「ケイ…… ナ」
かすれた声だった。
「ケイナ…… だな……」
ケイナは兄の黒い瞳を見つめた。
ユージーは目覚めたとき、何も覚えていないんじゃなかったか?
そこにいる誰もがそう思った。もちろんケイナもだ。
しかし、ケイナの手を掴むユージーの目ははっきりとケイナを捉えていた。
「ケイナだな……」
「そうだよ……」
ケイナは答えた。
「そうだよ、ユージー……」
ユージーの手にはびっくりするくらい力がこもっていた。
彼は周囲を見回した。トリを見てリンクに目をうつした。
「『ライン』じゃない。 ……ここは、どこだ」
「ここは、『ノマド』のコミュニティだよ」
トリが落ち着いた声で答えた。
「『ノマド』……」
ユージーはつぶやいた。
「なんでおれが『ノマド』にいる……」
「覚えていないんですね」
トリの声にユージーは顔をしかめた。
「全然」
「でも、ケイナのことは覚えているんだね」
その言葉にユージーは再びケイナに目を向けた。
「おまえと顔を合わすの…… 何年ぶりだ?」
ケイナはこわばった笑みを浮かべた。
「さあ……」
「逃げたか?」
ユージーは言った。
「逃げられたのか?」
ケイナは黙ってユージーの顔を見つめ返した。
どうすればいいだろう。『ノマド』で目覚めてしまったユージー。そして自分を覚えている。
覚えていなければ、いっそ殴ってでも失神させて森の外に放り出したのに。
「アシュア、悪いけどリアに熱いお茶を持って来るように言ってくれませんか。彼に少し体を温めてもらおう」
何を悠長な、と思ったが、アシュアはその言葉に従ってテントを出た。
ケイナの様子が気掛かりだったが、トリとリンクがいるから大丈夫だろう。
「ユージー… 何も聞かないで『ライン』に戻っ……」
「ここはおれにとって敵地か? おれを殺すか?」
ユージーはケイナの言葉を遮って身を起こした。彼の手はまだケイナの左手を掴んでいる。
「そんなことは考えてない」
ケイナは答えた。
「目が覚めたら『ノマド』にいて、おれの弟がいる。それを何も聞かずに帰れと?」
ケイナは息を吐いて掴まれていない手で髪をかきあげた。
ユージーはそれを見て笑みを浮かべた。
「その癖だけは変わらないんだな。おまえの昔からの癖だ」
「お茶?」
気を使ってテントの外から声をかけると、リアの訝し気な返事が聞こえた。
すぐに顔を出し、彼女は胡散臭そうにアシュアの顔を見た。
「ユージーが予定より早く目覚めたんだ……。トリがリアに頼んで来てくれと言った」
「分かったわ」
リアは答えた。妙に彼女の表情が険しい。
「ここでは用意できないの。クレスのママに用意してもらうから」
リアはそう言うとすたすたと歩き始め、アシュアはそれに続いた。
クレスの母親はクレスそっくりの人なつっこそうな笑みを浮かべて、すぐに4人分のお茶をポットに入れて出した。
「悪いわね」
リアは中のクレスを起こさないように小声で言った。だが、自分では受け取ろうとしない。
彼女がアシュアの顔を見るので、アシュアは怪訝な顔をして受け取った。そして気づいた。
「足、大丈夫なのか?」
アシュアは包帯を巻いて堅く固定されたままのリアの足を気づかわしげに見た。
「コミュニティの中なら慣れてるから大丈夫よ」
リアは答えた。
「それよりしくじったら、頼むわね」
「ん……」
アシュアは答えた。
リアが熱いお茶を運べるはずがない。
指で熱を感じることができない彼女にお茶を持って来いというトリの言葉には別の意味がこめられていたのだ。
「じゃあね」
リアはユージーのいるテントの前まで来ると姿を消した。
リアを見送ってテントに入ったアシュアは、あまりに中の空気が緊張しているので思わず顔をこわばらせた。
「お茶が来たよ」
アシュアの手にあるトレイを見てトリが言った。
「そんなもん、どうだっていい」
ユージーは険しい目をしてトリに言った。相変わらずケイナの手を掴んでいる。
「とりあえず自分の口から水分をとってください。話はそれから」
トリは何食わぬ顔をしてユージーの目の前でカップにお茶を注ぎ始めた。
ユージーが訝し気な目をしてそれを見た途端、彼の顔がいきなり緊張した。ケイナの手を掴んでいたことが彼にとっては災いした。
「動かないように」
リアがユージーの後ろから剣を彼の首につきつけていた。
アシュアが一番最初にリアに会って身動きとれなくなったときと同じだ。
このときばかりはケイナもリアの動きを認めざるを得なかった。
リアはいったいどこからテントに入って来たんだ……。気配すら感じなかった。
「ケイナ……!」
ユージーはケイナに向かって小さく叫んだ。
「おれを……」
その言葉が言い終わらないうちにトリはカップに指をひたし、彼の額にその指をあてた。
ユージーはあっけなくベッドにひっくり返り、手を掴まれたままのケイナはそれに引っ張られて床に膝をついた。
「リンク、彼が4時間くらい目覚めないようにできる?」
トリの言葉にリンクはうなずいた。
ケイナは少し顔を歪めていた。
また頭が痛んだな……。リンクはそう思いながら急いでテントを出ていった。
「もう少し時間がたっていたら、彼はわたしの気配を察したかも」
リアが息を吐いて剣を腰の鞘におさめた。
「ケイナ、だいじょうぶ……」
言いかけてリアは口をつぐんだ。アシュアも言葉をなくした。
ユージーはまだしっかりとケイナの左手を掴んでいた。
ケイナはユージーの倒れ込んだベッドの脇に膝をつき、ユージーの手を握って額に押し付けていた。
「ユージーはおれが左で剣を使うことを察してた……」
ケイナは顔をあげずにつぶやいた。
「勘のいい人だね」
トリはそう答えると、ケイナの背に手を置いた。
「左手から…… ユージーの…… 怖れ……」
ケイナの肩が震えた。うっすらと赤い涙がぽつりとシーツに落ちた。
アシュアはぎょっとして口を開きかけたが、それをリアが押しとどめた。
トリを見るとケイナの背に手をあてて目を閉じている。
そうか…… 夢見の彼はケイナの動揺を吸い取ろうとしているんだ……。
「ユージーの怖れが…… 伝わって……」
ケイナが泣く姿を見たのは初めてだった。
アシュアはぽつぽつと落ちるケイナの薄赤い涙に思わず目をそらせた。
リアが不安気に自分に寄り添い、腕をぎゅっと掴んだことにも気づかなかった。
「……兄さん……」
ケイナの嗚咽が聞こえた。
かすれた声だった。
「ケイナ…… だな……」
ケイナは兄の黒い瞳を見つめた。
ユージーは目覚めたとき、何も覚えていないんじゃなかったか?
そこにいる誰もがそう思った。もちろんケイナもだ。
しかし、ケイナの手を掴むユージーの目ははっきりとケイナを捉えていた。
「ケイナだな……」
「そうだよ……」
ケイナは答えた。
「そうだよ、ユージー……」
ユージーの手にはびっくりするくらい力がこもっていた。
彼は周囲を見回した。トリを見てリンクに目をうつした。
「『ライン』じゃない。 ……ここは、どこだ」
「ここは、『ノマド』のコミュニティだよ」
トリが落ち着いた声で答えた。
「『ノマド』……」
ユージーはつぶやいた。
「なんでおれが『ノマド』にいる……」
「覚えていないんですね」
トリの声にユージーは顔をしかめた。
「全然」
「でも、ケイナのことは覚えているんだね」
その言葉にユージーは再びケイナに目を向けた。
「おまえと顔を合わすの…… 何年ぶりだ?」
ケイナはこわばった笑みを浮かべた。
「さあ……」
「逃げたか?」
ユージーは言った。
「逃げられたのか?」
ケイナは黙ってユージーの顔を見つめ返した。
どうすればいいだろう。『ノマド』で目覚めてしまったユージー。そして自分を覚えている。
覚えていなければ、いっそ殴ってでも失神させて森の外に放り出したのに。
「アシュア、悪いけどリアに熱いお茶を持って来るように言ってくれませんか。彼に少し体を温めてもらおう」
何を悠長な、と思ったが、アシュアはその言葉に従ってテントを出た。
ケイナの様子が気掛かりだったが、トリとリンクがいるから大丈夫だろう。
「ユージー… 何も聞かないで『ライン』に戻っ……」
「ここはおれにとって敵地か? おれを殺すか?」
ユージーはケイナの言葉を遮って身を起こした。彼の手はまだケイナの左手を掴んでいる。
「そんなことは考えてない」
ケイナは答えた。
「目が覚めたら『ノマド』にいて、おれの弟がいる。それを何も聞かずに帰れと?」
ケイナは息を吐いて掴まれていない手で髪をかきあげた。
ユージーはそれを見て笑みを浮かべた。
「その癖だけは変わらないんだな。おまえの昔からの癖だ」
「お茶?」
気を使ってテントの外から声をかけると、リアの訝し気な返事が聞こえた。
すぐに顔を出し、彼女は胡散臭そうにアシュアの顔を見た。
「ユージーが予定より早く目覚めたんだ……。トリがリアに頼んで来てくれと言った」
「分かったわ」
リアは答えた。妙に彼女の表情が険しい。
「ここでは用意できないの。クレスのママに用意してもらうから」
リアはそう言うとすたすたと歩き始め、アシュアはそれに続いた。
クレスの母親はクレスそっくりの人なつっこそうな笑みを浮かべて、すぐに4人分のお茶をポットに入れて出した。
「悪いわね」
リアは中のクレスを起こさないように小声で言った。だが、自分では受け取ろうとしない。
彼女がアシュアの顔を見るので、アシュアは怪訝な顔をして受け取った。そして気づいた。
「足、大丈夫なのか?」
アシュアは包帯を巻いて堅く固定されたままのリアの足を気づかわしげに見た。
「コミュニティの中なら慣れてるから大丈夫よ」
リアは答えた。
「それよりしくじったら、頼むわね」
「ん……」
アシュアは答えた。
リアが熱いお茶を運べるはずがない。
指で熱を感じることができない彼女にお茶を持って来いというトリの言葉には別の意味がこめられていたのだ。
「じゃあね」
リアはユージーのいるテントの前まで来ると姿を消した。
リアを見送ってテントに入ったアシュアは、あまりに中の空気が緊張しているので思わず顔をこわばらせた。
「お茶が来たよ」
アシュアの手にあるトレイを見てトリが言った。
「そんなもん、どうだっていい」
ユージーは険しい目をしてトリに言った。相変わらずケイナの手を掴んでいる。
「とりあえず自分の口から水分をとってください。話はそれから」
トリは何食わぬ顔をしてユージーの目の前でカップにお茶を注ぎ始めた。
ユージーが訝し気な目をしてそれを見た途端、彼の顔がいきなり緊張した。ケイナの手を掴んでいたことが彼にとっては災いした。
「動かないように」
リアがユージーの後ろから剣を彼の首につきつけていた。
アシュアが一番最初にリアに会って身動きとれなくなったときと同じだ。
このときばかりはケイナもリアの動きを認めざるを得なかった。
リアはいったいどこからテントに入って来たんだ……。気配すら感じなかった。
「ケイナ……!」
ユージーはケイナに向かって小さく叫んだ。
「おれを……」
その言葉が言い終わらないうちにトリはカップに指をひたし、彼の額にその指をあてた。
ユージーはあっけなくベッドにひっくり返り、手を掴まれたままのケイナはそれに引っ張られて床に膝をついた。
「リンク、彼が4時間くらい目覚めないようにできる?」
トリの言葉にリンクはうなずいた。
ケイナは少し顔を歪めていた。
また頭が痛んだな……。リンクはそう思いながら急いでテントを出ていった。
「もう少し時間がたっていたら、彼はわたしの気配を察したかも」
リアが息を吐いて剣を腰の鞘におさめた。
「ケイナ、だいじょうぶ……」
言いかけてリアは口をつぐんだ。アシュアも言葉をなくした。
ユージーはまだしっかりとケイナの左手を掴んでいた。
ケイナはユージーの倒れ込んだベッドの脇に膝をつき、ユージーの手を握って額に押し付けていた。
「ユージーはおれが左で剣を使うことを察してた……」
ケイナは顔をあげずにつぶやいた。
「勘のいい人だね」
トリはそう答えると、ケイナの背に手を置いた。
「左手から…… ユージーの…… 怖れ……」
ケイナの肩が震えた。うっすらと赤い涙がぽつりとシーツに落ちた。
アシュアはぎょっとして口を開きかけたが、それをリアが押しとどめた。
トリを見るとケイナの背に手をあてて目を閉じている。
そうか…… 夢見の彼はケイナの動揺を吸い取ろうとしているんだ……。
「ユージーの怖れが…… 伝わって……」
ケイナが泣く姿を見たのは初めてだった。
アシュアはぽつぽつと落ちるケイナの薄赤い涙に思わず目をそらせた。
リアが不安気に自分に寄り添い、腕をぎゅっと掴んだことにも気づかなかった。
「……兄さん……」
ケイナの嗚咽が聞こえた。