呆然としていたアシュアは、ケイナがリアの腰の剣を抜き取るのを見ていながらそれを止めることができなかった。
 しまった……! リアの剣…!
 そう思ったときには、ケイナは彼女の剣を右手で逆手に持つと、通信機に突き立てようと身構えていた。
 しかし、次の瞬間、目の前に現れた男の姿にぎょっとして手をとめた。
「クレイ指揮官は立派な人だったよ」
 銃を手にこちらを見つめてそう言う男の顔をケイナは凝視した。
 誰だ……。見覚えがある……。
「リーフ……」
 ケイナはつぶやいた。そうだ、彼はハルドの秘書だったリーフだ……。
「すまない、ケイナ。ぼくの父はリィのほうにいるんだ。クレイ指揮官の亡命は見逃せた。ぼくも彼は助けたかった。だけど…… セレス・クレイはだめなんです。もちろん、あなたも。治療されては困る」
 ケイナの手がぶるぶる震えている。
 リアが目を見開いていた。なんだか彼女の様子がおかしい。
 アシュアは無意識に自分の剣の柄に手を伸ばしていた。
 そのとき、頭上で低い音が聞こえた。ケイナがはっとして空を見上げた。
 船だ。エアポートに入る船が来る。まずい。
「エアポート?」
 リーフも顔をあげた。
「迎えに行きます。セレス・クレイもいるんでしょう?」
 ケイナが唸り声をあげて剣を振り上げたとき、再び目の前に光が散った。リーフの姿が消えた。
「ケイナ!」
 レジーが肩から血を流しながら3人の前に立った。
「『ホライズン』のセキュリティを破れ! データを入手したら必ずもう一度連絡して来い!」
 ケイナの剣が勢いよく通信機に突き立てられた。レジーの姿がぷつりと消えた。
「いやあっ!」
 リアがすさまじい声をあげて逃げ出そうとした。
 しかし、ケイナと手を繋いでいるために走り出せず、そのまま草の上に倒れ込んだ。それに引っぱられてケイナも後ろに倒れ込んだ。リアの剣が草の上に転がった。
「アシュア! 通信機を壊せ!」
 ケイナは叫んだ。
 その言葉が終わりきらないうちにアシュアは自分の剣を通信機に振り降ろしていた。
 小さな爆音とともに通信機は吹っ飛んだ。
「来ないで!」
 リアが気が狂ったようにケイナから手を振りほどこうと焦っていた。
「リア……っ!」
 ケイナは苦痛に顔を歪めている。アシュアは慌ててふたりにかけよった。
「手を離せ、ケイナ!」
「おれじゃない! トリが離さないんだ!」
 ケイナは空いたほうの手で頭を押さえている。痛みが襲っているのかもしれない。
 カート司令官が指示を出してユージーを迎えに来るまでにどれくらいの時間がかかるだろう。
 10分? 20分か?
 なんにせよ、早くここから立ち去らないとまずい。
 アシュアはしっかりと繋がれているふたりの手を見て困惑した。
 リアは相変わらず目を見開いて何かを喚き散らしている。彼女の言っていることを聞いてアシュアははっとした。
「来ないで! あたしはリールじゃないわ! 殺さないで! 死ぬのはいや! いやだ! 来ないで!」
 もしかして…… あのときの…… 昔の記憶か?
 アシュアはケイナに目をうつした。
 ケイナは歯を食いしばって頭を押さえたまま荒い息でリアを見ていたが、その目が目の前のリアを捉えていないことは一目瞭然だった。

 リールの首に剣を突き立てたとき、例えようもない高揚感がケイナを包んだ。
 血は赤く、温かかった。
 手ですくうと、赤い蜜はケイナの誘惑を刺激した。
 舌先を少し浸し、かすかな塩分と鉄の匂いにこれが血の味かと思った。
「ねえ、リア」
 ケイナは目を見開いているリアをリールの上から見下ろした。
「血の色ってきれい」
「やめてよ、ケイナ……」
 リアが震える声で言った。
「帰ろう、ケイナ…… 帰ろうよ……」
「どうして」
 幼いケイナはくすくす笑った。
 血に濡れた手をリアにかかげてみせ、キスをするように自分のくちびるに押しつけた。
 小さな形のいい三日月のような唇にリールの血がついた。
「ぼくはもっとこの色を見たい。この味を嘗めてみたい」
「ケイナ…… いやだ……」
 リアは後ずさりした。だが、足が震えて思うように動かない。
 ケイナはリールに刺さった剣を引き抜き、それをしげしげと眺めた。
「リア…… 血のいろってきれいだねえ……」
 リアは体中を震わせている。
 ケイナはそんなリアをぞくりとするほどの残忍な目で見た。
「リアの首からはどんな血が出るの」
 ケイナは剣をリアに向けた。
「ねえ、リア、ぼく、それ知りたい」

「いや!」
 リアは必死になって繋がれた手を残したまま、できるだけ体をケイナから遠くに逃れさせようともがいた。
 リアを殺そうとしていた……。おれはリアを殺そうとしたんだ……。
 ケイナは割れんばかりの頭の痛みに堪えながらリアを見つめた。
 記憶を消したのは…… おれ自身だったのか……。
「やだ! 死にたくない…… ケイナ、あたしを殺さないで……! そんな目で見ないで!!」
 アシュアは焦った。ふたりをどうすればいいのか分からない。
 ケイナもきっと今リアと同じ過去の記憶を見ている。ケイナの目を見ればそれは分かる。
 だけどいったいどうすれば……。
 遠くに見える背後の『中央塔』をアシュアは振り向いた。
 ちくしょう……。
 意を決してふたりの手を引き離そうとしたが、やはりびくともしなかった。
(あれはおれじゃない……!)
 ケイナは心の中で叫んだ。
 だけど、また引きずり込まれそうだ。アシュア、頼むからおれに剣を渡すな……!
 ケイナは血が滲むほど唇を噛んで、頭の痛みと誘惑に堪えた。

(ケイナ!)

 いきなりセレスの声が聞こえたような気がして、ケイナはびくりと体を震わせた。

(ユージーも大事だっただろ! リアのことも思い出せよ!!)

(ケイナ、一緒に森に行こう)
 リアはケイナの小さな手をとった。
(トリは行かないの?)
 ケイナがリアを見上げるとリアは笑った。
(トリはね、体が弱いの。あんまりテントから出ちゃだめなの)
(かわいそう)
(うん。だから、お花、いっぱい摘んであげよ)
(お花を摘むとトリは元気になるの?)
(なるよ。ケイナが摘んであげたらもっと元気になるよ)
(リアも元気になるの?)
(あたしは元気だよ?)
 リアはびっくりしたようにケイナを見た。
(リアはいつも泣きそうだよ)
 リアは膨れっ面をした。
(みんながそう言うの。あたし、そんな顔なの。ケイナはきらい?)
(ぼく、リアが好きだよ)
(ほんと?)
(ほんとだよ。ぼく、リアとけっこんするよ)
(ほんと? ずっと一緒にいてくれる?)
(いるよ)
 リアの目が寂しそうにケイナを見た。
(でも、ケイナはかわいいもん。もっと美人のお嫁さんもらったほうがいいよ)
(リアがいいよ。リアはきれい。リアは優しいもん)

「リア……」
 ケイナは力を振り絞って身を起こすとヒステリックに叫ぶリアを空いている腕で抱き締めた。
 アシュアは仰天してケイナを見た。
「リア…… おれ、あんたを殺さない……」
 ケイナは必死になって逃れようとするリアを腕で押さえた。
「リア、頼む…… おれの声を聞いて…… おれはあんたを殺さないから……」
「放して……!」
 リアは叫んだ。
「あんたのこと覚えてる…… 怖い思いをさせてごめん……」
 アシュアはリアがこのまま発狂するのではないかとはらはらした。それほど彼女の表情は切羽詰まっていた。
 トリ。あんた、手を繋いでいるんなら、なんとかしてくれ……!
「花を……」
「い……」
 リアの顔がぴくりと動いた。
「花を摘んで…… トリに見せよう……」
 ケイナはつぶやいた。
「父さんと母さんもきっとよろこぶ…… みんな元気になる……」
 ケイナの息遣いが荒い。リアを抱く手が小刻みに震えていた。
「リア…… もう、思い出したから…… もう同じ時間を…… 生きて…… いるから……」
 堅く繋がれた手がゆっくりと離れ、だらりと下に落ちた。
「ケイナ……」
 リアの手がケイナの背に回った。
「ケイナ……」
「アシュア……」
 ケイナは力のない声でアシュアを呼んだ。
「な、なに?」
 アシュアは慌てて答えた。
「ピアス…… つけて…… 持って来てるんだろ……」
 ケイナの顔はリアの髪に埋もれて見えない。
「いや、それは……」
「頼む…… ピアスつけて。手が離れた。もうトリも、もたない……」
 アシュアは躊躇したが、意を決してリンクに渡されたクリップを取り出した。
「ケイナ……」
 リアが体を震わせていた。
「リア、ごめんな。おれ、怖いから、しばらくこのままでいさせて」
「ケイナ……」
 アシュアは泣きたい思いだった。リンクの言いつけなど、とっくに無視する気でいたのに……。
「ケイナ、ごめんよ」
 アシュアはケイナの耳を探し当てると彼の耳たぶをクリップに挟んだ。
「アシュア、リアのこと、頼むな」
 一瞬びくりと手が震えたが、アシュアは目をつぶるとクリップを閉じた。
 ケイナの手が脱力したようにリアから離れた。
「ケイナ…… お帰り……」
 リアは泣きながらケイナを抱き締めた。
 アシュアはからっぽになったクリップを空しい思いで見つめた。