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「では、これで今日の授業を終了する」

 先生が教室から出て行った途端、クラスメイトは騒ぎ出した。おしゃべりが飛び交う中で、私は一人、その渦から静かに抜ける。

 廊下に出た瞬間、私は走った。無鉄砲に足を動かし、真っ白い道をひたすらに進んでいく。

 苦しかった。肺も、胸も、心も。これまでよりも一段と強い恐れを感じた、と言うべきか。

 先生の言葉が嫌でも蘇る。

『さあ、いよいよ来週が受験だな』

 受験。それは人生の分岐点の一つ。ここで、落ちるか受かるかでこれからの人生の一部が決まるようなもの。

『いいか?受験は人生を左右するものであると言っても過言ではない』

 今まで体験したことのないそれは、あまりにも重く感じられた。

『自分が今までやってきたことを信じて取り組め。そして、残り一週間、死ぬ気で勉強するんだぞ』

 もう、心は死んでいる。いや、元々無謀だったのかもしれない。いくら頑張っても思うように成績が上がらないのに、どう自分を信じればいいんだろう。

 迫り来る焦りが不安を募らせ、私を追い込む。できれば、受験なんてなくしてほしい。もしくは、永遠にこの時が止まって、一歩も進まない世界にしてほしい。

 そんな、非現実的な願いばかりが脳内を占める。あとは、心の底からの叫び。
 
 嫌だ、怖い怖い怖い……。

 何か目的があった訳じゃない。強いて言うなら、安心できる、と思ったのか、はたまた、解放を望んでいたのか、私は屋上にいた。

 暖かい風が私の髪を振り乱し、視界を狭くする。真っ青な空は憎らしいほど澄んでいて、それでまた、心が追い詰められた。

 もう嫌だ、もう、消えたい……っ!

 ポケットに手を忍ばせ、ハサミを取り出す。カバーを取って、切っ先を自分の手首に向けた。

「はぁっ……はぁっ……はぁっ……っ!」

 感じたことがないほどの動悸に、手が震える。でも、やるしかない。やらないと、望むものは手に入らない。

「ふぅっっ!」

 勢いまかせに、ハサミを振り下ろした。ぐしゃり、と刃が肉を貫いた感触がある。でも、不思議と痛みを感じない。どころか、血すら出ていなかった。

 恐る恐る、ハサミが刺した部分に目を向ける。
 
 そこには、私の腕ではない腕(・・・・・・・・)が、ハサミに刺されていた。

「ダメだって、言ってるじゃない!」

 少女だった。いつの間にか現れた彼女が、即座に私の腕の前に手を潜り込ませていた。

「あなたは何度言ったら分かるの!?」

 少女はハサミを持つ手首を掴んでくる。

「何するの離して!」

 私は必死に抵抗した。激しく手を動かして何とか拘束から外れようとするも、少女の力はすごかった。見た目に反して、とても強い。

「離してってば!」

「絶対にいや!ハサミを手放して!」

 宙に浮いた少女と私が取っ組み合う。

 ふっと、一瞬だけ少女の手の力が緩んだ。ここぞとばかりに、私は一段と激しく腕を振り解こうとする。しかし、動きにばかり意識を向けていて、肝心の握力が弱まっていたらしい。少女はそれを狙っていたのか、ハサミを素早く私から奪った。

「あっ!」

 彼女はその勢いに乗ったまま、ハサミを遠くへと投げ捨てる。銀色に光った刃は、放物線を描いてフェンスの外に落ちていった。

 スッと少女が腕を離した。私は突然体の力が抜けて、その場に座り込む。

「ああ……」

「これでもう、諦めがつくでしょ?」

 少女は私を見下ろした。子供なのに妙に大人ぶった雰囲気を醸し出していて、憎しみが湧いてくる。

「まだ……諦めてないから……っ!」

 ふらつく足取りで私は立ち上がり、前のめりになりながらも駆けた。

「ちょっと!」

 背後で少女の驚きの声が聞こえる。構わない、私の好きにさせてよ。

 フェンスの扉になっている部分に飛びつき、ガタガタと揺らした。錆びた錠が軋む音を立てる。私は力任せにフェンスを押し引きする。

 ガタガタガタガタ……ガチャン!

 錠が外れて、アスファルトの地面に落ちた。扉が開いて、地面が途切れている部分が目の前に広がる。

 無我夢中で足を出した。早くあそこへ!

 だけど、グンと何者かの力によって体が後ろに引き寄せられた。

「ダメ!そっちに行っちゃダメだって!」

 少女が背後から抱きついていた。

「嫌だ!離してよ!もう死なせてよ!」

「絶対に死なせないからっ!」

 身体を捻って、少女を振り解こうとする。でも、先ほどと同様、彼女は腕を解かない。

「いい加減にして!もう私の好きにさせてよ!おねがいだからさぁっ!」

「衝動的な思いに囚われないでっ!」

 グッと強い力が私を引っ張って、とうとう後ろに転んだ。お尻に体重がのって、骨に衝撃が走る。

「はぁ……はぁ……もう、勝手に、死のうとしないで」

「はぁ……はぁ……」

 お互いに荒い息をつく。言われなくても、もう動こうとする体力も気力も私の中には残っていなかった。

「はぁ……なん、で?」

「えっ?」

「何で死なせてくれなかったの!?」

 心の限界はとっくに過ぎていた。自分の中に溜め込んでいたいろんな想いがぐちゃぐちゃに混ざって、訳がわからなくなる。

 目頭も喉も焼き切れるように熱い。ボロボロと涙が溢れてきて、地面にシミを作る。

「もう嫌だ、もう嫌なの!全部全部、この顔も性格も人生も!何もかもが大っ嫌い!」

 思いのままに叫んだ。蓄積されていた想いを全部吐き出す。

「私なんていても意味がない!私なんてどうでもいい存在!もう生きるのが辛いの!」

 涙が詰まって「ううっ」と嗚咽が漏れる。

「頭も良くない。運動もできない。特技も良いところも尊敬されるようなものも何も持ってない!誰かに迷惑ばっかりかけてる!生きていたって無駄なの!」

 溢れる涙を何度拭っても、瞳が渇くことはなかった。泣きくじゃる私を、少女は悲しげな瞳で見つめている。これじゃあどっちが子供かわからなくない。

「もう、もうっ!殺させて、死なせてよ……。この世界から、消させて。生きているのが、嫌なの……」

 本当に、こんな自分が大嫌いだった。何かに秀でた人間を見るたびに、自分にはできないんだという劣等感が生まれて、才能を持つ人間を妬んで、そんな自分に嫌気がさして。

 私は、生きていても仕方のない人間だと思った。使えない、無駄な者は消えたほうがいいんだって。

 本音を叫びまくった私を、少女はしばらく黙って見ていた。やがて、ふうっと一息吐き出し、優しげな口調で語りだす。

「ねぇ、技術室のこと、覚えてる?」

「一体何の話……」

「いいから聞いて!」

 突然強い口調で言われ、その圧で私は口を噤んだ。少女はまた柔らかく、何処か悲しそうに微笑む。

「あなたがガラスの破片で手首を切ろうとした時、貼ってあった新聞紙を剥がした。その記事には、交通事故の話が載ってたでしょ?」

「うん、あったね。中学3年生と小学3年生の女子が轢かれたってやつ?」

「そう」

「それがどうしたの?」

「あれ、私なの」

「……えっ?」

 自分でも意識しないうちに、声が漏れていた。

「あれって、事故で亡くなった中学3年生の女子のこと?それとも、小学3年生の方?」

「中学3年生の方」

「えっ、でも、じゃあ見た目は?中学3年生だったらもうちょっと大人っぽいよね?幼い頃の姿にでもなったの?」

「この体は、小学3年生の妹のもの」

「えっ、い、妹!?ど、どう言うことなの?」

 泣いていたことなんてすっかり忘れて、目を白黒させる。だって、目の前にいるのは幼女なのに、中身は同い年の子……?しかも妹の体とか、情報量が多過ぎて全く分からない。

 理解が追いつかない私に、少女は柔らかく笑った。全てを包み込むような大人びた笑みに、この子は同い年なんだって自覚させられる。

「そのままの意味。私は妹と、交通事故で死んだ。車に撥ねられて、全身に刃を刺されたような痛みが走った。息ができなかった。意識が薄れて、感覚が消えていって、死ぬんだって気づいた。その時ね、声が聞こえたの。優しいけど、威厳もあって不思議な声だった。それが言ったの。命の尊さを、死にそうな者に教えろって。それから神様か何かの悪戯か、私の魂は妹の体に入れられた。そして、地縛霊として、この学校に住み着くようになったの」

「……そう、だったんだ」

 それ以上、何も言えなかった。かける言葉すら見つからない。ただ、ようやく分かった。彼女が命を尊く思う理由が。

「多分ね、私はあなたを救うためにいるんだと思う」

「……どうして?」

「だって、あなたが初めて私を視ることができた人だから」

 少女はクスリと嬉しそうに笑った。今度は、無邪気な子供の笑顔そのままだった。

「他の人は、目の前を通っても手を伸ばしても
気づかれなかったし触れられなかった。でも、あなただけは違う。ちゃんと、私を認識してくれた。だから助けようと思った」

 ふわりと風が吹いて、少女の服や髪を優しく吹き上げる。彼女は空を見上げた。

「あのね、人って本当に、いつ死ぬか分からないの。明日かもしれないし、明後日かもしれない。1時間後に死んでるかもしれないし、もしかしたら100年後でも生きているかもしれない。誰がいつ死ぬかなんて、誰にも分からない」

 少女が言っているのは、当たり前のこと。だけど、一言一言が妙に胸に刺さった。

「死は突然訪れる。生きたい命が、予兆もなく唐突に終わる。私のようにね」

 それから、少女は私を見た。

「だから、言いたいことはすぐに言わなきゃいけない。やりたいことは即座に行動しなきゃいけない。だって、伝えたくても、やりたくても出来なかったっていうのが一番悔しいから」

 気がつけば、日が傾いてきていた。甘い花の匂いと夕焼けの匂いが混ざったものが、私と少女を包み込む。

「世の中には、生きたくても生きられない人がいる。だからさ、本当は、生きているって状態だけでもう奇跡みたいなものなんだよ。魂があって、思考があって、行動力がある。それだけで、実は人間って素晴らしい生き物なんだって、私、死んだ後に気が付いたんだ」

 それから少女は、何話してんだろうね、とはにかんだ。淋しそうに、悲しそうに。

 そんな彼女を見て、私は何だか自分が最底な人間な気がしてきた。なんで、死んだこの子の前で死にたいなんて言っちゃったんだろう。

 彼女は死を受け入れ、もう生きてはいない自分の代わりに生きることを私に薦めていると言うのに。

 きっと、この子は私の代わりに生きたいと願ったに違いない。自殺したいならさせて、自分が残りの人生を生きていたいと思ったこともあったと思う。

 もしくは、自殺を所望する私を恨んだり憎んだこともあったはず。なんでこいつを生かさなきゃいけないんだろうって思ったこともあったと思うのに。

 金茶色の日光が、少女の顔を照らしている。遠くを見つめる横顔は、私よりも遥かにたくさんの知識、そして寛容な心を兼ね備えていた。

「ねぇ」

「ん、何?」

「あなたは、私を恨まないの?憤らないの?」

「んー、そうだね……」

 少女は困ったように首を傾げる。一度目を瞑って、何かを考えてから再び私を見つめた。

「恨んだらしてないって言ったら嘘になるかもしれない。だけど、私はあなたにそんな感情よりも、生きて欲しいって想いが強いの。折角ある命なんだもん。ちゃんと生きて、人生を謳歌して欲しい」

 彼女の言葉に込められた優しさに、胸が震えた。この子の中身が自分と同い年だと思うと、目を疑う。

「だからね、自分で自分の命を消したりしちゃ、絶対ダメだから」

 逆光で影が落ちている少女の顔には、気のせいか涙が輝いている気がした。

「ああ、もう、時間だ」

 と呟いた少女の姿は、夕焼けを背に薄くなる。茜色に溶けるように、足先から、腰、腕、胸、首……と透けていく。

「じゃあね。あなたがちゃんと生きられることを、願ってるよ」

 頰に透明な液体を流して笑う少女は、やがてその姿を完全に消した。

 残された私は、太陽の温もりだけに包まれた。日光が漏れるフェンスが鈍く光り、私を誘う。ゆっくりと近づいて、細い金具を握った。

 だけど、開かなかった。どうやっても、もうフェンスは開かない。いつの間にか壊れたはずの錠が元通りになっている。私の自殺の道は完全に閉ざされたのだ。

「何で……ほんと、勝手すぎる……」

 そう言いながら、気がつけば頰には涙が流れていた。怒るはずなのに自然と口角が上がって、どうしようもない悲しみが押し寄せる。

 そして、私はしばらく一人で泣き続けた。