レジ袋有料化は受け入れよう。飲食店のお冷やの全面有料化も仕方が無い。店員の笑顔や敬語が有料化されたのも時代の流れなのだろう。
 しかし、街中の人間同士の思いやりや気遣いまで有料化するのはいかがなものか。数年ぶりに帰国した日、電車で老人に席を譲ったらお金を渡された。あいにく、それを遠慮するだけの経済的余裕はなかった。

 家賃の安さに飛びついて決めたこぢんまりとしたアパートは見るからに壁が薄い。大家曰く、隣の部屋の物音は丸聞こえなので、静かにしてほしいときは相手にお金を払うこと。静音料というらしい。そして、ここの住人はほとんどが金のない学生なので挨拶は不要だということ。挨拶には料金が発生する。俺が挨拶をすれば、学生は俺にお金を払わなくてはならない。彼らはあいにく今持ち合わせがないそうだ。
 長旅に疲れた俺は部屋に着くなり荷ほどきをし、せんべい布団を敷いた。もう夕方なので、うるさい大学生達が飲み会をして留守にしている間にさっさと寝てしまおう。

 夜、ギュイーンというけたたましい音に、何事かと思い飛び起きた。明らかに隣の部屋からエレキギターの音が鳴っている。しかもお世辞にもうまいとは言えない。中学生の後夜祭の方がマシなレベルだ。時計を確認すると真夜中の一時だった。いくらうるさくしてもよいとはいえ限度がある。
 俺が呆れていると、今度は真上からドタンバタンと足音がひっきりなしに聞こえ始めた。生活音の範疇を超えている。明らかに意図的に足を踏み鳴らしている。あえて騒音を出すことで、静音料を俺からせびる魂胆だろうか。
 その手には乗るかと安物の耳栓をして再び寝ようとしたが、足音とエレキギターの音の前では、銃弾に紙の盾で立ち向かうようなものである。これでは眠れない。
 向こうも俺に静音料を払っていない以上、俺には隣人に対して大声で騒音に抗議する権利が認められている。一回り年下の若者に対して、この屁理屈は非常に大人気ないとは分かっている。しかし、いかんせん余裕がない。俺は隣の部屋の扉を激しくノックした。
「うるさいぞ!ヘタクソなギターをやめろ!」
夜中に大きな音で楽器をかき鳴らすくらいだから非常識なバンドマンだと思ったが、おずおずと出てきたのは気弱そうな青年だった。髪こそ染めているものの、そばかすと垂れ目のせいで非常に頼りない印象である。
「僕のギター、下手でしたか?」
あまりにもびくびくと反応され、こちらがいじめているような錯覚に陥ってしまう。しかし、心を鬼にして言った。
「はっきり言って耳障りだから、深夜くらいは静かにしてほしい」
青年は泣きそうな顔になっていた。
「どこが下手か教えてくれませんか」
音楽的な話をしているのではないのだが、変なポイントに食い下がられ困惑した。若い頃、趣味でギターを嗜み、海外のロックバンドに熱を上げていた時代もあるので、どこが不快であったか説明することはできる。しかし、俺はそんなことよりも練習をやめてほしかった。
「そういう問題じゃない。せめて深夜くらい音出しをやめてくれ」
「すみません、本当は僕もスタジオで練習したいんです。僕に静音料を払ってくれませんか。そうしたら、スタジオ代が払えるので家では静かにします」
申し訳なさそうにはしているが、ちゃっかり静音料を請求されている。やり口が非常に汚く感じるが、現行法において青年は何一つ間違ったことを言っていないのが厄介だ。
 小銭程度であれば静音料を払ってもいいが、静音料はスタジオ代相当、すなわち非常に高い。一日の静音料は俺の一週間分の食費と同額だ。とても毎日は払えない。しかし、この青年にこれ以上話しても無駄だと悟ったので諦めて自室に戻ることにした。
「ダメなところを教えてください、お願いします。プロを目指しているんです!」
青年はなおも食い下がる。教える代わりにアドバイス料を払えと言いたかったが、無い袖は振れないだろう。そこで俺は提案をした。
「交換条件だ。俺の部屋の真上にはどんな輩が住んでいるか教えてくれないか」
「彼は大学の友人なんですが、プロのタップダンサーを目指しています」
ああ、どいつもこいつも。俺は頭を抱えた。約束通り三弦の調弦が狂っていて聞き苦しいと伝え部屋に戻ったが、俺の耳も心も一晩中休まることはなかった。

 翌日、俺は画材を買いに町へと出かけた。街頭のテレビではどこぞの有名小説家の遺したメモが目玉の飛び出るほどの高額で落札されたというニュースをやっていた。俺とは対照的に景気のいい話だ。
 数年前まで俺は売れっ子の画家だった。それこそ、俺が練習で描いたものや失敗作ですらあの時ならば高額で売れただろう。いわゆる海外のセレブ街で贅沢な暮らしをしていた。しかし、人気が低迷しあっという間に生活が立ち行かなくなり、こうして帰国して貧乏暮らしをしている。
 画材を買い終え、家で仮眠を取ろうとしたが、大学というものは講義の時間がまちまちで、休み時間に帰宅した上の階のタップダンサー気取りと隣のギタリストもどきの騒音にたびたび起こされる。ゆっくり寝る間も、なんとか一線に返り咲くために集中して絵を描く間もない。

 三弦の調弦がまともになったところで、不快であることには変わりない。毎日毎日、絶妙にヘタクソなギターを聞かされて蕁麻疹が出そうだ。さらに許せないのは、バンドの仲間を無理矢理狭い部屋に集めて練習し始めたことだ。ドラムもベースもボーカルも、総じてリズム感がない。
「今すぐその不協和音をやめろ!」
俺が怒鳴り込むと、四人はそろって頭を下げるが、決して演奏を中止することはない。せめてもう少し上手であれば苛々することはないかもしれないと、たびたび徹底的にダメ出しをした。

 しばらく住んだが、絵はいっこうに捗らないし、体力は限界に近い。上と隣両方に静音料を払うくらいならいっそ引っ越ししてしまおうと俺は不動産屋の門を叩いた。いかにも上品なマダムという雰囲気の人に対応された。俺が名乗ると、彼女は目を見開く。
「私、あなたのファンです。哀愁漂う絵が本当に好きで」
彼女は俺のファンと言うこともあり、非常に親身に対応してくれた。
「なるほど、確かに住居にお金をかけたくない芸術家の方は最近多いですね。静音料不要の物件ならありますよ」
提示された物件は、元の家よりほんの少し家賃が高かったが、静音料を払うよりは安く済みそうだ。背に腹は代えられない。即決して引っ越しの日を待った。アパートで過ごす最後の夜もプロにはほど遠いエレキギターは鳴り響いていたが、最初の聞くに堪えない演奏よりはだいぶマシになっていた。
「Fコードの音がおかしいぞ!」
餞別代わりに壁越しに叫んでやった。彼と二度と会うことはないだろう。

 新居は前の家より狭かったが、寝たり絵を描いたりするスペースがあれば十分だ。何より、壁にはオンオフ切り替え可能な防音材が入っている。デフォルト設定は防音モードがオンになっている。夜にゆっくり眠れば頭が冴え、昼は筆が躍るように動いた。
 管理人が俺の部屋にやってきたのは一ヶ月後のことだった。
「防音システム切替の料金体系のことなのですが……」
俺はぞっとした。後払いだと言われても払えないからだ。
「おい、静音料は無料じゃなかったのか!」
「いえ、今回案内するのは定額切替システムのことです。月々のお値段は……」
「今、オンになっているけどこれには金がかかるのか?そんなの聞いていないぞ」
「いいえ。オフにするのにお金がかかるのです。不動産屋から聞いていませんか?」
何やら話が噛み合わない。
「オフに?隣の音を聞くのに金が掛かると言うことか?」
「はい。都度料金と定額料金がありまして……」
「誰が好き好んで、金を払ってまで静かな夜を手放すと言うんだ。もう帰ってくれ!」
「そう言わずに。あなたの隣に住んでいらっしゃるのは一流のヴァイオリニストの方ですよ。彼女の練習を、格安で聴けますのでぜひご検討いただきたい」
確かに、先日挨拶した隣人には見覚えがあるような気がした。一流の作家はメモですら価値があるように、一流の音楽家は練習ですら価値があるのだ。これは一本取られたと俺はしばらく笑いが止まらなかった。

 数年後のある日、俺の家のインターホンが鳴った。隣の部屋に新たな住人が来るらしい。彼もまた新進気鋭のミュージシャンだと聞いていた。挨拶に対して発生する費用を払うことができるほどの余裕が今の俺にはあった。
 俺の絵は再び世に認められた。この数年間、極貧生活を経験することで、海外での豪遊生活の中で忘れてしまったものを俺は取り戻した。資本主義の厳しさや傲慢な過去の自分への後悔をそのままキャンバスに描いた。中でも帰国して最初に描いた『喧噪と静寂』の明と暗のコントラストは絶大な評価を得た。
 ドアを開けると、どこかで見たことのあるそばかすで垂れ目の青年が立っていた。
「あなたは……!」
「君は……!」
彼は紛れもなく深夜にエレキギターを練習していた青年だった。
「あの頃はすみませんでした」
「いやいや、俺こそすまなかったね。気が立って随分と酷いことを言ってしまった」
「そんな、あなたのアドバイスのおかげでいまの自分があるんです!」
俺達は近況を語り合った。彼はかつての仲間とともにメジャーデビューしたそうだ。
「無料で君の演奏を聴けるうちに味わっておけば良かったよ。せっかくだし、何か弾いてくれないか?もちろん、演奏料は払わせてもらうよ」
海外での失敗に懲りた俺は人気再燃後も質素な暮らしをしている。そのため、多少の蓄えがあった。
「いえ、あの頃はアドバイス料が払えなかったので、演奏で出世払いさせてください」
彼はそう言って、ギターを弾き始めた。俺が若い頃に夢中になったギタリストの音色にどこか似ていてとても心地よかった。

 数ヶ月後、このマンションに若きプロタップダンサーが引っ越してくるのはまた別の話である。