水色のカーテンを開けて朝の陽ざしを浴びると、悲しみが押し寄せてきた。
どうして悲しいんだっけ。優紀は考える。
ああ、そうか。きのう、失恋したんだっけ。
……今、何時だろう。ああ、もうこんな時間か。……学校行かなくちゃ。休みたいけど、失恋したので休みます、なんて言えない。
顔を洗うため、優紀はベッドから降りて洗面所に向かった。
「ごめん。藤野のこと、そういうふうに見れない」
昨日、藤野優紀が告白の返事にもらった台詞だ。
「ほら。ずっと友達だと思ってたから。でも気持ちは嬉しい。ありがとう」
それは紛れもなく、好意のない相手に告白をされたときの模範解答だった。
一年とちょっとの間、片想いをしていた相手から笑顔で告げられた残酷な言葉が、優紀の頭の中をリフレインする。
部屋を出て、階段を下りる。ちょっと大げさに軽快なステップを踏んでみても、気持ちは軽くならない。
洗面所へたどり着き、鏡を見て驚いた。
ああ、そっか。髪も切ったんだった。そういえば、頭が軽くて変な感じがしていた。
優紀は昨日、失恋の直後に美容院へ行ったことを思い出した。
半ば衝動的な行動だった。
「今日はいかがいたしますかぁ?」
甘ったるい喋り方をする若い女性の美容師が、笑顔で問いかける。
いつもなら作り笑いくらいはするけど、そのときは失恋の直後で、そんな気力もなかった。
「……バッサリ切って、短くしちゃってください」
優紀は答えた。
失恋して髪を切るなんて、女々しいな、と思った。でも、そうでもしないとやってられない。
「かしこまりましたぁ」
美容師は微笑むと、優紀のサラサラの髪に、大胆にはさみを入れていく。
髪の毛が、バサリバサリと床へ落ちていく。自分の体の一部だったものが切り離されていくのは、なんとも不思議な感覚だった。
優紀は、この胸に残る切なさも、一緒に落ちていってほしいと願った。
「お客様、綺麗な髪の毛ですねぇ」
「ありがとうございます」
どうやらお喋り好きな美容師のようだ。
優紀は人見知りで、初対面の人間と会話をすることはどちらかと言えば苦手だったが、今回はありがたかった。
沈黙はどうしても、切なさを連れてくる。話をしていれば気も紛れるだろう。
「高校生ですかぁ?」
「はい」
優紀は眉一つ動かさずに答える。
「いいですねぇ、高校生。私なんかもう十年も前のことですよぉ」
優紀はその質問には答えなかった。
疑問形ではなかったから、どう反応するのが正しいかわからなかったのだ。
何かを質問されているのなら、それに対する答えを言えばいい。けれど、正解のない会話は強敵だ。
美容師は、優紀からの反応がないことを理解したらしく「十年前かぁ。懐かしいなぁ」などと呟いた。そこで、会話は途切れた。
しばらく、はさみの音だけが響いていた。
一度途切れた会話を復活させるほどの社交性は、優紀にはなかった。
優紀は普段から無口で、表情の乏しい、暗い人間だった。
もう少し自分が明るければ、告白も成功したのだろうか……。そんなもしもに思いをはせて、また切なくなる。……やめよう。
「お客さん、何年生なんですかぁ」
美容師はめげずに質問を繰り出してくる。
よかった。疑問形だ。
「二年生です」
優紀は正直に答える。
「そうなんですねぇ。じゃあ、今が一番楽しい時期じゃないですかぁ? 三年生になったら進路とか考えなくちゃいけなくなりますからねぇ」
「そうですかね……」
質問に対する答えではなかったけれど、自然に会話を繋げられた。
答えながら優紀は、三年生になった自分を想像してみた。
なんとなく自分の偏差値にあった大学を志望して、適当に勉強して、何も考えずに進学して――。優紀の思い描く未来は、靄がかかったようにぼやけていた。
「そうですよぉ。だから、今のうちに恋とかしておいた方がいいですよぉ。好きな人とかいないんですかぁ?」
その質問に、首から上が熱くなって、心臓が早くなる。
「いえ」
どうにか表情を変えずに答えた。けれどそれは嘘だった。告白して断られたけれど、まだ好きだという気持ちは消えていなかった。
たとえ髪を短くしたとしても、この気持ちはしばらく残り続けると思う。
いつか完全になくなってくれる日は、果たしてくるのだろうか。今はまだ想像もつかない。
「もったいないですよぉ。一生に一度の高校生なんですからぁ。たくさん恋しましょうよぉ。私なんて高校生のときはですねぇ――」
美容師が話し出した自身の恋愛遍歴を、優紀は相槌も打たずにただただ聞いていた。
柔らかい表情で語る彼女は、初めて会った他人に話して聞かせられるような、胸を張れるような恋ができていたということだ。優紀はそのことが、単純に羨ましかった。
落ちていく自分の髪をぼんやりと視界の片隅にとらえながら、優紀はセンチメンタルな感情を持て余していた。
生まれて初めて恋をして、生まれて初めて失恋した。そして、自慢の黒髪をバッサリ切った。
「このくらいでいいですかぁ?」
美容師は、折り畳み式の鏡を持って優紀の後頭部を映しながら、首を斜めにした。
「……はい。大丈夫です」
「すごく似合ってますよぉ」
美容師がふにゃっとした笑顔で楽しそうに言うので、それは真実のように思えた。
「ありがとうございます」
優紀は照れながら、鏡越しに目を合わせて返事をする。
こうして昨日、優紀の長髪はショートカットになった。かなり短い。耳も出ている。
家までの帰り道は、なんだか頭がスースーして落ち着かなかったことも覚えている。
優紀が恋に破れても、地球は変わらず回っているし、世界は今日も存在する。
だけど初めての失恋は、きっと長い間、記憶に残り続けるのだろう。
嫌だなと思う気持ちと、大切にしたいと思う気持ちが混在していた。
なるべく失恋のことは考えないようにしながら支度をして、いつも通りの時間に家を出る。
十月の朝は涼しくて、太陽の光が気持ちいい。