3月になり、冬の間道路を覆っていた雪が溶けた。暦の上での春の訪れには負けてしまったけれど、本格的な春の訪れには先駆けるように、新しい季節にふさわしい靴を下ろした。
 健康のために、電車賃節約のために、そんな錦の御旗を掲げながら通勤時1駅分を歩くことにした。本当は新しい靴で歩きたいだけだけれど。
 道を歩けば、春を感じる。側溝の縁のタンポポ、桜の蕾、町を歩く人が口ずさむ卒業ソング。私の家の軒下にも、アマツバメが巣を作り始めていた。

 私が見つけたのは春だけではない。薬局の隣に不思議な喫茶店を見つけた。昔ながらの純喫茶のようなレトロな外観の看板には「怪談喫茶」と書かれている。私はホラー映画や怪談話が好きだ。こういった場所に惹かれるのは本能のようなものだった。帰り道、夏を大幅にフライングしたような気持ちで、ドアをくぐると風情のある風鈴の音がした。

「いらっしゃいませ」

燕尾服を着たマスターが私をあたたかく迎え入れた。フォーマルな場なのだろうか?オフィスカジュアルに身を包んだ自分が場違いに感じた。

「いえいえ、お気軽にどうぞ。ここは怪談好きの方なら誰でも大歓迎ですから」

ほっとして店内に入ると、カウンターの1番奥の席には、女の子が座っていた。彼女は制服を着ていたが、鮮やかな青いブレザーは近隣の中学・高校のどこのものでもなかった。独特のデザインはまるで海外の学校の制服にも見える。膝にはブランケットをかけているので、スカートの色は分からない。

 彼女は昔ながらの固めのプリンを食べていた。私もコーヒーを注文する。

「マスター、ブラックコーヒーをいただけますか?」
「かしこまりました。私のことは、スウィフトとお呼びください」
「スウィフト……さん……?」
「お姉さん、ここではお互いのことあだ名で呼ぶのがルールなんだ」

女の子が私に教えてくれた。

「お姉さんのことはなんて呼べば良い?」
「私、あだ名とかなくて……」

会社では名字、もしくは「先輩」だし、友達にはひねりなく下の名前を呼ばれる。

「そんなに深く考えなくても良いんだよ。たとえば、あたしの本当の名前はツバメだから、つー。単純で良いんだよ」
「じゃあ、ハルでお願いします」

映画館やレンタルDVDのポイントを貯めるときに使っているハンドルネームをそのまま言った。マスターの淹れてくれたコーヒーを飲みながら、私たちは怪談話をした。ここは居心地が良いからまた来よう。帰り際、つーちゃんは座ったまま私に声をかけた。

「ハルさんのその靴、おしゃれだね」