「ま、一番初めに疑われたのは私の浮気よねぇ」

 そう言ってあっけらかんと笑った母は、温くなり始めたミルクティーにそっと口を付ける。

「秋陽さんも私も海外の血は流れてないし、そんじゃまあDNA検査でもしてみるかってなったわけ。そもそも濃い赤色をした瞳自体が珍しい例だったからね」

 カツン、とカップがソーサにぶつかる固い音。ほんの少し皺の寄った指先が、カップの淵を撫でるようにゆっくりと動いた。

「勿論私が不貞を働いたって事実は無かったし、秋陽さんも特にそこを疑ってた訳じゃ無いんだけど。貴女の事情が事情だったから。検査だけでもきちんとしておこうって話になって」

 母は含みのある表情のまま。そして微かな哀色を宿して、逃げるように少女から視線を逸らす。

「母さん、何色だった?」

 逃げないで欲しいとでも言うように。弱々しく、されど縋りつくような声で少女は母を呼んだ。
 それに強張ったように肩を揺らし、母はゆるりと首を傾げて沈痛に笑った。

 ごめんなさい。音もなく呟いたその唇が、続いて一つの色を告げる。

「…海の底みたいに、暗い色」

 ごめんね、と再び投げかけられた先で。少女は一人、己の目蓋に指を這わせてうっすらと笑う。

「そっか。今の私、そんな瞳の色してるんだね」

 トントンと指先に伝わる眼球の動き。母を通して初めて見えるその色に、道理で彼女が悲しげな顔をしているはずだと納得した。

「ごめんね母さん、気分悪くさせちゃって。私もう学校行くから、ちょっとコンタクト入れて来るよ」
「あ、うん、そうね…。ごめんなさい、私ちょっとその、お皿を片してくるわ」
「うん」

 ぱたぱたと朝食の後片付けを始めた母の背中を見送って、少女―凪沙は一人洗面所に向かう。
 父はとうに出勤して、家には母と凪沙の二人きり。時刻は八時の少し前と、高校から徒歩圏内に家を構える凪沙にとってはゆっくり身支度できるほどの余裕があった。
 洗面台前の三面鏡を開き、壁際のスイッチで灯りを付ける。そうして露わになった自分の顔を睨み付け、凪沙は小さな溜息を吐いた。
                                                         
「…自分じゃいつ見たって真っ黒な目なんだけどなぁ」
                                                       
 身を乗り出すようにして鏡を見つめた。釣り目がちの大きくも小さくもない目。平均的な睫毛の量で縁取られた瞳は、どれだけ目を凝らしてみたって真っ黒だ。
 標準的な日本人と遜色ない黒い瞳。瞳孔と比べて微かに茶色がかっても見えるそれは、両親や親戚筋と比べても大差がないように見えるのに。
                                                         
「えーっと、さっきが確か深い青。それから生まれた時は茜色…って、マジで一体どんな原理してるわけさ」
                                                        
 凪沙は苦笑と共にコンタクトレンズの蓋を開ける。俗にカラコンと呼ばれるそれを、凪沙は常日頃身に着けるように徹底していた。
                                                        
「もうノールックでもカラコン入れられそうだな、私」
                                                        
慣れた手つきで手際よくカラコンを嵌めて、ぱちぱちと数度瞬きをする。生理的に零れた涙を拭えば、鏡には先程と何も変わっていない自分の顔が映っていた。
 これで恐らく、傍から見た凪沙の瞳は特に目立つことのない黒色に変化したのだろう。自分んじゃ確認のしようが無い変化に、凪沙は煩雑とした表情を浮かべた。
                                                       
「それにしても暗い青って。母さん、相当この目のこと気に病んでんだなぁ。…んー、母さんの前では極力カラコン入れっぱなしにしたほうが良いのかも」
                                                          
 きょろきょろと身嗜みの最終チェックを終えて、凪沙は最後にコンタクトのズレが無いかを確認する。随分と目の異物感にも慣れてきたが、それでも眼球に害が及ばなくなったわけじゃない。第三者との関わり以外は極力コンタクトを外すよう心掛けてきたのだが、母の反応を見るにその辺りも考え直さなければいけないかもしれない。                    
                                                            
「父さんが帰ってきたら相談するかな…っと、やべ。そろそろ行かんと遅刻する!」

 腕時計を確認すれば時刻は八時十分。仕上げにブレザーへ袖を通して、リビングに続く扉へ向かって声を上げた。

「んじゃ母さん、行ってくるからー!」
「あーはいはい、待って待って!」

 ぱたぱたと弁当片手に駆け寄った母を尻目に、履き潰れたローファーへ踵を滑り込ませる。
 スカートについた埃を払うように立ち上がって、渡された弁当箱が傾かないよう慎重にリュックの中へと押し込んだ。

「じゃあ行ってきます!」
「うん、気を付けて。何かあったらすぐ連絡するのよ。あ、コンタクトの予備はきちんと持った?」
「持った持った!じゃね!」

 振り返りざまに一度手を振って扉を開けた。毎度過保護な見送りに苦笑しつつも、凪沙がこれに関して苦言を呈した事は無い。意を唱えることは出来ないと分かりきっているからだ。

―可笑しな娘を持つと親は大変だな。

 砂利道の先に立つ柵に手をかけ、凪沙は自嘲気味に笑って見せた。