「兄さん……」
書類を見つめるトリの後ろ姿にリアは声をかけた。
「なに? リア」
トリはいつも通りのもの静かな笑みをたたえてリアを見た。
「ケイナはただショックだけで意識を失ってるんじゃないんでしょう?」
トリはしばらくリアの顔を見つめたのち、再び書類に目を移した。
「ショックや、大きなエネルギーの放出や…… そんな感じかな…… 心配することはないよ」
トリは答えた。
「ケイナは良くなるの?」
リアは後ろに手を組んで尋ねた。
「大丈夫だよ……」
トリは書類から目を離さず答えた。リアはそんな兄の姿をしばらくじっと見つめた。
「……兄さん」
トリはリアに目を向けた。
「あの黒髪の人の気配をどうして感じられなかったの?」
リアは詰め寄るように兄に言った。トリは書類から目をあげて虚空を見つめた。
「分からない……。 森が静かすぎるんだ。リールの動きすらも読めない……。リアは森に入ってなにか感じなかった?」
リアはかぶりを振った。
「あの黒髪の人も、本当に近くに来るまで気配を感じなかった……。こんなことなかった。アシュアに言っておいたほうがいい?」
「そうだね……」
トリは考え込むような顔でつぶやいた。
「何か起こるような気がする?」
リアは目を細めて兄を見た。
「ここに辿り着くことは不可能だよ。それが例え同胞であっても今は拒否する」
トリはリ書類に再び目を落した。
リアはそんな兄をしばらく見つめてからテントを出ようと背を向けた。
「リア」
トリの声に彼女は足をとめた。
「自分の心には素直にね……」
リアは兄を振り返った。
「あたし、トリのそういうところ、嫌いよ」
リアはかすかに笑みを浮かべた。
「今日はみんなと一緒にケイナのそばにいるから」
そう言うと髪を揺らしてテントから出ていった。トリは目をあげずにかすかに息を吐いた。
夜中にリンクは一度だけケイナの点滴を取り替えに来た。
そのときに起きていたのはリアだけだった。
セレスはケイナの点滴に繋がれていないほうの手を握りしめ、彼の顔の近くに自分の頭をもたせかけて眠っている。アシュアはテントの隅で毛布にくるまって寝息をたてていた。
「一緒にいるっていっても、これじゃあ何のことだか」
リンクはテントの中を見回して苦笑した。
「ねえ、このぐるぐる巻きはいつになったらとれるの?」
自分の足を指して顔をしかめるリアにリンクは笑みを浮かべた。
「あさってには」
リンクはケイナの額に手を当てながら答えた。熱はいくぶん下がったかもしれない。
念のため彼の耳穴に体温計を入れた。
「できるだけ早くね」
リアはリンクのやることを見つめながら言った。
「森の中、なんだかやばそうよ」
リンクはうなずくと、体温計を取り出した。
37.8。
昼間測ったときは39度を超えていた。とりあえず峠は越したのかもしれない。とにかく水分をガンガン補給するしかないな、と考えつつ、もう一度点滴をチェックして出ていった。
リアはそれを見送ってベッドに近づいた。ケイナの息は穏やかになっているようだ。
「最低」
リアはぐっすり眠り込んでいるセレスを見下ろしてつぶやいた。
「こんなに夢の中で呼び合って…… 入り込む隙がないじゃないの……」
リアはずり落ちた毛布をセレスの背にかけ、足を引きずりながらテントの隅まで歩いていくと、アシュアから少し離れて腰をおろした。
「最低よ」
トリと双児のリアにはトリほどの能力はなくても、あまりに強い他人の思いは頭に流れ込むことがあった。
セレスとケイナは繋いだ手を介して必死になって名前を呼び合っている。
いい加減にしてと言いたくなるほどふたりはお互いを探していた。
トリは何も教えてくれなかったが、リアは足の手当てをしてもらっているときにリンクにせっついて、やっとふたりの因果の断片を聞き出した。
詳しいことはどうしても教えてもらえない。ただ、ケイナもセレスも遺伝子治療が必要な状態であることだけは分かった。そのことはリアにとってはあまりぴんとこないことだった。
命の危険を抱えながら生きているふたりを助けてやりたいという気持ちはある。
でも、ケイナの頭には自分への思いなどかけらもない。小さい頃の記憶もない。
寂しい。
そのことのほうが彼女にとっては大きかった。
ケイナの柔らかい髪の感触や、温かい唇の感触をわたしは覚えているというのに、彼は何も覚えていない……。
リアは立てた膝に顔を埋めた。何も思い出さずに逝かないで。少しでいいからわたしのことを思い出してよ、ケイナ。
リアはぎゅっと目を閉じて思った。
ケイナは夢の中でわけもなく不安に駆られていた。
何が不安なのかも分からなかった。
自分の中で何かが少しずつ壊れていく予感……。その何かが分からなかった。
命の期限なのか。壊れていく自分の体なのか。
(必要と思えば、いくらでもいろんな自分を作れるぜ。そういう指示をもらったろ?)
自分に話しかけたのは誰だったんだろう。
指示っていったい誰の。
雨のように落ちた血の粒。
怖い。
あいつはまだおれの中にいる……。
このままずっと深い深淵の中に落ちていってしまいそうだった。
(ケイナ)
聞き覚えのある懐かしい声がした。
「セレス……?」
ケイナは必死になって声のする方向を見極めようとした。しかし何も見えない。
「セレス…… どこにいる……」
ケイナはつぶやいた。
(いるよ、ここ……)
ケイナは手を伸ばした。
(ここにいるよ)
指先に誰かの手が触れる感触があった。ケイナは夢中になってそれを掴んだ。
(死ぬがいい!)
ふいに誰かが叫び、ケイナはぎょっとして目を開けた。開けたと同時に飛び起きていた。
ゴツリと何かを落したような音がして自分の体がいきなり左に引っ張られ、バランスを崩してケイナは反射的にベッドの端にしがみついた。
「は……?」
まだ夢と現実の境を彷徨っているように頭がはっきりしない。
ベッドの端から強制的に見せられた床には、自分の左手を堅く握りしめるセレスがだらしなく眠っている姿があった。
混乱して顔をあげると、次に目にうつったのは一枚の毛布にくるまって身を寄せあって眠っているリアとアシュアの姿だった。
ケイナは痛みを感じるくらい自分の手を握りしめるセレスの左手を振って外そうとしたが、びっくりするほど強い力で離れない。
右手を伸ばそうとすると点滴に繋がれていることに気づいた。
「冗談だろ……」
ケイナは左腕をだらりとベッドの下に垂らして突っ伏した。
しばらくしてアシュアが目を覚ました。
「あ」
ケイナの様子に気づいて声をあげるアシュアにリアも目を開けた。そして自分がアシュアにしっかり抱き締められたまま眠っていたことに気づくと顔を真っ赤にした。
「なにすんのよ!」
「おれのせいじゃねえよ!」
自分の頬を張り倒そうとするリアの手をよけてアシュアは叫んだ。
「毛布持って来なかった自分が悪いんだろ! 寒くてスリよってきたんだぞ!」
「そ、そんなことしないわよ!」
「ケンカはあとでやって……」
ケイナはうめいた。
「頼む、この手を外して……」
アシュアは慌てて立ち上がった。これだけ大騒ぎをしているというのにセレスは全く目を覚まさない。
一本一本指を引き剥がすようにしてセレスの手を取ると、ケイナの手の甲には指のあとがくっきりとついていた。
「大丈夫か」
アシュアは痛そうに手をさするケイナの顔を覗き込んだ。ケイナはうなずいた。
そして床のセレスに目をやった。
「こいつ、しばらく目を覚ますことができないかも……」
アシュアは怪訝そうに目を細めた。
「おれの剣、まともに受けてた」
「ああ、そういうこと……」
ユージーが昏睡状態になっているのだから、セレスにもダメージがあっても不思議ではない。
「ユージーは?」
ケイナはアシュアを見上げた。
「心配ないよ。かなり消耗してるけれど命に別状ない。今眠ってる」
アシュアの言葉にケイナはほっとしたように息を吐いた。
「暗示はもう解けたってトリは言ってた。目を覚ます前に森の外に送っていけば、何があったかもう覚えてないとさ」
あのとき、セレスが止めてくれなかったら……。
ケイナは左手の指のあとを見つめて思った。
必死になって剣を受けていたセレスの顔が思い出された。
受けきれる保証はなかったかもしれない。力の加減をしないで振り切った自分の剣が、もしセレスの剣を通り越していたら……。一振りで顔面をまっぷたつにしていたかもしれない。
あのときほとんど正気じゃなかった。一瞬で正気に引き戻したのはセレスの緑色の目だった。
(大切だと思えばこそ! あんたがそう言ったんだ!)
セレスは叫んでいた。
ユージーやセレスに剣を振るうことなんかできっこない。
大切だと思えばこそ……。それを忘れなければ正気は無くさず済んだのか。
(死ぬがいい)
自分の中で声がする。
ちくしょう。制御しなければならないのは剣じゃない。自分のほうだ。
「ケイナ? 気分が良くないか?」
心配そうに顔を覗き込むアシュアにケイナははっとして顔をあげた。
「トリを呼んで来るわ」
リアが声をかけた。
アシュアはちらりと彼女を見やったが、そのときにはもうリアはテントの外に出ていた。