静寂に包み込まれた廊下に、扉が開く音だけが異様なほどに大きく響く。その瞬間、ふわっと不思議な香りが私の鼻をついた。

 木の屑と、焦げと、熱が混ざり合ったような独特な香り。

 ここは技術室。至る所に物を切断するための機械が置いてあるが、それも今は西日に晒されている。赤い光で鈍く輝くそれらを見ると、何だか切ない気がした。

「えっと、どこだっけ……」

 私は新聞紙で隠された窓ガラスに近づき、触れていく。紙の上からでも分かる凹凸の感触を手のひらで確かめながら、壁に沿って歩む。

 そして、見つけた。滑らかな曲線の中で、一部分だけざらつりがある場所を。

 私はバッと顔を上げた。セロハンテープで綺麗に貼られた新聞記事が目に付く。その気が無くても、いつの間にか読んでいた。

『トラック突っ込む
 午後1時、交差点に大型トラックが突っ込み、通行中だった小学3年生の女子と中学3年生の女子が死亡。運転手によると……』

 交通事故の記事が載った新聞を思いっきり剥がした。ビリッと音がして、埋もれていたガラスの姿が露わになる。

 新聞紙の裏から出て来たのは、ヒビが入った窓ガラス。事故によって入ったものなのか、故意に誰かが生み出したのかは分からない。

 ただそれは、反対側の景色も見れないほど蜘蛛の巣のような線が蔓延っていた。見た目からして、脆い。

 私は軽く殴り、ガラスを割る。案の定、簡単に砕け散った。

 派手な音がしてかけらが舞い散り、その一つが足元に落ちる。ナイフほどの大きさのそれを手にとり、手首に振り翳そうとした時だった。

「ちょっと何してんのよ」

 ガラスの破片は、横から伸びて来た手によって取られてしまう。えっと見れば、瞳を吊り上げた少女が浮いていた。例のあの子だ。

「奪い取らないでよ」

「あなたがまた自分を傷つけようとするからでしょ!全く、油断も隙もない……」

 見た目からはかけ離れた仕草で、少女はため息をつく。身につけた全てが、私よりも時間をかけられているように思えた。

 少女はガラスの破片をゴミ箱に捨て、戻ってくる。

 吊り目になっている少女を、私もまた睨んだ。お互いの視線が混ざって、火花が散ったような気がする。

「何であんたはいつも私の邪魔をしにくるわけ?」

「邪魔じゃ無くて、命の恩人って言いなさいよ」

「別に頼んでないし、何なら私は死にたいの。一体何度言えば分かるの?」

「一生分からないと思う。だって私はあなたを絶対に殺させないから。死ぬのがいいことだなんて、一回も思ったことはないわ」

「……あっそ」

 やっぱりこの子は邪魔者だ、私にとっては。死ぬのがいいことだなんて思ったことがない?そんな人間なんているわけない。ただの戯れ事だ。

 私は視線を下に向けた。すると、剥ぎ取った新聞紙が目に付く。そう言えば、途中まで読んだっけ。

「あっ、懐かしいなぁ、それ」

 耳元で声がして、少しだけ首を動かしたら隣まで少女が迫っていた。あまりの至近距離に、一瞬だけ目を見開く。

 少女は髪の毛を揺らしながら、大きな瞳を細めていた。どこか、悲しそうな眼差しで。

「これを、この記事を知ってるの?」

「もちろんよ。よく知っているわ」

 そう言った彼女を取り巻く空気が、ふっと揺らぐ。冷たい風が吹いてきたかのように。吸い込んだ空気がヒュッと喉を締め付けた気がした。

「何で、何を、どうしてよく知ってるの?」

「え、えーっと、それは……」

 少女は急に言葉が辿々しくなる。気まずそうに視線を彷徨わせ、明らかにマズい、と顔に出ていた。

「ほ、ほら、私って幽霊でしょ?ずっとこの学校に住み着いていたの。だから、この学校のことなら何でも知ってるのよ」

「学校?じゃ、この記事も学校に関係あるの」

「……ええ」

 僅かな間があったのは気のせいだろうか。少女は悲しそうな瞳の色を奥に隠しながら、新聞の記事を指さす。「中学3年生」の文字を。

「この子はね、ここの学校の生徒だったの。何かに秀でていたわけじゃないし、頭がすごく良かったわけでもない。だけど彼女の周りにはは、友達がいて、先生がいて、それだけで学校生活が楽しかったんだと思う」

 少女はきゅっと目を細めた。その視線は、どこか遠く、私が知らないところを見ているような気がした。

「この子はきっと、自分がこんなところで死ぬなんて思ってなかった。こんな歳で死ぬと思わなかった」

 クシャッと、少女が新聞紙を握りしめた。一部分にシワがより、文字が歪む。

「ただ友達といられるだけで、先生と、家族といられるだけで幸せだったのに、彼女の命はあっけなく終わってしまった」

 静かなトーンの少女の声だけが、技術室に響いていた。声は形にないはずなのに、少女の口から発せられるものは灰色と黒が混ざった煙のように見える。

 幼い少女は、全てを知っている大人よりも大人びた表情をしていた。悲しみ、悔しさ、哀れみ、怒り……あまりにも多い感情が混ざって、結果言い表せないものになってしまったかのような。
 
 だからね、と少女の唇が動く。

「生きたくても、生きられない人だっている。ある日突然死んでしまう人だっている。命はとっても尊いものなの。だから、簡単に消し去ろうとしないで。お願い」

 ツインテールの少女は泣きそうだった。堪えているのに微かに口が震えているところが、まだ幼さを兼ね備えていると確認させられる。

 薄く水の膜が張っている少女の瞳を見て、胸が一瞬だけ、いつもとは違うふうに鼓動した。自分の中の何かが動かされたような、そんな気分。

「……分かんない」

「そう言わないで。ちゃんと自分の命を大切にしてってば」

「私には無理だと思う」

 そう言い放って、私は少女に背を向ける。そして、二度と振り返らずに、技術室を後にした。