小豆爺さんの言葉の意味に気づいたのか、お豆の丸い目は皿にまん丸に見張られた。

「お主は気を失っていたところを助けられ、この部屋で介抱された。救われたのだ。この方が調合された、お前のための香によってな」
「あ……」

 この部屋に入ると同時にふわりと感じた、お香の香り。改めて見てみると、布団の枕元から少し離れたところに香炉が静かに置かれていた。
 紫苑がいつも大切に持ち歩いている、黄金色の香炉だ。

「で、でも。淡路の橘家は」
「ありがとうございます小豆爺さん。でも、もう結構です」

 対峙していた二人を分け入ったのは、紫苑の笑顔だった。

「あやかしたちの中に一族に対する嫌悪があることは、致し方ないことです。初対面の自分にすぐ心を開けというのは、いくら説得したところで難しいでしょう」
「しかし紫苑どの」
「あ、あのね! お豆くん……!」

 収束の方向に舵切りをしていた室内の会話に、気づけば紬は待ったをかけていた。
 そこにいる全員の視線が一気に集中し、思わず体が強張ってしまう。でも、引き下がるわけにはいかない。

「なんだよ、女」
「あのね。実は私も、そこの紫苑さんに助けられた人間なの」

 香がふわりと漂うなか、紬は言葉を紡いでいく。

「お豆くんと比べるのはおこがましい話なんだけどね。実は私も最近仕事と家をなくして、どこにも行き場がなくなってしまったの。そして、成り行きでたどり着いたのがこの小樽の街。そこで運悪く動けなくなってしまって、気づいたらこの屋敷でお世話になっていた。……ふふ、こうして話してみると、最後の方はほとんどお豆くんと同じだね」

 同じ、と言う言葉にお豆はむっと唇を尖らせた。
 しかしそれが真に怒りを狩ったからではないことは、何となく察しがついた。

「今こうして私が楽しく暮らしていられるのは、紫苑さんの優しさのお陰なの。素敵なお香のお店で働けるのも、可愛らしい着物をまとった生活ができるのも……君たちあやかしを視ることができることを、心からよかったと思えるようになったのも」
「俺たちが見えることが、よかった……?」
「だってこの視える目がなかったら、紫苑さんを慕って集まるあやかし達と、お話しすることができないでしょう?」

 ふわりと笑みを浮かべる紬に、最も目を見開いたのは紫苑だった。
 それは心から言えることで、実はずっと紫苑に礼を言いたいことでもあった。あやかしを視ることができる自分を認めさせてくれたのは、あやかしに慕われ穏やかに交流を深める紫苑の姿そのものだったのだ。

「橘家の詳しい事情は私にはわからない。でも少なくとも紫苑さんは、困った君をきっと助けてくれる。そんな人だってことは、私が保証するよ」
「……誰だかわからない奴に保証されても、困るのダ」
「はは、確かに。私は千草野紬っていうの。紬って呼んでいいからね」
「ふんダ。人間は嫌いだって言ってるのダ!」

 つんとそっぽを向いたお豆に、小豆爺さんはやれやれと肩を和ませたのがわかった。

「まあそれでも……誰一人証人がいないよりは、まだマシではある」
「ふふ。ありがとう、お豆ちゃん」
「うるさいっ。ニヤニヤするのは辞めるのダ!」
「あーあー。ひとまず話が一段落ついたなら、ハル様の茶でも飲む?」

 もう、冷めかけだけど、と付け加え、いつの間にか足されたらしい湯飲みがぶっきらぼうに差し出される。

 有り難く頂いたお茶は確かに冷めつつあったが、小樽の街中を走り回った体をほんのり癒やしてくれる温もりがあった。

   ***

「ここにいたんだね」

 廊下途中の縁側で涼んでいた紬に、そっと声がかけられた。
 初夏の風を思わせる、爽やかで優しい声色だった。

「はい。今日の夜風は、何だかいつも以上に気持ちよくて」
「そっか。きっとあちこち走り回った一日だったから、疲れを風が癒やしてくれてるんだろうね」

 そう言うと、紫苑も紬の隣に腰を下ろした。見上げれば、白というよりも金色に輝く月が見える。

「紫苑さん。改めてですが、今日は本当にありがとうございました」

 月明かりを浴びる紫苑に、紬は深く頭を下げる。すると頭上から小さく笑う気配が届いた。

「いいんだよ。紬さんの感謝の気持ちは、もう十分に受け取ったから。それに……感謝するのは俺のほう」
「え? 紫苑さんが、一体何を……?」

 眉を寄せる紬を見て、次はわかりやすく肩を揺らす。
 そんな様子に首を傾げていると、紫苑は柔らかく目を細めた。長く艶めいた黒い髪が、風になびいてさらりと流れた。

「とりつく島もない様子だったお豆くんの心に寄り添って、宥めてくれたのは、紬さんの言葉だったから。本当にありがとう。紬さん」
「そ、そんな。私なんてただ思いつきでぺらぺらと話してしまっただけで」
「いいから。俺がお礼を言いたいと思ってるんだから、そのまま受け取っておいて」