まだ空の青さが残っている放課後、私は使われていない教室に来た。そっと扉を開けて、人がいないことを確認する。
よし、誰もいない。私は素早くその教室に入って、扉を閉めた。これで、ここは私だけの空間。
空中で舞う埃が、窓から差し込む柔らかな日差しによって輝いていた。人体には毒のそれらも、こうして見ると綺麗だ。
ぐるりと周囲を見渡す。流石は使われなくなった場所だ。綺麗に並んだ机は薄らと白くなり、黒板は微妙に色が混ざり合ったまま残っている。時計も外され、まるで、ここだけ時間が止まっているみたいだった。
だけど一つだけ、進み続けているものがある。それは、花瓶に添えられた一輪の花だった。純白のすみれ、それだけが、花びらをピンと張ったままでいる。
誰かが水を入れ替えているのだろうか。こんな、忘れ去られた場所までやって来て。
なんて考えを巡らしてみたが、結局のところどうでもいい。それよりも、花瓶はいいかもしれない。
私は机の上に置かれていた花瓶を手に取る。すみれは抜いて、机の上に置いた。そして、空の瓶を頭上高くまで持って行く。
これを、頭に落とせば……。
「ダメでしょ」
離そうとした手が何かの力によって掴まれたかと思うと、両手は空っぽになっていた。花瓶が奪われたことに驚き、咄嗟に振り向く。
「あなたっていつもそうなの?」
透明なガラスの入れ物を持ちながら、またあの少女がいた。ふわふわと浮遊したまま、私を睨む。
幽霊って物体に触れられるんだ。
「昨日も言ったでしょ、自分から命を終わらせちゃダメだって」
「……あなたは何でいちいち邪魔しにくるの?私が何をどうしようが私の勝手じゃん」
私も負けじと少女を睨みつけた。もう見た目なんか関係ない。ただ、私の行動を妨げる酷い奴、という認識をするようになる。
お互い無言で睨み合い、やがて、少女はため息をついた。
「とにかく、ダメだよ、自殺なんて考えちゃ。絶対にやらないこと!」
「あなたはどうしていつもそう言うの?もう私、疲れたんだってば」
望んでもいない人生、願ってもいない命を続けて、何の意味があるの?私は深く息を吐いて、目線を床に落とした。
「私なんて、居ても意味ないんだから。今日だってそう。いや、今までずっとそうだった」
「ふーん。一体何があったって言うの?」
「……」
「ねぇ、訊いてるんだけど」
「……またクラスメイトに余計だって言われたこと。何をやってもみんなの足を引っ張って、人の役に立とうとするのに迷惑しかかけれない」
「そんなの一時、今日だけの話でしょ?」
「うんん、違うよ」
私は首を横に振る。彼女はやっぱり、何にも分かってない。当たり前と言えば当たり前なんだろうけど。胸の奥が重苦しくなる。
「これまでに何度もあった。友達が忘れたものを渡しに行こうとしたらすれ違いが起きて泥棒扱いされたり、乱れていたロッカーを整理されたら余計なお世話だって睨まれたり」
親切心からの行動が、何故か余計なお世話という結果を生み出す。そんな出来事は、一度や二度じゃない。
自分が何かをしようとするたび、的外れな結果になってしまうのが、すごく嫌だった。だけど、だからといって何もしないのも申し訳ないし、心が持たない。
「私は誰かに好かれることもない、頼られることもない、求められもしない」
「あなたを好きな人、いるかもよ?」
「そんなわけないじゃん」
ははっ、と私は自嘲する。嗤いながら、過去の辛い思い出が込み上げてきて、口の中に苦いものが広がった。
「そりゃあね、私だって誰かに好かれたりはしたいよ?だけど、私みたいな奴を好きになってくれる人なんていない。私の周りには、素敵ですごい人がいっぱいいるから」
だから、先輩も。
ズキッと脳裏に痛みが走る。思わず目を瞑った。すると、余計に鮮明な映像が浮かび上がる。好意を寄せていた人と、親友が笑い合う姿が。
おかしいな、と首を傾げた。あの時のことは、もう自分の中で解消できたはずなんだけどな。心の底では諦めきれていないのかも。
私の人生を変えた、と言っても過言ではない人。だからこそ、忘れにくいのかもしれない。
困ったなぁ、と思いながらも目を開く。痛みはすでに和らいでいた。はぁ、と深くため息をついて、吐き捨てるように言う。
「私なんて、みんなの、世界の邪魔者なんだよ。こんなやつ、さっさと消えたほうがいい」
「まーたそんなこと言って」
少女は花瓶を机の上に置いて、抜き取られた花を再び差した。真っ白なすみれが、一瞬嬉しそうに揺れる。
花を元通り活けた少女は振り返った。パサリと髪が彼女の頬を撫でる。
「自分を否定的に扱わない!みんながみんなそう思ってるわけじゃないよ」
「そう思ってるんだよ、みんな」
人差し指で机を撫でながら言った。そうだ、私は邪魔者。だから、いなくならなきゃいけない。みんなのためにも、自分のためにも。
分からないなぁ、と少女は呟いた。
「邪魔者なんてのがあったら、多分この世にはいないよ。いらない人間なんて、いないんだから」
誰一人としてね。そう言って少女はウィンクする。
分からなかった、彼女の言うことが。全部、綺麗事じゃん、そんなの。
はぁ、とため息をつく。肺から出た空気は、ボトッと床に転げ落ちた気がした。
教室をぐるりと見渡してから、扉に手をかける。
「あら、もう帰るの?」
「うん。もう、ここに用はないから」
少女の視線を背後で感じながら、私は扉を閉めた。
今日もまた、失敗だ。