「興味がない?」
小さく首を傾げる彼は、静かにわたしを見つめた。
その瞳を見ているだけで、心の奥深くにしまっていたはずの想いが一気に溢れてくる。
心に固くかけたはずの鍵を簡単に外されてしまったような気がした。
「……父は、きっと浮気をしているんだと思います」
そう力なく呟いた瞬間、目を見開いた彼はわたしの手首を掴んだ。
そのまま手を引かれて歩き出す。
いったいどこに連れていかれるのだろう。そんな恐怖はわずかに生まれたけれど、それ以上にわたしの胸にあったのは淡い期待。
今この瞬間、わたしの運命が大きく動くような、そんな不思議な感覚に包まれていた。
「ここからの月はすげえ綺麗に見えんだよ」
「……っ」
少し歩いた先は、街を見下ろすことができる場所にある小さな公園。
そこに鎮座する古びたベンチに腰掛けた彼は、そう言ってふわりと笑った。
月よりも輝く、彼の瞳。
───…ああ、だめだ。唐突にそう思った。
一目惚れなんて、絶対にしないと思っていた。
ある程度の時間を共に過ごして、会話をして、きちんと内面を知ってからじゃないと、好きになんてなるはずないと思っていた。
けれど彼はそんなわたしの"絶対"を、こんなにも、簡単に。
「名前、聞いてもいいか」
柔らかい声音で訊ねられて、素直に唇が動く。
「ゆめ、です」
こんなにも自分の名前をあっさり名乗ることができたのは、初めてだった。
今までずっと、自分の名前があまり好きではなかったから。
こんなに可愛らしくてふわふわした名前、わたしには到底似合うはずがないから。
言ってしまってから、後悔した。もし「似合わない」なんて言われたら、わたしはもうきっと立ち直れない。たとえクラスメイトに言われたとしても、親戚に言われたとしても、きっと気にすることはないだろう。
だけど、彼は。
彼に言われてしまったら、わたしはもうだめな気がした。
「────ゆめ。」
甘く、蕩けるような、そんな響き。
たった二音。それだけなのに、鼓動の高鳴りはもう抑えられなかった。
ドクンッと、一度。身体全体で鳴り響くように、鼓動の音が聞こえた。
「あ、あなたは……?」
黙っていると悟られてしまいそうで、夜の色をした瞳に見透かされてしまうような気がして、誤魔化すように慌てて問い返す。
「……詩」
ぽつりと呟いた彼は、黙って空を見上げた。
そして、何事でもないかのように「浮気、か」と呟く。
もう少し、戸惑ったり躊躇ったりするのかと思っていた。
けれど意外にも彼はさらりと流すように話を振る。
「どうしてそう思った?」
「……父は週に何度か、家に帰ってきません。そのたびに、母は泣いています」
ぽろり、ぽろり。
水がこぼれるように、秘めていた思いがあふれていく。
「嫌でも……分かるじゃないですか。分かっちゃうじゃないですか。きっとわたしが家族を繋ぐ最後の砦なんだって、そう思っていました」
「……とりで」
「わたしがいるから、二人は夫婦でいて、わたしたちは家族でいられるんです。わたしの将来を思って、二人は別れる道を選ばなかったんだと思います」
高校生のわたしを思って、家計的に苦しくなるのを防ぐためだったのかもしれない。
「でももう限界がきたみたいです。わたしはもうすぐひとり立ちして、家族に頼らず自分で生きていかなきゃいけない。だから、もうすぐ家族が壊れちゃうんです。ばらばらに、なっちゃう……」
話しているうちに、ぼろぼろと両目から涙があふれた。
泣くのは、いつぶりだろうか。
両親のように、わたしもとっくに心が死んでしまっていた。
けれど詩さんの前だと、自分の気持ちに素直でいられる。
不思議な夜の瞳の中でなら、思いを打ち明けて涙を流すことができる。
「ゆめ」
名前を呼ばれて、俯いていた顔を上げる。涙に濡れた瞳に映るのは、静かに微笑む詩さんだった。
「……おいで」
優しい口調、柔らかい声。
そっと音を渡すように言われては、もう我慢なんてできなかった。
迷いなく彼の腕の中に飛び込んで、そのぬくもりに溺れる。
「どうしよう……っ。悲しい、つらい……家族が家族じゃなくなっちゃう……」
しゃくりあげるように泣きながら、彼の腕の中で思いをぶつける。
久しぶりだった。だれかに思いを打ち明けるのは。
無関心がいちばんつらい。慣れてしまったらそれは、心が死んでしまったということ。
本当は他愛のない話をたくさんして、褒められたかった。
放課後に一緒に出かけたり、恋バナをして盛り上がりたかった。
「ゆめ」
出会った時と同じように、彼の手がわたしの頭にのる。
けれど最初と違ったのは、優しく撫でられているということ。
小さい子供をあやすように、そっと。
「家族が家族じゃなくなることなんてねえよ」
「……」
「いつまでも、たとえ死んでも家族は家族だ。バラバラになっても、離れても、家族は変わらないんだよ」
芯のある声で告げられる。
「俺は小さい頃に親父を亡くした。親父を追ってお袋も死んだ。それでも俺は、ずっと家族だと思ってる。たとえこの世界にもういなくても、家族はずっと家族のままだ」
顔を上げると、切なげに眉を下げる詩さんがいた。