プロローグ

 昔むかし。
 ある商家に姉妹がいた。姉が婿を取り、家を継ぐ家だった。
 しかし婚礼前夜、婿は逃げた。妹の手を取り、逃げたのだ。
 月明かりのない暗い夜、二人は逃げて行った。
 残された姉は泣いた。泣いて泣いて、桜の木の下で自害した。
 桜は翌年から、より鮮やかに花を咲かせる。
 そして桜の木も泣くのである。
 姉の悲運に桜の木は、深夜に泣くのである。
 S県七不思議より

**
 最寄りの駅から徒歩十分。
 県庁の敷地から道路一本挟んだ場所に建つ、プレハブの事務所。
 事務所の看板にはこう書いてある。
『県民の命と安全を守るための何でも相談できる事務所』
 略して「何相」。事務所には、所長兼事務職員が一人いる。
 電話相談がメインだが、時折、直接訪ねてくる人もいる。
 
 所長の石田優至(いしだゆうじ)五十代(アラフィー)だが、年齢よりはだいぶ若く見える男性だ。
 いつもは柔和な表情で、誰に対しても丁寧な口調。
 ただ、急を要する事例に遭遇すると、眼光が増す。
 その春雷のような石田の視線を小池が見たのは、桜が散った後のことだった。

 小池蒼汰(こいけそうた)は警察事務職員である。
 ドラマの刑事に憧れていたが、体力には自信がなく事務職を選んだ。
 所属は県警情報分析課。新人の小池に与えられたのは、県民から寄せられる情報の真偽確認、である。
「よく分からない情報の確認だったら、石さんに聞け」
 着任してすぐ、先輩に言われた。
 そして本日、『よく分からない情報』を一つ抱え、小池は初めて「何相」に出向く。
 一見チャラそう。中身もチャラい小池だが、まあ、それなりに緊張していた。
 相手は自分の父よりも年上らしい、デキるタイプの男なのだ。
 こういう時は、笑いを取る! そんな発想自体、学生気分が抜けていない小池である。
 ともかく彼は「何相」のドアを開けた。

「はじめまして! 都知事と同じ名前の小池でえす!」
 石田はデスクから顔を上げる。
 やだ、イケオジ!
 柔らかそうな髪には、年齢相応の白髪が少々混じっているが、青年の趣すら感じられる清潔な顔立ち。
 石さん、なんて呼ばれているから、てっきり髪の薄い、石部金吉だと小池は思っていた。
「この県の知事の名前、君は知ってますか?」
 唐突に石田が訊く。
「く、クロイワさん?」
「それは神奈川」
「も、モリタさん?」
「それは前の千葉県知事」
OH!(オーー) NOOOO!(ノーー)
「あ、当たり」
 目尻を少し下げ、石田は手を差し出す。
「所長の石田です。はじめまして、小池さん」
 小池も慌てて、石田と握手。ついでに手土産を渡す。
「おやおや手ぶらで来てください。お仕事ですから」
 そう言いながらも相好を崩す石田であった。
「小池さんは、情報分析課でしたね。何か分析不能な情報でも入りましたか?」
 石田は小池にお茶を出す。問われた小池は、名刺を出していないことに気付く。
 なぜ、こんなペーペーの所属まで知っているのか。しかも丁寧な話し方。
 緊張が和らいだ小池は、その情報とやらを話し始めた。
「実はこのところ、南区の公園で、枝垂桜(しだれざくら)の下に、夜な夜な女の幽霊が現れるという噂が、何回もSNSに上がってまして……」
「ほお?」
「幽霊はともかく、そんな噂が立つ裏に、何か事件の臭いがする、と」
「ああ、警務課の課長さんが言ったのですね。『女の幽霊』がポイントでしょう」
 くすくすと石田は笑う。少年のような笑顔である。つられて小池も笑った。
「それで、石さ、石田さんに聞け、と言われました。美味しいですね、このお茶。マスカットティーですか?」
「いいえ、杜仲茶(とちゅうちゃ)です。小池さん、資料はお持ちですか?」
「あ、はい!」
 小池は資料の入った再利用封筒を石田に渡す。
「小池さん」
「はい!」
「これからわたし、資料を読みますので、あなたは『杜仲茶』を五回連続言えるように、練習しててください」
 と、杜仲茶? 五回?
 石田は無言で資料を読みふける。
 小池は真面目に「とちゅうちゃ」を繰り返した。
「ちょちゅうしゃ。違う。としゅうちゃ。じゃない……」
 数分後。石田は読んでいた資料を、テーブルの上でトントンと揃えた。
「なるほど」
 杜仲茶のタタリか、小池はとうとう舌を噛んだ。
「にゃにか、分かりましたか?」
 石田は伏し目がちに頷いた。やはりイケオジ。
「時系列だと、こういうことですね」
 枝垂桜がぽつぽつと、開花を始めた三月の中旬。
 深夜になると、南区の公園付近では、時折木枯らしよりも悲しい声が響くようになる。
 季節柄、それは風の音だろうと思われていた。
 枝垂桜が五分咲きになると、公園は夜、桜のライトアップを行う。
 二十三時でライトは消えるのだが、不思議と深夜二時過ぎに、再度点灯される。
 すると。丑三つ時のライトは辺りを真っ赤な色で染めるのだ。
 その赤いライトの中に、浮かび上がる人影はおよそ此の世の者とは思えない、白く儚げな風情。
 そして聞こえてくる、木枯らしのような音。まるで、女性の泣き声のような……。
 いつしか、枝垂桜の元に、現れる幽霊の噂が広がった。
「では小池さん、この中で、事実と噂、識別できますか?」
 小池は悩みながら、資料に赤ペンで丸を付ける。
 小池が丸を付けたのは「木枯らしよりも悲しい声」「再度点灯」そして「浮かび上がる人影」である。
「そうですね、わたしもほぼ同意です。強いて言えば、『現れる幽霊』も事実でしょう。ただし現れるのは、幽霊でないかもしれませんが」
 石田は自分で「現れる」に丸を付けた。
「五分咲きの頃とは、三月下旬ですね。南区周辺で、その時期に行方不明の届け出はなかったでしょうか?」
「はい! 調べてあります。あ、調べるように、課長に指示されました!」
「その不明者の中に、桜と関係するような人はいましたか?」
「はい。え、なぜ知ってるんですか?」
「杜仲茶のご利益ですかね。ふふっ」
 小池は思わず、杜仲茶を飲み干した。
「勿論冗談です。わたしも別口で依頼があったので、少し調べていましたから」
 事務所のドアをノックする音が聞えた。
「ああ、依頼主さんが来たようですね。小池さん、あなたも同席してください」
 石田は立って、ドアを開ける。
 そこには、白い肌の上に射干玉(ぬばたま)の髪を垂らす、妙齢の女性が立っていた。
「お電話でご相談しました、香山でございます」
 石田は慣れた所作で、香山という女性を接客用の椅子に誘う。
「ご相談は、お姉さまのことでしたね?」
 石田が尋ねると、香山は睫毛を伏せて首を縦に振った。
 香山家には、紅美(くみ)紫乃(しの)という姉妹がいる。
 元々大きな地主の家であるため、どちらかが婿を取り跡を継ぐ。
 姉の紅美は、お見合いをして結婚を決めた。お相手は勤務医の今井という男である。
 挙式は三月に決まり、ちらほらと桜がほころび始めた頃、いきなり、紅美は姿を消した。
 式で着るはずだった、打掛を切り裂いて。
「お姉さま、香山紅美様の失踪に、心当たりはありますか?」
「いいえ。女性として、一番幸せな時ですから。……でも。
姉は、妹の贔屓目ではなく、大変美人でした。婚約した今井さんだけでなく、お付き合いのあった方は、何人もいた様子です。 なので、何か事件に巻き込まれたのではないかと、両親は心配しています」
 香山紫乃は、バッグから写真を出す。
「姉です」
 真紅のドレスを着た、香山紅美が写っていた。確かに、大輪のバラのような、ゴージャスな美人である。
「そしてこちらが、姉が付き合いのあった方の連絡先です」
 石田はそのメモ書きを手に取ると、小池に言う。
「小池さん、香山さんにお茶とケーキを出して差し上げてください。わたし、ちょっと調べてみますので」
「お茶は杜仲茶ですか?」
「いえ、ダージリンを」
 小池の手土産は、美味しいと評判のケーキだった。
 小池は香山紫乃の目の前で箱を開く。
「ここはイチゴのショートケーキが有名なんですが、どれが良いですか?」
 香山紫乃はじっとケーキを眺めた後に、遠慮がちに、チーズケーキを指差した。
「香山さん、お姉さまの知り合いの方々に会ってみます。一両日中にその結果をお知らせいたしますね」
 香山紫乃は頷く。黒髪が揺れ、紫乃の頬は白いままだ。白いというより、蒼い肌である。
 姉妹と言っても、あまり似ていないと小池は思った。
「では、よろしくお願いいたします」
 帰り支度を整えた紫乃は頭を下げる。
 「ああ、香山さん」
 不意に石田が声をかけた。
「桜って、バラ科の花なんですね」
 その一言に初めて、香山紫乃の表情が動いた。

 香山紫乃が帰った後、石田と小池は残ったケーキを食べていた。
 美味しいと評判のイチゴのショートケーキを頬張りながら、小池はチーズケーキを丸ごと残した紫乃を思い浮かべた。
 庇護欲というのか。儚い雰囲気と潤んだような瞳が、妙に男心をくすぐるタイプだ。
 失踪したという姉の香山紅美をバラに例えるならば、紫乃は散り行く桜のようだ。
 バラ……?
「桜って、バラ科なんですか?」
 先ほど、帰りがけの紫乃に石田が投げた言葉を思い出し、小池は尋ねた。
「そのようです。植物学者の牧野富太郎は『イバラ科』とも言ってますが。バラ科には、桜や梅の他にイチゴやリンゴ、アーモンドなども含まれます」
 石田は植物にも詳しいようだ。
「さて小池さん。情報分析の結果を警務課にどう伝えますか?」
「うーん。事件性があるような、ないような……」
「わたしはあると思います。ただし失踪、行方不明の段階で、司法警察職員が捜査に入ることは少ないですね」
「えっ? そうなんですか!」
「はい。小池さんは、全国の年間行方不明者が、何人いると思います?」
 そういえば、採用試験のために暗記した記憶が、小池には微かにある。
「ええと、九万人くらい、でしたっけ」
「そうです。翻って日本の警察官は三十万人に満たず人手は足りません。よほどの事件性がない限り、積極的に行方不明者の捜査はしないのです。だから」
 石田は最後に、ケーキに飾られたイチゴを飲み込む。
「この相談所が出来ました。ここは首都圏でありながら、地方都市と変わらない。中途半端な都市なんです。よって犯罪も多岐に渡っています。しかし警察の手は足りない。わたしはそこに光を当てたいのです」
 小池は思った。なんだか。凄くカッコいい!
 そうか、此処は、中途半端な都市なんだ!
「そこで、小池さんは先ほどの、香山紅美さんの知人から、情報を集めてください。情報はわたしと共有して良いと許可をいただいてます」
「許可って、誰からですか?」
「本部長と、知事からです」
「おおお!」
「わたしはこれから、探しに行きます」
「探すって……何を?」
「香山紅美さんです。二日以内に必ず探し出します」
 きっぱりと言い切った石田を、小池は眩しそうに見つめた。
** 
 小池は管轄の警察官と一緒に、まず、香山紅美と紫乃の両親から話を聞いた。
「紅美ですか。私共はもう、いない者として考えてますので、警察の方の手を煩わせる必要はございません」
「あの()は、香山家の跡取りにはふさわしくないですから。紫乃がいれば十分です。紅美と婚約していた今井先生には、紫乃と結婚していただくことになっていますので」
 小池は長女を全く心配していない、両親に違和感を抱く。
 すると同行していた警察官は、事もなげに言う。
「よくある話です。長子優遇もあれば、末子溺愛もありますから」
 小池が香山家の屋敷を出ると、裏門の辺りから件の公園が見えた。
 噂の幽霊が出る場所と、香山家は存外近かった。
 次に、小池が訪ねたのは、メモ書きにあった紅美の友人である。
 ダンスのインストラクターをしているという女性は、開口一番こう言った。
「紅美の失踪? 家出でしょ。あの家じゃ、紅美は可哀そうな扱いだったし」
「ええと、妹さんの方が優遇されていたのですか?」
「優遇? そんな甘いもんじゃない。いわば虐待。紅美の希望は全無視。紅美の持ち物は紫乃のモノ。婚約者だって……」
「婚約者ってお、医者さんでしたっけ」
「そうそう。挙式が決まってから、寝取られたのよ。妹に!」
 小池は目を丸くした。あの、楚々とした香山紫乃が、姉の婚約者を寝取った?
「ああ、みんな、紫乃の見た目に誤魔化されるのよね。小さい頃は喘息気味で体が弱くって。色白で儚げで。紅美は元気良くって活発で。男の前で泣いたり出来ない。
 紫乃が『私、お姉さまに虐められているんです』なんて縋りつくと、男はコロッと騙される。バカよね」
 小池は背中に嫌な汗が流れる。
 多分、いやきっと、小池とて香山紫乃に縋られたら、ヘンな漢気を発揮してしまうだろう。
「そんな妹なのに、紅美はそれでも可愛がっていたわ。小さい頃に縁日で買った、お揃いの指輪を大切にしていたりして。それだけは、紫乃に取られなかったって、ね」
 小池がその日最後に会ったのは、香山紅美の学生時代の友人であった。
「紅美が行方不明? 何時(いつ)から? えっ挙式直前?」
 眉を寄せて考えている男性は、香山紅美の一つ年上で、大手商社勤務だった。
 小池と同行している警官に向ける視線は怜悧である。
「やっぱり、さっさと奪っておけば良かったな」
 自嘲気味に彼は笑う。どうやら紅美の恋人だったらしい。
「そうだな、交際(つき)あってたよ。でもさ、俺は長男一人っ子。紅美は跡取娘。一回だけ結婚したいって紅美の家に行ったら、塩撒かれたよ。『ウチの資産を狙った卑しい奴』とか言われてさ。
あの家の近くの公園も、香山さんの土地なんだってね。枝垂桜も含めて。
ああ、これじゃ紅美と結婚なんて無理だって、俺は諦めた」
 大手商社マンらしいスタイリッシュな男性は、さらりと小池に名刺を渡す。
「何か分かったら、教えてください。俺は紅美の力になりたい。そう思ってます。今も」
 浅井という、かつての紅美の恋人は、小池に深くお辞儀をした。

**
 小池は聞き取った情報を手に、「何相」事務所へ向かった。
「残念ながら、香山紅美氏の婚約者、今井医師には連絡がつきませんでした」
「今井さんは、勤務していた病院を挙式前にお辞めになってますから、仕方ないでしょう」
 石田の机には、前回よりも物があふれている。
「だいたい状況は掴めました。小池さん、今夜お時間ありますか?」
「あ、はい」
 一献傾けるのだろうか。
「超勤というかサビ残というか、ああ、残業申請は出してください」
「何か、この件の関係業務ですか?」
「その通りです。そうそう小池さん、地元のSNSに流して欲しいものがあります」
「なんでしょう?」
「幽霊騒ぎの続報です。そうですね、『ついに見つけた! 枝垂桜の幽霊』みたいな内容で」
「はあ」
 よく分からないまま、小池は石田の言う通り、文章をSNSに投じた。
「今夜、カタをつけましょう」

 深夜二時。
 小池は石田の指示により、頭に暗視鏡を付け、その上にビニールのカッパを羽織り公園に立つ。
 暗視鏡には赤外線照射装置がついており、灯のない公園で動くことが出来る。
「枝垂桜の木の根元で、しゃがみながらウロウロしててください」
 石田からはそう言われていた。
 生温かい風が吹く。今夜は月も見えない。本当に、何かが出たらどうしよう。
 小池はドキドキしながら、枝垂桜の根元あたりを往ったり来たりする。
 すると、赤外線を反射したのか、キラっと光るものが、地面に見えた。
 小池は座って手を伸ばす。
 伸ばした小池の手の甲に、いきなり真っ赤な光が当たる。
 自分の暗視鏡がずれたかと、小池の動きが止まった瞬間であった。
 小池の体は何かによって、跳ね飛ばされた。
 「痛ってえ……」
 上体を起こそうとした小池の目に、ふわり立ち尽くす、白い人影が映る。
 まさか!
 ミイラ取りがミイラ? いや違う!
 幽霊のふり、なんかしたから。幽霊に、捕まったぁ……。
 

**
「小池さん、小池さん、大丈夫ですか?」
 小池の目の前に、石田の顔があった。
「あれ? 僕……」
「お手柄ですよ、小池さん! 捕まえましたから、幽霊!」
 そうか。幽霊見て、気を失って……
 小池はハッとして飛び起きた。
 雲が途切れ、月が辺りを照らす。
 石田の横には、男女のカップルが互いに身を寄せ合っていた。
 女性は、写真で見た顔だ。香山、紅美か?
 男性は、昼間あった商社マン。浅井と言ったっけ。
「すみません、驚かしてしまいました」
 紅美は謝罪する。
 声が、聞き取りにくい。
 見れば紅美の首には、包帯が巻かれていた。
「もっと早く、連絡しておけば良かったです。申し訳ない」
 浅井も頭を下げた。
 小池の頭には疑問符が飛び交っている。
「小池さん、あなたの奮闘により、おおよそ解決しましたよ」
 石田に言われても、全然納得できない小池であった。
 翌日、睡眠不足のまま、小池は県の防災センターの会議室に赴いた。
 関係者を集めての説明会を行うと、石田から連絡を受けたいた。
 「何相」の事務所では、手狭だそうだ。
 会議室には石田の他に、警備課の課長と警官がいた。
 小池が席に着くと、浅井に手を引かれて香山紅美がやって来た。
 一番最後に香山紫乃が、一人の男性を伴って入室する。
 紫乃は紅美の顔を見ても、表情を変えることはなかった。紅美は唇を一文字にした。
「皆さんお揃いになりましたので、『県民の命と安全を守るための何でも相談できる事務所』で扱いました『枝垂桜の幽霊』と香山紅美氏の失踪について、報告いたします」
 石田は会議室のホワイトボードに、先日小池とまとめた情報を簡単に書いた。
「発端は三月の上旬、南区の枝垂桜に木枯らしの様な音が響き、深夜に赤い光が走り、白い人影、幽霊のようなものが現れる、という噂でした。そして、公園近くにお住まいの、香山紅美さんが行方不明になったという相談が舞い込んだのです」
 会議室は石田の声だけが響く。
「わたしは、この幽霊騒ぎと行方不明は関連があると思い、県警の情報分析課、警備課と連携しました。その結果、昨夜、行方不明だった香山紅美さんを見つけることが出来たのです」
 香山紅美は、首の包帯にそっと触れた。
「香山紅美さん、あなたの首の傷、それは気管に傷がついたからですね」
 紅美は頷く。
「あなたは気管に傷を負った状態で、公園に走り込んだのではないでしょうか。『木枯らしのような音』とは、気管を通る呼吸音だったと、わたしは推測しています」
 紅美は無言である。紫乃は強張る。
「では香山紫乃さんにお聞きします。あなたは、果物のアレルギーがある方ですね?」
「えっ? ええ……」
 なぜ知っているのか、という紫乃の表情だ。
「当事務所でケーキをお出しした時に、あなたはイチゴや他の果物が載ったケーキを選ばなかったですね。おそらくはアレルギー反応をお持ちだろうと推測したのです。さらに言えば、微量反応ありの食物アレルギー。すなわち、日常的に、アナフィラキシーを起こさないように、アドレナリン自己注射薬を持ち歩いているのでは?」
 紫乃の隣に座っている、今井が発言する。
「それが何か問題でも?」
「いいえ、全然。ただし、自分に打つだけでなく、アレルギー反応のない他人に打ってしまったら、いささか問題はありますね」
 それまで黙っていた紅美が、掠れた声で言う。
「そこまでご存じなんですね……」
 紅美は隣席の浅井の手を握る。二人見つめ合って、紅美はこくりと頷いた。
「私の今の声では、些かお聞き苦しいとは思いますが、この際すべてお話いたします。
 紅美は話を始めた。
「ことの起こりは私の結婚式の打掛です。友人に草木染めの作家がいますので、柔らかい薄紅色の生地を創ってもらいました。挙式は春の予定でしたので、友人は桜の木の皮と、赤い実の果物を使って仕上げてくれたのです」
 紫乃は俯いて黙っている。
「出来上がりは素晴らしいもので、上品な色打掛となりました。でも……」
「妹さん、紫乃さんが、それを欲しがった?」
 小池は紅美の友人が言っていたことを思い出し、つい口を挟んだ。  
「はい。他のものならともかく、挙式用でしたし、友人がわざわざ手掛けてくれたものでしたから。特に紫乃は、バラ科の果物類全体にアレルギーを持っていたので、桜で染めた布を着たら、どうなるかと……」
 紅美の言葉に小池は思い出す。石田は「桜もバラ科」であると。
 紫乃の肩が震えている。隣の今井は、その肩を抱く。
「あの晩、着物が置いてある部屋で、紫乃は私の打掛を、鋏で刻んでいました」
 紅美は涙を落とす。
「止めても無駄。しかし、桜や果実で染めたものです。刻んでいるうちに、紫乃はアレルギー反応を起こしました。
正直、そのまま見捨てようかと思ったのです。何でも欲しがり、奪っていく妹。それを咎めない両親。
……でも、アドレナリン製剤を取りに行かなければと。妹の部屋に置いてあるから」
 紫乃の顔色は悪い。
「そしたら、いきなり紫乃は私を刺しました。アドレナリン製剤を持っていたのです。製剤はノック式で針が出ます。そのまま、私の咽喉を……」
「違うわ!」
 立ち上がり、紫乃が叫ぶ。
「自分に刺そうとして、間違っただけよ! それにもう、あの時あんた、婚約破棄されてたじゃない! 挙式用の衣装なんて無駄だったのよ!」
 いつもの純和風な髪を振り乱し、すぐにでも紅美に掴みかかりそうな勢いだった。
 今井は必死で紫乃をなだめる。
「気管に開いた穴を押さえ、私は家の裏口から公園に走りました。木枯らしのような音は、多分その時出たものでしょう。確かに、今井さんとの婚約はもう解消されていて、私には行く宛てがなかったのです。そこでずうずうしくも浅井さんに、しばらくお世話になっていました」
 石田が紅美に訊く。
「その公園を走った時、何かを落としたのですね。深夜、落とした物を探しに、あなたは公園にやって来た」
「はい。自宅近くの公園なので、昼間は近寄れず、深夜、赤外線付きの暗視カメラを持って、うろうろしていましたが……。ようやく昨夜、見つけました」
 これですと言って、紅美は指を見せた。
 ビーズ細工の小さな指輪。泣きわめいていた紫乃が、はっとして息を飲む。
「妹と、紫乃とお揃いで買った指輪です。たった一つだけ残る、妹と仲良かった時の想い出なんです」
 紫乃が先ほどよりも、大きな声で泣き出した。
 
**
 結局、香山家内のトラブルであるため、警察はこれ以上介入せず、行方不明者の発見と「中途半端な都市」伝説のような幽霊騒ぎも解決したので、一件落着となった。
 新緑が眩しい季節になった頃、小池は「何相」を訪れた。
 今日は県の銘菓「うますぎる饅頭」を手土産にしている。
「やあ小池さん、今日はまた、何かの情報をお持ちですか?」
「あ、いえ、ええと、香山さんの一件で、ちょっと疑問が残ったので」
 あの後、紅美は浅井と入籍し、香山家とは、ほぼ絶縁したと聞く。
 妹の紫乃は、来月今井と結婚するそうだ。
「どんな疑問でしょう?」
「兄弟姉妹って、心の底から憎しみあえるものなんですか?」
「日本の殺人事件、その半数は親族によるものってご存じでしょう。配偶者を除くと、殺人事件の親族の犯人は、実の両親、実の子ども、実の兄弟姉妹ですからね」
「あと、何で石田さんは、早くから香山家に目を付けていたんですか?」
 石田はほんの一瞬、口を噤む。石田の瞳には、コンマ何秒かの光が、斜めに走った。
 蒼い、稲妻のような光だった。
「もう何年も前ですが、虐待疑いがあったのですよ。香山さんの近隣の方から通報がありました。ただ、証拠も紅美さん自身の訴えもなく、何ら介入できなかった……」
「別件でもう一つ、石田さんに質問です」
「はい?」
「なんで杜仲茶五回、言わせたんですか?」
 石田は笑う。快活な笑顔だ。
「それは秘密です。『東京特許許可局』五回でも良いですけど」
 ちぇっと言いながら、小池は饅頭の箱を開けた。