リアとケイナの持っていた水差しが地面に落ちてこなごなに砕けた。
 乱暴なほどに唇を重ねてきたケイナに、リアは自分の要求に応えてくれたと思っていたが、 しばらくして恐怖に顔を歪めた。
 ケイナの力が強すぎる……。子供の戯れではない荒々しさを悟ってリアはパニックに陥った。
 あっという間に地面に突き倒されてケイナの手が乱暴に自分の首を掴み、唇が首筋におりた。
 彼の手が強引に太ももから着衣の下に入り込もうとしたとき、リアは無我夢中で剣を引き抜いていた。
 ケイナはあっという間に身を離すとその切っ先をやり過ごした。まるで最初からそのことが分かっていたかのような動きだった。
「なにするのよ……」
 リアはケイナに剣をつきつけたまま震える声で言った。
「自分から挑発しといて、それかよ」
 ケイナはリアを睨みつけた。
「キスしてって言ったのよ」
「ふざけんな!」
 ケイナの目の鋭さにリアは思わず口をつぐんだ。
「おまえはおれなんか見ていない。おれはもう『ノマド』にいた子供の頃のおれじゃない! 何も覚えていないし、何も知らない! そんなおれの弱味につけこんでおれを試そうとするな!」
「試すなんて、そんなつもりないわ!」
 リアは思わず叫んだ。
「だったら、なんのつもりだったんだよ!」
 リアはぐっと詰まった。
「きれいだと……? 冗談じゃない。この顔のおかげでどれだけ厭な思いをして来たと思ってんだ……。町を歩けば片方のピアスで男娼と間違われ、香水臭いババアに声をかけられ、リンチに遭って左手を砕かれて……!」
 ケイナは小刻みに震える肩で息をついた。
「一回寝たらいくらになるか知っているか! おれの…… おれの屈辱の代価がどれくらいのもんか知ってるか!」
 リアは目を見開いてケイナを見つめた。
「欲しけりゃいくらでもキスしてやるよ! 寝たけりゃいくらでも寝てやるよ! それで気が済むんなら、それで助けるというのなら……!」
「やめて!」
 リアは叫んだ。ケイナははっとして口をつぐんだ。
「あたしは…… ケイナをそんなふうに見てるわけじゃないわ!」
 リアはくちびるを震わせた。
「ひどいわ……。あんたは子供の頃の記憶がない。あたしはここを出てからのケイナの記憶はない。同じよ! それでも…… ケイナが好きなのよ!」
「あんたのこと…… 好きとか嫌いとか……」
 ケイナはいまいましそうに髪をかきあげた。
「覚えてないんだよ…… なにも……! そんなの考えられないんだよ……!」
 かすれた声でケイナはそう吐き捨てると、彼はリアに背を向けた。そしてリアから離れていった。
「ケイナ!」
 リアは呼んだがケイナは振り返らなかった。
 リアは散らばった水差しの破片を見つめた。しばらくして身をかがめると、ひとつひとつ拾い始めた。
 涙がこぼれた。
「あたしは…… あたしは、ケイナが好きなのよ……。ただそれだけだわ……」
 リアは膝に顔を埋めて泣いた。

 ケイナはテントまで戻って来たが、とても中に入ることができなかった。
 アシュアはきっとまだ起きているだろう。
 しかたなくテントの外に座り込んだ。ほかの者は誰も外に出ていない。しばらくすれば頭も冷えると思った。
 まだ心臓が動悸を打っていた。最低な気分だ。子供の頃のことは何も覚えていない。思い出せない。
 懐かしさと切なさがあるのに…… 思い出せない。
 おれはいったい、何をしているんだろう……。自分を愛してくれた人を殺したという事実をつきつけられて。
 おれを愛しているということをつきつけられて。
 リアが抵抗しなかったらどうするつもりだったんだ……。
 彼女を抱くのか? セレスのいるこの『ノマド』で?
 考えたくない。最低だ。
 リアの体に沁みついた花の香気がまだ自分を取り巻いているような気分だった。
「どうした」
 ぎょっとして目をあげるとアシュアが立っていた。
「遅いから…… 何かあったのかと思った」
 アシュアは不審そうにケイナの顔を見つめて言った。
「なんかあったのか?」
「別に」
 アシュアは身をかがめてケイナの顔を覗き込み、にやりと笑った。
「またあの女がちょっかいかけてきたか」
 ケイナが不機嫌そうに口を歪めたのでアシュアは声をたてて笑った。
「ここでおまえがそんな顔する原因って言えばそれくらいしかねえもんな」
 そして彼はケイナの横に座り込んだ。
「またいきなり襲いかかられたか?」
 一瞬顔にギクリとした表情が出たような気がしてケイナは動揺した。
 動揺するなんてめずらしい。セレス以外のことでこんなに心が揺さぶられた記憶がない。
 襲いそうになったよ。そんなふうに答えたら、アシュアはどんな顔をするだろう。
 ケイナの様子に気づいたのか気づかなかったのか、アシュアは何にも言わなかった。
 しばらく沈黙が続いたあと、ケイナが口を開いた。
「なんで何にも言わないんだ」
「別に話すことねえもん」
 アシュアは屈託なく笑った。
「邪魔?」
「いや…… 別にそういうわけじゃ……」
「話して欲しけりゃ適当にしゃべるけど。 おまえが飲むの嫌がったあの草の見つけかたなんてどう?」
 ケイナはばかばかしいというようにくすりと笑った。
 アシュアは少し安心した。笑みが出るというのはいいことだ。
「アシュア…… 命の値段ってどれくらいだと思う」
 しばらくしてケイナはぽつりと言った。
「なんだそりゃ」
 アシュアは欠伸まじりに答えた。
「そうだな。地球一個分くらいかな」
「なんだよ、それ」
「値はつけられねえ、ってこと。どんな金持ちでもたぶん買えねえな」
 アシュアは空を見上げて言った。うっそうとした木々が上のほうで絡みあっている。
「『ライン』の休暇中にシティで体を売ったことがあるんだ……」
 ケイナがそう言ってもアシュアは何も言わなかった。黙って空を見上げている。
「耳の赤い点がサインなら、利用してやろうと思って…… 自分の屈辱と命の値段を知りたかった……」
「どうだった?」
 こちらに目を向けずに言うアシュアの言葉にケイナはかぶりを振った。
「分からない。……薄っぺらい紙幣を何枚見たって、それが自分の命の実感にはならなかった……」
 アシュアは少し息を吐いた。
「食うに困らないおまえが体を売って、相手の価値なんか考えもしねえやつと寝て、いったい何が分かるんだよ」
 ケイナは目を伏せた。
「カインもおれも言わなかったし、上に報告もしなかったけど、知らないわけじゃなかった……。はっきり言ってムカついてたよ……。自分をおもちゃにしてるのと同じじゃねえか。だけど、もっと危険な行為に出るよかましだと思ってた。赤いピアスをつけていても、おまえは無表情に自分のことを自分で傷つけていきそうだった。おれよりカインのほうがもっとそれを感じていたかもしれない。全部諦めてて、何に対しても無感動で……」
 ケイナは黙って地面を見つめていた。
「セレスと出会ってからおまえは自分のことより人の身を考えるようになってた。今のおまえはたぶん生きることを考えてるだろ? 生きたいって思う命の実感は守るものができてからじゃねえの」
 アシュアはふうと息を吐いた。
「カンパニーは遺伝子を売ったり買ったりしてたって言ってたよな。おれはそれが許せねえよ。人の気持ちなんか全然考えてねえもんな。自分の子孫だけを継続させたいからの商品なんて、思いあがりもいいとこだぜ」
 命の操作……。
(結局遺伝子を操作された人間だけが生き残って、いったい何の意味があるんです……)
 トリの言葉が思い出された。
 『グリーン・アイズ』…… あんたは、何のために生まれて来た命なんだ……? おれの存在は……?
「『ノマド』は…… だから命の約束をしたんだ……」
 ケイナはつぶやいた。
 アシュアはケイナに目を向けた。伏せられた彼の長い睫がかすかに震えているのが分かった。
「『ノマド』は…… もう遺伝子操作をするなと言ったんだ。命の継続は自然が知っている。今ある命で繋ぐんだ」
「うん。そうだな」
 アシュアはうなずいた。
「地球一個分の命だ。みんなおんなじに」