アシュアが負傷して戻ってきたことを知って、ケイナは急いでテントから出た。
彼の姿を見たとき、ちょうどリアがアシュアの腕から地面におりてトリの手に渡されるところだった。
「アシュア」
「セレスは戻って来たか?」
 顔をあげてケイナの姿を見るなりアシュアは言った。さすがに痛むらしく、肩を押さえて荒い息をついている。
「いや…… 1時間前に出た……」
 ケイナは不安を感じながら答えた。
「ユージーが来てる。銃を持ってるぞ」
 アシュアの言葉にケイナの目がさっと険しくなった。
「トリ、子供達は森のどのあたりにいる?」
 ケイナはトリに尋ねた。
「南側の草地のほうにいると思います。ここからなら子供の足で歩いて10分ほどの距離です」
 トリは答えた。ケイナはそれを聞くやいなや身を翻した。
「ユージーって誰?」
 リアが言ったが、アシュアはそれには答えなかった。
「トリ、悪いけど、おれの傷の止血だけ手早くしてくんねえかな」
「分かりました。こちらへ」
 トリはリアに肩を貸しながら、アシュアを自分のテントに案内していった。
「アシュア、私も行くわ」
 リアはリンクに足を固定されながら、トリに治療してもらっているアシュアに言った。
「リア、あなたは動いちゃまずいですよ」
 リンクは言った。
「でも……」
「彼の言うとおりにしてな。手当てさえすれば、すぐに動けるようになるから」
 アシュアは服に袖を通しながら言った。
「アシュア、痛み止めです。苦いですが我慢して飲んでください」
 トリが黒い液体をカップに注いで持ってきた。アシュアは受け取ると一気に飲み干したが、さすがにきつかったらしく顔をしかめた。
「あなたも戻って来たらきちんと手当てをしたほうがいい」
 トリは言った。
「分かってる」
 アシュアは立ち上がった。
「アシュア!」
 リアは叫んだ。
「あの人、殺気が全然違った。目が…… 目が変だったわ。普通じゃないわ。お願い……」
「分かってるよ。ケイナはちゃんと連れ帰るよ。セレスもな」
「……」
 アシュアの言葉にリアは言葉に詰まった。
 違うわ……。
 あたし今、ケイナのことを言ったんじゃないわ……。
 少し呆然としたようにアシュアを見送るリアをトリは黙って見つめていた。

 ケイナは走りながら剣の柄を掴み引き抜いた。
 ユージーは銃を持っている。彼の動きに剣で太刀打ちできるかどうかは自信がなかった。
 暗示はどっちに向いているのだろう。おれか、セレスか……
 ユージーはアシュアとリアも襲っている。きっと森に入って混乱しているんだ……。
 5分ほど走ったとき、ケイナは向こうから走ってくる子供たちの姿に気がついた。
「ケイナ!!」
 子供たちの中でクレスがまっ先にケイナに気づき、ケイナは駆け寄ってきたクレスを思わず抱き締めた。
 子供たちを連れていた女性が真っ青な顔で息を切らして駆け寄ってきた。
「セレスは……!」
 ケイナは言った。
「リールが出たんです!」
 女性は答えた。
「夜行性なのに…… 怒っていた。なぜか分からないんです」
「セレスは!」
 ケイナは怒鳴った。
「リールにひとりで向かっていって…… 逃げろって言われたんです、わたしたち……」
「分かった。とにかくコミュニティまで戻って」
 ケイナはクレスを女性に渡すと、再び走り出した。
 リールが怒っていた。夜行性で昼間は滅多に動かないリールが……
 ユージーがきっとリールに刺激を与えたに違いない。
 みんなが最初にいたらしい平たい草地まで出たが、そこにセレスの姿はなかった。
 ケイナは周囲を見回した。草がつぶれている部分があった。足跡か。
 ケイナは急いでそれに近づいた。
 小さな赤い点がぽつりと草の上に落ちている。血だ。リールの血か、セレスの血か……。
 跡はずっと森の奥に続いていた。
 ケイナは立ち上がるとそのあとを追った。
 しばらくすると、うっそうとした茂みに阻まれて先に進むことが難しくなった。セレスはこんな奥までリールを追い詰めるような深追いはしないはずだ。
 しかし、場所を特定できないが、妙な殺気を感じた。無意識に右手に持っていた剣を左手に持ち替えた。
 ふと背後に気配を感じてケイナは身構えた。その途端に一筋の光がケイナの顔の横をすり抜け、ケイナは急いで身を翻した。
 おれを狙うということはターゲットはセレスじゃないのか…… それともやっぱり混乱しているのか……。
 ケイナは必死になってユージーの気配を探ろうとした。だのに、なぜか今日はうまく気配を捕らえられない。
 神経を集中すると、ズキリと頭に痛みが走った。
 ケイナは顔をしかめて剣を握り直した。
「なんだってんだよ……」
 なんでこんな時に限って……。
 もう一度剣を握りなおそうとしたとき、意に反して手から剣の柄が滑り落ちた。
 ケイナは一瞬呆然としたのち、慌てて剣を拾いあげた。リンクの言葉が脳裏をよぎった。
(もし、記憶障害や手足の不自由を感じたら、すぐに言ってくださいよ)
 嘘だろ…… 昨日まで…… ついさっきまで何ともなかったのに……。
 そのとき、視界に黒い影が移動するのが見えた。ケイナはそれに向かって突進した。
 木の陰から姿を見せたユージーを見たとき、ケイナは思わず血の気が引くのを感じた。
 兄の顔を見たのは何年前だろう。
 2年、いや、3年?
 『ライン』に入ったときは14歳。あのときの兄の顔はどんなだった……?
 覚えていない…
 おれはいったいいつからユージーを見ていなかったんだ?
 ユージーは頬がこけ、落ち窪んだ目だけがぎらぎらと光っていた。
 土気色に染まった顔にはうっすらと無精ヒゲが生えている。きっと『ライン』を出てからほとんどろくに眠りもしないし食べていないに違いない。
 ケイナは身をすくませながらユージーを凝視した。
 おれは誰と戦えばいい……? なんで? 誰がユージーをこんなふうにした?
 おれじゃないか……。おれがユージーに暗示をかけたんじゃないか……
 左手の剣の柄が燃えるように熱く感じた。
 ユージーがゆっくりと腕をあげて自分に銃口を向けても、ケイナは動くことができなかった。
 鈍い痛みが頭の奥で疼いた。
 次の瞬間、ケイナは自分の顔の脇をすりぬける光から逃れるために茂みに身を踊り込ませていた。
 顔をあげたとき、ぱたりと手の甲に落ちた温かい水に一瞬撃たれたのかと思った。
 違う。そうじゃない。
 おれは泣いてる?
 いや、これは血。
 再びぱたぱたと落ちる赤い水にケイナは思わず叫び声をあげそうになった。
 自分の鼻からも目からもそして耳からも、大粒の雨のように血が落ちてきた。
 頭にさっきの何倍も響く痛みが走った。
 どうすりゃ…… どうすればいい……。
 小刻みな呼吸をしながらケイナは剣を持ったまま手の甲を額に押しつけた。
 怖い……。
(おまえ左手を使うのはアブねえんじゃねえか……)
 アシュアはそう言った。
 だけど、左でなきゃ、ユージーに勝てねぇよ……
(ケイナ、ずっとおれのそばにいろ。ずーっと)
 ユージーの声? いつ聞いた声だろう。
 ユージーはおれの手を引いていた。
(ケイナのことはおれが守ってやるから)
 殺気を感じて身を翻すと、脇を光が走っていった。
 振り上げた剣がそばの木をすっぱり切り落としたとき、ケイナは思わず呻き声をあげた。
 手加減できない……。剣を制御できない…。
(ケイナはおれが守ってやる)
 黒い瞳のユージーはまだあどけない子供だった。
(おれが守ってやるから)
(お帰り…… ケイナ)
 ちくしょう、誰と戦えばいいんだよ! 暗示はどうやったら解けるんだ!
(だからおれを封じ込めなければ良かったのに)
 頭の中で響く声にケイナはぎくりとした。
(無感情に戦うためにおれがいたのに。ばかだな。 おれが本体だったら死の恐怖におびえることもなかったのに)
「おまえはもういなくなったはずだろ……?」
 ケイナはつぶやいた。
(そういう“種”なんだからしかたないさ)
 胸の中の自分があざ笑うように言った。
(必要と思えば、いくらでもいろんな自分を作れるぜ。そういう指示をもらったろ?)
「指示だと? そんなもん、誰にももらってない!」
 ケイナは叫んで剣を握り直した。
(そう、それ。とりあえず血は止まる)
 身をかがめ、ケイナは茂みを走り抜け、ユージーの姿を捉えた。
 そのまま剣を振り上げた。
「ケイナ!!」
 剣を振り下ろしたとき、ケイナは凍りついた。
 ユージーと自分の間に立ちはだかり、思いきり振り降ろした刃を自分の剣で受けるセレスの姿が目に飛び込んできた。
 ケイナはセレスの顔を見て混乱した。彼の右のこめかみから顎にかけて、大きな傷がついていた。
「ケイナ、ユージーを傷つけちゃだめだ!」
 顔の右側を血で染めながらセレスは怒鳴った。
「大切だと思えばこそ! あんたがそう言ったんだ!!」
 そのとき、セレスの背後にいたユージーがにやりと笑って銃を構えるのをケイナは見た。
 頭の中で何かがはじけた。
「やめろ!!!!」
 ケイナが叫んだ途端、3人はあっという間に散り散りになって弾け飛んだ。
 森の中に静寂が訪れた。

 しばらくしてセレスは身を起こした。
 体中が痺れたような感覚だった。特に手がひどい。ケイナの剣をもろに受けたからかもしれない。
 よろめきながら立ち上がると向こうにユージーが倒れているのが見えた。ようようの思いで彼に近づき、セレスはユージーの顔に手をあてた。
 良かった。意識を失ってるだけだ……。セレスはほっとした。
「ケイナ……」
 セレスはあたりを見回した。ケイナの姿がない。ケイナの顔は血まみれだった。怪我をしているのかもしれない。早く探さないと……。
「セレス!!」
 聞き覚えのある声がして、セレスははっとした。
「ア…… アシュア!!」
 苦労して声を張り上げると、アシュアは草むらからすぐに姿をあらわした。
「大丈夫か!」
 アシュアはそう言って近づき、ユージーの姿に気づいてぎょっとした。
「殺したのか?」
「違う。意識を失ってるだけだ。それより、ケイナがいないんだ」
「何があったんだ」
「分からない……。ケイナの剣からものすごい光が出た。おれたち全員弾け飛んじゃったんだ……」
 アシュアは周囲に顔を巡らせた。そして何かに気づいたのか走り出した。セレスもそれに続いた。
 ケイナは2人よりもはるか遠くに弾き飛ばされていたようだった。草むらの中に仰向けに倒れている彼のそばに柄だけになった剣が転がっていた。
「ケイナ!」
 セレスはケイナに駆け寄り、急いで彼の体を抱き起こした。
 しかし、何の反応もない。ケイナは青ざめた顔で固く目を閉じたままだ。
「どうしたんだ、これ……。顔中から血が出てる」
 アシュアが呆然としたようにケイナの顔を見て言った。
「分からない……。傷なんかどこにもないよ」
 セレスはケイナの頭を手で探ったが、何も見つけられなかった。
「とにかく応援を呼んでくる。ここで待ってろ」
 アシュアはそう言うと立ち上がった。セレスはうなずいた。