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 頭上に広がる空は、白みがかった美しい青に染まっていた。暖かくも涼しくもない、気温の断定が難しい風が、前方から、下から吹きつけて、髪の毛を揺らす。

 靡く(なびく)スカートの裾をギュッと握りしめて、私はすっと息を吸った。視線を足先よりも少し前に落とせば、ずっと下に、小さな人影が見える。豆粒みたいに、指で潰せそう、なんて考えてしまう。

 人間も、植物も、地面も、果てしなく長い距離があるように思える。あまりの高さに、一瞬眩暈がする。

 ここから飛び降りるの?本当に?

 私の脳みそは再度確認して来た。それは、危険信号であり、行動を止める合図であった。

 しかし私は、自身の胸に言い聞かせる。

 そうだよ、私はここから落ちる。そうすれば、この気持ちから解放させるんだから。

 大丈夫だよ。一瞬、たった一瞬だけだから。

 そしたら、手の震えが少しだけ収まった。ホッと胸を撫で下ろして、私はまた息を吸って、肺に空気を溜めた。血液が全身を巡って、体が熱くなる。

 よし、行こう。そう、覚悟を決めて、足を一歩、前に出した。

 物理的な風当たりが強くなる。瞳の強い乾燥に、瞬きを繰り返した。そうして、一歩、足を踏み出す。

 その時だったーー

「何してるの?」

 にゅっと、目の前に顔が現れた。それは、幼い少女の顔。それも、上下反対の。

「……えっ」

 つい動きを止めて、じっと見つめてしまう。そして、その異常性に気付いた時、唐突に驚きが込み上げた。

「いやぁぁぁーっ!」

 思いっきり叫んで、その反動で後ろに転ぶ。空を踏むはずだった足はアスファルトの上に投げ出された。

「あっははは!ごめんね」

 少女は笑った。宙に浮いて、体が逆さまのままで。重力に引っ張られているのか、髪の毛はちゃんと下に垂れている。

「あ、あなた誰!?なな、何で浮いてるの!?」

 尻もちをついた私は、顔を上げて彼女を見た。どうして、いや、それよりもどうなってるのかを知りたい。

 少女はくるっと上下に半回転して、足を下に持って来た。が、やはり地面にはついていない。

 ツインテールの幼女はくすくすと、今度は控えめな笑い方をした。可愛いような、馬鹿にしているような。

「浮いているのは、まぁ察して。あと、私が誰かって?その質問、私もあなたに返したいわ。あなたは誰?ここで、何をしようとしていたの?」

「何って……何でもいいじゃない!人のやろうとしていることを遮らないでよ」

「よくないわ。だって、飛び降りようとしていたんだから。ねぇ、そうでしょう?」

 そう言った少女の瞳が、一瞬だけ鋭くなった。見た目の幼さからはかけ離れたその冷たさに、ヒッと息を飲む。けれど彼女は、すぐに笑顔を浮かべた。

「ダメよ、死のうとするなんて。自分の手で命の灯火を消すなんてぜったいしちゃダメなんだから」

「そんなの、あなたに言われる筋合いはないよ」

 相手が子供だと言うことも忘れて、つい辛口な言い方になってしまう。仕方ないでしょ、この際。折角の覚悟を(けな)されたんだから。

「うーん、ないこともないんだけどなぁ」

 少女は何かを呟きながら、すーっと宙を滑るようにして私に近づいて来た。直立不動のままで寄ってくる少女にいささか恐怖が湧いて、ギョッとする。

 なになになに、この子なにする気なの?

 だけど、その心配は杞憂で、彼女は私の隣にちょこんと座った。と言っても、お尻も何も浮いたままだった。地面に触れられないんだ、多分。

 頬杖をついた少女は私に笑いかけた。愛想のいい、可愛らしい笑顔。それに、少しだけ癒された気になる。

「ね、何で飛び降りようとしてたの?なんかあったの?」

「……別に」

 気がつけば、ぶっきらぼうに答えていた。この子だって、深い意味はないんでしょ。

 だけど、意外と鋭かった。空気をよく読んでいる、というべきか。そして何より、しつこい。

「辛いことでもあったんでしょ。友達と喧嘩した?親に怒られた?それとも、先生が嫌い?」

「……」

「ねぇ、どれなの?」

「……どれも違う」

 あっているようで、ズレている。いや、むしろ完全に違う、と言うべきか。

「じゃあ、何?」

 ずいっと覗き込んできた少女に、私は思わず顔を引いた。純粋無垢な少女の瞳には、生気の失せた私が写っている。曇り一つない目は、吸い込まれそうなほど美しかった。

「……人生が、嫌になったから」

 気がつけば、吐いていた。本音を、心の奥底にあった言葉を。

「人生に?」

 少女は首を傾げた。そりゃそうだよね。あなたには人生に疲れるって経験がないもんね。

 私はため息をついて、視線を床に落とす。もう馬鹿すぎて、逆に笑えてきた。

「なんかね、もう疲れたんだ。自分っていう、何にもできない存在に」

 それはもう、ずっと思い続けてきたことだった。どうして私なんかが生きているんだろう。私なんて、何の取り柄もないのに。

「何にもできないわけじゃないと思うけど」

「それは私を知らないからだよ。私は、いいところなんて一つもない」

 膝を抱えて、抱き寄せた腕に顔を埋める。視界が真っ暗になって、何も見る必要がないから変な安心感に包まれた。

「長所が一つもない人間なんていないわよ。ほら、例えば勉強とかは?」

「無理だよ、私より頭がいい人なんていっぱいいるし。元より、私なんて周囲よりも劣っているし」

 目だけをちょこんと腕の上に出した。

「今年さ、受験なんだ」

「へぇー、じゃ、中学3年生だったんだ」

「うん。それでね、志望校はあるの。だけど、それは私にとってレベルが高くて」

「進学校ってやつ?」

「そう。それで、勉強してれば学力は必ず上がってくるものだと思った。だけど、いくら学んだところで思うように点数は伸びなくて、こんな状態じゃ、志望校も受かるかどうかなんて分からない」

 入試はあと一週間に迫っているというのに。そう思った途端、また焦りが湧いてくる。もしかしたら落ちるかもしれない。滑り止めの学校に行くことになるかもしれない。
  
 不都合な未来を想像してしまい、また心が荒む。勝手な思い込みだってわかってる。想像だってわかってる。だけど、確率がゼロではない時点で、やっぱり考えてしまう。

「そんな悪いことばかり考えないで。ほら、いいことを考えれば現実だってそうなるから」

「なるわけ無いよ」

 私は立ち上がった。スカートの裾を整えて、くるりと踵を返して、少女に背中を見せる。

「どこ行くの?」

「帰る」

「自殺は諦めてくれるのね」

 良かった、と言わんばかりの嬉しそうな声が聞こえてきた。そんなわけ無いでしょ。

「今日はもう無理。あなたに邪魔されたから」

「自殺はしちゃダメだよ、絶対にね」

「そんなの知らないよ」

 たった一言だけ言って、私は屋上を出た。薄暗い廊下には、未練がましいモヤモヤとした空気が漂っていた。