デスクの上に日差しが伸びてきた。
そろそろ正午あたりかなとカインは頭の隅で思う。
長い指でせわしなくキイを弾きながら、合間にすばやく指をボードの角のボタンに走らせると日差しがストンと遮られたのを感じた。床から天井まで見事にはめ込まれた一枚板のガラスの上半分が「きちんと」スモーク状態になったのだ。
そう分かっていたのに手を止めてしまった。ちょっと疲れたのかもしれない。
時間を確認すると、予想より一時間も遅く、午後1時を回っていた。
思わず「ふう」とかすかな息を漏らす。
両腕を持ち上げて伸びをすると立ちあがり、背後の窓辺に寄って透明なままの足元を見下ろした。
ずっと下に小さく点のような人の姿が見える。向かいのビルのモールのある階で5歳くらいの子供が母親に手を引かれて歩いている姿をガラス越しに見つけて、彼はかすかに笑みを浮かべた。
子供は生まれている。どんなに出生率が下がっていても、「まだ」子供は生まれている。そのうち何人が寿命をまっとうできるかは分からないにしても。
結果が出るのが何年先になるかは見当もつかないが、環境改善を一番に考えて仕事にシフトしてきた自分は間違ってはいないのだとカインは自分自身に言い聞かせる。
ケイナとセレス、アシュアとともに走り抜けた1年半の生活。
『ノマド』で過ごしたほんのわずかの期間。
10代の多感な時期に得たあの記憶は心の中から消え去ることはない。
それは今の自分を成り立たせている大切な記憶なのだとカインは思う。
ふと背後に人の気配を感じて顔を巡らせた。視線の先に見慣れた濃いグレイのスーツを見つけてカインは再びデスクに向かった。面倒な人が来た、と彼の眉があからさまにひそめられる。
「社長さん、そろそろ昼めしを食べに行きませんかね」
ヨクはいつも通りの笑みを浮かべて大股に歩み寄ってきた。
「朝は何時から来ていたの?」
彼は目尻に深い笑い皺を刻みつけながらデスクの対面からカインの顔を覗き込んできた。
「今日は10時です」
カインは彼に目を向けず、モニターを見つめながら再び指先をキーボードに滑らせて答えた。
「めずらしい」
ヨクは意外そうに目を丸くした。そして「ああ」というようにうなずいた。
「ティと一緒だったっけ? ゆうべは。そうじゃなきゃ、だいたいいつも7時くらいにはオフィスにいるよな」
「食事をしただけですよ。そのあとは疲れたから家に帰りました」
変な想像をしないで欲しい、とカインは彼をちらりと睨んで答えた。カインの特徴ある切れ長の目で睨みつけられるとたいがいの人間は少し身をこわばらせるがヨクはびくともしない。
「食事しただけで家に戻ったって?」
彼はあきれたように首を振った。少し白いものが混じる豊かな黒い髪がゆらゆらと揺れる。
「食事して家に戻った? 疲れたから? 男として最低だね、そりゃ」
「疲れたのはティのほうですよ」
カインは少しうっとうしそうに眉をひそめた。
「誰の作った会議資料のせいで彼女が苦労していたと思ってるんです?」
ヨクは首をかしげた。
「さあ? 想像もつかないな。あの可愛い子を苛めるような男はこの世には存在しないと思う」
笑いながらそう言ってデスクから離れると、ヨクは革張りのソファの上にどっかりと腰をおろした。カインはそれをちらりと見て呆れたように小さく首を振った。
ヨクはカインが社長に就任したときからずっとそばでカインの補佐をしてくれている。
彼の父親も、そのまた父親も『リィ・カンパニー』に幹部として在籍していた。
いつも笑っているような黒い瞳と浅黒い肌、大柄でがっちりした体つきは、今でもよくオフィスにやってくるカインにとっての大切な友人、アシュアの雰囲気によく似ている。
ヨクというのは漢字で「翼(つばさ)」と書くのだそうだ。カインは漢字を使うことはないが、ヨクを見ている限りでは彼に合う翼は白い羽よりは鷹かコンドルのそれのような気がする。
勇壮で高いところから鋭く下界を見下ろす猛禽類。ヨクの黒い瞳は優しい光の奥にいつも厳しい色が隠れている。
彼はその険しさをあまり表に出すことはなかったが、カインは心の中では彼に絶大な信頼感と愛情を持っていた。彼の発する言葉のひとつひとつは自分より遥かに先を見越したことであることがよくあるのだ。
そう、自分はまだあやふやな自分の能力に頼って判断してしまう。
父から譲り受けた「見える力」。
『アライド』という星の住人だった会ったこともない父だって純粋な『アライド』の人間ではない。もうその能力はあまり正確なものではなかっただろう。遺伝的には自分はさらに能力としては退化しているはずだ。それでもつい「見えたもの」、つまり「直感」に頼ってしまう。
ヨクはそんなカインの歯止めでもあった。彼がいなければ、右も左も分からないままで大きな企業を背負うことになってしまったカインは自分に課せられた責任をまっとうすることはできなかっただろう。
トゥ・リィが社長の座から退く時、後任はヨクに、という話がなかったわけではない。
あって当然だった。カインもそう思った。年齢もトゥとそう違わなかっただろう。しかしヨクはそれを突っぱねた。カインが社長に就任しないのであれば、自分は社を辞めるとさえ言ったらしい。
その真意は誰にも分からなかった。カインも何度かヨクに尋ねてみたことがあるが、いつもうまい具合にはぐらかされてしまう。
「昼メシ食いに行こう」
ヨクは再び言った。
「飢え死にするぞ。どうせ夜もまともに食べやしないんだろ?」
「お腹が空いているのはあなたでしょう。ひとりで食べに行ってください」
カインはキイを弾きながらヨクに言った。ヨクはにやにやしながらカインを見た。
「意地でも連れて行けってティに言われたよ」
カインはそれを聞いて顔をあげると不機嫌そうに口を引き結んだ。
「明日は『ホライズン』に行きます。今日中に社長方針の書類一式が欲しいって言ったのはあなたですよ」
言葉の最後のほうでは、非難するように思わず彼に指を向けていた。ヨクは肩をすくめてジャケットの胸ポケットからタバコを取り出した。
「いよいよ“彼女”が目覚める…… か……?」
かちりと煙草に火をつける音が聞こえる。
「いや」
カインは再び仕事を続けながら答えた。
「明日行ったからって、すぐ覚醒するわけじゃないでしょう。でも、ちょうどアシュアもこっちに来るそうだから……。タイミングが合うんなら彼も一緒に行ったほうがいいし、ユージーにも連絡をとらないといけない」
カインはそこまで言って手を止めると視線をめぐらせた。
「……彼はまだこっちに帰って来ていないかな……」
「ユージー・カートはまだ『コリュボス』だ。たぶん今日いっぱい『ライン』の特別講師をやってるんじゃないかな」
ヨクは紫煙を吐き出しながらのんびりした調子で答えた。
「忙しいのによく続くもんだね、彼も。『講師』なんてするガラにはとても見えないが」
カインはそれを聞いて苦笑した。
「ユージーは最高の『教師』ですよ。ぼくは彼くらい懇切丁寧にものを教える人間はいないと思ってます」
「先生、という雰囲気からすると、きみのほうが合ってそうだぞ?」
ヨクは遠くからカインの顔を覗き込むような目を向けた。カインはさすがに小さく声をたてて笑った。
「アシュアがそれを聞いたらひっくり返るだろうな。ぼくは『ライン』でそんなに評判のいいほうじゃなかった。……『コリュボス』の『ライン』は彼の父親のカート司令官が大切にしていた機関だから、ユージーも思い入れがあるんでしょう」
カインはそこで椅子の背もたれにもたれかかると顔を上に向けて大きくため息をついた。
「ヨク、あなたがそこにいると仕事にならないよ」
「おれのせいにするのはどうだかね。さあ、めしを食いに行こう」
待ってましたと言わんばかりに煙草を灰皿に押し付けて言うヨクの言葉にカインはしかたなく立ち上がった。
そろそろ正午あたりかなとカインは頭の隅で思う。
長い指でせわしなくキイを弾きながら、合間にすばやく指をボードの角のボタンに走らせると日差しがストンと遮られたのを感じた。床から天井まで見事にはめ込まれた一枚板のガラスの上半分が「きちんと」スモーク状態になったのだ。
そう分かっていたのに手を止めてしまった。ちょっと疲れたのかもしれない。
時間を確認すると、予想より一時間も遅く、午後1時を回っていた。
思わず「ふう」とかすかな息を漏らす。
両腕を持ち上げて伸びをすると立ちあがり、背後の窓辺に寄って透明なままの足元を見下ろした。
ずっと下に小さく点のような人の姿が見える。向かいのビルのモールのある階で5歳くらいの子供が母親に手を引かれて歩いている姿をガラス越しに見つけて、彼はかすかに笑みを浮かべた。
子供は生まれている。どんなに出生率が下がっていても、「まだ」子供は生まれている。そのうち何人が寿命をまっとうできるかは分からないにしても。
結果が出るのが何年先になるかは見当もつかないが、環境改善を一番に考えて仕事にシフトしてきた自分は間違ってはいないのだとカインは自分自身に言い聞かせる。
ケイナとセレス、アシュアとともに走り抜けた1年半の生活。
『ノマド』で過ごしたほんのわずかの期間。
10代の多感な時期に得たあの記憶は心の中から消え去ることはない。
それは今の自分を成り立たせている大切な記憶なのだとカインは思う。
ふと背後に人の気配を感じて顔を巡らせた。視線の先に見慣れた濃いグレイのスーツを見つけてカインは再びデスクに向かった。面倒な人が来た、と彼の眉があからさまにひそめられる。
「社長さん、そろそろ昼めしを食べに行きませんかね」
ヨクはいつも通りの笑みを浮かべて大股に歩み寄ってきた。
「朝は何時から来ていたの?」
彼は目尻に深い笑い皺を刻みつけながらデスクの対面からカインの顔を覗き込んできた。
「今日は10時です」
カインは彼に目を向けず、モニターを見つめながら再び指先をキーボードに滑らせて答えた。
「めずらしい」
ヨクは意外そうに目を丸くした。そして「ああ」というようにうなずいた。
「ティと一緒だったっけ? ゆうべは。そうじゃなきゃ、だいたいいつも7時くらいにはオフィスにいるよな」
「食事をしただけですよ。そのあとは疲れたから家に帰りました」
変な想像をしないで欲しい、とカインは彼をちらりと睨んで答えた。カインの特徴ある切れ長の目で睨みつけられるとたいがいの人間は少し身をこわばらせるがヨクはびくともしない。
「食事しただけで家に戻ったって?」
彼はあきれたように首を振った。少し白いものが混じる豊かな黒い髪がゆらゆらと揺れる。
「食事して家に戻った? 疲れたから? 男として最低だね、そりゃ」
「疲れたのはティのほうですよ」
カインは少しうっとうしそうに眉をひそめた。
「誰の作った会議資料のせいで彼女が苦労していたと思ってるんです?」
ヨクは首をかしげた。
「さあ? 想像もつかないな。あの可愛い子を苛めるような男はこの世には存在しないと思う」
笑いながらそう言ってデスクから離れると、ヨクは革張りのソファの上にどっかりと腰をおろした。カインはそれをちらりと見て呆れたように小さく首を振った。
ヨクはカインが社長に就任したときからずっとそばでカインの補佐をしてくれている。
彼の父親も、そのまた父親も『リィ・カンパニー』に幹部として在籍していた。
いつも笑っているような黒い瞳と浅黒い肌、大柄でがっちりした体つきは、今でもよくオフィスにやってくるカインにとっての大切な友人、アシュアの雰囲気によく似ている。
ヨクというのは漢字で「翼(つばさ)」と書くのだそうだ。カインは漢字を使うことはないが、ヨクを見ている限りでは彼に合う翼は白い羽よりは鷹かコンドルのそれのような気がする。
勇壮で高いところから鋭く下界を見下ろす猛禽類。ヨクの黒い瞳は優しい光の奥にいつも厳しい色が隠れている。
彼はその険しさをあまり表に出すことはなかったが、カインは心の中では彼に絶大な信頼感と愛情を持っていた。彼の発する言葉のひとつひとつは自分より遥かに先を見越したことであることがよくあるのだ。
そう、自分はまだあやふやな自分の能力に頼って判断してしまう。
父から譲り受けた「見える力」。
『アライド』という星の住人だった会ったこともない父だって純粋な『アライド』の人間ではない。もうその能力はあまり正確なものではなかっただろう。遺伝的には自分はさらに能力としては退化しているはずだ。それでもつい「見えたもの」、つまり「直感」に頼ってしまう。
ヨクはそんなカインの歯止めでもあった。彼がいなければ、右も左も分からないままで大きな企業を背負うことになってしまったカインは自分に課せられた責任をまっとうすることはできなかっただろう。
トゥ・リィが社長の座から退く時、後任はヨクに、という話がなかったわけではない。
あって当然だった。カインもそう思った。年齢もトゥとそう違わなかっただろう。しかしヨクはそれを突っぱねた。カインが社長に就任しないのであれば、自分は社を辞めるとさえ言ったらしい。
その真意は誰にも分からなかった。カインも何度かヨクに尋ねてみたことがあるが、いつもうまい具合にはぐらかされてしまう。
「昼メシ食いに行こう」
ヨクは再び言った。
「飢え死にするぞ。どうせ夜もまともに食べやしないんだろ?」
「お腹が空いているのはあなたでしょう。ひとりで食べに行ってください」
カインはキイを弾きながらヨクに言った。ヨクはにやにやしながらカインを見た。
「意地でも連れて行けってティに言われたよ」
カインはそれを聞いて顔をあげると不機嫌そうに口を引き結んだ。
「明日は『ホライズン』に行きます。今日中に社長方針の書類一式が欲しいって言ったのはあなたですよ」
言葉の最後のほうでは、非難するように思わず彼に指を向けていた。ヨクは肩をすくめてジャケットの胸ポケットからタバコを取り出した。
「いよいよ“彼女”が目覚める…… か……?」
かちりと煙草に火をつける音が聞こえる。
「いや」
カインは再び仕事を続けながら答えた。
「明日行ったからって、すぐ覚醒するわけじゃないでしょう。でも、ちょうどアシュアもこっちに来るそうだから……。タイミングが合うんなら彼も一緒に行ったほうがいいし、ユージーにも連絡をとらないといけない」
カインはそこまで言って手を止めると視線をめぐらせた。
「……彼はまだこっちに帰って来ていないかな……」
「ユージー・カートはまだ『コリュボス』だ。たぶん今日いっぱい『ライン』の特別講師をやってるんじゃないかな」
ヨクは紫煙を吐き出しながらのんびりした調子で答えた。
「忙しいのによく続くもんだね、彼も。『講師』なんてするガラにはとても見えないが」
カインはそれを聞いて苦笑した。
「ユージーは最高の『教師』ですよ。ぼくは彼くらい懇切丁寧にものを教える人間はいないと思ってます」
「先生、という雰囲気からすると、きみのほうが合ってそうだぞ?」
ヨクは遠くからカインの顔を覗き込むような目を向けた。カインはさすがに小さく声をたてて笑った。
「アシュアがそれを聞いたらひっくり返るだろうな。ぼくは『ライン』でそんなに評判のいいほうじゃなかった。……『コリュボス』の『ライン』は彼の父親のカート司令官が大切にしていた機関だから、ユージーも思い入れがあるんでしょう」
カインはそこで椅子の背もたれにもたれかかると顔を上に向けて大きくため息をついた。
「ヨク、あなたがそこにいると仕事にならないよ」
「おれのせいにするのはどうだかね。さあ、めしを食いに行こう」
待ってましたと言わんばかりに煙草を灰皿に押し付けて言うヨクの言葉にカインはしかたなく立ち上がった。