわざほかの選択肢を取り入れたりはしない。たぶんヨクが茶化すのでそういうふうに答えたということのほうが大きかっただろう。
「あなたの本心がどうであれ……」
カインの心の中を見透かしたようにティは言った。
「ハリスは嬉しかったんです。自分の作ったものが一番いいって言ってもらえたのが」
カインは少し困ったように視線を泳がせた。
「ハリスはわたしと幼馴染なんです。料理を作るのが好きでここの仕事にも就いたんだけど、しばらくずっと落ち込んでて。なかなか仕事を任せてもらえなかったみたいで。今はもうサブチーフにまでなってます。去年結婚したから、稼がなきゃって張り切ってるわ」
ティはボトルをシンクの端にそっと置いた。
「先代のミズ・リィはほとんどオフィスから出ない人だったそうですね」
カインは彼女の横顔を見た。
「わたしはミズ・リィとはお会いしたこともないけど、先代からここにいる人たちは今の社長は従業員にいろいろ声をかけてくれるから親しみがあるって言ってます」
「へえ……?」
カインは思わずつぶやいていた。自分はどちらかといえば敬遠されているとばかり思っていたからだ。
ティはリビングのほうにちらりと視線を向けた。
「ヨクは先代からの重役でしょ? 食事のみならず、うっとうしいくらいよくカインさんをオフィスの外に連れ出しますよね? 彼はミズ・リィのときのような顔の見えない社長っていうのを払拭しようとしてるんだと思います」
確かに前社長のトゥはわざわざ社員たちのところに姿を見せたりはしなかっただろう。ただ、ヨクにそんな思惑があろうなどとは考えたこともなかった。
「カインさんはいろんな仕事の細部まで覚えていて、それに携わった人と顔を合わせる機会があれば必ず声をかけますよね? すごいなあっていつも思うんです。ヨクはそういうカインさんの特徴をよく知っているんだと思うんです」
カインは返事に困ってティから目をそらせると、シンクに身をもたせかけた。
山のように流れていく仕事だが、もともと覚えておかなければならないことを片っ端から頭に叩き込むことは得意だった。しかし、必ずしも相手の顔と名前を一致させて覚えて声をかけているとは限らない。よほど毎日顔を合わせるか特徴がなければ、数千人いる社員ひとりひとりを自分が覚えているとはとても思えなかった。仕事の内容を覚えておくことと、人の顔と名前を覚えておくこととはまた別だ。
「自分が何気なく出す言葉がいろんな人に影響を与えるのは怖い?」
自分の目を覗きこむティにカインは目を向けた。
「怖くないといえば嘘になるよ」
彼は正直に答えた。
「いつも正しいことを言うとは限らないし」
「それは誰だって一緒です」
ティは笑った。彼女の瞳にカインの姿が映っている。
「たくさんの人がいるから、みんなが同じふうに思っているとは限らないけど、社長であるカインさんのことを信頼して、心配する人もたくさんいます。カインさんがいなくなったら泣く人だってたくさんいると思う」
ティはカインを見つめて言った。
「だから、ちゃんと生きてくださいね」
甘い花の香りがする。彼女の言葉が心地よい音楽のようにカインの耳に響いた。
「ハリスもすごく心配していたから……。ごめんなさい、彼には本当のことを言っちゃったの。彼は絶対ほかには漏らさないから、ヨクには内緒にしておいてください」
ティは人差し指を口の前に立てると、申し訳なさそうに言った。
カインはその指に目を向けた。彼女の手は女性の手というよりは子供の手を思わせた。
しずくのような形の赤い色に彩られたトゥの長い指と違い、彼女の指は小さくてぷっくりとしている。決して太っているわけでもないのに、彼女が手を広げるといつも甲の指の付け根にえくぼのようなへこみがあらわれた。
カインの視線に気がついて、ティは慌てて恥ずかしそうにその手を隠すように体の後ろに回しかけた。カインは手を伸ばすと一瞬抵抗しかけた彼女の指を握った。
「変な指でしょう? 子供の頃からよくからかわれてたの。赤ちゃんみたいだって」
「変な指だなんて思わないよ」
ティの言葉にカインは答えた。
「ぼくにとっては、補佐をしてくれる大事な手だ」
見た目と同じように彼女の手は柔らかくて温かかった。カインの手のひらで包むとすっぽりと隠れてしまいそうな感じがする。手のひらを合わせて指と指を絡めたが、彼女はさっきのように手を引っ込めようとはしなかった。
「カインさんの手はきれいですよね」
ティは繋いだ手を見てつぶやいた。
「指もとても長くて」
少し飲んだワインで酔ってしまったかもしれない。
カインと手を繋いでいる。こんなことをしていいのだろうか。
ティは頭の隅で考えた
彼の体温を顔の近くで感じたので目をあげたときリビングで大きな声がした。
「それは違うって……!」
ヨクの声と共に大きな音が響く。
弾かれたようにティはカインの手を振りほどくとリビングに顔を向けた。ふたりでしばらく立ちすくんでいると、ヨクのいびきが再び聞こえてきた。
「寝言?」
ティはつぶやいた。
「寝言だったの?」
ティはカインを見上げた。
「心臓が破裂するかと思ったわ!」
ヨクが毛布を跳ね除けている姿を見たティは、少し怒ったような顔をしてキッチンから出ていってしまった。
(ヨク、あんたは煽るわりには邪魔をしてくれるじゃないか)
カインはため息をついてシンクにもたれかかると宙を仰いで笑った。