なあ、まひる。放課後眼科に行くんだけどさ、ついてきてくれないか?」
「えっ、まだ行ってなかったの? もう一ヶ月は経つよね!?」
「いやあ、部活やらバイトやら何かと忙しくて……」
「目は怖いから早めにって言ったのに。ついてくのはいいけど……何、病院怖いとか?」
「いや、そうじゃないけど……何か、最近もうどっちが現実かわかんなくなってきて」
「……? 何それ」

 まひると二人電車に揺られる間にも、停車した駅に立っているサラリーマンの肩には鮮やかな赤いネイルの白い手が蛇のように巻き付いて見えるし、覗き込んだベビーカーの赤ん坊の顔は、にんまりとチェシャ猫のように不気味な笑みを浮かべている。

 今まで左目に映るもの達の存在は、朧気な世界に異物が混入しているような感覚だったのに。どうにも近頃、現実のものに重なって、紛れて、溶け合って、全体が歪に見える。

 まるで一人、終わらないハロウィンの夜に投げ出されたような気分だ。

 生まれた時から知っている母親の顔は見知らぬ能面のように無機質に見えるし、友達の身体も真夏の溶けた飴のようで何とも落ち着かない。

 変わらず可愛らしく見えるのは、最早小学生の頃から飼っていたペットのハムスターとまひるだけだった。


*****


 予約した地元のぼろぼろの眼科は空いていて、ちょうど擦れ違った唯一の他の患者は会計を済ませたところだった。
 その患者が眼帯をしているのを見て、あれさえあれば余計なものを見なくて済むかとぼんやり考えていると、すぐに名前を呼ばれた。

「神崎十夜さーん、診察室にどうぞ」
「あっ、はい……」
「私、此処で待ってるね」
「おう……ありがとうな」

 無理に付き合わせたにも関わらず、まひるは文句も言わず可愛らしく小さく手を振り送り出してくれる。不安で一杯でも、彼女が待っていてくれるのなら心強い。

 眼鏡の代わりに虫眼鏡を貼り付けているような、異様にでかい目をした看護師に案内されるまま診察室に入ると、頭が身体の三倍くらいある白衣の医師に出迎えられる。こんな、どう見ても異様な光景も、すっかり見慣れてしまった。

「こんにちは。本日はどうされました?」
「ええと、目が……たぶん視力が落ちてきて……一ヶ月くらい前から、視界がおかしな感じがして」
「一ヶ月も放置してたんですか……。ちなみに、おかしいとは?」
「あはは……あー、最初の頃はぼやけたりしてたんですけど、最近は見え方がおかしい感じで、こう、うまく説明出来ないんですけど……ぐにゃっというか、にょろっていうか、ばーんっていうか?」
「ふむ……。まあ、とりあえず検査してみましょう」

 俺の要領を得ない説明に、医師は怪訝な顔をして重たそうな頭をぐらぐらと傾げる。不安定すぎるバランスに、何だか申し訳なく感じた。

 そのまま看護師と医師の二人がかりで、あれよあれよと言う間にあらゆる検査をされる。
 謎の画像を見せられたり、目の中に変な液体を入れられたりして、目に負荷を掛けすぎたのか、終わった頃には何だか頭も痛くなってきた。

「ふむ……神崎さん、右目の数値がちょっと異常ですね。もっと大きな病院で詳しい検査が必要かと……紹介状を書きますからそれを持って……」

 すっかり疲弊して診察室に戻ると、何やら深刻そうにカルテとにらめっこした医師の言葉に、思わず酷使した目を見開く。

「え……ちょっと待ってください、右目、ですか? 左目じゃなくて?」
「ええ。左目は視力も正常ですよ?」
「いや、そんなはずは……」
「……? 何故そう思うんです?」
「だって、左目が……変なものを見るんです」
「変なもの、とは?」

 医師に何と説明していいか、思わず口籠る。
 もしも正直に、具体的に日々見える世界を伝えたとして、紹介状の文言を変えられて「眼科ではなく精神科に行ってくれ」とでも言われたら終わりだ。
 そんな葛藤を察したのか、医師は大きな頭を揺らして、柔らかな視線を此方へと向ける。

「……ふむ、神崎さん。もし、左右の目で別なものが見えているのだとしたら、左目が正常なので、左目の世界が本物ですよ」
「……、え?」

 三日月の如く綺麗に細められた瞳と目が合うと、いっそう柔らかな優しい声音が子守唄のように響く。

「神崎さんの既往歴を確認しましたが、小学生の頃に事故で頭の手術をされていますね。見ているものはその際の後遺症でしょう」
「え? いや、ちょっと待ってください……左目の世界が、本物って」

 恐る恐る、先程見た眼帯の患者のように、そっと手で右目を覆う。
 左目だけの世界では、先程まで朧気でも辛うじて認識出来ていた医師の白衣が、血の通わない死体のような白い肌に見えた。頭ばかり大きな不安定な化け物の姿が、薄暗い診察室の中でもありありと映し出される。

「これが、本物……? はは、いや、そんな馬鹿な……」
「どんな風に見えているのか、僕は神崎さんではないので分かりませんが……一ヶ月も自身の認識と異なる世界が見えているのに、混乱や精神に異常を来さず順応して受け入れているのでしょう?」
「それ、は……」
「だとすれば、それが現実だと、事故以前に見ていた景色として頭のどこかで理解しているのでしょう」
「……、……」

 今は亡き父親と一緒に事故に遭い、頭部に手術を受けたのは小学三年の頃。それ以前の記憶は幼かったこともあり曖昧だ。

「視力もぼやけて見えていたのから回復してきてるとのことですし、じきに慣れるでしょう。……大丈夫ですよ、あなたの左目は正常です。右目については、改めて検査を受けてくださいね」

 理屈は、分かる。けれど悪夢のような世界を現実として認める勇気は俺にはなかったし、勧められた右目用の眼帯は遠慮しておいた。
 紹介状も、受け取ったけれど行くかどうかはとても決められなかった。

「あ、お帰り十夜。どうだった?」
「……あー、うん……まひるが可愛いことだけが、唯一の救いかな……」
「? 何それ」

 待合室に座る彼女の姿に、思わず涙が滲む。涙に世界が酷く歪んでも、親しかった人達が変わり果てた姿になっても、それでも、まひるだけは変わらない。それが俺に残された光で、心の支えだった。


*****


「……なあ、知ってるか? 動物って、それぞれ色の見え方が全然違うらしい。牛馬と犬猫は全然違うし、虫なんかは紫外線も見えるらしい」
「へえ? 知らなかった。でも、確かに虫の目って何か違うよね……こう、びっしりしてるっていうか。でもなあに、急に。調べたの?」
「いやあ、自分の目がおかしくなってからさ、そういうのちょっと調べてみようかなって」

 見える世界が変わってしまっても、俺の生活は変わらなかった。学校もあるし、家計のためのアルバイトもある。たまの休みにまひるとこうして会って、のんびり過ごすのが至福の時間だ。

 この間途中になっていたホラー映画の続きは、全く怖くなくなっていた。この目に見える現実の景色の方が、余程ホラーじみている。

「……ふうん。同じ人間でも、同じ見え方をしてるとは限らないけどね。……ね、十夜の目には、私はどう映ってるの?」
「そりゃあ勿論、世界一可愛い女の子」
「ふふ、褒めても何も出ないよ?」
「いや、本気でさ。俺にはまひるだけ……」

 ソファーの隣に座るまひるへと身体ごと向き合い真剣に伝えるものの、彼女は冗談めかして笑う。
 その無邪気で愛らしい笑顔は、小学三年の、退院してすぐ出会った頃から変わらない。

 そういえば、どうしてまひるだけ可愛らしい見慣れた姿のままなのだろう。この歪んだ世界が正常なのだとしたら、何故、彼女だけが。

 横目に見えるホラー映画はありきたりな黒地に白文字の流れるエンドロールに突入したのに、何故かわき上がる恐怖に似た感覚に、じわりと冷や汗が滲む。

「……十夜?」
「なあ、まひる……おまえは、本当は……」

 真正面には、不思議そうに俺を見上げる愛しい彼女の姿。
 けれど、先程ちらりと左目で見たテレビの黒い画面。そこに反射して映った俺の向かいには、ただひたすらに、歪むことのない虚空が存在していた。