「相当長い間森をさまよっていたんだろうね……。あと数日さまよっていたら命の危険もあったかもしれない」
 トリはセレスとアシュアに言った。
「それにしてもよく磁場を超えて来たものだ……」
 目を閉じてぐったりとしているユージーは死人のように顔色が青い。いったいどれくらい森の中にいたんだろう。もっと早く思い出していればこんなことにはならなかったかもしれない……。そう思うとセレスもアシュアも悔しかった。
「ケイナは自分を殺せとにユージーに暗示をかけていたんだ。あいつへの暗示が残っていたことをおれたちはすっかり忘れていた。もう、解けていると思うか?」
 アシュアは気づかわしげにトリに言った。
「たぶん、大丈夫だと思う……。彼には負のイメージが見えないから。……でも、数日眠ったままになるかもしれない。気がついたときには自分が何をしていたのかも全く覚えていないと思うよ。必要な処置をしたら彼は森の外れに送って行こう」
「ほんとうに大丈夫?」
 セレスが心配そうに言った。
「大丈夫」
 トリは笑みを浮かべてみせた。
 セレスはそれを見て安心したような表情になった。顔に貼られたガーゼが痛々しい。
「きみの傷もアシュアの傷も、明日は促進機にかけてあげますから」
 トリは言った。
「こんなのたいしたことじゃないよ。ほっといてもすぐに治るさ。それより、ケイナは?」
 セレスの言葉にトリはかすかに顔を曇らせた。
「彼もすぐに目を覚ますと思うけれど……」
「なに?」
 セレスは目を細めた。アシュアもトリの反応にただならぬ気配を感じて険しい顔になった。
「こんなに早く来るとは思わなかった……。相当冷静さを欠いていたんじゃないかな」
「どういうこと……」
 見る間にセレスの顔が曇った。大きな目に不安が宿る。
「彼は自分で話すと言っていたけれど…… どうやらそういうわけにもいかない……。心を落ち着けて聞いてもらえるかな?」
 トリはセレスとアシュアを交互に見て言った。ふたりは顔を見合わせてうなずいた。
 トリは静かにケイナに伝えたと同じことをふたりに話して聞かせた。
 セレスの顔からあっという間に血の気が引いた。
「ケイナは…… 死ぬの?」
「死なせないよ」
 トリはきっぱりと言った。
「ケイナもきみも必ず助けます。それよりも……」
 トリはセレスを見つめた。
「きみは決心しなければならない。男であることは捨てたほうがいい」
「…………」
 足から力が抜けた。ふらりとよろめいたセレスをアシュアが慌てて支えた。
 あまりにも突然過ぎた。
「どうしても今のままがいいというなら、そういう治療法もないわけではないと思う。きみの場合はケイナよりは時間がある。でも、成功するかどうかは分かりません」
「ち……」
 セレスはアシュアにしがみつきながら言った。
「ちょっと…… 時間を…… くれよ。考えさせて……」
 セレスは絞り出すような声で答えた。
「おれのこと、あとでもいいよ…… ケイナを助けて。おれたち、もう…… トリに頼るしかないんだ」
「分かってるよ」
 トリはうなずいた。

 トリと別れてテントに戻ったあと、アシュアは呆然としたまま椅子に腰掛けるセレスに近づいて声をかけた。
「セレス…… 大丈夫か。」
 セレスはうなずいた。だが、顔色は青ざめたままだ。大きな緑色の目が焦点の定まらないまま見開かれている。
「ケイナは…… 全部を自分ひとりでしょってたんだ……」
 セレスはつぶやいた。
 アシュアは椅子を引っ張ってくるとセレスの近くに腰をおろした。
「ケイナは自分で話すつもりだったって、言ってただろ」
 アシュアはセレスの顔を覗き込んで言った。
「おまえには何より一番に自分で伝えたかったと思うよ」
「アシュア…… おれ、どうしたらいいのか分からないよ…… 怖いよ……」
「大丈夫だって。トリは必ず助けるって言ってくれてるじゃないか。信じろよ」
 アシュアはセレスの肩に手を置いた。当たり前のこんな言葉じゃ、セレスの気持ちが晴れるとは思えなかったが、そう言うよりしかたがなかった。
「……こんなに不安を感じたことない……。もし、ケイナが死んじゃったらどうしよう……。女になるってどういうこと……」
「うん……」
 アシュアはもどかしく思いながら悲痛な顔で俯くセレスの横顔を見つめた。
「夢の中でおれ…… 女になってたんだ。ケイナの夢ン中で。ケイナはおれにフィメールがあるって言ってた。カインもそれを知ってた。……アシュアは知ってた?」
 すがりつくようなセレスの目にアシュアは言葉に詰まった。
 知っていたと言えば彼は裏切られたという気持ちになるだろうか……。
 セレスは手を握り合わせて額を押しつけた。
「頭ン中まとまらないよ……」
 おれだってまとまんねえよ……。アシュアは心の中でつぶやいた。
 肩に回した腕に、セレスの小刻みな震えが伝わってくる。
 その震えを止めたいと、細い肩に置いた手に力を入れるしかなかった。
 そしてふと、気配を感じてテントの入り口に目を向けた。セレスも気づいて顔をあげた。
 リアが口を引き結んで立っていた。布をぐるぐる巻きにして片足にはめている。
「ケイナが…… ずっとうわごとでセレスを呼んでる」
 リアは言った。セレスは立ち上がった。

 点滴をつけられたケイナは小刻みに浅い息をしていた。
「熱があがったんです。ショック性だと思いますが……」
 テントに入って来たセレスとアシュアを見て、そばにいたリンクが言った。
 セレスは堅く目を閉じて苦しそうに喘いでいるケイナのそばに近づいた。
「セ……」
 ケイナはつぶやいた。ほとんど聞き取れない声だった。
「熱があがってからずっとこの調子なんです」
 リンクは言った。
 熱い。力のないケイナの手をとると信じられないほど熱かった。いったいどれくらい熱があがっているのだろう。半開きになった形の良い彼のくちびるが、からからに乾いてひび割れていた。
「ケイナの出血はなんだったんだ? やっぱり脳の影響か?」
 アシュアが心配そうにリンクに尋ねた。
「わからない…… 脳の血管が切れたわけではないようですが」
 リンクは答えた。そしてケイナを見た。
「これからどんな症状が出るのか想像もできない……」
 アシュアは顔を歪めるとやりきれないといったように顔を背けた。
 ケイナ、死ぬなんて許さない。絶対に許さないぞ。
「おれ…… 今日、ここに…… ケイナのそばにいていいかな」
 セレスはリンクを振り向いた。思いつめた表情を浮かべている。それを見てリンクは一瞬戸惑ったが、しょうがないな、というように幽かな笑みでうなずいた。
「あとで毛布とクッションを持ってきてあげましょう。でも、あなたも少しは横にならないといけませんよ」
「うん、分かってる」
 セレスは答えた。
「明日にはたぶん目を覚ましますから、そんなに心配することもないですよ」
「うん」
 リンクはセレスの肩に手を置くとテントを出ていった。
「おれも毛布持って来る」
 アシュアは言った。セレスはびっくりしたようにアシュアを見た。
「アシュアはちゃんと休んだほうがいいよ。アシュアの怪我のほうがおれのよりひどいんだし」
 だが、アシュアは口を引き結んで首を振った。
「毛布、持って来る」
 きっぱりとそう言うとテントを出た。そしてテントの外で佇むリアの姿に気づいた。
「どうした。足は大丈夫か」
 アシュアは不自由そうに足を包帯で巻かれている彼女の足を見て言った。リアは目を伏せたままうなずいた。
「そうか。良かった」
 アシュアは少し笑みを浮かべると、そのまま立ち去ろうとした。そんな彼の後ろ姿にリアは声をかけた。
「あたし、ケイナがずっと好きだったの」
 アシュアは振り向いた。
「知ってるよ」
 彼は答えた。
「小さい頃からずっとケイナのことを好きだったの。彼を待ってたの」
「ああ。どうもそうらしいな」
 リアはアシュアを見つめた。
「今、ケイナのそばにいるのはあの子じゃないって…… そう思ってるの」
「……」
「でも…… ケイナはあの子を待っているの…… うわごとで名前を呼ぶほど……」
 リアは目を伏せた。
「……こればっかは…… どうしようもねえな」
 アシュアは肩をすくめて言った。
「でも、涙が出ないの」
 アシュアは口を引き結んでリアを見つめた。
 悪いけど、今、おれ、なんも言ってやれねえよ。
 そう思ったが、次に出たリアの言葉は意外だった。
「アシュア…… ありがとう……」
 リアは地面を見つめたまま言った。
「おれ、礼を言われるようなこと何もしてねえよ」
 アシュアは答えた。
「なにもできなかったよ……」
「あたしも……」
 ひと呼吸置いてリアはアシュアを見上げた。
「あたしも一緒にいさせて」
 アシュアはリアを見つめた。
 拒絶されると覚悟しているのだろう。リアの表情は堅かった。
「おれが決めることじゃないよ」
 アシュアはそう言うとリアの頬を軽くたたいて背を向けた。
「ありがと、アシュア」
 リアはその背につぶやいた。