虹が重なる場所

「お待ちになって。今日はユプシロン・カラーの日差しが強いから、パラソルを差した方がいいわ」
国境付近の家のバルコニーで本を読んでいたエメは、異邦人を呼び止めた。
「色無き民のお嬢さんはご存じないかもしれませんが、東洋にも太陽はあります。今更気にすることは無いでしょう」
異邦人の男は笑い飛ばした後、二階を見上げてカナリアのような声の主に視線を移した。その瞬間、息を飲んだ。エメがあまりにも美しかったからである。エメは町で一番の美人と言われていた。
「そうおっしゃらずに。きっと今日は雨が降りますから晴雨兼用傘は持っていて損はありませんわ」
エメはそう言うと、ユプシロン・カラーの布地にシグマ・カラーで美しい模様が描かれたパラソルを開いた。鳥を放つように、バルコニーからパラソルを優しく放った。傘はゆらゆらと舞いながら落ちてゆき、異邦人はそれを地面に落ちる前に手に取った。
 傘の柄の部分にはリボンで、ゼータ・カラーのカキツバタがくくりつけてあった。
「名も知らぬ色無き民の方、よい一日を」
異邦人は、目も心もその微笑みに奪われた。

 異邦人の名は、翡翠といった。翡翠は東洋の科学者である。西洋に来た目的は、技術交換である。
 大昔、東洋では赤外線を利用した技術革新が起こり、工学技術が著しい発展を遂げた。時を同じくして、西洋では紫外線を利用した技術によって化学・医学分野の研究が飛躍的に進んだ。これが、東洋の赤外線文明と西洋の紫外線文明の始まりである。
 時が流れるにつれて、環境に適応した子どもたちの光の波長の可視域が移行し始めた。西洋人は紫外線を見ることが出来るようになった代わりに、赤色や橙色を視認できなくなった。東洋人は、赤外線を目視できるようになった代わりに、青色や紫色が見えなくなった。世代を経るたび、その変化はより顕著になった。
 東洋人と西洋人の目に映る世界が完全に異なる物となり、世界は分断された。彼らは互いを「色無き民」と呼ぶようになり、交流は技術交換目的のみによって行われるようになった。技術交流会に招かれることは、生涯で一度あるかないかというくらい稀で大変名誉なことだった。
 西洋人は色を光の波長の長い順にギリシア文字で名付けた。東洋人は可視光線を波長の短い順に数字でナンバリングした。美しい模様のパラソルも、東洋人の翡翠には無地無色の傘にしか見えない。色を識別できない花の名は知らない。

 日が落ちた後、翡翠はエメの元へパラソルを返しに行った。翡翠はエメに対して、嫌みな言い方をしてしまったことを後悔していた。白衣の胸ポケットに挿したカキツバタが心なしか熱を持っている気がした。バルコニーを見上げると、エメと目が合った。
「お嬢さん、昼間はご無礼を失礼いたしました。傘をありがとう」
「お気になさらずに。しばらくここに留まるのでしょう?その間傘はお貸ししますわ」
「では、せめて何かお礼をさせてくださいませんか?」
「それでしたら、東洋のお話を聞かせてくださるかしら?」
 エメは東洋に対して憧れを抱いていた。今読んでいる本も、東洋の物語である。翡翠はエメに会う口実が出来たことを密かに喜んだ。

 翡翠は研究の合間を縫って、エメのもとへ足繁く通った。東洋の文化や翡翠の研究の話をエメは目を輝かせて聞いた。
「どうして、僕を話し相手に選んだのですか?」
「だって、貴方はわざわざ傘を返しにきてくださったでしょう?色無き民の傘なんか使えるかとばかりに捨ててしまう方や、私を無視する方ばかりなのに、貴方はとても律儀な方だわ。どうせ、憧れの場所の話を聞くなら、素敵な殿方から聞きたいもの」
翡翠は赤面し、笑みがこぼれた。
「それに、カキツバタの花を気に入ってくださって嬉しかった。花を愛でる方に悪い人はいないもの」
「あの花は、カキツバタというのですか?」
「そうよ。花言葉は“幸せは必ず来る”、素敵でしょう?」

 ある日、傘で防げないほどの土砂降りの雨が降った。
「風邪を引いてしまうわ。どうぞ中へ」
肩を濡らしている翡翠を、エメは家の中に招き入れた。エメは温かいコーヒーを淹れて翡翠をもてなした。
「帰りの日に渡そうと思っていたのですが、受け取ってくれませんか?」
翡翠はエメに億ノ色の押し花の栞を渡した。
「東洋の福寿草という花です。花言葉は、永久の幸福」
「ありがとう。貴方達を色無き民だなんて誰が初めに言ったのかしら。とても可愛らしい花。この花の素敵な色が貴方の目には見えているのでしょう?」
やがて雨が上がり、窓の外には鮮やかな虹が架かった。
「虹が綺麗ですね」
口にしたあと、翡翠ははっとした。東洋の上流階級の愛情表現には、古代の小説家が言ったとされている「月が綺麗ですね」というものがある。しかし、これはあくまで同じ景色を同じように美しいと感じる相手に対する愛の言葉である。決して同じ色を見ることの無い女性に対する言葉としてはいささか配慮に欠けている。
 ましてや、東洋人が西洋人を侮蔑する代表的なスラングには「ちっぽけな虹」というものがある。今や虹は完全な差別用語となりかねない火種のような言葉だった。
「私は月より虹の方が好きよ。同じ意味にとらえてもよろしくて?」
エメは頬を染めて返した。
「ええ、結ばれないと分かっていても、貴女をお慕いしております」
東洋人と西洋人の婚姻ならびに恋愛は固く禁じられている。混血の子どもは旧人類と同じ色しか見えず、どちらの国においても生活していくことが非常に困難であるからだ。また、極端に効率化された世界で、「色無き民」に対する救済措置は無い。現状、東洋人と西洋人がともに暮らすことは極めて非現実的である。
「どうして、私たちの恋は許されないの?私たちの見ている虹が違うから?」
エメの目には涙が浮かんでいた。エメと翡翠がそれぞれ可視光線と呼ぶもの、虹と呼ぶものは波長が大きくずれている。
 翡翠は静かにエメを抱きしめた。同じ色が見えないことが悔しかった。腕の中の愛しい人と片目を交換したいとさえ思った。

 思いが通じ合った後も、二人はバルコニーと地面で言葉を交わした。翡翠がエメの家に足を踏み入れることは無かった。あの抱擁は無かったことにするしか無いのだろうかと悶々としていた。そして、ついに翡翠が国へ帰る日が来た。
「明日、ここを発ちます」
どんなに優秀な科学者であっても、二度国境を越えるケースは前代未聞である。これが今生の別れとなる。
「短い間だったけれど、楽しかったわ」
その一言に、翡翠は感情を抑えきれなくなった。科学に人生を捧げてきた翡翠であったが、そんなものよりも目の前の女性の方が大切だった。あらん限りの愛を語った後、エメを誘った。
「僕は文明を捨てて、貴女と駆け落ちしたい。どうか、一緒に来てください」
エメは一瞬驚いた後、翡翠が恋に落ちたあの微笑みと同じ笑みを向けた。
「貴方とならどこへでも。受け止めてくださいね」
淑女として育てられたエメは悪戯っぽい声で言うと、バルコニーの手すりを飛び越えて、愛する男の元へと飛び降りる。翡翠は細身ながら力強い腕で、エメを抱き止めた。

 彼らは互いの視界を補いながら歩き続ける。二人を邪魔する者が誰もいない場所へ。合理主義の人類が、開発する価値がないと判断した辺境へ。今や人間の目は自然界で生きていくのには適していないため、この旅は危険である。それでも行かなくてはならない。
「この林檎は垓ノ色をしています。食べ頃なので召し上がれ」
「空のデルタカラーに陰りが見えるわ。もう少しで雨が降るわね」
二人は助け合った。雨が降り始めれば、二人を繋いだ一本の傘に肩を寄せ合って入った。
「あの鳥は那由多色です。僕の一番好きな色です。エメの髪は綺麗な京ノ色ですから、きっと那由多色のドレスが似合いますね」
「私は、ユプシロン・カラーが好き。お気に入りのこの傘と同じ色よ。翡翠はきっとユプシロン・カラーのネクタイが似合うわ」
二人は何日も、互いの目に映る色について語り合いながら歩いた。同じ色が見えたら良いのにと幾度も願いながら。そして、ある雨の晩、ついに誰も知らない森へとたどり着いた。影しか見えない夜の闇の中、一番大きな木の下で雨宿りをしながら眠りに落ちた。

 朝が来て、一晩中降り続いていた雨は止んだ。那由多色の鳥のさえずりとオミクロン・カラーの優しい朝日の温もりで二人は同時に目覚めた。うっすらと目を開けると、かつて緑と呼ばれた色の木々が一面に広がっていた。全てが機械化され自然の残らない都市に生きる彼らは初めてその色を目にした。

 あの日、翡翠はエメに告げた。東洋人と西洋人の可視光線には、わずかに重なる帯域があると。すなわち、世界中の人間に見える色がある。その色、零ノ色はかつて緑と呼ばれていたと遠い昔に聞いていた。
「エメ、貴女がアルファ・カラーと呼んでいる色を、我々の祖先は零ノ色と名付けました」
バルコニーの想い人に、あの日一生分の勇気を振り絞って告げた言葉。
「アルファ・カラーの世界で、同じ色を見て一緒に暮らしませんか?」
 二人の虹が重なる色を一緒に見られるのならば、この恋は許されるのではないか。二人にとって森の色は希望の色だった。

 かつて自然とともに暮らしていた人類にとって始まりとも言える母なる色に包まれて、二人は美しさに言葉を失った。しばらくの沈黙の後、翡翠が呟く。
「那由多色よりも、目の前のこの色が一番好きになりました」
「私も、同じことを考えていたわ」
二人は顔を見合わせて笑った。互いの瞳には、森の色が映っている。
「アルファ・カラー、僕達の始まりにふさわしい色ですね」
「ええ、私達の零ノ色の世界を、零から一緒に作りましょう」
 ふと視線を空へと移すと虹の橋が架かっていた。翡翠の目に映る虹とエメの目に映る虹は確かに重なっている。二人は重なる虹のように、どちらからともなく互いの手を握りしめた。