『中央塔』へ行く日、アルは前と同じようにセレスをヴィルで迎えに行った。
 さすがにこの日セレスはきちんと起きてアルを待っていた。
「このアパート、しばらく誰もいなくなっちゃうね」
 部屋のドアを閉めるセレスにアルは言った。
「兄さんが2ヶ月後の休暇の時に帰ってくるよ。 叔母さんが…… 母さんが時々掃除してくれなくなるから、部屋の中見て怒り狂うかもしれないけど」
 セレスはそう言って笑った。
「確かにあの部屋じゃあなあ……」
 アルも笑った。洗濯物も洗い物もひっくり返したままだ。
 叔母のフェイはハルドがセレスの合格を伝えてから一週間後に一度だけ来た。
 繰り言は何も言わず、父の形見だというブレスレットを渡してくれた。
 不思議な文様の彫り込まれたプレートに鎖が付いたものだった。 プレートの隅に緑色の小さな石が埋め込まれている。
「おまえのお父さんとお母さんがペアで大切に持っていたものなのよ。どこかにふたりで旅行に行った時にでも買ったんじゃないかしら。事故に遭った時、遺体は見つからなかったけど遺品の中に残っていたわ。埋め込まれてるのはたぶんエメラルドよ。本物ならもう地球ではほとんど採れないから相当価値が高いわね」
 フェイは石が本物だとはとても思っていない様子だった。
 セレスは腕にブレスレットをつけてみた。腕を振ったりしたらすっぽり抜けてどこかに飛んでいってしまいそうだ。叔母はそれを見て笑った。
「ハルドは自分の腕のほうが太くて鎖がちぎれてしまうとかでつけてないわ。ハルドと会った時にでも交換するといいわよ。たぶんあっちがお母さんのだわ」
「ねえ、母さん」
 セレスは言った。
「父さんって…… おれの父さんって、ほんとにおれにそっくりだったの」
 フェイはびっくりしたように目をぱちくりさせたあと、笑みを浮かべた。
「そっくりよ。生き写しだわ。信じられないくらい。事故に遭わなければきっと大学教授で終わらずに科学局のトップになってた人よ。もったいないことをしたわ……」
「あの事故は今でも原因不明なんだね」
 セレスはブレスレットを見つめて言うと叔母はうなずいた。
「そうね…… 事故もそうだけど、どうして急にあのときふたりで旅行するなんてことになったのかも分からないわ。おまえたちふたりを預けに来た時、あんまり急だったからびっくりした。思い付いたように計画たてたのかもしれないけど」
 フェイはセレスをしばらく見つめたあと、そっとその頬をなでた。
「頑張りなさいね。もう何も言わないわ。辛くなったらいつでも帰ってきていいからね」
 セレスは叔母の顔を見ているうちに、ふと、この顔をしっかり覚えておこう、と思った。
 どうしてそんなことを考えたのか分からない。
 叔母の首に腕を回して抱きつくと、叔母の甘い髪の香りがした。

「セレス、行くよ!」
 アルの言葉にセレスははっとして我に返った。
「ぼうっとして。相変わらず緊張感がないんだな」
 アルは前と同じようにヴィルの後ろにまたがって言った。
 セレスが運転することはもう気にならないらしい。ヴィルはふわりと上昇を始めた。
「きみのその緊張感のなさって羨ましいよ。ぼくなんか朝から何回もトイレに行ってさあ、それがまた母さんをはらはらおろおろさせるんだ。やれお腹の薬だの精神安定剤だのってさあ。ほっといたら入所式にまでついてきそうだった」
 セレスは笑った。
「笑い事じゃないよ」
 アルはセレスのうしろで口を尖らせた。
「制服のひとつひとつに名前を刺繍したんだぜえ! パンツにまでもさ!  子供じゃないんだからいい加減にして欲しいよ!」
 セレスはさらに大声で笑った。
 笑い過ぎてハンドル操作がおろそかになり、少しヴィルが傾いた。アルは小さな声できゃーっと叫んだ。

 『中央塔』に着くと、ふたりは地下の駐車場にヴィルを停め、荷物を持ってエントランスに向かった。
「新人の制服ってダサイけど、セレスはなんでも似合うんだなあ」
 アルがセレスの後ろを歩きながら言った。
 『ライン』の新入生の制服は灰色の上着に灰色のズボンで本当にぱっとしないデザインだ。
 ずんぐりむっくりのアルはベルトが一番外側の穴でもウエストのあたりがきつそうで、細みのセレスのそばにいるとぬいぐるみのようだった。
「そのうち痩せて似合うようになるだろ。ここの食事は個人のカロリー計算がしっかりしててけっこうまずいらしいから」
「そうなの?」
 セレスの言葉にアルは顔をしかめた。
「アルの母さんが作ってくれるような豪勢なディナーは出ないよ。当たり前じゃん」
 セレスは苦笑した。
「あああ…… 家でチェリーパイをたくさん食べてくるんだった……」
 アルは大袈裟に天を仰いでため息をついた。
 合格通知と一緒に送られてきたデータには着いたらまず荷物を自分の部屋に置きに行かなければならないと書いてあった。
 部屋割りは事前には知らされていなかったので、ふたりはバッグを片手に寮塔に向かった。
 無気味なほど静まり返っている。
 かなり早い時間に来ていたから、もしかしたらこれからもう少しにぎやかになるのかもしれない。
 寮塔の扉の入り口で上級生らしい少年が立っていた。
「ようこそ。『ライン』へ」
彼はにこりともしないで言い、扉の横のプレートを指差した。
「ここに手を置いて」
 アルとセレスはほんの少し顔を見合わせたあと、黙ってそれに従った。
「これから毎回ここに入る前に同じようにしてから入るんだ。ここから先は部外者禁止。名前は?」
 ふたりが名前を言うと、少年は面倒臭そうに手にしていたタブレットを見た。
「アル・コンプトンは3-B、セレス・クレイは2-Bの部屋。入所式が始まる前にルームリーダーからガイダンスがあるから部屋で待機すること」
 少年は事務的にそう言うとふたりの顔を見つめた。
 まだ何かあるのかとその顔を見つめ返していると、少年は少し呆れたように首を振った。
「分かったのか、分からなかったのか、返事くらいするものだ」
 アルの顔にさっと血が昇った。
「わかりました!」
 半ば叫ぶようなアルの返事を聞いて、少年はようやく納得したらしい。すぐに興味を失ったようにそっぽを向いた。
 身をすくめながら開いた扉の奥に入ったセレスとアルは少年の姿が見えなくなってからようやく詰めていた息を吐いた。
「部屋、分かれちゃったね」
 アルは残念そうに言った。七、八十人の新人が入ってくるのだから 同じ部屋になるのは確率的には低いというものだ。
 しかし、行ってみるとふたりの部屋は真向かいだということが分かった。 廊下の両側にずらりと同じ形のドアが並んでいるのが見える。
 殺風景な黒っぽい床に灰色の壁はまるで牢獄を思わせた。
 いよいよここでの生活が始まるのだ。
 不安気な顔をしているアルの肩をたたくと、セレスは自分の部屋に入った。
 部屋の中は思ったより広かった。セレスのアパートのリビングの4つ分くらいはありそうだ。
 床にはブルーのじゅうたんが敷き詰められ、同じブルーのパーティションで部屋のまん中に通路をとり、両側がふたつずつに区切られている。
 天井は高く全照型の照明がついているので明るかった。
 パーティションの高さはセレスの身長よりも高かったから2m弱くらいはあるのかもしれない。上が抜けているから椅子の上にでも乗れば隣が覗き込めそうだ。
 突き当たりの壁は天井から床までのガラス張りになっていて、くつろぐためのスペースらしく小さな椅子が4脚とテーブルが置いてあるのが見えた。その奥のほうに見えるドアのむこうはバスルームかもしれない。
 手前の区切りの入り口から中を覗いてみると、清潔そうな白いシーツのかけてある簡易ベッドと黒い机、小さなクローゼットが並べられていた。壁側は作り付けの本棚になっている。 ちょっとした個室だ。
 反対側も覗いてみると、対称的に同じつくりになっていた。
 自分はどこに行けばいいのだろうかと思っているとさっき覗いた仕切りの陰からそばかす顔が見えた。
「セレス・クレイ?」
 何となく見覚えがあったが、誰だか思い出せなかった。
「きみと同じ部屋になれるなんて!」
 彼は嬉しそうに走りよってきた。
「ぼくのこと覚えてない? 見学会のとき、アルと一緒にきみを待ってたんだよ」
「あ……」
 セレスはやっと思い出した。
 そう言えばあのときアルのほかにもうひとり誰かいた。言葉を交わさなかったので忘れていた。
「ぼく、トニ・メニ。よろしく」
 トニはセレスに手を差し出した。セレスはその手を握り返した。
「アルはどうしたの? もちろん一緒に来たんだろう?」
「アルは向かいの部屋だよ。」
 セレスは言った。
「良かった。ふたりとも絶対合格してまた会えると思ったよ」
 トニは満面の笑みを浮かべて言った。
「きみはぼくの向かいのブースだよ。あそこのテーブルに部屋の使用注意書が置いてある。きみのブースの隣はルームリーダーみたい」
トニは共用スペースのテーブルを指さした。
「もうひとりの新入生はジュディ・ファントっていうらしいよ。なんだか女の子みたいな名前だね。まだ来てないみたいだけど」
「ふうん……」
セレスは書類をめくった。
自分の名前とブースの位置と、あとは設置してある家具類の説明だけだった。
「一緒になるハイラインのルームリーダーはまだ分からないんだ」
 トニは言った。
 セレスは持ってきたバッグを自分のブースに放り込んだ。
 部屋の扉が開く気配がしたので顔を巡らせるとひとりの少年が立っているのが目に入った。
 透けるように色の白い少年だ。彼がジュディ・ファントだろう。彼はふたりの顔を見ると額に垂れかかった栗色の髪をかきあげた。
「もう場所は決まってるの」
 まるで女の子のように細い声だった。
「きみはその左側のブースだよ。ぼくの隣。これ、注意書」
 トニが笑顔でわざわざ少年に注意書を持っていったが、彼はじろりとトニを見てそれをひったくり、黙ってブースの中に入っていった。
 トニは(なんだよ、あいつ)というように肩をすくめてセレスに目を向けた。セレスはそれを見てあいまいに笑みを浮かべた。