あれから一週間。志帆ちゃんは無事検査の基準を満たし退院した。
喜ばしい反面、独りになったことに空しさに襲われた。変わらないモノクロの中にも、あの異様さだけは続いている。
毎日欠かさず届けられる花。あの日、彼女の病室でアヤメをみて以来、綺麗だと思う感情より先に不気味さを覚えるようになった。それでも欠かさずその花の名を調べてしまうのは、私が知らぬ間にその花から幸せを感じているからだろう。
「すいちゃーん 今日はなんて花だったの?」
よく晴れた清らかな朝、いつもより少し早く長尾さんに会った。
「今日はオオイヌノフグリ……?この青色の花です。みたことはあるんですけど結構難しい名前してるんですね」
届いた花を見せながら話す私に物言いたげな笑みを浮かべて長尾さんは口を開く。
「すいちゃん もしかして少し花のことすきになってきたの?」
すきな異性の話を誑かす友人を揶揄うような言い方だった。というより、その役を演じていた役者さんのセリフによく似ていた。この花に『すき』という感情を抱いたことはないし、不信感は拭い切れないけれど、なんとなく届いた花の名前を調べるという一連の流れに愛着が湧いてきたことは自覚していた。
その日の夜はどうも長尾さんに言われた言葉が気に掛かり、なかなか寝付けずにいた。
花が届き始めたのは本当に最近のことで、毎日違う花が、なんの規則性もなくサイドテーブルに置かれている。
季節の関連もなく、ただひたすらに綺麗な花が置かれていた。アヤメの件から何度か他の病室を覗いてみたこともあった。どこの病室にも、飾られている花はお見舞いように包装されたものばかりで、私の元に届けられる花とは違った。
病院関係者なら特定の人に花を隠れて届ける必要もないと考えると、外部の人が届けているとしか考えられない。
手掛かりのない状態で考えていると、ふと時計を見た時には深夜二時になっていた。さすがにもう寝ようと目を瞑り布団に顔を埋める。
翌朝いつもより三時間早く目が覚めた。午前六時。
いつもより早いはずなのに、目覚めがやけにいい。横にいるのは長尾さんだろうか、何かを動かす音がする。感謝の気持ちもこめ、挨拶でもしようかと身体を起こし目線を向ける。
「えっ……」
見覚えのない少年がサイドテーブルの横に立っていた。少年は後ろに手を組んでいて何かを隠しているように見える。数秒間目があった後、我に帰る。その少年は私に見つかって以降、微動だにせず、組んだ手を解かずにその場に立っていた。
何度見ても、その少年のことを思い出せない。そもそも面識がない。このくらいの歳の男の子には一度あったことがある。志帆ちゃんの弟だ。ただ彼女の弟とは明らかに容姿が違う。この少年の髪は金色の混じった茶色で、眼は黒がかった青色だった。人工的な色ではない、天然のもの。少年を無意識のうちに凝視してしまったことに申し訳なさを感じ『ごめんね』という言葉を困惑の中振り絞る。すると少年は組んだ手から何かを手放し、颯爽と駆けて行った。
床に置かれたソレは、
「花……」
オレンジ色の鮮やかな、またしても見たことのない花。画像検索から調べてみると『カランコエ』という花らしい。
毎日私に花を届けに来ていた人物が少年であった事実に安心する反面、自分の中にある『何故』は、これでもかという速度で加速した。
あんなに小さな子が何故毎日病院にいるのか、私のことはいつ知ったのか。全てに疑問符をつけられる程、少年に対する疑問が湧いてくる。毎日病室に来る程この病院にいるということは私と同じ入院患者か、生き霊かのどちらかだろう。頼む、前者であってくれ。となると一番手っ取り早いのは長尾さんに聞いてみることだ。
「あの長尾さん」
「どうしたの?すいちゃん」
「私の病室の近くにこのくらいの背で、眼が青色の髪が茶色の男の子っていますか?」
「眼が青色……そもそもすいちゃんの病室の近くにすいちゃんと同年代か、それより下の年齢の入院患者さん志帆ちゃんしかいなかったからね それに眼が青色ってなると、私は知らないかなぁ」
「そうですか……じゃあ夢でも見たんですかね?」
なんて誤魔化しているが内心すごく焦っている。長尾さんが、この病棟の勤務歴が一番長い長尾さんが知らない。それに、十年近く入院している私が知らない近くの部屋の入院患者は、ほぼいないに等しい。
本当に生き霊なのかもしれないと非現実的なことへの信憑性が妙に濃くなっていく。
明日もう一度あの少年に会えたら、基本的なことからまず聞いてみることにしよう。そして少し会話を交わせるようになれば希望は見えてくるはずだ。朝六時、私にとって二日連続の早起きほど機嫌を損ねることはないけれど、それよりも今はあの少年のことが知りたくてたまらないのだ。
翌朝午前六時。サイドテーブルには作戦通りまだ何もない。きっと少年が今から花を届けに来るのだろう。
そうこう考えていると廊下の方から足音が聞こえてきた。長尾さんの慌ただしい足音じゃない。マーチのような規則性のある足音。少年だ。
「おはよう」
私の笑顔はそこまで不気味だっただろうか。少年の顔は酷く怯えた顔をした、心なしか少し青くも見える。
「大丈夫だよ、怖がらないで」
その言葉に安心したのかテンポを取り戻しこちらに歩いてくる。少年は疑う程素直だった。
そして疑うほどスムーズに私に花を差し出した。
「これ……毎日届けにきてくれてたのかな?」
少年は一言も発することなく頷く。差し出された花は今までで一番奇妙で、不気味で、毒々しい見た目をしていた。正直あまり綺麗とは思えなかった。それでもその自信満々な少年の表情に渡されたその花に込められた意図を尋ねたくなった。花から視線を戻すともうそこに少年の姿はなかった。明日こそもう少しだけ話をしようと不気味さを超えた好奇心に駆られた。
そんなことを考えていると偶然、長尾さんが通りかかる姿がみえた。
「長尾さん!長尾さん!」
走って呼び止める私に困惑し長尾さんは足を止めた。
「すいちゃん……!そんなに走ってどうしたの?」
「あの……この花……」
長尾さんは私の手の中にある花を見て何かを思い出したかのように意気揚々と語り出した。
「この花!すいちゃんなんていうか知ってる?」
「初めて見ました、長尾さん知ってるんですか?」
「ヘクソガラスって言うんだけどちょっと不気味な見た目をしているじゃない?」
「確かに思いました。毒々しいというか……なんというか……」
「でもねそれを打ち消すかのような『花言葉』を持っているのよ」
「『花言葉』……?」
「時間があったら調べてみるといいわー」
そう言ってまた忙しそうに歩いていく長尾さんの背を見送りながら、新たな花の側面を知った。
『花言葉』
聞いたことはあったけれど、深く知ろうともしなかった私にとって初めてその言葉に向き合おうと意識した瞬間だった。私が花言葉について少しだけ詳しくなったら、少年にもその話をしてみよう。そうしたら分かり合える何かが生まれるかもしれない。
翌朝、午前六時。習慣化した早起きは喜びという感情からだった。
少年のマーチが聞こえてくる。てくてくてくてくと小さな靴の底を鳴らしながら静かな病棟を歩く。
「おはよう 今日も来てくれたんだね」
少年は礼儀正しくお辞儀をし、またこちらに足を進めた。ただ昨日の少年とはどこか違和感を感じた。
そうだ、花を持っていない。手には何も持っておらずポケットのついたオーバーオールを着ていて、そのポケットはやけに膨れていた。
「今日はどうしたの?」
目線を少年に合わせるように意識しながら尋ねてみる。少年はその膨れたポケットからメモ紙と鉛筆を取り出しサイドテーブルの横にしゃがみ何かを書き始めた。あまりの容姿の綺麗さと、無口な姿に意識を忘れていたが、下を向く少年から向けられた後頭部についた寝癖が少年に可愛らしさを宿す。小さな子特有の辿々しい鉛筆の持ち方と、不器用な手首の動かし方に感じたこともない愛おしさを覚えた。
少年は何かを書き終えたのか顔をあげ、私の目を見つめた。
「何書いたかお姉さんに見せてくれるかな?」
今、人生で初めて自分のことを『お姉さん』と読んだ。混乱している。
そんな私には構わず少年は無言で書いた小さなメモ紙を私の顔の前に広げた。
そこには可愛らしいバランスのおおきなひらがなで
『は な こ と ば』
と書かれていた。
「花言葉?」
無言で頷く少年に積極的に質問してみることにした。無言とは対極の地にいる表情から、きっと少しずつ心を開いてくれているのだろうと思った。いろいろな話をする前に一番知りたいことがある。
「お姉さんにお名前教えてほしいなぁ」
少年は再びしゃがみ込み、今度は名前を書き始めた。
『か い』
「かいくんっていうんだね よろしくね、かいくん」
少年が声を出さない理由も、やけに人馴れしている理由もわからないが、そんなことより新たな出逢いを信じられない程喜んでいる自分がいる。
「ねぇかいくん 花言葉ってどういうこと?」
今度は文字に起こすわけでもなく、ただ真っ直ぐに昨日のオオイヌノフグリを指差す。まるで『調べてみろ』と言っているような目で。目線に訴えかけられるまま調べる。
『オオイヌノフグリ 花言葉は誤解を解きたい』
『誤解を解きたい』この少年に私が誤解していたこと。ふと生き霊と考えていた頃の記憶が頭をよぎる。今思うと本当に申し訳ない。
ただこの誤解は一度として口に出していない。自分の中に芽生えたただの憶測、考える過程での説にすぎない。なのに何故この少年が『誤解』を……?新たな疑問から少年を見ようとすると少年の姿はなかった。
『花言葉』
そうだ。思い出したかのように初日から届いたの花を一覧にして書き留めたメモを見返した。そのまま花言葉を調べた。
『フリージア 花言葉 親愛の情』
『ナナカマド 花言葉 私はあなたを見守る』
『ブッドレア 花言葉 あなたを慕う』
曖昧だが良さげな意味合いが並ぶ。『かい』と名乗る少年から私個人に向けられた感情のように思える。ただ、面識のない私に抱く感情にしては、やけに情深いものが多い。
そういえば志帆ちゃんと同じ日に同じ花を渡されたことがあった。あの時の花は『アヤメ』
『アヤメ 花言葉 よい便り』
目を疑った。その日は彼女の退院基準検査の日、そしてその翌日退院が決まった。曖昧だった花言葉がこれでもかというほど記憶と感情に強く糸を張った。
少し恐れながらも届いた花の花言葉を調べていく。
『オオイヌフグリ 花言葉 清らか』
「あの日の天気は……」
オオイヌフグリが届けられた日の天気は報道番組が大きく取り上げるほどに晴れた日だった。清らかな晴天だった。
奇妙な程に噛み合い始めた因果と少年。
これが私の人生の中で彩と出逢った瞬間だった。
喜ばしい反面、独りになったことに空しさに襲われた。変わらないモノクロの中にも、あの異様さだけは続いている。
毎日欠かさず届けられる花。あの日、彼女の病室でアヤメをみて以来、綺麗だと思う感情より先に不気味さを覚えるようになった。それでも欠かさずその花の名を調べてしまうのは、私が知らぬ間にその花から幸せを感じているからだろう。
「すいちゃーん 今日はなんて花だったの?」
よく晴れた清らかな朝、いつもより少し早く長尾さんに会った。
「今日はオオイヌノフグリ……?この青色の花です。みたことはあるんですけど結構難しい名前してるんですね」
届いた花を見せながら話す私に物言いたげな笑みを浮かべて長尾さんは口を開く。
「すいちゃん もしかして少し花のことすきになってきたの?」
すきな異性の話を誑かす友人を揶揄うような言い方だった。というより、その役を演じていた役者さんのセリフによく似ていた。この花に『すき』という感情を抱いたことはないし、不信感は拭い切れないけれど、なんとなく届いた花の名前を調べるという一連の流れに愛着が湧いてきたことは自覚していた。
その日の夜はどうも長尾さんに言われた言葉が気に掛かり、なかなか寝付けずにいた。
花が届き始めたのは本当に最近のことで、毎日違う花が、なんの規則性もなくサイドテーブルに置かれている。
季節の関連もなく、ただひたすらに綺麗な花が置かれていた。アヤメの件から何度か他の病室を覗いてみたこともあった。どこの病室にも、飾られている花はお見舞いように包装されたものばかりで、私の元に届けられる花とは違った。
病院関係者なら特定の人に花を隠れて届ける必要もないと考えると、外部の人が届けているとしか考えられない。
手掛かりのない状態で考えていると、ふと時計を見た時には深夜二時になっていた。さすがにもう寝ようと目を瞑り布団に顔を埋める。
翌朝いつもより三時間早く目が覚めた。午前六時。
いつもより早いはずなのに、目覚めがやけにいい。横にいるのは長尾さんだろうか、何かを動かす音がする。感謝の気持ちもこめ、挨拶でもしようかと身体を起こし目線を向ける。
「えっ……」
見覚えのない少年がサイドテーブルの横に立っていた。少年は後ろに手を組んでいて何かを隠しているように見える。数秒間目があった後、我に帰る。その少年は私に見つかって以降、微動だにせず、組んだ手を解かずにその場に立っていた。
何度見ても、その少年のことを思い出せない。そもそも面識がない。このくらいの歳の男の子には一度あったことがある。志帆ちゃんの弟だ。ただ彼女の弟とは明らかに容姿が違う。この少年の髪は金色の混じった茶色で、眼は黒がかった青色だった。人工的な色ではない、天然のもの。少年を無意識のうちに凝視してしまったことに申し訳なさを感じ『ごめんね』という言葉を困惑の中振り絞る。すると少年は組んだ手から何かを手放し、颯爽と駆けて行った。
床に置かれたソレは、
「花……」
オレンジ色の鮮やかな、またしても見たことのない花。画像検索から調べてみると『カランコエ』という花らしい。
毎日私に花を届けに来ていた人物が少年であった事実に安心する反面、自分の中にある『何故』は、これでもかという速度で加速した。
あんなに小さな子が何故毎日病院にいるのか、私のことはいつ知ったのか。全てに疑問符をつけられる程、少年に対する疑問が湧いてくる。毎日病室に来る程この病院にいるということは私と同じ入院患者か、生き霊かのどちらかだろう。頼む、前者であってくれ。となると一番手っ取り早いのは長尾さんに聞いてみることだ。
「あの長尾さん」
「どうしたの?すいちゃん」
「私の病室の近くにこのくらいの背で、眼が青色の髪が茶色の男の子っていますか?」
「眼が青色……そもそもすいちゃんの病室の近くにすいちゃんと同年代か、それより下の年齢の入院患者さん志帆ちゃんしかいなかったからね それに眼が青色ってなると、私は知らないかなぁ」
「そうですか……じゃあ夢でも見たんですかね?」
なんて誤魔化しているが内心すごく焦っている。長尾さんが、この病棟の勤務歴が一番長い長尾さんが知らない。それに、十年近く入院している私が知らない近くの部屋の入院患者は、ほぼいないに等しい。
本当に生き霊なのかもしれないと非現実的なことへの信憑性が妙に濃くなっていく。
明日もう一度あの少年に会えたら、基本的なことからまず聞いてみることにしよう。そして少し会話を交わせるようになれば希望は見えてくるはずだ。朝六時、私にとって二日連続の早起きほど機嫌を損ねることはないけれど、それよりも今はあの少年のことが知りたくてたまらないのだ。
翌朝午前六時。サイドテーブルには作戦通りまだ何もない。きっと少年が今から花を届けに来るのだろう。
そうこう考えていると廊下の方から足音が聞こえてきた。長尾さんの慌ただしい足音じゃない。マーチのような規則性のある足音。少年だ。
「おはよう」
私の笑顔はそこまで不気味だっただろうか。少年の顔は酷く怯えた顔をした、心なしか少し青くも見える。
「大丈夫だよ、怖がらないで」
その言葉に安心したのかテンポを取り戻しこちらに歩いてくる。少年は疑う程素直だった。
そして疑うほどスムーズに私に花を差し出した。
「これ……毎日届けにきてくれてたのかな?」
少年は一言も発することなく頷く。差し出された花は今までで一番奇妙で、不気味で、毒々しい見た目をしていた。正直あまり綺麗とは思えなかった。それでもその自信満々な少年の表情に渡されたその花に込められた意図を尋ねたくなった。花から視線を戻すともうそこに少年の姿はなかった。明日こそもう少しだけ話をしようと不気味さを超えた好奇心に駆られた。
そんなことを考えていると偶然、長尾さんが通りかかる姿がみえた。
「長尾さん!長尾さん!」
走って呼び止める私に困惑し長尾さんは足を止めた。
「すいちゃん……!そんなに走ってどうしたの?」
「あの……この花……」
長尾さんは私の手の中にある花を見て何かを思い出したかのように意気揚々と語り出した。
「この花!すいちゃんなんていうか知ってる?」
「初めて見ました、長尾さん知ってるんですか?」
「ヘクソガラスって言うんだけどちょっと不気味な見た目をしているじゃない?」
「確かに思いました。毒々しいというか……なんというか……」
「でもねそれを打ち消すかのような『花言葉』を持っているのよ」
「『花言葉』……?」
「時間があったら調べてみるといいわー」
そう言ってまた忙しそうに歩いていく長尾さんの背を見送りながら、新たな花の側面を知った。
『花言葉』
聞いたことはあったけれど、深く知ろうともしなかった私にとって初めてその言葉に向き合おうと意識した瞬間だった。私が花言葉について少しだけ詳しくなったら、少年にもその話をしてみよう。そうしたら分かり合える何かが生まれるかもしれない。
翌朝、午前六時。習慣化した早起きは喜びという感情からだった。
少年のマーチが聞こえてくる。てくてくてくてくと小さな靴の底を鳴らしながら静かな病棟を歩く。
「おはよう 今日も来てくれたんだね」
少年は礼儀正しくお辞儀をし、またこちらに足を進めた。ただ昨日の少年とはどこか違和感を感じた。
そうだ、花を持っていない。手には何も持っておらずポケットのついたオーバーオールを着ていて、そのポケットはやけに膨れていた。
「今日はどうしたの?」
目線を少年に合わせるように意識しながら尋ねてみる。少年はその膨れたポケットからメモ紙と鉛筆を取り出しサイドテーブルの横にしゃがみ何かを書き始めた。あまりの容姿の綺麗さと、無口な姿に意識を忘れていたが、下を向く少年から向けられた後頭部についた寝癖が少年に可愛らしさを宿す。小さな子特有の辿々しい鉛筆の持ち方と、不器用な手首の動かし方に感じたこともない愛おしさを覚えた。
少年は何かを書き終えたのか顔をあげ、私の目を見つめた。
「何書いたかお姉さんに見せてくれるかな?」
今、人生で初めて自分のことを『お姉さん』と読んだ。混乱している。
そんな私には構わず少年は無言で書いた小さなメモ紙を私の顔の前に広げた。
そこには可愛らしいバランスのおおきなひらがなで
『は な こ と ば』
と書かれていた。
「花言葉?」
無言で頷く少年に積極的に質問してみることにした。無言とは対極の地にいる表情から、きっと少しずつ心を開いてくれているのだろうと思った。いろいろな話をする前に一番知りたいことがある。
「お姉さんにお名前教えてほしいなぁ」
少年は再びしゃがみ込み、今度は名前を書き始めた。
『か い』
「かいくんっていうんだね よろしくね、かいくん」
少年が声を出さない理由も、やけに人馴れしている理由もわからないが、そんなことより新たな出逢いを信じられない程喜んでいる自分がいる。
「ねぇかいくん 花言葉ってどういうこと?」
今度は文字に起こすわけでもなく、ただ真っ直ぐに昨日のオオイヌノフグリを指差す。まるで『調べてみろ』と言っているような目で。目線に訴えかけられるまま調べる。
『オオイヌノフグリ 花言葉は誤解を解きたい』
『誤解を解きたい』この少年に私が誤解していたこと。ふと生き霊と考えていた頃の記憶が頭をよぎる。今思うと本当に申し訳ない。
ただこの誤解は一度として口に出していない。自分の中に芽生えたただの憶測、考える過程での説にすぎない。なのに何故この少年が『誤解』を……?新たな疑問から少年を見ようとすると少年の姿はなかった。
『花言葉』
そうだ。思い出したかのように初日から届いたの花を一覧にして書き留めたメモを見返した。そのまま花言葉を調べた。
『フリージア 花言葉 親愛の情』
『ナナカマド 花言葉 私はあなたを見守る』
『ブッドレア 花言葉 あなたを慕う』
曖昧だが良さげな意味合いが並ぶ。『かい』と名乗る少年から私個人に向けられた感情のように思える。ただ、面識のない私に抱く感情にしては、やけに情深いものが多い。
そういえば志帆ちゃんと同じ日に同じ花を渡されたことがあった。あの時の花は『アヤメ』
『アヤメ 花言葉 よい便り』
目を疑った。その日は彼女の退院基準検査の日、そしてその翌日退院が決まった。曖昧だった花言葉がこれでもかというほど記憶と感情に強く糸を張った。
少し恐れながらも届いた花の花言葉を調べていく。
『オオイヌフグリ 花言葉 清らか』
「あの日の天気は……」
オオイヌフグリが届けられた日の天気は報道番組が大きく取り上げるほどに晴れた日だった。清らかな晴天だった。
奇妙な程に噛み合い始めた因果と少年。
これが私の人生の中で彩と出逢った瞬間だった。