水分をとらせる以外は家にあった解熱剤を飲ませるだけで、できることはもう他になかった。「ここは大丈夫だから」と美希は暗に俺の仕事のことを慮った。こんな時だというのに、俺にできることはあと仕事ぐらいなのだろうか。とりあえずパソコンの電源を入れた。いつも通りメールの確認をすると、「〇〇の確認」「〇〇のお願い」といった題名がずらりと連なっている。マウスでスクロールしながら、そんなに俺に「お願い」や「確認」をしてほしいのか、と鼻で笑った。気取った言葉を並べて隠しているけど、要はすべて、雑務処理だった。
俺はあきらめたようにメールを一通ずつ開封して、中身を確認すると同時に処理を始めた。
_こんな仕事、俺じゃなくてもできるのに。
キーボードをたたく指先に、悔しさや情けなさが滲む。
こんな誰でもできるような仕事をしている時間があったら、まだ体調が万全じゃない美希の代わりに、娘たちの看病をしてやりたい。美希をゆっくり寝かせてあげたい。ちゃんとしたご飯を作って食べさせたい。少しでもみんなの症状を楽にしてあげたい。
これらはすべて、今の俺にしかできないことなのに。他の誰にもできない、俺にしかできない仕事なのに。
_「今は、今できることをして待つしかないの」
美希の言葉が不意に浮かんだ。俺は目に浮かんでは零れ落ちようとする涙と必死に戦いながら、今自分にできることをしようと思った。たとえそれが、俺じゃない誰にでもできる仕事であっても。そうすることで、みんなが健康な日常を取り戻せると、信じて。
翌日、まだ思うように動けない美希に代わって、俺が二人を病院に連れて行った。やはりインフルエンザだった。帰ってすぐにゼリーを一口だけ食べさせて、早速薬を飲ませた。その後二人はすぐに眠ってしまった。美希はほっとしたのか、無理して動いたのが祟ったか、その後再び微熱と激しい咳に襲われた。今日が休みでよかった。ご飯もちゃんと準備できるし、汗でぐっしょりになったパジャマや下着も洗濯できた。その合間に仕事も進めた。俺は今、自分ができることを精一杯やりたかった。それが俺の戦い方だと思った。インフルエンザなんかに、負けたくなかった。
子どもの回復力とはすごいもので、日曜日には熱が下がった。多少の風邪症状は残るものの、食欲も取り戻した。美希の体調も安定している。三人で並んでテレビを見ている姿は以前からよく見る光景なのに、何とも微笑ましかった。我が家に、日常が戻りつつあった。
「仕事、大丈夫?」
夕方、俺が翌日の出社準備をしていると美希が尋ねてきた。
「ごめんね。私がインフルエンザになんかなったから」
「美希だって、かかりたくてかかったわけじゃないんだから。それよりまだ病み上がりなんだし気をつけろよ」
「ま、何とか乗り越えたね」
美希は俺の心配を跳ねのけるように「うーん」と伸びをした。
「パパのおかげだね」
「俺は別に何も…」
「カッコよかったよ、ヒーローみたいで」
「大袈裟だよ」
「大袈裟じゃないよ。我が家の危機を救ったんだから」
にっと笑った美希の笑顔は、金メダルみたいにまぶしかった。その笑顔に、俺はずっと聞きたかったことを尋ねた。
「なあ、みんなが元気になったら、何がしたい?」
「うーん、そうだな…」
美希がつらつらと語り始めたのは、他愛もない日常生活だった。そんなことでいいのかと、呆れるほどに。楽しそうに、嬉しそうに語る美希を見て俺は思った。
_この笑顔を守りたい、これからも。
それは、他の誰にもできない、任せられない、俺にしかできない仕事だ。
休みが明けた月曜日。どうも調子がおかしいと思ったのは、昨日の夜中だった。まさかと思って午前休をとって病院に行った。
「え?君もインフルエンザになったの?」
スマホの受話器から聞こえる上司の素っ頓狂な声が、ただでさえ頭痛で締め付けられる頭にガツンと響いた。
「君も災難だねえ。しかし困ったな。そろそろ出社してもらわないと。君が抱えている仕事が進まないことにはこちらの仕事が進まないと、各方面からクレームが出始めている」
「在宅勤務中に受け持ったタスクはすべてやり切ってありますけど」
昨日の日曜日だって、実は何となく体に悪寒を感じながらも、それは気のせいだと体に鞭を入れてやり切った。それなのに、
「君は考えが甘いよ。君が仕事をしている間に他の人は君の二倍も三倍も働いているんだよ。まあ家族に足を引っ張られて在宅では存分な成果が発揮できなかったのかもしれないが」
その言葉に、むっとならないわけがない。
「家族は関係ありません」
「なんだ、言い返す元気があるんじゃないか。だったら出社したらどうだ。ただのインフルエンザだろ?風邪と大して変わらないじゃないか。そんなんで休まれたら、会社だっていい迷惑だよ」
「インフルエンザと風邪は全然違いますよ。他の人にうつりでもしたら…」
「インフルエンザにうつるヤツなんて弱い人間だ」
この電話は、いつまで続くのだろう。頭がぼうっとしてきた。目がかすむ。この男とこんなやりとりをしているのが空しい。この不毛な会話こそ時間の無駄だ。早く寝たい。病院に行きたい。
俺が割れそうな頭を抱えてそんなことを考えている間も、上司はダラダラと話し続ける。もう、限界だ。
「あの、もういいです」
「は?」
受話口から、上司のしたり顔が伝わるようだった。
「何がもういいんだね?」
「もう休みは結構です。休みはもういいので…」
その続きの言葉を、俺は意識が朦朧とする中で、覚束ない口調で、だけどはっきり告げた。そこで、意識がなくなった。
インフルエンザになりました。俺は、仕事を辞めました。