ケイナはふと目を開けた。外はうっすらと夜が明け始めているようだった。
 いつの間にベッドに潜り込んだんだろう……。
 アシュアと話をして、少し気持ちが静まった。そのことはとてもよく覚えていた。
 アシュアは不思議だ。決して饒舌なタイプではないし、具体的な言葉で励ましたりすることもないが、彼と話をするとこれ以上はないと思えるほど堅く糸が巻きつけられた気持ちがすっとほぐれることがある。
 起き上がってテーブルに目をやると、新しい水差しが置いてあるのが目に入った。
 知らないうちにリアが届けに来ていたらしい。
 横のベッドを見ると、寝ているはずのセレスの姿がなかった。
 アシュアはまだ大きないびきをかいている。
 ケイナはそっとベッドを抜け出してテントの外に出た。
 外はゆっくりと光が増え始めていた。女たちが小さな声で会話しながら水汲みや朝の準備を始めている。
「おはよう、ケイナ」
 その声にケイナははっとして振り向いた。
 アシュアと話して気持ちがおさまっていたとはいえ、リアの声にはまだ敏感だった。
 振り向くと彼女は笑みを見せて立っていた。
「熱いお茶を飲む? あっちでみんなが飲んでるわ」
 リアは向こうを指差して言った。
 ケイナが彼女の指の先に目を向けると、テントの脇で女たちが共同で湯を沸かし、カップを手にして笑いながら話をしているのが見えた。
「行きましょ?」
 リアはケイナの手を引いた。ケイナは思わずその手を振り払った。リアは小首をかしげてケイナを見た。
「どうしたの?」
(どうしたの? じゃねぇだろ……)
 ケイナは心の中で毒づいた。
「セレスなら池のほうに行ったわよ。水浴びしてるんじゃない?」
 その言葉にケイナはリアに背を向けると池の方向に向かって歩き始めた。
 リアはそれをじっと見つめて見送った。
 池に着くと、リアの言った通りセレスの姿が池の中に見えた。
 彼は池のまん中あたりでぼんやりと仰向けになって空を見上げていた。
 ケイナは岸に脱ぎ散らかされたセレスの服に目をやった。大きなタオルを持ってきているところを見ると、最初から泳ぐつもりでここに来たらしい。
「風邪をひくぞ」
 しばらくためらったのち言ったケイナの言葉でようやく気づいたのか、セレスがこちらに顔を向けた。
「ケイナ!」
 セレスは叫んだ。
「水の中のほうが温かいんだ! ケイナも入っておいでよ」
 ケイナはかぶりを振った。今朝はとても泳ぐ気にはなれなかった。それを見たセレスは岸まで泳いでくると池からあがった。
 ケイナはタオルをセレスにほうってやった。
「ああ、気持ちよかった」
 セレスはそう言うと、手早くズボンをはき、上半身は裸のままで腰をおろして濡れた頭をタオルでこすった。
「いったいいつから入っていたんだ」
 ケイナは自分も隣に腰をおろしながら呆れたように言った。セレスは髪をこすりながらくすくす笑った。
「小1時間くらい入ってたかな……」
 ケイナはかすかにため息をつくと池の面を見た。セレスがいたときの波紋がまだかすかに残っている。
「昨日、ありがと」
 セレスは言った。ケイナはセレスに目を向けた。
「ケイナのおかげで、おれ、すごく落ち着けたんだ……。ケイナがいてくれなかったら、おれ、こんなに元気になれなかったよ」
 ケイナは無言だった。涙が出そうなくらいの熱い固まりが体中を駆け巡る。リアの声には身構えても、セレスの言葉は甘美だ。
「どうしたの?」
 ケイナの表情に気づいたのか、セレスは怪訝そうに彼の顔を覗き込んだ。
「なんでもないよ」
 ケイナはセレスの大きな緑色の瞳に少しどきまぎしながら答えた。
 昨晩リアと唇を重ねたことを見透かされるのではないかという思いがふと頭をよぎった。
 しかしセレスにそんなことが分かるはずもない。彼は少し不審そうな表情を浮かべたが、すぐに顔をそらせた。
「そういえば……」
 セレスは思い出したように言った。
「ここに来る前にリアに会ったんだけど、ケイナに謝っておいてくれって言われたよ。何かあったの?」
 あの野郎……。わざとセレスにそんなことを言ったな……。
「さあ……?」
 ケイナはそう言うと立ち上がった。セレスはケイナを見上げたが何も言わなかった。
「もう、戻ろう。ずっとここに座ってると風邪をひくぞ」
 ケイナの言葉にセレスは笑った。
「おれはケイナと同じだよ。免疫機能が普通じゃないんだ」
 それでもセレスは立ち上がった。
 テントに戻るとアシュアが椅子に腰かけて大あくびをしていた。
「トリがさっき、時間のあるときにプログラムをひとつ作るの手伝ってくれないか、と 言ってたぞ」
 ケイナの顔を見てアシュアは言った。
「ファイルが壊れたとかなんとか。おれはよく分からねえけど……」
「あ、温かいお茶が来てる」
 セレスがテーブルの上のポットを見て嬉しそうに言った。
「リアが持ってきたよ。なんかやな奴だが、いろいろ気を使ってくれてんだな」
 アシュアは答えた。
 セレスはカップふたつにお茶を注ぐとひとつをケイナに差し出した。ハーブの甘い香りがする。
「セレスには子どもたちに字と計算を教えてやって欲しいってさ」
「字?」
 セレスはアシュアの言葉を聞いて目を丸くした。
「スクールの先生みたいなことするんだな」
 セレスはカップを口に近づけてくすくす笑った。
 アシュアは頭をがしがし掻いた。
「おれはリア嬢の剣の手ほどきだとよ」
 ケイナは思わずアシュアを見た。
 トリはゆうべのことを知っている。ケイナは確信した。
 トリはあえてアシュアに相手をさせようとしている……。
 なんだか嫌な気分だった。自分でも整理のつかない部分をトリが見透かしているようで不快だった。
 そんなケイナの不機嫌そうな顔をセレスは不思議そうに見つめた。
 どうも今朝はケイナの様子がおかしい。何に怒ったり戸惑ったりしているんだろう……。
 聞いてみたいような気もしたが、黙っていることにした。
 コミュニティの中の女性のひとりが朝食を運んでくれたので、それを食べおえてケイナとアシュアはトリのテントに行くことにした。
 セレスは食事を持ってきた女性がトリから事情を聞いているのか、あとで来て欲しいと言っていたのでそれに従うことにした。
 トリのテントに入るとリアがいるのがケイナの目に入った。
 さすがに表情にこそ出さなかったが、リアがいることをこれほどうっとうしいと思ったことはない。
 リアの顔はひどく不機嫌そうだ。きっとトリがアシュアから手ほどきを受けるように言ったからだろう。
「面倒をおかけします。先日のきみの言葉に思ったんです。やはり少しきちんとした技術を教えて重心を落ち着かせてやってくれませんか」
 トリはアシュアに言った。アシュアは肩をすくめた。
「本人はおれじゃあ不満なようだぜ」
 トリはリアの顔を見たが、リアはぷいと顔を背けた。
「リア」
 トリがたしなめたので、リアは渋々うなずいた。
「分かったわよ」
 彼女はそう言うと、ちらりとケイナを見てから怒ったようにテントを飛び出した。
「こちらはリアの持っているのと同じ剣です」
 トリは鞘つきの剣をアシュアに差し出した。アシュアはうなずいてそれを受け取った。
「言っておくけど、おれはきついぜ」
 にやりと笑って言うアシュアにトリは笑みを浮かべた。
「いいですよ。わがままなところがありますから厳しくしてやってください」
 アシュアはそれを聞くと、ケイナに眉を吊り上げてみせてテントをあとにした。
 アシュアが出ていったのを確かめるとトリはケイナに顔を向けた。
「プログラムがどうとか言ってたけど……」
 ケイナが言うとトリはうなずいて目を伏せた。
「アシュアとセレスの手前、そう言っただけです。まずはきみに話をしておこうと思って」
 トリの言葉にケイナは眉をひそめた。何か嫌な予感がした。
 トリは手招きをするとケイナをテントの外に連れ出し、別のテントに案内した。
 中は見たこともない計器類がたくさん並んでおり、ケイナは思わず目を見張ってそれらを眺めた。
「こんなの…… 『中央塔』のどこでも見たことがない……」
 ケイナの呟いた言葉にトリは笑みを見せた。
「マークも同じことを言ってたんじゃなかったでしたっけ?」
「仕入れ先はどこなんだ?」
「仕入れというか、技術導入になりますね。こっちにはほとんどパーツでしか来ないんですよ」
 トリは答えた。
「それを組み立てるとか言うんじゃないだろうな……」
 ケイナは訝し気にトリを見た。トリは再び笑った。
「そのとおりですよ」
 ケイナは髪をかきあげた。
 『ノマド』にいたといっても肝心な『ノマド』の形態についてはほとんどケイナは知らない。たとえ技術にしても、住民登録もしていない『ノマド』がどうしてこんなものを導入できるというのか。
「誰が手引きしてるんだ?」
 ケイナの言葉にトリはくすりと笑った。
「昔はね、カートが通してくれていたよ。ご存じの通り今やエアポートの管理を一手に引き受けているからね」
 ケイナはそばの計器に触れた。
「今はアライドから直通で届くよ。必要があれば」
「アライドから?」
 ケイナはトリを振り返った。
「アライドは『ノマド』に友好的。かたや商品としての人種。かたや研究としての人種。……ともに青い星で生き続けたい」
 地球一個分の命。みんなおんなじに。
 ふと昨晩のアシュアの言葉が思いだされた。