それでも、彼のことは信用できると思えるし、すでに今日一日とてもよくしてもらった。この恩を返すためにも、ここで働かせてもらい少しでも役に立たねばなるまい。

 すう、と深く息を吸う。
 他人様の家の香り。畳の香り。ほんのり漂う、お香の香り。

 桐箪笥のなかに収めた自前の服は、下一段のみで事足りた。他の上四段をそっと開けてみると、日の光の香りを存分に含んだ着物が顔を出す。
 この色とりどりの着物たちは、紫苑がずっと保管してきた譲り物らしい。
 女性ものなので自分ではいかすことが出来ないので、是非紬に袖を通してほしい──というのが紫苑の告げたところだった。目の前に佇む着物はどれも素敵なものばかりだ。

「幸せ、だなあ」

 ぽつりと零した言葉は、部屋の中に沁みるように解けていく。
 不幸続きの自分に、突如として巡り会わせた幸運。これがまたいつ自分の手から滑り落ちていくかはわからないが、今はこの信じられない贈り物をしっかり噛みしめていようと思う。
 よしと膝を打った紬は、準備もそこそこに部屋を静かに進み出た。
 明日に響かせないためにも、今日はさっさと身支度を済ませて床につこう。そう思いお風呂場へ向かおうとしたのだが、廊下の途中でふと不思議な気配に気づき振り返った。

 星屑の香りだ。

 とっさにそう思い、そう思った自分に首を傾げる。星屑の香りなんて、いまだかつて嗅いだことがあっただろうか。とはいえ、この香りはどうも初めて嗅いだ気がしない。
 まるで引き寄せられていくように香りのするほうへ歩みを向けていく。縁側に差し掛かると硝子はめの引き戸からは薄雲に覆われた月がじんわりと存在を示していた。淡く儚げな光にそっと笑みを浮かべ、紬はなおも香りの跡をたどっていく。

「ここは……」

 行き着いた先は、夕餉前に案内を受けることのなかった最奥の廊下の端だった。
 暗がりの中でよく見るとそこには木製の引き戸が備え付けてある。

「やっぱりこの屋敷は、部屋がたくさんあるんだなあ」
「こんなところでどうしたの、紬さん」
「ひいいっ!」

 暗い廊下で突如として届いた声に、紬は奇声を上げる。
 次の瞬間にぱっと灯った廊下の照明が、声の主を瞬時に照らし出した。

「し、し、紫苑さん……!」
「ふははっ……いやごめん。まさかそんな面白い反応されるとは思わなくて」
「お、面白……いえ、すみませんっ、勝手にあちこち歩き回ってしまって……!」

 余程静かに歩み寄られたらしい。音にはそれなりに敏感な紬が、足音に全く気づかなかった。

「いいんだよ。紬さんはもうこの家の一員だしね」

 笑顔で返された言葉に、紬は秘かに胸をなで下ろす。
 よく見れば紫苑は風呂上がりらしい。淡い空色の着流しを緩くまとい、首にはタオルを提げていた。まだ湿り気が残る長い髪から、ほのかに色香が漂う。

「ちなみにその奥の部屋は、俺が香を作るときに籠もる香房だよ」
「香房、ですか」

 告げられた答えに、紬は一人納得する。
 この屋敷は広いが、中でも一等集中できる静かな環境はこの最奥の部屋だろう。木製の引き戸も、通常のふすまより香房内の香りを閉じ込めておきやすいに違いない。

「よかったら、中を見ていく? 作業部屋と同じだから、あまり煌びやかな場所ではないけれど」
「……いいえ。とても気になりますけれど、またの機会にします」

 本当は、紫苑のあの繊細なお香がどんな場所で作られているのか、すぐにでもこの目で確かめたい。
 しかし、ここは紫苑の場所だ。今日昨日来た新参者が無闇に立ち入るべき部屋ではないだろう。

「私がもっとこの家のお役に立って、香堂の勤務も完璧にこなせるようになるまでは、香房は開かずの間ということにしておきます」
「……紬さんは、本当に真っ直ぐな人だね」

 柔らかく目を細めた紫苑が、嬉しそうに微笑を称える。
 その瞳の中には美しい光の粒が瞬くようで、思わず見惚れそうになる。「それじゃあ」

「今の時点でも案内できる場所になら、紬さんも付き合ってくれるかな」

   ***

 紫苑たちが住まう屋敷と香堂を営む店舗は、渡り廊下で繋がっている。

「し、失礼します」
「はい。どうぞ」

 後ろの紫苑に促され、紬は店舗に続く扉を開けた。

「わ、あ」

 芳醇なお香の匂いが、店舗いっぱいに満ちている。
 照明をつけた店舗には、手前に店子が立ち入るカウンターがあり、その向こうには広々とした店舗スペースが広がっていた。
 そっとカウンターを抜けていき、上から垂らされた暖簾をめくる。その瞬間、わ、とため息に近い声が漏れた。わー、わー……。

 残り少ない幸運を今日一日で使い果たしたようだ、と誇張なく思う。
 店内に美しく並べられた色とりどりの線香は、まるで穏やかに眠りにつくように横たわっている。
 カウンター近くのショーケースには円錐型や方錐型、和菓子を思わせる美しい作りの香も揃い、見ているだけで心が弾んでしまう。
 店棚には、香炉や香立てなどの香道具が並んでいた。
 重厚なものから色鮮やかなものまで取りそろえられた香道具は、店主の多くの人に香を味わってもらいたいという店主の願いが現れている。
 さらに店舗中央には硝子ケースには正方形の箱に収められたお香のセット。こちらは初心者向けのものもあるらしく、まるで客になったように紬も心惹かれた。
 なにより、全てのお香にはその特徴と効能がきめ細やかな文字で認められている。揃えられた全ての香が我が子であるかのような、愛に満ちていた文章だ。

 紬は今まで、お香を専門に扱う店舗に入ったことがない。そんな無経験も相まって、お香は基本的に仏壇や法事に用いるものという印象が根強くあった。
 しかしながら、この空間に一歩立ち入ればそんな狭い観念はいとも容易く取り払われてしまう。それほどまでにこの空間は、紬にとって居心地のいい場所だった。
 きっと他の人にとっても……あやかしたちにとっても。

「俺が営む香堂の感想はどうかな」
「……さっき頂いた着物と、同じですね」

 ぽつりとこぼれた言葉に、紫苑の目が小さく見張られる。

「このお店も、紫苑さんが丹精込めて育て上げてきたお店なんだってことが、とてもよく伝わってきます。あの着物も同じです。心を籠めて手入れをしていなければ、あんなに温かい香りはしませんから」

 どんなに多くの品物を取りそろえても、それらを美しく飾り立てても、その空間に思い入れた人の心には適わない。
 人より感じすぎてしまう紬にとって、それは常日頃感じていることだった。目に見えないものであったとしても、目に見えるもの以上に強い心が込められることもある。
 そしてそんな気持ちに触れたとき、紬の胸は溜まらない幸福感でいっぱいになっていくのだ。

「ありがとう。そういってもらえると、俺も嬉しいな」
「お礼なんてそんな。私こそ、こんな素敵なお店に招いてもらって、本当にありがとうございます」
「……よかった。本当は、迷惑だったんじゃないかと思ってたから」

 思いがけない言葉に、紬は慌てて首を振る。そんな紬の仕草を予期していたように微笑むと、紫苑はそっと相好を崩した。

「そろそろ、部屋に戻ろう。明日からは嫌でもこの空間にいることになるから」

 着物の裾を翻し、紫苑が自宅へ続く道を笑顔で引き返す。
 嬉しそうに笑みを浮かべた彼は今までで一等輝いていて、その佇まいは不思議と瞬く金色を思わせた。