放課後――。

 部活に出るため、そそくさと教室を出ようとした。ところが麗子さんに捕まってしまった。
「若宮さん」
 麗子さんの透明な声で呼び止められたのなら、呼び止まるしか方法がない。
「お料理の打ち合わせをしたいのだけれど、いつなら時間が空いているかしら」

 放たれる言葉の一つ一つが輝いている。
 透明できらきらと光をはなっている。こんな人もいるんだなぁ。きっと自分とは違う人種なのだ。

「いつでもいい。ただ、放課後は部活があるから。前もって言ってもらえると助かるな」

 なんてぶっきらぼうな口調なのだろう。
 なんて自分は不器用なのだろう。
 言いたいことはそんなことではないのに。表現したいことはそんなことではないのに。

 麗子さんは気を悪くしたのかな、と思ったのだが、それはいらぬ心配だった。

「そうね。若宮さんは柔道部ですものね。できるだけ、練習に差し支えないようにしたいから、明日のお昼休みなんてどう?」
 そう麗子さんが提案してきたのだから、反対する理由などあるわけもない。
 そして麗子さんは「次の大会も応援しているね。練習、がんばってね」と小鳥のように笑んでからその場をふわりと立ち去った。麗子さんの甘い残り香が自分の身体を優しく包み込んだ。
 その日の部活は、ほとんど集中できなかった。意識をこらせば、まだ麗子さんの香りが残っているような感じがした。

 休憩中――。
 麗子さんの甘い残り香はどこへいったのやら。
 汗をかいた自分は、その汗臭さに包み込まれていた。
 少し長めの前髪が、ぴたりと額にまとわりついている。
 あぁ、これではどれだけ鼻をこらしてみても、麗子さんの甘ったるい残り香など感じ取れるわけがないではないか。残念だ。
 それとも、麗子さん使用の香水でも振りかけてみたら、麗子さんに気にとめてもらえるだろうか? なんて、考えながら武道場を後にして、外にある水のみ場へと向かう。
 なんと、武道場は後付のため、場内に水道はないのである。あぁ、なんて不便なのだろう。
 だから乾いた喉を潤し、火照った頬を冷やすためには、一度外に出る必要があるのだ。
 あぁ、なんて不便なのだろう。

 武道場が後付である理由は、元々この高校が女子高であったからだ。
 なにかのブームに乗っ取るかのように、女子高・男子校はそれぞれ共学化され始めた。
 そして自分が通っているこの高校も、三年前に共学高となったのだ。今まで男子がいなかったところに、男子が生活するということは、いろいろと設備を増やす必要がある。
 先生、学生の意見を取り入れて、一年前にこの武道場ができあがったのだ。

 ちなみに武道場の一階では柔道部が、二階では剣道部が練習をしている。
 さらに余談ではあるが、体育の授業で女子生徒が創作ダンスに励むのもこの武道場の二階であった。
 まぁ、需要があるということはよいことである。

 水のみ場には先客がいた。
 陸上部である。陸上部。児玉が所属する陸上部。
 なんて運が悪いのだろう。神様はいじわるだ。きっと、自分をからかって笑っているのだろう。神様の暇つぶしに使われるなんてまっぴらだ。
 だからといって、ここであからさまな反応をして神様を楽しませ、もっともっと神様に好かれてしまったのなら、未来永劫神様のおもちゃになってしまう。
 ということを、一瞬の間に考えてしまった。
 もしかして自分は妄想癖でも持っているのかな? なんて思ってしまう。
 いやいや、神様のせいにしたいくらい、今のこの状況を嫌だなと思っているということだ。

 とりあえず水のみ場で順番待ち。児玉に気づかれないことを祈る。けれど、その祈りは無駄だった。

「そっちも休憩?」

 水道を使い終えた児玉が声をかけてきた。

「悪いか」と答える。
 並んでいた水道が空いた。豪快に蛇口をひねり、豪快に水を顔にかける。このまま体中にも水をかけたい気分だったが、水浴びするには少々時期が早い。少々どころではなく、かなり早い。
 首にかけていたタオルで顔を拭き、次に順番待ちしていた人にその場をゆずる。そしてタオルから顔をはなしたとき、目に入ったのは児玉だった。

「組長さあ、最近、俺に冷たくない?」
「もともとこういう性格だ。悪いか」
「悪くないけどさぁ。麗子さんと俺に対する態度が全然違うじゃん」
「当たり前だ。麗子さんはレディだからな」
「うわ。男女差別」
「うるさい。さっさと練習に戻れ」
「冷たいなぁ。組長」
「ふん」

 鼻息荒く、武道場に戻る。同じ学年で同じ柔道部の田森くんは、「君たち、相変わらず仲が悪いね」と笑っていた。
 失礼だな、田森くん。ただ仲が悪いわけじゃない。犬猿の仲なんだ。
 と言ってやろうかと思ったのだけれど、言うだけ無駄なような気がしたので、そっと心の中に閉まっておくことにした。