「ねぇ、あなたってなんでいっつも私を監視してるの?ストーカー?」
「失礼ね、見守ってるって言いなさい」
プールサイドでふわふわと浮遊する少女は眉を顰めた。そんな彼女を、私はプールサイドの縁に座って眺める。
今日も今日とて、私の自殺の試みは幼女によって断たれた。
不意に思いついた溺死。長いホースを使って小さな水槽に水を貼り、その中に入ろうという計画が突然思いつき、いても立ってもいられなくなった。
小走りでやって来たプールで、望んでいたホースと水槽が最も簡単に見つかり、計画を実行しようとしたところに少女が現れた、ということだった。
「あなたに邪魔されなければ、私は消える事ができたのに」
完全に水が抜かれたプールの槽で足をぶらぶらさせながら、私は春の陽気を感じ取っていた。
さぁ、少女は何を言ってくるだろうと待ち構える。いつも通り、軽い説教が始まるんだろうな。
だけど、聞こえた言葉は、その予想を裏切るものだった。
「消えたら、どうするの?」
普段の少女とは違う台詞が唐突に飛んできて、一瞬、自分に言われていないと錯覚してしまう。
「……えっ?」
「だから、もし仮に消えたら、あなたはそれでいいの?」
少し遠くで、少女は浮きながら私を見つめていた。真剣な瞳は私の全てを貫きそうだった。悲しみと怒りを思わせる視線に、思わず目を逸らす。
「うん、いいんだよ。だって、それが本望だもの」
「ふーん」
それっきり、会話は途絶える。
甘い香りを乗せた風が私たちの間を吹き抜け、木々を、花を、枝を揺らしていた。ガサガサとリズムの良い音だけが、世界を満たしている。
重い、重い沈黙だった。お互い、何も喋らない、無言の空間。だんだんと息が苦しくなって、心に穴が空いたような気がした。人の声が聞けないということが、こんなにも苦しいだなんて。
チラリと少女を振り返る。彼女はただ、空を仰いでいた。時折、枯葉が舞う青空を。どこまでも遠く、私が知らない場所を、幼き少女は見ている気がした。
一体、彼女は何者なのだろう?最初は、ただの幽霊だと思ってた。学校に住み着く、無邪気な子供だと。
だけど、今は少し見方が変わった。あの小さな脳には、私には知り得ない、大きな何かが刻まれているんじゃないか。重すぎる何かを背負っているんじゃないか。そんな考えが、頭からこびりついて離れない。
あなたは一体何者なの?
あなたは何故私に構うの?
あなたは一体、何を知ってるの?
訊きたかった。尋ねたかった。だけど。
「まっ、あなたが何を思ってるにしろ、私は止めるからね」
沈黙を破ったのは、少女の声だ。もう、今の彼女にあの瞳はない。あるのは、ただの笑みだけ。
「いつも言うけど、あなたはもう少し自分を大切にしなさい。自分の命を軽く見ないこと!」
「……またそれ?」
「当たり前でしょ?何度言っても守ってもらえないんだから!」
ツインテールを揺らして、少女は怒る。やっぱり幼さが残っていて、思わず笑った。
「ふふっ」
「ちょ、ちょっと何で笑うの!?」
「んー、可愛いなって。そして、優しいなって」
「……」
「私さ、本当にダメなんだ。なんか、自分を好きになれないの」
ポロリと零れ落ちた本音。今まで、誰にも言ったことがなかった言葉が、いつの間にか漏れていた。
「私、本当に何もできなくて。周りのみんなは、絵が上手かったり、字が綺麗だったり、身体能力が高かったり、演技がすごかったり。本当に、特出した長所を持っている。私にはそれが、ない」
周りの人間が凄すぎたのだろうか?
もしくは、自分が空っぽなだけなのだろうか?
長所、才能、得意。私にはそれらの言葉が一つも合わなくて、悔しかった。何で、私はみんなみたいにすごい武器を持っていないんだろう。
「小学校の頃もね、友達とうまくいかなくて、たったそれだけのことで不登校になったりしてさ。ほんと、家族にとってみれば迷惑でしかなかっただろうね」
そう、今思えばそれだけのことだったんだ。なのに私は、無駄に悩んで、落ち込んで、傷ついて。
私は心も脆いんだ。だから、大したことなくてもナイフを刺されたような痛みに変換してしまう。
「だから、嫌いなんだ。何も活かせるものがない自分を。何もかもが平均、もしくはそれ以下の自分を」
ずっとずっと、そう思ってた。そして、この想いはきっと一生消えないんだろうな。
「こんな苦しさを味わって生きていくなら、自分なんていなくていい。きっと、そんな気持ちが私を突き動かしているんだと思う」
全部言い終えたら、不思議と胸がスッキリした。体の内部に蓄積されていた重りが、少しだけ軽くなった気がして、また頰が緩む。
「そんな風に思っていたのね」
静かに聞いてくれていた少女が、ポツリと言った。
そんな彼女に、私はやっぱり、言いたくなった。心のうちに湧く疑問を。
「ねぇ、あなたは、何を知ってるの?何を持ってるの?」
「……っ!」
少女の顔が強張る。まるで、触れられたくなかった傷口が見つけられたように。
「あなたは、何で私にいつも構ってくるの?」
「……どうでもいいでしょ、私のことなんて」
プイッとそっぽを向いた少女が放った声は、心なしか低かった。やっぱり、何か気に触れてしまったのだろうか。
「とにかく、自分のことは大事にしなさい。いいわね?」
決まり文句のようなことを残して、少女は消えた。文字通り、空気に溶けるように。
たった今まで一人の幼い女の子が浮いていた場所には、桜の花びらが数枚散っていた。
いつもは私からいなくなるのに、今日ばかりは少女から消えた。全く、不思議なもんだな。
私は名残惜しい気持ちがありながら、重い腰を持ち上げて、その場を後にした。
そういえば、もうすぐ卒業式か。と、思う前に受験があったことを思い出して、心が締め付けられる。
受験、受験、受験……。それは、頭のいい人間を肯定し、悪い人間は蹴落とされる行事。
社会にとって必要な人間だけを摘出して、それ以外は求められない。そんな、恐ろしいもの。
ドクドク、と動悸が激しくなる。うまく酸素が取り込めないのか、呼吸が荒くなっていく。苦しい、辛い、怖い……。
そんな想いが、全身をぐるぐると回って気持ち悪い。私は、大丈夫だろうか?
人生の道の先に待ち受ける大きなイベントに、私は早くも焦燥感に襲われていた。