アシュアは木々の間から降り注ぐ光を見上げて目を細めた。
 森の中はいつも平和だ。何もなかったように、すべてがいつもここにある。
 しばらく歩くと落ち葉を踏み分ける音がかすかに聞こえた。
「ブラン、ぜーんぜん隠れてることになってねぇぞ」
 アシュアが言うと、小さな影が飛び出してきて彼に抱きついた。
「お父さん、お帰り!」
 アシュアは笑って娘を抱きとめるとあっという間に彼女の体を肩に乗せた。
「ダイは?」
 そう尋ねると、また小さな影が飛び出してきた。
「お帰り、お父さん!」
 ダイはアシュアの肩に乗るブランを見あげて口を尖らせた。
「いつもブランばかりだ」
「おまえら重くなったから、いっぺんにふたりはもう無理」
 アシュアはダイの自分そっくりの赤い巻き毛を大きな手で撫でた。
「戻ったらおまえも肩車してやるから」
「お父さん、またすぐに出るんでしょう?」
 父親の腰のあたりに手を回しながら言うダイにアシュアは目を細めた。
「なんで?」
「だって、ブランがそう言ってた」
「え?」
 ダイの言葉にアシュアはブランを見た。ブランはアシュアの頭に鼻をくっつけた。
「お父さんの匂いがする。」
 ブランはそう言うとアシュアの顔を見てにっこり笑った。その顔はリアにそっくりだ。
「お父さんの匂いだけしかしないから、お父さんのお仕事は大丈夫よ」
「ふうん?」
 アシュアはブランの言葉を理解しかねてあいまいな返事をかえした。
 しばらく歩くとコミュニティのテント群が見えてきた。一番手前のテントの前でリアが待っている。
「お帰り」
 リアはアシュアの顔を見て笑みを見せた。
「うん」
 アシュアはブランを降ろすと彼女のそばに歩み寄った。リアはアシュアの口の端にキスをした。
「またすぐに出るんだって?」
 笑いながら言うリアにアシュアは小首をかしげた。
「さっきダイも言ってたけど…… なんで知ってるの?」
 それを聞いてダイが憤慨したように言った。
「だからブランが言ってたんだってば!」
 リアがくすくす笑った。
「ブランはアシュアが出るときと帰ってくるときって分かるみたいなのよ。前に言わなかったっけ?」
「そうなの?」
 アシュアはいたずらっぽく自分を見上げるブランを見た。
「お父さんのことが大好きで大好きでしようがないからじゃない?」
 リアが言うとダイが頬を膨らませた。
「ぼくだって好きだよ! だのにお父さんはいつもブランばかり肩車するんだ!」
「あんたがのろいからよ」
 ブランがそう言ったので、ダイは悔しそうに彼女の顔を睨みつけた。
「あんたたち、クレスがあっちでハーブを分けてるからそれを手伝って」
 リアの言葉にふたりはしぶしぶ離れていった。リアはそれを見送ると今度は笑みを消してアシュアを見た。
「大変だったね」
 アシュアは無言でうなずいた。
 大まかなことは画面越しにリアには伝えてあった。たぶん公の情報だけだと混乱すると思ったからだ。
「ケイナもあと一週間くらいで目覚めるんだって?」
 アシュアがびっくりしてリアの顔を見ると、彼女は肩をすくめた。
「夢見たちが言ってた。セレスはもう少しかかりそうね」
「一週間なのか? おれが聞いたときはまだ分からなかったのに」
「ほぼ確実みたいよ。リンクが大急ぎで受け入れ準備してる」
 ふたりでテントのひとつに入りながらリアは答えた。
「なんだかいろんなことがいっぺんに起こっちゃったね」
 リアの言葉を聞きながらアシュアはため息をついて椅子に座った。
 リアはポットに入れているお茶をカップに注ぐと、アシュアの前に置いた。
「ユージーは時間かかるけど、大丈夫だって夢見たちが言ってたよ」
 アシュアの前に座りながらリアは言った。
「でもね、ケイナがすごく怒ってるって」
「ケイナが?」
 アシュアはカップを口に運びかけていた手を止めてリアの顔を見た。
「なんで? ケイナはまだ目覚めてないぞ? それに、あいつもセレスも目覚めてから記憶がどれくらい残っているかわからないのに」
「うん……」
 リアは小首をかしげた。
「でも、夢見たちがそう言うんだもの……」
「そこまで分かるんなら、ユージーを撃ったやつって分からないわけ? 犯人がまだ捕まってないんだよ」
「あのさ」
 リアはしかたないわねというようにアシュアの顔を見て身を乗り出した。
「ケイナやユージーのことが夢見たちに分かるのは、あたしやアシュアが彼らに直接会ってるし、触れてるからよ」
 アシュアは不思議そうな顔をしてリアを見つめた。リアは口を尖らせた。
「よく考えてみてよ。トリだってそうだったでしょ? 見てもいない、会ってもいない人のことは分からないわよ。分かったとしても漠然としたイメージでしか見えないわ」
「そうだったかな……。でも、夢見たちは直接ケイナやユージーに会ってないだろ?」
「だから……」
 リアは腕を組んで子供に言い聞かせるような表情になった。
「あたしやアシュアが知ってるからだって言ってるじゃない」
 アシュアはまだきょとんとしている。
「あたしも自分が見えるわけじゃないからよくわからないけど、あたしやアシュアを介して夢見たちはケイナやユージーを見てるのよ。たぶんあたしたちに気配が残ってるのかもしれない」
「ふうん……」
 アシュアは音をたててお茶をすすった。
「じゃあ、犯人のことは何も言ってないの?」
「少しだけだったらしいけど、すごく凶暴なイメージが浮かんだって言ってた。真っ赤な火みたいな」
 リアは答えた。
「火……?」
 アシュアは眉をひそめた。
「カインは倒れる前にケイナによく似たやつに会ったって言ってたんだ。火っていうのは、どういうことなのかな……」
「わたしにも分からないわ。直接夢見たちに聞いてみたら?」
「うん……」
 どうも気持ちがざわめく。アシュアは口を引き結んで視線を泳がせた。
「アシュア、カインのガードをするんでしょ?」
 リアは少し視線を落としながら言った。
「夢見たちはあなたの安全を保証してくれるんだけど、あたしは心配なのよね。だって、下手したら、その『火みたいな凶暴なやつ』が相手になるんでしょ?」
 リアの顔がさらに俯く。
「あたし、もう前みたいなのは嫌なのよね」
 アシュアは無言でリアを見つめた。
 7年前、アシュアはケイナを庇って撃たれた。本当なら死んでいてもおかしくない傷だった。それを助けたのは彼女の兄のトリだ。夢見だったトリはアシュアの代わりに自分の命を無くした。アシュアが撃たれた時、リアのお腹の中にはすでにブランとダイがいた。兄であるトリはそれを悟っていたのだろう。トリは亡くなる前にアシュアの名前を呼び続けろと言い残したらしい。リアはずっとアシュアの手を握り、必死になって名前を呼び続けたのだ。
 リアはぱっと顔をあげた。ブランと同じ褐色の髪が肩の上で揺れた。
「やめて欲しいって言ってるわけじゃないのよ? そういうんじゃないの。ただね、普通に心配してるわけ」
「それは分かってるよ」
 アシュアは笑みを浮かべて手を伸ばすと彼女の頬を指で軽く撫でた。
「おれも死にたかねぇし……」
 アシュアは言いかけて束の間口をつぐんだ。
「あのさ、ひとつ聞いていい?」
「なに?」
 アシュアはしばらくためらったのち思い切って口を開いた。
「さっきからの話で、カインのことが全然出てきてないんだけど……」
 リアはそれを聞いて、ああ、というような表情をしたあと、視線を下に落とした。
「泣いてるって」
「え?」
 アシュアは目を細めた。リアはきゅっと口を引き結んだあと再び言った。
「泣いてるって。辛くて悲しくてどうしようもなくて泣いてるって。でもどうしようもないんだって。彼はそれを乗り越えなきゃいけないんだって」
 アシュアはカップを宙に浮かせたまま硬直した。カインが泣いている。どうして……。
「夢見たちはそれ以上言ってくれないの」
 リアは申し訳なさそうに言った。
 夢見たちに直接聞こう。アシュアはそう決心した。