あんたなんかに恋するもんか!~わんぱく女子、極道の世界で戦います~

 豆子は自分のつけた源氏名が好きだ。
 豆は栄養満点で健康の味方。地味かもしれないけど、よく味わえばおいしい。
 だから自信を持って、前を見て生きていく。お金も両親もないけど、自分はとっても元気な体を持ってる。
「さ、今日も働くぞ!」
 そんな豆子が運命の出会いをするまで、あと一時間。



 その日の豆子の仕事は、コンパニオンとしてある宴会を盛り上げることだった。
 田舎にいた頃から、自転車で片道一時間かかる隣町の居酒屋で給仕のバイトをしていた。かろうじて風俗営業ではなかったが、酔って触ってくる客くらい日常茶飯事だった。
 四月に上京してからはキャバクラで働いている。そこの店長から人が足りないと頼みこまれて、今日のコンパニオンの仕事に至ったのだった。
 障子を開けて、豆子はにっこり笑った。
「こんばんは! 今日はよろしくお願いします!」
 元気よくあいさつをしながら座敷を歩いて、指定された席に向かう。
 でも席の間を歩きながら、豆子は客に気づかれないように内心うめいた。
 ……これは、危ない仕事だ。
 客は皆二十代から三十代の若い男性十人ほど。羽振りが良さそうで身なりもいいが、皆どこか不穏な空気を持つ。
 元々ここに至った経緯もちょっと変だった。豆子の働くキャバクラは普段コンパニオンの仕事などしていない。そういうのは専門の業者がいるからだ。けれどそういったまっとうな業者がやりたがらない仕事というのもある。
「あ、お酒はまだだよ。主賓が来るまであと一時間はあるから」
 豆子がビールを注ごうとして制されたときも、嫌な予感を確かなものにした。
 その筋の客というのは、上下関係を絶対視する。目上の者がくつろぐ前には、食事さえ取ろうとはしない。
 宴会の開始時間になっても、誰も食事に手をつけなかった。上座はいつまでも空いたまま、コンパニオンと客がただ談笑しているのは奇妙な光景だった。
 それはそれ、仕事だから仕方ない。豆子も客たちと言葉を交わして宴会を盛り上げる。
「豆子ちゃんか。小さくてかわいい。名前にぴったりだね」
「そう? ありがとう。気に入ってるんだぁ」
 彼らは若いのに口調が優しく、女性慣れしている。それでいてぴりっとした緊張があって、豆子の笑顔はちょっとひきつっていた。
「でもよく小さいって馬鹿にされるんだよ」
「男はそう言ってからかうのが好きなんだよ」
 豆子は大変な童顔で背も低く、初対面の人には中学生に見られる。それは一部のお客さんにはウケるのだが、大抵は相手にされない。
 でも今日の客たちは違う。彼らには余裕がある。女くらい、手の平で転がしてみせるというような。
 まずい仕事を受けたな。豆子は心の中で舌打ちした。
 夜の仕事をしている中で、この筋の人とは時々接する機会がある。彼らは普通に給仕をしている限り、むしろ礼儀正しく話上手で、相手をするのは楽だ。
 でもどこかで地雷を踏むと……その後は何が起こるかわからないから怖い。
 豆子は緊張をごまかすように明るく言う。
「お兄さんたち、かっこいいなぁ。スーツ似合う!」
 それにしても何の宴会なのだろう。豆子ははしゃいでいるふりをしながら焦っていた。
 宴会が始まってもう一時間になるが、まだ主賓は現れない。せめて主賓に一杯でも注いでこないと、安全な人の側に引っ込んでやりすごすこともできない。
 面倒な仕事をよこしてあの店長め。心の中で悪態をついていたら、向かい側の席の障子が開いた。
 ……豆子はいつもの外行きの笑顔を忘れて、変な顔をしてしまった。
 それは今日の客たちとは明らかに雰囲気の違う男だった。仕立てのいいスーツに撫でつけた髪、一般的な男性より恵まれた体格などは周りと同じなのだが、やけに内気で気弱そうな表情をしている。
 男は頭をかいてぼそっと謝る。
「悪い、遅れた」
 豆子はネクタイをぐいと締めて気合を入れてやりたくなった。顔立ちはむやみに端正だから、余計にその頼りなさが目立つ。前髪を下ろしたら高校生に間違われるだろうと思う。
 豆子が呆気に取られていると、近くの男たちは苦笑して言った。
「何やってんですか、不破の兄貴」
「若頭補佐ともあろう方が、しっかりしてくださいよ」
 その男は周りに肩を叩かれて、気楽に笑われる。
 空気が変わった気がした。今までは、礼儀正しいが仄暗い空気をまとう奇妙な宴会だった。ところが不破という男が現れた途端、同年代の男友達がふざけ合う飲み会のようになる。
 その男はへこりと頭を下げて言う。
「悪いなぁ」
 不破なんて、まったく見た目に似合わない名前だ。しかも兄貴と呼ばれていながら威厳など欠片もなく謝ってばかりいる。案の定、彼は主賓の席には座らなかった。
 弱っちそう。豆子はそう思いながらも、なぜか彼を見るのをやめられなかった。
 不破は照れくさそうに周りに話す。
「若頭に経済学を教えてたら、こんな時間になっちまって。本当に頭のいい方で、俺の手助けなんてすぐ要らなく……」
 そこでふいに豆子は不破と目が合った。
 豆子が言うのも何だが、彼もまた、変な顔をした。
 彼の目は明らかに女性に見惚れる類のものではなく、何だか困ったみたいにちらちらと豆子をうかがう。
 やがて不破は近くの男と何か小声でやりとりしてから、立ち上がって豆子に歩み寄ってくる。
 豆子は少しだけ肩が張った。緊張しているのだと気づいて、何でこんな男にと自分を奮い立たせる。
 不破は豆子の隣に腰を下ろしながら言った。
「お前、山下の店から来たんだって?」
 豆子は一応敬語も使えるが、この男にそれを使うのは面倒だったのでそのままの口調で答えた。
「そうだよ。店長は山下」
「世渡りのうまい子って指定だったのに、なんでお前みたいな子どもをよこすんだ。大丈夫か? 酒の匂いだけで酔っちまうんじゃないか?」
 不破の言葉は子ども扱いそのもので、豆子はついむっとなって言い返した。
「私は十八歳だよ。これ、保険証」
 豆子は借り物の着物の下から巾着を取り出して保険証を出すと、不破に見せる。不破は慌てて顔を背けた。
「こら、住所がわかるようなものを見せんな。危ねぇだろ」
「それに世渡りも自信あるよ。今日来てる女の子たち、皆知ってるもん」
 豆子は自信満々に答える。
「言ってみせようか。一番右がカンナちゃん。最近のお気に入りは銭湯めぐり。お隣はミズハちゃん。ダイエット中だけどプリンだけはがまんできない。その隣がリエちゃんで……」
「紹介はいいから。問題はお前の話だ」
 でも不破は心配を隠そうともせずに豆子の言葉を遮った。豆子の耳に口を寄せるようにして話す。
「今日は女の子たちの持ち帰り前提で集められた宴会だ。意味、わかってんのかよ」
 豆子は自分の内心を見透かされた気がして、ひやっとした。
 別に好きな男がいるわけじゃない。豆子がそういうことをしたところで、怒ったり泣いたりする家族がいるわけでもない。でも実は、豆子は体を売ることには抵抗がある。
 豆子は口の端を下げて投げやりに言った。
「……別にいいよ」
 何を今さら。豆子は自分を鼻で笑った。この業界に足を踏み入れた時点で通らなければいけない道だ。他人に心配される筋合いもない。
 豆子は一瞬冷えた心を塗り固めるように、ぱっと笑顔を浮かべた。
「今日のお兄さんたち、みんなかっこいいもの! 誰に選んでもらえるかなぁ?」
 私は乗り切れる。立派に仕事をして、帰ってみせる。豆子は自分に言い聞かせる。
 だから放っておいてほしい。突き放すように見返した豆子に、不破はつぶやく。
「お前、見た目ほど幼くはないんだな」
 その言葉の響きは不思議なものだった。男の人がいつも豆子にかける言葉とは違う。子どもっぽく振る舞う豆子を笑うでもなく、だまそうと甘く誘うものでもなく。
 たとえば兄が年の離れた妹を、はらはらしながら諭すような。そういう声音で、不破は言葉を続けた。
「でも大人でもないようだから。……ちょっと来い」
 不破は豆子の手を引いて自分の席の隣まで連れてくると、そこで小声で話し始める。
 あの男は優しそうだが女にも暴力をふるうからやめておけ、あちらは妻が嫉妬深いから手を出さない方がいい、そういうことを一つ一つ教えてくれる。
「今日はな、月岡という男の若頭の就任祝いなんだ」
 誰もが豆子のような一晩限りのコンパニオンには教えてくれないことも、不破はこっそり知らせてくれた。
「月岡は元々、龍守組ってとこの坊ちゃんの世話役だったんだが、組長を脅してその組を乗っ取った。今日ここに来ているのは、組の枠を超えて月岡を支持している若手連中だ。ただのチンピラとは違ってそれぞれの組で何らかの役職を持ってる。だから絶対に怒らせるなよ」
 どうしてそんなことを教えてくれるのか。豆子は問い詰めたい気持ちもあったが、言葉にはしなかった。
 豆子は理由は聞かずに礼だけ告げる。
「わかった。ありがとう」
 私は仕事で来ているのだから、そこには突っ込まない方がいい。豆子は一歩引いて、素直に聞き入れることにした。
 豆子が不破からの情報を頭の中で繰り返しながらうなずいていると、ふいに不破は笑った。
 豆子は少しだけ考えを中断して、不思議そうに不破にたずねる。
「なに?」
「いや……お前、名前は何て言うんだ?」
「豆子だよ」
 何が可笑しいのか、彼はなお笑う。
「栄養満点な名前だな」
 女の子への褒め言葉ではなかったはずなのに、豆子は何だかくすぐったかった。
 そのときだった。奥の扉が開いて、誰かが入ってくる。
 瞬間、空気が一気に張りつめた。
「兄貴、おめでとうございます!」
 一斉に男たちが立ち上がって礼をする。気安い男連中の飲み会が、儀式のように固い空気に変わる。
 入ってきたのは、涼やかな面立ちの男だった。すらりとした長身だが、今日の客たちは皆体格がいいから、彼らの中ではやや小柄かもしれない。まだ二十代後半で、格別厳つい顔をしているわけでも、着ている服が派手というわけでもない。
 ただ、しなやかな鞭のように鋭い雰囲気を持っていた。そして正面から睨まれたら腰が抜けてしまうほど、目の光が強かった。
 主賓の席についたその男は、まぎれもないリーダーの空気をまとっていた。
「先に始めていていいと言っておいただろう。気を遣わせてしまったな」
 月岡というらしい男は静かに詫びたが、それは聞き惚れるくらいの低音だった。
 宴会の開始時間から二時間は経っていて、今はもう九時だ。だが誰一人として緩んだ空気は持っていない。それが彼の人徳からなのか、恐ろしさからなのかは、豆子にはわからない。
「始めようか」
 月岡が一声かけると、一斉に男たちが動き出す。
 コンパニオンはほとんど必要なかった。かなり長いこと、月岡の周りに男たちが挨拶に押し寄せて酒を注いでいて、女の子たちは手が空いてしまった。
 月岡は豪勢な料亭の食事を前に、ほとんどそれに手をつけない。酒は多少飲んでいるようだが始終涼しげな様子で、表情を変えることもない。もうどこかで食事は終えてきたのかもしれないと、豆子は思う。
 豆子は女の子たちに目配せしたが、彼女らは熱っぽく月岡を見ているばかりで豆子には気づかなかった。
 たぶん今日呼ばれた女の子たちは、誰もが月岡に持ち帰られることを狙っているからだった。龍守組という名前は豆子も耳にしている。いくらその筋の人間の立場が危ういとはいえ、愛人にでもなれば一時的にでも豪勢な生活ができる。
 まして月岡は、恐怖と紙一重の危険な美しさをまとった男だった。男たちの話を聞いているときのけだるげな仕草、どこか憂い顔で遠くを見やるまなざし、男として魅力的なのも間違いない。
 でも豆子は座ったまま横を見て言った。
「あいさつに行かないの?」
 豆子は、そんな月岡に近づかない不破の方が気にかかった。
 不破もあまり食事に手をつけず、豆子が注ぐビールを黙々と飲んでいるだけだ。
 豆子はなけなしの業界知識を披露しながら言う。
「不破も若頭補佐って立場なんでしょ。組の三番目に偉い人だっけ?」
「うちは龍守組と違って弱小だ。立場が違う。俺なんて相手にされねぇよ」
 不破はそう苦笑したが、先ほど不破は年上の男からも兄貴と慕われていた。実際、不破に酒を注ぎに来る男たちもたくさんいる。
 でも不破が月岡に嫉妬しているかというと、全然そうも見えない。時々月岡を見やって、懐かしそうに目を細めていた。
 不破はふいに豆子に問いかける。
「お前、友達っているか?」
 豆子は瞬きをして、何を当たり前のことをと言い返した。
「いるよ。田舎にも、上京してからも。そりゃいつも一緒にいられるわけじゃないけど、友達って大事だもん」
「そうか」
 不破は笑って、ぽんぽんと豆子の頭を叩く。
「同感だ。友達はほっとけない」
 その手が優しかったから、豆子は見上げた不破がやけに大人っぽく見えた。
「さすがに一杯くらいは注いで来ないとな。礼儀は見せないと」
 豆子は不破の声に我に返る。慌てて月岡の方を見ると、どうやら一通りのあいさつは終わったらしく、月岡はコンパニオンの女の子たちに取り囲まれていた。
 不破は立ち上がりながら豆子に言う。
「お前も囲むくらいはしてきた方がいいぞ。失礼のないようにな」
 最後の言葉はまた子ども扱いしていて、豆子は一瞬不破を仰ぎ見た自分にむっとした。
 不破に連れられて、豆子も月岡の近くに移動する。それでも豆子や不破が月岡に晩酌をする機会はなさそうだった。月岡ははしゃぐ女の子たちに二重三重と囲まれていて、とても隣まで行けない。
 ただそのとき、豆子はちょっと違和感を持った。
 当の月岡はというと、上の空でほとんど女の子たちの相手をしていなかった。体をくっつけようとする女の子に面倒そうな素振りをすることもあって、宴会を楽しんでいる風もない。
 ただ目端の利かない男でもないようで、ふと不破を目で捉えて言う。
「不破。来ていたのか」
 月岡の声は驚いていて、意外そうな顔をしていた。
 不破は酒瓶を持って月岡に近寄ると、淡々と告げる。
「若頭就任、おめでとうございます」
 二人の力関係をよく知らない豆子でさえ、それは冷ややか過ぎる祝いの口上だった。
 不破はそれ以上何も言おうとせず、機械的な動きで酒を注ぐ。月岡は無表情でそれを受けた。
 義理は果たしたとばかりに席を立って去ろうとした不破に、月岡は低く告げる。
「私は力で奪ったことに後悔していない」
 不破は目を動かしただけで振り向かなかった。
「お前も後悔のないようにな」
 けれど豆子は一瞬、不破が傷ついたように口の端を下げたのを見た。
 豆子は故郷を離れるときに友達にかけられた言葉を思い出していた。
――夢を追うのもいいけどさ。あんた、それでどんどん傷つくじゃん。
 友達は豆子を思って言ってくれたとわかっていた。
 それでも豆子は彼女の言葉に傷ついた。
――自分を守りなよ。後悔しないようにさ。
 そんなこと言われたって。豆子は腹立たしかった。
 私は自分がいいと思うように精一杯やっている。あんたに何がわかる。
 そう、歯ぎしりするように思った自分に、今の不破の姿が重なる。
 豆子は思わず口を挟んでいた。
「つ、月岡様はお仕事がお忙しいんですか?」
 豆子は目の端で不破に言う。その傷を抉っては駄目だ。そこに足をとられると、際限なく傷ついてしまう。
「ほら、今日ずいぶん遅くいらっしゃったし。あまりお食事も進んでいらっしゃらないみたいだし。それになんだか……コーヒーの香りがしますよ?」
 自分が月岡の気を逸らすから、早く席に戻るんだよ。そういう意図で言葉を紡いだのに、どうしてか不破は顔色を変えて振り向いた。
 その理由は豆子が月岡を見やって気づいた。明らかに、月岡は不愉快という顔をしていた。
 まずいと豆子が慌てたのを、周囲も感じ取ったらしい。
「月岡様はお疲れなのよ。若頭に就任されたばかりなんだから。だからそんな月岡様を慰労させて頂く会が設けられたのでしょ」
「そうですよ。兄貴、仕事のことは忘れてくつろいでください」
 年上のコンパニオンに続いて、男たちも女の子を示しながらそれに続く。
「気に入った子をいくらでも持ち帰ってくださいよ!」
 でもどうやら、豆子は月岡の機嫌を決定的に損ねてしまったらしい。
 月岡は顔をしかめて言い捨てる。
「……酒など飲むんじゃなかった。私はコーヒーがあればいいんだ」
 くっついてきた女の子をあっけなく払って、月岡は席を立とうとする。
 瞬間、男たちから一斉に豆子に放たれたのは、殺意だった。
 ぞわりと豆子は身の毛がよだつ。
 この女はなんて余計なことをしてくれたんだ。ただでは済まさない。そういう悪意が視線となって豆子に突き刺さる。
 ……私、殺されるかもしれない。生まれて初めてそう思った。
「申し訳ありません! 兄貴!」
 突然声が響いて、淀んだ場の空気が変わる。
「うちの店の娘が気分を台無しにするようなことを申し上げました! どうか許してやってください!」
 振り向くと、月岡の前で不破が頭を床につけて謝罪していた。
 不破はすがるようにして懸命に言葉を紡ぐ。
「詫びは後で何なりと。ですが……!」
 どうか、ここで席を立たないでください。
 不破が言葉にしなかったことを、月岡は察したらしい。
 月岡は長く息をつくと、そのまま落ち着いた声で続けた。
「……お前の店の子か」
 月岡はつぶやいて、すとんと席に腰を下ろす。少しだけ笑みを浮かべると、豆子を見やって言う。
「私こそ少し気が立っていたようだ。飲み直そう。君、注いでくれるか」
「は、はい。もちろんです!」
 月岡が豆子を許したのであれば、男たちも何もできない。豆子はその暗黙のルールに気づいて、安堵の息を吐いた。
 結局、月岡は最後まで宴席に残ってくれて、豆子は男たちに危害を加えられることもなかった。
 長く緊張の連続だった宴会は終わって、豆子はずっと言いたかったことを告げた。
「……ありがとう、不破」
 豆子はどうにか不破を捕まえて礼を言う。
 時刻はとうに零時を過ぎている。街はネオンで眩しく、風は冷たい。
 不破はくしゃっと笑って首を横に振った。
「いや、俺こそ礼を言うよ。お前は月岡の気を逸らそうとしてくれたんだろ。下手くそな敬語だったけどな」
 不破はポケットに手を突っ込みながら背を丸める。せっかく背が高いのだから背筋を伸ばせばいいのに、その仕草はちょっと格好悪い。
 豆子が不破の店の子というのは嘘だ。あの後知ったことだが、不破のシマは豆子の働く店とは正反対の方向にある。豆子のところの店長とたまたま知り合いで、今回人をよこしてほしいと頼んだだけだった。
 不破は情けないような声でぼやく。
「格好悪いとこ見せちまったなぁ……」
 不破は頬をかくが、豆子は首を横に振る。
 もし月岡の機嫌が戻らなかったら、危なかったのは不破の方なのだ。それでも迷わず、自分がみっともないことをして豆子を守った。
 豆子は憮然として言い返す。
「不破は、たぶん格好いい」
 不破はそっか、と照れ笑いをした。子どもみたいな笑い方をする男だと、豆子は思った。
 不破は時計を見下ろして、豆子に言った。
「じゃ、気をつけて帰れよ。できればこういう仕事はもう受けるな」
「え? でも今日は持ち帰りオーケーの宴会だって」
 踵を返そうとした不破に、豆子が慌てて言い返す。不破は難しい顔をして肩を竦めた。
「わからない奴だな。「俺が持ち帰った」からお前は誰にも誘われねぇよ。残念だったな」
「いや、だったら私の仕事はまだ……」
「終わりだよ。さっさと帰れ」
 不破は豆子の鼻に指をつきつけて言う。
「いいか、豆子。世の中には想像を絶する暴力ってのがある。それを怖がる気持ちは常に持っておけ。それで、危険を感じたらすぐに逃げろ」
「説教くさい男だなぁ……」
「しょうがねぇだろ。お前、見た目より頑固なんだから。……柔らかい鼻だな。ほら、これでお触りもしただろ」
 不破は豆子の鼻をつついて遊ぶと、手を離す。
「じゃあな」
 不破はそのまま雑踏に消えていこうとする。豆子は思わず叫んだ。
「不破!」
 相変わらず丸まった背中。それに向かって、豆子は声を送った。
「私、仕事は続けるよ。でも、体は売らないから!」
 不破は振り返って、そういうことを大声で言うなというように呆れ顔で手をひらひらさせた。
 それで噴き出すように苦笑して、また背を向けて歩いて行く。
 情けないけど格好いい。気弱そうで、けれど強い。そんな男が心に焼きついたまま、豆子も背を向けて歩き始めた。
 豆子は異性に淡泊な自覚がある。
 仕事ではおもいきりお客さんに甘えてみせるし、男の子と話すことも得意だ。すけべな言葉を聞いても触られても、笑い飛ばせる。
 ただ笑い飛ばせてしまう自分が、時々寂しくなるのだ。私って結局、男の人が好きじゃないんだなぁと実感してしまう。
 だから今まで体を売らなかった。そこを超えると後は何でもありになってしまいそうで、哀しかったから。
 では女の子はどうかというと……こっちは思い入れが過ぎる自覚があった。
 バイト先のキャバクラに着くなり、豆子は悲鳴みたいな声を上げた。
「店長が夜逃げしたってほんと!?」
 答えより店内の様子の方がわかりやすかった。衣装や貴金属を鞄に詰める子、右往左往している子。その中で比較的落ち着いている年上の同僚が豆子に話をしてくれた。
「そ。店長、だいぶ借金貯め込んでたみたいでさ。あんたもさっさと金目のもの持って逃げた方がいいよ。じきに借金取りのやくざどもが押し寄せてくる」
 それは冷たいかもしれないがまっとうな言葉だった。まだ豆子のことを思ってくれているだけ優しい。
 でも豆子は、途方に暮れたように座っている年下の子たちを見て言った。
「ミリやナツはどうなるの?」
 彼女らは十八歳の豆子より年下、つまり本来なら働かせてはいけない年頃の子たちだ。けれど家族に暴力を振るわれていたり、いじめに遭ったりしていて、家に帰るに帰れない。
 年上の同僚は舌打ちして、座ったままの彼女らに声をかける。
「ほら、あんたらも逃げなさい。ここにいたって誰も金はくれないだろ!」
 ミリとナツは少しだけ怯んだが、やはり動かなかった。同僚は痺れを切らして、豆子の肩を乱暴に叩く。
「ぐずぐずするな。あたしはもう行くからね!」
 更衣室の荷物を取りに行く同僚を、豆子は立ち竦んで見送った。
 同僚の言う通り、もう誰も給料はくれない。それならここにいる意味はない。幸い豆子はミリやナツのように住みこみで働いているわけではないから、ここを出て別の職場を探せばいい。
 けど、地団駄を踏むような気持ちがせり上がってくる。飲みこもうとしても、感情が喉を焦がす。
 感情で走っている場合じゃない。考えるんだと自分に言い聞かせて、豆子は長い間壁にもたれて腕を組んでいた。
 結局、ミリとナツは最後まで残ってしまった。そして豆子も。
 それまでには、豆子の頭に一つだけ方法が浮かんでいた。
「代わりの店長をよこしてもらって、ここで働き続けることができるようにしよう」
 ミリとナツの目に少しだけ光が戻る。豆子はそれを消さないように言葉を続けた。
「これ、私のアパートの鍵。何回か泊まったから場所はわかるよね? 明日の晩には戻るから、冷蔵庫の中のもの適当に食べてしのいで」
 豆子にアパートの鍵を握らされて、二人は顔を見合わせる。
「めーちゃんはどうするの?」
 豆子は自信ありげにうなずいた。
「私はここに残って借金取りと交渉する」
「危ないよ! 相手はやくざなんだよ!」
「いちおー人間だよ」
 豆子はへらっと呑気な笑みを浮かべてみせる。
「ダメそうなら逃げるから大丈夫だよ。私、逃げ足早いもん」
 それからはへらへら笑ってミリとナツをごまかした。自分が明るく見えるのは知っている。二人に異常さを気づかれない内に遠くに逃がしたかった。
 案の定、二人は甘えたように言ってくる。
「明日の夜には戻るんだよね?」
 豆子は、うん、と笑った。
「甘いもの持って帰るよ」
 ようやく二人を店の外に出した後、豆子は顔をしかめた。
「……馬鹿」
 こんな風だからお金は貯まらないし、夢はどんどん遠ざかる。
 それにミリやナツのためだなんて、偉そうなことは言えない。本当に二人のためを思うなら、こんな危ない店で働くのではなく、通報してでも二人を保護してもらった方がいい。
 でも豆子はミリやナツの味方をしたかった。それでいいよ、好きなようにやりなよと言っていたかった。そうすれば多少はミリやナツに好かれる。
 豆子の中には冷めた人生観がある。どうせ誰も他人に責任など取りはしない。だったらあなたのためを思っているなど、言われたくもない。
 私は私の思うようにやる。間違っていようと、危ない道だろうと。
 壁によりかかって腕組みをしたまま、ギラギラしたシャンデリアの下で待つ。
 時間感覚がしびれていたから、どれくらいの時が経ったのかはわからない。
 店の外に誰かやって来た気配がした。豆子はびくりと肩を震わせて、けれど次の瞬間には笑顔を浮かべてみせた。
「豆子、いるか?」
 扉を開けて入ってきた男を見て、豆子は変な顔をする。
「……不破」
 それは一月ほど前の宴会で会った、あの頼りなさげな男だった。やくざというには幼すぎる顔立ちで、彼は背を丸めてひょいと店内に入ってくる。
 豆子はまだ笑顔を張り付けたまま問いかける。
「なんでここに?」
 だけど少しだけ語尾が掠れたのを、不破は聞き取ったらしい。
 不破は落ち着いた声音で言う。
「心配するな。俺だけだ。けどこれからどんな奴が来るかわからないから、すぐ離れるぞ」
「……だめだよ」
 腕を掴んで外に引っ張ろうとした不破の手を、豆子は振り払って言う。
「私はここに残る。店長の代わりに誰かよこしてくれるように頼まないと」
「何言ってんだ」
 不破は顔をしかめて豆子を叱った。
「お前一人で交渉できる相手じゃない。店長の縁者かと誤解されて、お前に借金返済をふっかけてくるぞ。お前、まず自分の心配をして……」
「……余計なお世話だ!」
 豆子はかっと頭に血が上るのを感じた。
 その感情が喉も駆け上って、豆子を怒らせる。
「聞こえのいいことばかり言って、一体誰が弱い者を助けてくれる? 私にとって今一番大事なのは友達なんだ!」
 豆子は自分が同性に甘いのを知っている。女の子が困っていると、無条件で助けたくなる。
「あの子たちは私のことを友達だなんて思ってないって、私も知ってるよ! でも女の子は私のことを好きになってくれるじゃないか。好きになってくれる人を大事にして、何がいけないんだ」
 どうして一度会ったきりの男にこんな愚痴をぶつけているんだろう。豆子は感情を抑えようとしているのに、不破を見ていると言葉がどんどんあふれてしまう。
 不破が言葉も挟まずに聞いているから、余計に感情が止まらない。
「私は自分の手の届くところは守ると決めてるんだ!」
 豆子は思う。たぶん自分の中心には、恐怖がある。早い内に両親を亡くし、親戚の家で育った。親戚は豆子に親切にしてくれたが、無条件に守ってくれるわけじゃない。自分で自分を守らなければいけない。
 心も同じだ。いつ自分を傷つけるかわからない人たちに、心を開けるわけがない。
 そのために、自分に近い人たちを求めた。年の離れた人より同年代、男より女、お金持ちより貧乏。それで、自分に近いと思った人は過剰すぎるくらいに守った。
「私は怖くない!」
 ……怖くてたまらないから、味方のようなふりをして近づくな。
 豆子が叫んだとき、不破の胸に頭を押し付けられた。一瞬息が詰まって、固いスーツの感触に驚く。
「不、破。なに……」
「それでいい。怖がればいいんだ」
 不破の声はなだめたり甘やかしたりする響きではなかったから、豆子は頭を押し付けられたまま目を見開いた。
「その感情はお前を守るために必要なものだから。大事に持っておけばいい」
 なんて説教くさい男だと、豆子は顔を歪める。
 怖くないと言っているのに、自分にかかわるなと全身で叫んでいるのに、この男は豆子の内心をたやすく見通してしまう。
 不破のスーツは、緑の香りがした。一度だけ行ったことがあるお金持ちの友達の家と同じ品のいい匂いで、なんで夜の世界の人間がこんな匂いをつけているのだろうと不思議だった。
 どう文句を言えばいいのかわからず黙った豆子に、不破は体を離して告げる。
「「一人で交渉できる相手じゃない」だけだ。俺が一緒に交渉する」
「え……」
 思いもよらないことを言われて、豆子は息を呑む。
「お前よりは情報を持ってる。経験もな。俺はこんな仕事の人間だし、信用しろと言われても難しいだろうが……」
 助けてやると言うより頼むような口調で、不破は問う。
「一度だけ、俺の言う通りにしてみないか?」
 豆子は一瞬、訳がわからなくて言葉をなくした。
 まったくもう、この男は何なんだよ。そう思ったから。
 でもこの男はまた、助けようとしてるんだろうな。ほっといてよ、自分で何とかするよ。
「……わかったよ」
 いらついたけど、ちょっとほっとしたのも本当だった。
 豆子は怒りだしたいような気持ちで、顔は完全なしかめ面で、仕方なくうなずいたのだった。



 不破が豆子を連れて向かったのは、川沿いに老舗商店が並ぶ一角の仕出し屋だった。
 豆子は不破と話しながら左右を見回す。
「ここ、宴会場とかに料理出してるところだよね? 私も名前見たことあるよ」
「見た目はな。でもここが、お前のいた店一体をシマにしてる猫元組の事務所だ」
 猫元組と豆子は口の中でつぶやく。
 時刻は夜の十時を過ぎている。けれどこの辺りは旅館や料亭が並んでいるから、人の気配はまだ絶えない。豆子の店の辺りと違っていかがわしい雰囲気もなく、温泉街という印象が強い。
 不破は店に置き去りになっていたボーイの黒服を着込んでいる。安っぽい蝶ネクタイとシャツに黒ベストで、中途半端に前髪を撫でつけているから、無理してキャバクラでバイトしている不良みたいだ。
 不破は店の前に立って息をつくと、念を押すように小声で言う。
「猫元組は穏健派だから暴力沙汰はないと思うが、それでも気は抜くなよ。話しておいた通りに」
 豆子は不破の彼女のキャバ嬢役らしい。普通の同僚じゃ駄目なのかと豆子は文句を言ったが、恋人同士の方が自然だからと押し切られた。
 豆子はちらと不破を見上げる。
 不安でないのが不思議だった。たった一度会っただけの男と組事務所に乗り込むというのに、わくわくする気持ちさえある。
「どうした。俺だけで行けってか」
 豆子の視線に気づいたのか、不破が振り向いてうさんくさそうな目をする。
「言っとくけどな、俺だって怖いんだぞ。でも一応連れがいれば、何かあったとき助けを呼んでもらえるから」
 豆子は顔をしかめてため息をつく。
「……私も行くってば。まったく、情けないなぁ」
「情けないって何だ。危機感を備えてない奴は……」
「こんばんはー! 夜分お邪魔しまーす!」
 こんな奴に期待した自分が馬鹿だった。豆子は半ばやけな気持ちになって、店の呼び鈴を鳴らした。
「猫元組の方にお願いしたいことが……」
 不破が奥から出てきた店員にそれだけ小声で言うと、二人はすぐに二階に通された。
 二階から廊下を渡って別の建物に入ると、豆子は思わず辺りを見回した。
 そこはオフィスだった。店構えは完全な日本家屋だったのに、実は店の背後に美術館ほどの大きさの建物が隠れていたらしい。広々とした吹き抜けの二階部分に五十人は働けそうな数のデスクが並び、奥に二つほど小部屋が見える。デスクには観葉植物や趣味らしいバイクの切り抜きが貼ってある。
 さすがに夜も更けたこの時間帯ではデスクに座っている人はいない。しかし小奇麗で明るいフロアを見ると、ここがやくざの事務所だというのは信じられない。
「私、夜間窓口担当の者です。どうされましたか?」
 ここで働いてる人ってどんなエリートビジネスマンだろう。想像を膨らませながら奥の小部屋に入ると、そこで応対してくれたのはまさに豆子がイメージした通りの男性だった。清潔感のあるスーツに洒落た眼鏡姿で、一見して風俗業と思われる格好の豆子と不破の二人にも丁寧に言葉をかけてくる。
 不破は慌てた様子でシナリオ通りに口を開く。
「俺たち、田舎から駆け落ちして来たんです!」
 とにかく無力で世間知らずな顔をしろ。不破は豆子にそう教えていた。豆子もすがるような目の演技をする。
「それで山下っていう店長のキャバクラで一緒にバイトしてたんですけど、店長が夜逃げしちゃって」
「お店は金目のもの持って逃げる子たちでてんやわんやで」
 不破に続いて、豆子も困り顔で言葉を重ねる。別にこの辺りは嘘じゃない。
 男はうなずいて豆子たちに返した。
「それはお困りですね。山下の店は我が組の傘下ですし、知らせてくださってありがとうございます」
 男の言葉は礼儀正しかったが、それはビジネスライクな響きもあった。次の瞬間には丁重に帰らされてもおかしくない空気だ。
 男が言葉を続ける前に、不破は豆子に目配せした。
 豆子はうなずいて言う。
「それより私、次にどんな店長が来るのか気になって。猫元さんが新しい店長を手配してくださるのは嬉しいんですけど、怖い人だったらどうしようって」
 男は一瞬訝しげな顔をした。猫元組が新しい店長を派遣するという話はない。豆子だってそんな話は聞いていなかった。
 不破は懐に手を入れて、何枚かの領収書を机に出す。
「……店長が借金していたのって、なんか危ない感じの人たちだったんですよね」
 その領収書の束を目に映したとき、明らかに男の顔色が変わった。
 いいものみつけたと、不破はこれを見て言っていた。
 領収書は不破が店から持ち出したもので、ぱっと見何の変哲もない借金返済の領収書だが、宛名が猫元組ではないらしい。
――店は猫元組の傘下だってのに、店長は猫元組じゃないところに借金をしてたんだ。しかもそれが……。
 突然目の前の男が立ち上がって、奥に入っていった。
「少々お待ちください」
 まもなくもう一度男が戻って来ると、豆子たちを応接間のような広い空間に通した。
 そこにはきっちりとスーツをまとった男たちが三人ほどデスクにいて、ちらと目を上げる。先ほどのビジネスマンらしい男と違って、皆眼光が鋭くガタイがいい。
 その中で一人、六十は過ぎていると思われる白ひげの老人が座っていた。彼は首を傾けて問う。
「いらっしゃい。お客さんかい?」
 老人の言葉遣いは上品で、ゆったりとした和装を小柄な体躯にまとっていた。
 老人は立ち上がると、柔和に顔を綻ばせて豆子に近づく。不破は警戒心を見せたが、彼は不破に笑いかけてそれをやんわりと受け流した。
 老人は豆子の前に小皿とお茶を置く。
「うちで出している甘納豆だよ」
 故郷の老人たちは豆子に優しかった。それを思い出して、豆子は笑顔になる。
「ありがとう、おじいちゃん。私、あずき大好き。私源氏名が豆子っていうんだけど、豆ならあずきが一番いいよね」
「豆子ちゃんか。素敵な名前だね」
「うん! そうでしょ?」
「おい」
 ふいに不破が豆子の袖を引いて声をかける。豆子はむっとして横目で不破を見た。
「なんだよ。話し中だよ」
「あのな、そちらの方は……」
 不破が答える前に、奥から出てきた男がいた。
「待たせて悪かったな」
 その男は先ほど応対に出てきた男と違って、明らかに筋の人間だった。年齢は四十代後半ほどで恰幅がよく、厳つい面立ちをしていた。仕草はおっくうそうだが目は油断なくこちらを見据える。
 老人は静かにソファーのところまで去っていった。入れ替わりにどさりと向かいのソファーに腰を下ろして、男が問いかける。
「山下っていう店長が虎林組に借金をしてたって?」
――お前のところの店長が借金をしてたのはな、虎林組っていう、この辺りで一番やばいことに手を突っ込んでるところだ。
 不破の言葉を思い出しながら、豆子はきょとんとする。
「虎林組って?」
「なんだ、知らないのか」
 知らないふりをしろと不破に言われていたから、豆子はそのとおりに進めた。
「お金払ってる組も、店長が誰かもどうでもいいです。私たちは東京で働いて、早く一緒になりたいだけですよぅ! ね!」
 豆子は不破の腕に抱きついて、甘えた声で同意を求めてみせる。
 不破は一瞬身をカチンと凍らせて、おもむろに咳をした。
「お、おう……そうだな」
 不破はどうしてかしどろもどろになって、目を逸らしながらうなずく。
 さっきまで演技過多だったのはそっちなのに、変な奴。豆子が内心で首を傾げていると、不破が身を乗り出して小声で言う。
「店に来てた若衆から察すると、たぶん胴元は柴田。派閥は東原系。中心組織ではないですが、傍系というほどでもない」
 不破の言葉に、向かい合う男は目を細めて低く言う。
「お前はやけに詳しいじゃねぇか」
「俺は店の経理担当でしたし。……こいつ、守らないといけないもんで」
 豆子が知らない話をする不破は、別人のように見えた。けれど豆子の頭をぞんざいに叩いたときだけは、こっちが気恥ずかしいくらい優しい目をしていた。
 不破は淡々と言葉を続ける。
「でも詮索するなというならこれ以上は踏み込みません。俺も結局、こいつと一緒になりたいだけですから」
 そう言った不破の横顔が頼もしくて感じられて、豆子は不覚にも少しだけ見惚れた。
 沈黙はそれほど長くなかった。ふいに男は噴き出すように笑って、膝を叩いた。
「……わかった。いいだろう」
 男はにやっと笑って言う。
「猫元からすぐにまともな店長を送ってやる。虎林から人をよこされてはこちらも困るんでな」
 唐突に望み通りの言葉を聞けて、豆子は拍子抜けする。
「だからあまりこっちには来るなよ。坊主、嬢ちゃん」
 男がおおらかに告げて、不破は苦笑してうなずいた。
 どうやら目的は達したらしい。豆子はまだ実感が湧かないまま座っていた。
 男はふいに白ひげの老人に振り向いて問う。
「親父の人脈を使わせて頂きますが、構いませんか?」
 ……親父? 豆子は訝しげに老人を振り向く。
 ソファーに座っていたあの白ひげの老人はほほえんでうなずいた。
「お前のいいようにしなさい。私はもう隠居の身だから」
「助かります」
 老人はまた立ち上がると、歩み寄って来て豆子の前の小皿と湯呑を下げようとする。
 男は呆れたように言った。
「親父、いいですいいです。そんなことは下の者がしますから」
「年寄りの楽しみを奪わないでくれ。可愛いお嬢さんにお菓子をあげるくらいいいだろう?」
 豆子は老人を見上げて気づく。
 この業界で親父、それはつまり組長。
 ……じゃあこの人、猫元組の一番偉い人だ。
 老人は小皿と湯呑を手に言う。
「全部食べてもらえてうれしいよ。豆子ちゃん」
 急に食べたものの味がわからなくなった。そんな偉い人に、おじいちゃんありがとうなどと言ってしまった自分が恥ずかしくなる。
 男が席を立って出て行くと、猫元組の組長はぽつりと言った。
「不破君にも食べてもらいたかったんだけど」
 不破は肩を強張らせて目だけを上げる。
「……俺をご存じでしたか」
「若手有望株といえば君と月岡君、それは常識。でも、君は表に出たがらないからなぁ」
 組長は底の見えないほほえみを浮かべて、独り言のように言った。
「豆子ちゃんを大事にね」
 不破は難しい顔をして、何かを考え込むように組長から目を逸らした。
 猫元組の事務所から帰る道は、あまり覚えていない。
 豆子は先を行く不破をただ、追っていた。
「不破、待って。速い」
 また深夜の零時頃だった。繁華街の中を、今度は速すぎる足取りの不破と歩いていた。
 不破に助けられたのは二度目だ。それなのに、彼は相変わらず金も体も要求してこない。
 豆子は今まで、対価をはっきり要求する男と付き合ってきた。見返りもなく自分に近づいてくる男は、かえって不審で信用できなかった。
 ぎらつくネオン、目立つホテルの数。不破は先ほどから考え事をしているようで、背を丸めて豆子の数歩先をさっさと歩いて行く。
 豆子はいらだったみたいに問いかける。
「私に何かしてほしいこととかないの?」
 素直な気持ちで礼を言いたいのに、そんな言い方しかできない自分が嫌だった。
 こういう私は、可愛くない。仕事なら腕に抱きついて甘えられるのに、気になる男にはまるで素直になれない。
 何か言ってよ。たとえば私を幻滅させるようなことを。
 そんな願いをこめて、不破の背中をみつめたときだった。
 不破は足を止めて、中途半端に振り向いた。
「お前、さ」
 口を開いて彼が放った一言が、豆子の心に刺さる。
「いくら要るんだよ?」
「え?」
 一瞬、何を言われたのか信じられなかった。
 不破は眉を寄せて言ってくる。
「何か目的があって夜の世界で働いてるんだろ。足を洗うのにいくらかかる? ……金なら出してやるから、お前、もうこの世界やめろ」
 見返りなく与えてくれるなんてありえない。それを、不破の側から投げ返されたような気分だった。
 そんな風に見られていたのか。体が熱くなって、豆子は叫んでいた。
「私はそんな安い女じゃない!」
 自分だって不破をそういう安さで片付けようとしたのに、怒るなんて身勝手だろう。そう思うのに、体が爆発するような怒りのままに言葉を吐きだす。
「金を目当てに近づいてくる愛人連中と一緒にするな! 私が金を稼いでるのは大学に行くためだ! 勉強して、お金も地位も手に入れて、側にいてくれた親戚や友達が困ったときに助けられる人間になるんだ!」
 豆子の周りには打算に満ちた人たちがたくさんいた。でもそんなことは構わない。その心にあるのが打算だろうと世間体だろうと、側にいて豆子を守ってくれた。
 不破はうろたえたように瞳を揺らす。豆子の目から涙が溢れたから。
 豆子は涙でにじんだ声で叫ぶ。
「誰があんたの愛人の一人になんかなるもんか!」
「豆子!」
 豆子は背を向けて走り出す。けれど短いスカートでは走りにくい。すぐに不破に追いつかれて肩を掴まれる。
「すまん! そういうつもりじゃ」
 豆子は顔を背けて、首を横に振る。
 好きなんだ。豆子は喉元まで上がってくる言葉を飲み込む。
 愛人でもいいから不破の側にいたいと、弱い自分が言ってしまいそうになるから。
 豆子は考える時間を作らないようにしながら言った。
「……もう顔も見たくない。さよなら」
 そう吐き捨てるように告げて、豆子は不破の手を振り払った。





 まもなく新しい店長が猫元組からやって来てキャバクラは再開されたが、豆子は店をやめた。
 不破の言うことを聞いたつもりはない。ただ店で働いていると、また不破に会ってしまいそうで嫌だったからだ。
 今更合わせる顔はない。けど不破がどうしてるかは気になった。
 不破は豆子を助けてくれた。いろんな情報やコネを使って、自ら組事務所に赴いて交渉までしてくれたのに、豆子はお礼もきちんと言っていない。
 気まぐれといえば嘘になるくらい、何度か不破のシマに行ってみた。それとなく、その辺りで働いている友達に不破のことを訊いてみた。
 友達の答えは大体決まっていて、豆子の望むような情報は少なかった。
「そういえば最近見かけないわね。まあ元々あんまり水商売に関わりたがらない人だけど」
 誰に訊いてもそんな調子で、猫元組の組長も言った通り、不破は確かに表に出たがらない男でもあるようだった。
 豆子は短期バイトで食いつないでいた。いっそまたコンパニオンとして宴会にでも入り込んでやろうかと思ったが、何となく不破のしかめ面が思い浮かんでやめた。
 友達に聞きまわったので、収穫なら多少はあった。不破が若頭補佐を務めているところは白鳥組といって、高齢の組長に、二十歳になったばかりの一人息子の若頭がいる。不破はその若頭に代わって組を任されていて、大変忙しいらしい。
 体は大丈夫なんだろうか。貧弱な背中を思い出しながら、ティッシュ配りのバイトを終えて自宅のアパートに帰ったところだった。
 暮れゆく太陽が、一階建てのボロいアパートを照らしていた。そこに見慣れない黒い高級車が停まっていた。
 豆子がそれを避けて自室に向かおうとすると、後部座席から誰か降りる。豆子は視界の隅にその姿を見て、おやっと思った。
 車から降りてきたその人は丁寧な仕草で会釈をして言う。
「こんにちは、豆子さん」
 このボロアパートには似つかわしくない、上品な薄青の着物に身を包んだ青年だった。背はそれほど高くないが姿勢がよく、すらっとしていて、ほほえむ様が育ちの良さを思わせた。
 豆子は首を傾げて問いかける。
「私に用?」
「失礼。僕は直之と言います」
 豆子はその名前を最近聞いたことがあった。思わず目を瞬かせると、彼は豆子に告げる。
「白鳥組という組織の若頭を務めております。補佐の不破のことで、お願いがあって参りました」
 頭を下げてから顔を上げた彼は、困ったように笑っていた。
 数刻後、豆子はオフィス街のビルにいた。物陰で直之と一緒に待っていると、車が横付けされて不破が降りてくる。
 不破は忙しなく部下と言い交わしながら歩いていく。
「何か動きはあったか?」
「刈谷が寝返ったようです。うちにも影響があるかと」
「日野に人をよこして留めろ。若の身辺に危険が及ぶような事態にはするな」
 不破は、触れられない刃のように鋭く見えた。気弱そうだった表情はどこにもなく、荒んだ感じもあった。
 不破はあっという間にビルの中に消えてしまった。豆子と直之も後に続く。
 豆子は直之に続いてビルの十階に上って、オフィスフロアに入った。そこは以前不破から感じた緑の匂いがした。猫元組の事務所ほど広くはないが清潔で、行き来する組員たちもあまり荒っぽそうではない。
 直之は休憩所らしいブースの窓辺の席に着くなり、ため息をついて言った。
「最近、不破は寝る間もないんです」
 彼は豆子に目を移して訊ねる。
「龍守組の月岡さんはご存じですか?」
「うん。組を乗っ取って若頭になったって」
「ええ。その影響がうちにも及んでいるんです。主に悪い影響が」
 直之は窓から見える景色を指差しながら話す。
「うちの白鳥組は龍守組の傘下ですが、川向かいの虎林組の系列とも微妙な関係にあります」
 思えば豆子と不破が乗り込んだ猫元組は川向こうで、一応虎林組の傘下だった。だから不破は白鳥組の若頭補佐という立場を隠したのだろう。
 直之は困った様子で話を続ける。
「月岡さんが龍守組を乗っ取ったことは、虎林組に格好の文句のネタを与えてしまいましてね。筋が違う人間にトップを任せて黙っているつもりかと。それで虎林組の組員が川のこちら側に流れ込んでいます。つまり、白鳥組のシマを荒らしていまして」
 上流階級の匂いのする直之の口からシマという言葉が出るのは不思議な気分だった。けれどまぎれもなく彼もその筋の人間なのだ。彼の目つきも、よく見れば決して優しくはなかった。
「不破は決断しないといけないんです。月岡さんに味方するか、切り捨てるか」
「それは……」
 豆子は不破が月岡を見ていたときの懐かしそうなまなざしを思い出す。
「不破は月岡さんの幼馴染ですから。本当は月岡さんの味方をしたいんだと思います。でも不破の立場で表立って月岡さんの味方をしたら、うちみたいな小さな組は潰されてしまうかもしれないんです。……僕は」
 直之は言いよどんでから、そっと切り出す。
「もう十分頑張ったじゃないかと不破に言いたい。元々、うちの組は僕の父の代で終わりだと囁かれていました。不破が色々改革して巻き返したから、今もどうにかなっているだけです。不破は、若が一人で動かせるようになるまではと言ってずっと僕を助けてくれてますけど……不破を欲しがっているところなんて山ほどあって、うちで肩身の狭い思いをする必要なんてないんです」
 豆子は少し考えて、彼の目を見返す。
「違う」
 豆子はきっぱりと首を横に振って言った。
「そういうの、不破に失礼だ。不破は直之の話をするとき、「自慢の若」って何度も言ってた」
 直之は驚いたように目を瞬かせる。
 豆子は宴会のとき、不破がぽつぽつと話したことを思い返しながら言う。
「「とても感性が鋭い」、「いつも下の者を気遣ってくれる」、「親父さんによく似てきた」って。不破が迷ってるのは、月岡さんも組も、直之も大事だからだよ」
 ぐいと直之の肩を揺らして、豆子は強く告げた。
「迷っても放り投げちゃだめ。……迷うのは大事だけど、考えなきゃだめ。私も考えるから、直之も考えてみて」
 ふいに直之は優しく笑った。
 豆子が首を傾げると、直之はため息をつくように言葉を重ねる。
「……さすがは、不破が組を捨てかけただけのことはありますね」
「え?」
 直之は思い返すように目を上げて言った。
「一週間くらい前でしたか。深夜、不破から慌てた様子で連絡があったんです。「訳あって猫元組ともめるかもしれません。失敗したら、俺は切り捨てて新しい若頭補佐をみつけてください」って」
 驚く豆子に、直之は面白そうに目を細める。
「不破があんな無責任なことを言ったのは初めてでしたよ。結局戻っては来たんですけど、それから不破らしくないミスばかりして、珍しくも僕に泣き事を零すんです。「俺は最低な男です」って」
 変な顔をした豆子を見て、直之はくすくすと笑って続ける。
「そんなこと言われたって、事情もわからない僕にはさっぱりですよ。調べてみたら、豆子さんという女性に振られたようで。不破も普通の男だったのだなと、妙に感心しました」
 不破、私のことを気にしてくれてたんだ。それを聞いて、豆子はくすぐったさに叫び出しそうだった。
 今すぐ不破にその気持ちを言いたいとも思ったけど、どうしたらいいのかも迷う。
 直之はころころと表情を変えた豆子を見て一息つくと、うなずいて言う。
「ありがとう、豆子さん。あなたに不破を宥めてもらおうかと思ってお呼びしましたが、甘えが過ぎたようです。僕なりに不破と組を支えてみせます」
「……うん」
 豆子は笑って、この頼もしい若頭を見上げた。
「私もちょっと元気出た。私も自分なりに、できることをしてみる」
 豆子は暮れ行く今日の明日にしたいことを思い描いて、まだ何にも終わってないのだと思った。



 その日から、豆子は白鳥組のオフィスビルで清掃員として働き始めた。
 不破は忙しそうでろくに周りを見ていないし、豆子も自分に気づいてもらおうとは思っていない。時々直之は豆子にあいさつをしてくれたが、豆子は遠目に不破の様子を見守っていた。
 不破は大体自分の部屋にこもって仕事をしていて、豆子はその部屋の清掃は任されていないから面と向かう機会はないはずだった。
「わ」
 ところがある日休憩室のブースに入ったら、不破がテーブルに突っ伏して眠っていた。
「危ないなぁ……ここ、誰でも入れちゃうのに」
 不破は疲れ果てているのか、豆子が近寄っても起きる気配はない。直之から聞いていて、不破は相変わらず昼も夜もない生活だそうだ。
 普段見かける不破はいつも怖い顔をしているが、さすがに眠っている間はその張りつめた空気が緩んでいた。撫でつけた前髪も下りていて幼く見える。
 豆子はしばらく立ったまま不破の寝顔をみつめていた。
 ふいに不破がぼそりと言う。
「……すまん」
 その声を聞いて、豆子は不破を起こしてしまったのかと焦った。
 でも不破の目は閉じられたままで、しばらくすると寝息が聞こえてくる。
「すまん……」
 不破はまた謝る。顔をしかめて、うめくように。
 誰に謝っているのだろう。月岡だろうか、それとも他の誰かに?
 ただその表情は見覚えがあった。豆子が不破の手を振り払った、あの瞬間と同じ。
 今にも泣き出しそうで、かける言葉がわからず苦しんでいる顔だった。
 もし、もし私に謝ろうとしてるのなら。豆子はぽつりとつぶやく。
「……私こそごめん」
 そっと頭を撫でて、豆子は名残惜しい思いを押し殺してその場を後にした。
 何日かして直之と会う機会があったので、豆子は思ったことを告げた。
「不破は寂しいんじゃないかな」
 多少抵抗はあったけど、豆子はその質問を決行する。
「不破って愛人はいる?」
「いいえ。どうしたんです、いきなり」
「不破には側にいてくれる女の子が必要だよ」
 驚く直之に、豆子は切り出した。
「以前私が呼ばれたような、持ち帰り前提みたいな宴会って開けない?」
 直之はちょっと怖い顔をして豆子を叱った。
「豆子さん。怒りますよ」
 彼は指を立てて、妹に諭すように説明する。
「不破をどういう男だと思っていらっしゃるんですか。確かに僕らの仕事は後ろ暗いところがありますけど、不破は真面目で誠実です」
 直之は豆子にぴしゃりと言い切った。
「一度ちゃんと不破と付き合ってください。そうしたらわかりますから」
 直之は結構怒っていたようで、それ以降豆子が女の話を持ち出すことは許さなかった。
 そうはいってもと、豆子は思う。誰かに甘えたいときってあるんじゃないかな。
 豆子は自分と違う人間、特に男の人に心の内を明かすのは好きじゃない。でも体は別のときがある。自分じゃない誰かと触れ合いたいときがある。
 豆子はずっと、その願望は自分が幼い頃に両親を失ったからだと思っていた。家族のぬくもりを覚えていないから、それが甘えとなって出てくるのだと自分に苛立った。
 けれど最近、バイトの合間や買い物の帰り道、朝起きたときの何気ない瞬間に思う。不破に触れたいな、と。
 後ろからぎゅっと抱きしめたら、不破はどんな顔をするんだろう。迷惑そうな顔をするだろうか。少し丸まった背中を見るたびいつもやってみたい衝動に駆られた。
 そんなことをもやもや考えている内に、不破と最初に会ってから二月が経とうとしていた。
 ある日、直之と白鳥組のビルの外で待ち合わせて、そこで彼に見せられたものがあった。
「豆子さんに見てもらいたいものがあるんです」
 それは一枚の写真だった。線の細い女性が椅子にかけて、その横に涼しげだが鋭い目をした青年が立っている。女性の左手の薬指には豪奢なダイヤの指輪がはまり、その彼女の手をカメラに示すようにして青年が手に取っていた。
「この男の人、月岡さんだ」
「ええ。龍守組の月岡さんが婚約されたそうなんです」
「この女の子は?」
 豆子が訊ねると、直之は神妙に答えた。
「この女性は龍守組のお嬢さんです。月岡さんは組を手に入れた証に、彼女も強引に妻にしてしまうつもりらしくて」
「何それ、ひどいよ」
 豆子は華奢で儚げな、少女のような女性を見て言う。
 こんな二十歳にもならないあどけない女の子を組とか自分の立場のために踏みにじるなんて、許されないと思った。
 直之はふいにぽつりと言った。
「……でも不破はこれを見たとき、すごくほっとした顔をしてたんです」
 豆子は訝しげに問い返す。
「なんで?」
 直之は写真に写るもう一人の人物を指差した。月岡と女性の肩に手を置いて優しげな微笑みを浮かべた白ひげの老人だ。
 豆子は目を細めて言う。
「この人、猫元組の組長さんだね?」
「はい。でも実はこの方は、虎林組の幹部でもあるんですよ」
 直之も鋭い目をして写真をみつめる。
「虎林組の幹部は、月岡さんが龍守組を継ぐのを認めているということです」
「ええと、うーん……」
 豆子は頭をひねって考えると、どうにか言葉を紡ぐ。
「要するに、不破が月岡さんの味方をしても虎林組は文句つけてこないってこと?」
 直之は正解というようにほほえむ。
「はい」
「でもこの女の子がかわいそうだよ。月岡さん、ひどくない?」
 豆子の中にある、女の子への同情が膨らむ。女の子、特に自分より弱い子は何としても守らないといけない。それは長い間豆子の柱になっている感情だった。
 直之の目に面白そうな光が宿る。
「そこなんですが、不破に直接問い詰めてみませんか?」
「え?」
 豆子は思いもよらなかったことを言われて、目を瞬かせる。
 直之はなお豆子に言い募る。
「どうしてそんな卑怯な男の味方をするのかって、不破に怒ってみればいいんです。豆子さんは許せないでしょう?」
 豆子は憮然として、疑わしそうな目で直之を見上げる。
「そりゃ文句はつけたいけど……直之、面白がってない?」
 直之は優雅に口の端を上げて笑ってみせた。
「気のせいでは?」
 この人、将来絶対やり手になる。豆子は確信した。
 結局直之はのらりくらりと豆子の追及をかわして、数刻後に豆子は直之と共に白鳥組のビルのエレベーターに乗っていた。
 勢いで文句をつけに行くことになったけど、どんな顔をして不破に会おう。
 もしかして私のことなんて忘れているんじゃないか。そんな不安もよぎる。
 豆子が忙しなくガラスの向こうを見やっていた、そんなときだった。
 ふいに異様な音が響いた。
 直之が窓ガラスごしに下を見て顔をしかめる。
「……来たか」
 豆子も信じられない光景を見て、豆子も目を見開いた。
 ビルの最下層に、火炎瓶が放り込まれていた。
 豆子と直之はすぐにエレベーターから降りたが、窓ガラスが割られる音や怒鳴り声が階下から届く。
 直之はオフィスフロアの一階下にある警備室に豆子を避難させた。慌ただしく行き来する人たちに巻き込まれないよう体で庇いながら、部下からの報告を受ける。
「落ち着いて聞いてください、豆子さん」
 震えている豆子に、直之は両肩に手を置いて話した。
「ここは安全です。でも合図があるまで、ここから出てはいけない」
「な、にが……」
「虎林組の襲撃です」
 直之は淡々と豆子に説明する。
「正確には、虎林組の下部組織のチンピラ連中ですね。武器は金属バットにナックル、あと火炎瓶といったところです。火は既に鎮火しました。防火扉も降りています」
 監視カメラでひととおりの様子を確認してから、直之は豆子を見た。
「怖がるのは当然の感情です。でも僕らは虚勢を張ってなんぼですから」
「に、逃げ……ないと」
「できません。僕は若頭。白鳥組を守る立場の責任者です」
 断言した直之は大して年も離れていないはずなのに、豆子は遠い世界の住人のように感じた。
「いいですね。ここでじっとしていてください。僕はもう行かないと」
「直之!」
 豆子には直之を留めることはできなかった。直之は警備室から上階のオフィスフロアにつながる階段を足早に上って行く。
 警備室では組員たちが怒鳴り合っていて、豆子を気遣うような者は他にはいない。
「上階に奴らを近づけるな!」
 ビルのあちこちに設置された監視カメラの映像がモニターに映っていて、豆子は恐る恐るそれらを見上げる。
 続々と武器を持った男たちがビルの中に入ってくる。要所に設置された分厚い鉄の扉は開けないようだが、エレベーターは無防備で、その前で白鳥組の組員たちと争いになっているらしい。
 怖がってばかりでは駄目だ。考えないといけない。豆子は忙しなく監視カメラの映像をみつめて、今どこで何が起きているかを把握しようとした。
 けれど物が壊れる音や人同士が争う声だけで体が震えてしまって、満足にカメラを見ることもできない。
 こんな世界は嫌だ。外に出たら二度とこの世界にかかわらないと誓うから、どうか許してほしい。部屋の隅で頭を抱えてうずくまりながら、切に願った。
 暴動が始まってどのくらい経ったのか、誰かが電話を取って叫んだ。
「不破の兄貴からだ。退路を確保した。組員は非常階段を使って速やかに外に出ろとのこと!」
「逃げろってことですか!? 兄貴がまだ上階にいらっしゃるのに!」
「兄貴は皆の避難を見届けてから、非常階段で脱出されるそうだ。早くしろ!」
 逃げていい。その言葉は天の助けのように思えた。
 やっとこの暴力の渦から逃れられる。そう思っただけで呼吸が楽になった気がする。
 実際、組員たちは次々と非常階段から外へ脱出していく。豆子はがくがくする足を叱咤して立ち上がると、どうにか自分も非常階段に向かおうとした。
 でもそのとき、モニターに映った一つの光景が目に焼き付いた。
「あ……」
 上階のオフィスフロアのエレベーターを、武器を持った三人の男たちが降りた。
 ……不破と直之が危ない。
 豆子は立ち竦んで、次の瞬間には走り出していた。非常階段、その上へ。息を切らしながら、とにかく全力で駆けあがる。
 上階の扉を開いて室内に滑り込む。勢い余って転んで、豆子はソファーの後ろに倒れた。
 そこに二人の男が昏倒していてぎょっとする。豆子は飛びのこうとしたが、怒鳴り声で我に返った。
「頭はどいつだ? まさか頭も尻尾巻いて逃げたんじゃねぇだろうな!」
 物陰から様子をうかがうと、興奮した様子で男が叫んでいた。
 その手には黒い金属がある。
 ……拳銃と、豆子は認めがたい事実を目にする。
 室内には既にその侵入者と、直之、そしてもう一人しかいない。
 不破が直之を制して前に出る。
「俺が頭だ」
 不破は静かに告げて侵入者をにらみつけた。
 侵入者はつばを吐き出して叫ぶ。
「武器を捨ててこっちに来い!」
 侵入者は自分が頭を支配下に入れているということに、優越感の混じった声で言った。
 不破は懐から銃を捨てて、ゆっくりと男に近づいていく。
 不破の銃が床を滑っていって……豆子の数歩先で止まった。
 豆子の目の前が点滅する。
 どうする。今考えていることは、悪いことだ。この世界にかかわるべきじゃないと先ほど思い知ったはずじゃないか。
 でもと豆子はソファーの後ろから食い入るように不破を見る。
 落ち着き払った不破の様子が、らしくないと思った。背筋を伸ばして堂々と若頭の振りをするのは、豆子の知っている不破じゃなかった。
 だったらどんな不破を知っているの。自分に問いかける。
 知らない。知ろうともしなかった。豆子は怖くて、不破に近づかなかったのだから。
 永遠に知らないまま終わるかもしれない。そう思った瞬間、豆子は明日さえ黒く塗りつぶされる思いがした。
 不破が男に、あと一歩のところまで迫ったときだった。
 豆子は不破が捨てた銃に飛びつく。男が物音に気づいて振り向く前に、銃を力いっぱい投げた。
 銃は男の頭に猛スピードでぶつかって、落ちた。
 男は目を回して、ぐらりと倒れる。
 豆子はそれをみとめて、どっと汗があふれた。
「はぁ、はぁ……っ!」
 豆子はソファーの後ろから肩を上下させて這い出る。けれど膝が笑って、みっともなく転んだ。
 不破が豆子に気づいて声を上げる。
「豆子!? どうしてここに?」
 倒れこんだ豆子を不破が駆け寄ってきて助け起こす。
 ああ、私のこと、覚えててくれた。それだけでいいような気がした。
 豆子は不破を見上げて言う。
「弾を撃ったら悪いこと……だけど、銃を投げるだけならギリギリセーフ……だよね……?」
 限界まで強張った顔にちょっとだけ笑みを浮かべて、不破にたずねる。
 辺りは静かになっていた。騒乱がぴたりとやんでいる。近づいてくる足音ももう無かった。
 直之も豆子に駆け寄ろうとしたが、彼のポケットで携帯が鳴る。
 直之は通話に出ると、短く通話した後にそれを切って言った。
「不破。うちの組員は全員、ビルから脱出したそうです」
 直之は続けて安心させるように笑う。
「このビルに猫元組の正規組員も駆けつけて、チンピラたちを連れて行ってくれました。……もう大丈夫ですよ」
 豆子は大きく息をついた。不破も直之と顔を見合わせて安堵の表情を浮かべる。
 それが最後の記憶。
「……豆子っ?」
 そのまま、豆子は意識を失った。





 それからしばらくは小競り合いもあったらしいが、猫元組が間に入ったことで落ち着いて来たらしい。
 豆子は首を傾げて不破にたずねる。
「でも不破はまだ忙しいんじゃないの?」
「こら。ちゃんと寝てろ」
 豆子が病院のベッドの上でごろごろ転がっていると、不破に叱られた。
 例の騒乱後に、豆子は失神した。すぐに病院に連れて行かれて精密検査を受けさせられたが、どうやら極度の緊張が原因だったらしい。
 病気や怪我ではないと診断された。だが一時は危ういほどの貧血があったらしい。それくらいに豆子はギリギリの緊張の中にあった。
 豆子は肩を回して文句をつける。
「だってもう全然悪いところないのに。寝てばっかなんかつまんないよ」
「そう言うな。一応明日は退院だろ」
 不破は包みを出して豆子の膝元に置く。
「ほれ、土産だ」
「わ、大福! これ全部食べていいの?」
 豆子は思い知った。自分は多少ふてぶてしいが、それでも不破たちとは世界が違う。チンピラたちが押し寄せてくるのを見て、震えて足も立たなかったくらいに。
 豆子は口いっぱいに大福をほおばって、ちらと不破をうかがう。不破は傍らのパイプ椅子に座って、豆子が食べるのをじっとみつめていた。
 不破はふいに口を開いて言う。
「豆子」
「ん、何?」
「俺はな、一時迷ってた」
 不破は自嘲気味に笑って言葉を吐き出す。
「俺はもっと牙を持つべきなんじゃないかって。金の世界でもこの業界でも、上を目指して然るべきだと」
 豆子は黙って聞く。それに促されるようにして、不破は続けた。
「だが気づいた。そんな野心はちっぽけだ。もっと正直に自分のやりたいことをやればいい。尊敬する若を育てることは、俺が心から望んでることだ。それが最高の野心なんだと」
 ふっと頬を緩めて不破は豆子を見た。
「お前を見てたら、そう思ったんだ。お前、実は相当怖がりなんだな。でも倒れずに自分のやりたいことをやってる。それってすごいことなんだぞ? だから……」
 不破は言いよどんで、でも意を決したように告げた。
「その、お前の真っ直ぐさが……日の当たるところで認められてほしいと思ったんだ。だから金をやってでもこの世界から足を洗わせたかった」
 不破は懐から紙包みを取り出して封を開くと、中身を豆子に示した。
 中には分厚い万札の束が入っていた。豆子の目が止まる。
 不破は頼み込むように言う。
「お前は怒るだろうけど、これが俺のできる精一杯の応援なんだ。ちゃんと綺麗な金だから安心してくれ」
 豆子はそれを聞いてぶるぶると震える。
 やがてぴたっと止まると、一言つぶやいた。
「……か」
「ん?」
 不破が聞き返したとき、豆子は叫んだ。
「ばかー!」
 豆子は札束を不破に投げつける。不破は驚いて、その戸惑った顔がますます幼く見えた。
 不破は訳が分からないという風にたずねる。
「な、なんだよ。だからこれは汚い金じゃねぇって」
「不破はなんっにもわかってない!」
 豆子は手当たり次第に物を投げつけて叫ぶ。金だけでなく、タオルやコップまで飛ぶ。
「乙女心を踏みにじって、この、この!」
「痛ぇ、やめろ! おい!」
「なんでちょっとくらい待ってくれないの、不破!」
 豆子は肩を怒らせて不破の胸倉をつかむ。
「私の本名知ってる? あずさだよ。でもあずきでもいいよ。豆が大好きなんだ、私」
 ぶんぶんと不破の胸倉を揺すりながら、豆子は言う。
「あずきは将来、最高に甘いお菓子になるんだ。私だってそのうちに絶対、いい女になる。この大福のように。だから待ちなさい!」
 畳みかけるように話す豆子に、不破は目を回していた。
 ああもう、と豆子は叫ぶ。
「わかんないかな! ……私は好きなんだ! 不破のこと! 不破は私のこと好きじゃないの?」
 あーあ、言ってしまった。豆子は自分に頭を抱えたかった。
 こんなこと言ったら、つけこまれる。心を開いたら、傷つく可能性だってある。
「金なんか自分でどうにかする! それより、不破の行く所どこでもついていく!」
 でも、駄目だ。怖くたって、傷ついたって、豆子は気づいてしまった。
 この頼りなげで無神経な男が豆子は好きで、そして……幸か不幸か、彼は豆子を思ってくれるのだから。
 豆子は不破を突き飛ばすと、振りかぶって丸い何かを投げつける。
 ぽかんと不破の頭に大福がぶつかって、地面に落ちた。
 たぶんそれで、不破の頭はおかしくなってしまったのだろう。
 一瞬の沈黙の後、不破は笑い出した。
 呼吸困難になるくらいに全力で。笑いの種が弾けるようで、いつまでも尽きることがない。
 やがて不破はうめくように言った。
「お前って、趣味悪いのな」
 お手上げというように、不破は目の端に滲んだ涙を拭う。
 不破はベッドの上に立ち上がった豆子を見上げる。
「で、それは俺もなんだ。……一緒に暮らすか、豆子。お前が好きなんだ」
 豆子がその言葉の意味を理解するまで、あと数十秒。




 後日、豆子が不破とホームセンターを歩いていたときのことだった。
 豆子は不破を急かして言う。
「不破、何してんの。早く早く!」
「お前、荷物持ちさせといてそれか」
「だって不破ん家汚すぎるよ。掃除道具も全然無いじゃない」
 豆子が文句をつけると、不破は目を逸らしてうなずく。
「まあ、掃除してくれてるのはありがたいと思ってる」
「ほら、次お風呂コーナー! スポンジに手袋にカビ抹殺!」
 不破にカートを押させて、豆子はどんどん前に進んでいく。
 ふいに豆子は短く声を上げて足を止めた。
「あ」
「どうした」
 不破は横に並んで問いかける。
 豆子の視線の先に、見覚えのある男女の姿があった。線の細い女性と涼やかな面立ちの男性が、仲が良さそうに手をつないで歩いている。
 男性の方が女性を振り向いて優しく問う。足らないものや欲しいものはありませんか。
 女性はおずおずと棚を見やる。口ごもる彼女を、男性は急かすことなくみつめている。
 これ、かわいいですね。女性が指差したのは、うさぎの形をしたシャンプー容器だった。
 そうでした、うさぎが好きでしたね。男性はそう言ってほほえむ。子どもっぽいでしょうと恥ずかしそうにうつむいた女性に、男性は喉を鳴らしてくすくすと笑った。
 それは月岡と婚約者の女性だった。二人の様子を見ていて、豆子はすとんと理解する。
「……好き合ってるんだね、月岡さんとお嬢さん」
 不破はやれやれという風に肩を回して言う。
「あっちもようやく同居の準備か。ホームセンターの似合わないカップルだなぁ」
 不破は声を潜めて豆子に言う。
「月岡はお嬢さんが好きで好きで……お嬢さんが欲しくて組を取っちまったのさ」
「そっちが先だったんだ」
「実はな。月岡は、お嬢さんはコーヒーみたいだってずっと言ってた。自分には、お嬢さんがいない人生なんて考えられないって」
 月岡と婚約者の女性が交わし合う視線、空気。そういうものがとても温かくて、豆子は不破が二人の結婚を祝福した理由がわかった。
「豆子」
 ああいう甘い空気、私と不破じゃ無理だろうな。豆子が遠い目をしたら、不破に声をかけられた。
 ふっと不破との距離が近くなる。次の瞬間、かすめ取られるようにキスしていた。
「余所見すんなよ」
 不破は憮然として顔を離すと、背中を向けてさっさと行ってしまう。
 豆子は数秒間沈黙して、やがて胸をいっぱいにする一つの気持ちに気づいた。
「……大好き!」
 豆子は噴き出すように笑って、その丸まった背中に飛びつく。
 不破の頬にキスを返して、豆子はぎゅっと大好きな人を抱きしめた。

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