時に閑静な住宅街、時に短いトンネル、時に青々と広がる海を眺めながら、紬の体は終着駅へと運ばれていった。
 キャリーバッグを電車とホームの間に挟めないように注意を払いつつ、周囲の乗客に倣ってホームに降り立つ。すうと息を吸うと、人混み以外の懐かしい香りがした。

 JR小樽駅。

 新千歳空港駅から札幌駅まで、多くの人が利用する快速エアポート。
 その終着駅がこの小樽駅であることも多いため、名称だけは紬も日常よく目にしていた。
 とはいえ、この駅に降り立ったのは中学の修学旅行以来だ。

「結局、あのワンちゃんを見つけることはできなかったな……」

 やはり、あの子犬はこの電車に乗らなかったのかもしれない。
 ひとまず、エレベーターで改札口のある一階へ降りる。改札口は広々ときれいで、紬はキャリーバッグも余裕で改札をくぐることができた──かに思えた。

「ぎゃっ」

 途端、ピーッピーッとけたたましい音とともに改札口のフラップドアが閉まった。ああ、またやってしまった。
 いつもの定期をついかざしてしまったが、最終駅まで来たからには当然乗り越し料金が発生する。周囲の怪訝な視線を感じながら、紬は慌てて追加料金の精算を済ませた。大丈夫。このくらいの不幸は予想の範囲内だ。
 無事改札を通過する。すぐ目の前に広がる大きなガラス張りの出入口の手前には、小樽観光マップと記された無料配布の地図が置かれていた。

「わあ、可愛い地図」

 手書きで温かみが感じられる地図を眺め、思わず笑みがこぼれる。
 その地図には、今いる小樽駅と運河と徒歩圏内の観光名所が記されていた。
 テレビの道内天気予報の背景としてお馴染みの「小樽運河」、運河近くを横に長くのびる「堺町通り商店街」。レトロな建物、食べ物、可愛らしい雑貨イラストも多い。
 さすが北海道屈指の観光の街と知られる小樽だ。
 現時点で、今夜の雨露をしのぐ場所すら、いまだ確保できていないのだが──。

「せっかくここまでたどり着いたんだもん。ひとりでゆっくり観光しながら、先のことを考えれば良いよね?」

 うんうんと自分を納得させ、子犬の落とし物の木箱をハンドバッグに丁寧に収める。
 観光マップを片手に、紬は意気揚々と駅構内を歩き出た。

   ***

 北海道の四月は本州のそれと異なる。
 ようやく雪が溶け終え五月の桜開花を待つ、早春の只中といった気候である。
 まだ上着は必要だが、肌を撫でる優しい春風は陽の光を多分に含んでいて、紬の頬を和ませた。

 駅前にはバスのロータリーとともに、銀行、デパートが立ち並ぶ。建物の脇をすり抜けると駅前の中央通りがあり、坂の下には光が瞬く蒼い海が紬を出迎えてくれた。
 坂道にはレトロなガス灯が静かに佇み、下っていくたびに小樽の空気が辺りに満ちていくのを感じる。

「わあ、途切れた線路がある」

 歩道の横に突如として現れた、今は役目を終えた線路の跡。
 足元に鮮やかな花壇で彩られた看板によると「旧手宮線」という路線らしい。北海道最初の鉄道で、北海道の地下資源の開発などに尽力したという。
 そんな立派な歴史に対し、眼前には緑の草原に挟まれ線路が気持ちよさそうに伸びている。

 いいなあ、と紬は思った。
 遠い在りし日の欠けらがあちらこちらに散りばめられた街。胸の奥がじんと温かくなるとともに、じわじわと湧きあがる感動に震える。
 今は誰と一緒にいるわけでもない。その開放感からか、いつもは無意識に発動している自制心もすっかりなりを潜めているらしい。

 紬は、幼いころから「感じやすい」子どもだった。
 感覚過剰と言えば多少物々しいが、様々な感覚が少し周囲と違う、ということは紬自身も両親もなんとなく感じ取っていた。
 日差しが異様に眩しく見え、時には黒板の字が反射光で見えないことはいつものこと。運動会の赤組白組の大将同士の応援合戦に必要以上に怯え、激しい雨音が耳に響き会話中に耳を塞いでしまうことも少なくなかった。
 医者にかかったこともあったが、「娘さんは、感覚が敏感なんでしょう」と苦笑交じりに告げられるのがお決まりだった。幸い、この感覚で生き死にに関わることはなかったため、うまく付き合いつつ今まで生きている。
 それに、決してこれは悪いことばかりではないのだ。
 物事を敏感に感じやすい分、人より何倍も何十倍も、感動して喜ぶことだってできるのだから。

「わ、小樽運河!」

 逸る気持ちを抑えつつ信号を渡り、中央橋と記された橋の上を駆けていく。植物を象った青銅を思わせる手すり越しに、紬は瞳を輝かせた。
 向かって左側に立ち並ぶ倉庫群と人々が行き来する石畳の遊歩道に挟まれ、小樽運河は静かな時を刻んでいた。
 さらさら、さらさら。静かに穏やかにたゆたう運河の音に耳を澄ませる。ああ、心まで潤っていく。そういえば、自分は水辺がとても好きなんだということ、久しく忘れていた──。

「……え?」

 ふわり、と頬を撫でる心地に気づき、紬は瞼を開いた。

 何かに惹き付けられるように後ろを振り返ると、ちょうど一人の人物が紬の後ろを横切るところだった。
 その人物に、紬は思わず目を奪われる。

 新月の夜空を思わせる濃紺の着物に、肩からマントのように掛けられた同色の羽織り。
 首の後ろで緩く結われた長髪は風にながれ、まるで濡れるような黒だった。
 瞳にかかりそうな前髪から覗くのは陶器のように美しい肌と、微かに微笑を浮かべている口元。
 そしてなにより──胸元に抱くように持たれた黄金色の香炉(こうろ)から、妖しくも魅惑的な香りが漂っていた。

 この小樽の街並みに、着物姿はそう浮いたものではない。
 それでも、その美しい佇まいを捨て置けるほど紬の目は肥えていなかった。
 男だろうか、女だろうか。
 その判断がつかないほどの麗人を、紬は初めて見た。

「っ、あ」

 思わず口から漏れた声を、紬は慌てて塞いだ。口元を両手で覆ったまま、紬は今しがた通り過ぎた人物の背後をじっと見つめる。

 いた。
 さっき落とし物をしていった、子犬さんが。

 着物を纏った麗人の足元を、後ろから着いていく小さな影。薄茶色の毛並みはやはり触り心地が良さそうで、その毛先はふわふわと小さく跳ねている。
 その一方で、紬はもう一つの事実に気づいた。
 外見はおよそ子犬のようではあるが、普通の子犬とは違う。微かにそれがまとう不思議な気配に、紬はある確信を得る。

 この子犬は──「あやかし」だ。

「……こんにちは、シオンくん」

 そっと、憑かれている麗人に気取られないような、小声で語りかける。
 その場に片膝をつきつつ囁くと、麗人に憑いていた子犬がぴくりとこちらを振り返った。つぶらな瞳が、真っ直ぐ紬を捉える。

「道に迷ってしまったの? よければ私が代わりの宿り木になるから、こちらへおいで」

 にこりと笑いかけ、そっと手を差し出す。

 こういう経験は、初めてではなかった。
 あやかしが「視える」目を持つ自分にとっては。

 人の多い都会ではすっかり少なくなったが、それでもこの世にはいまだにあやかしと呼ばれる者たちが静かに息づいている。
 その者たちが時に好意的に、時に敵対的に人に憑いている様も、何度も目にしてきた。
 そして彼らが「視えない」人間に憑いている姿を見ると、紬は決まって語りかける。
 自分に何ができることはあるのではないか。
 憑く行為の元にある執着を、それで収めることができるのではないか。
 そして最低でも、消えなかった執着を、他人ではなく自分へ向けることができるのではないかと──。

「シオンは、この犬じゃなくて俺の名前だよ」