「これは例えだよ。堅い頭蓋骨が割れるなんてことはもちろんない。しかし人間は脳ばかりが成長を遂げてもバランスはとれない。増える神経伝達は類い稀な運動能力や感覚を作るだろう。しかし、脳は人の心も司る。バランスを失った体と心でいずれ彼は死に至るのは目に見えていた」
死に至る……。
ドキリとした。ケイナが死ぬ……。
「だが、私が行ったときにはそのスピードを押さえるための治療法はすでに確立されていた。改めて私が出すまでもなかった。意見を求められたが、おそらくこれでいけるんじゃないかという見解は出した。遺伝子治療を行うんだ。あの年齢から始めれば生き残る可能性は90%以上だ。ただ、彼の場合、外界からの刺激で脳の発達は促されていくから、ある程度の遮断をする必要はあった。そうだな、感情を抑制するような機器をつけるか薬品を服用するのは効果的かもしれん。遺伝子治療と外界遮断で、だいたい5年から10年でほぼ正常な体を取り戻すはずだ」
カインの体に震えが走った。赤いピアス…… 感情抑制装置……?
「ドク……」
カインは震える声でレイに言った。
「もし…… もし仮に彼が何も治療をされていなければ、彼の寿命はどれくらいだとドクターは思いますか……」
「治療をされていないと?」
レイは訝しそうにカインを見た。
「そんなはずはない。彼は生きているんだろう? 今いくつくらいになるかな……。そうだ、きみと同じ年じゃないか?」
「ドクター、頼みます、答えてください」
レイは顔をしかめていたが、しばらくして答えた。医者である彼にとって治療をしないなどという行為は考えられないことなのだろう。
「前例がないから何とも言えんがね、18歳か、19歳あたりで何らかの症状は出て来るかもしれんな……」
カインは絶望感を感じた。
18歳のタイムリミット……。やっぱりそうか。
ケイナは…… 治療されていない……。
「ドクターは彼の検査の意味について何も知らされていないんですか?」
カインのすがるような目にレイは困惑した。
「いったいどうしたんだ……」
「ケイナは18歳になったら仮死保存されるという契約を交わされているんです。彼はただデータをとられてただけじゃないかと思うんです。でなければ18歳で彼を仮死保存する必要なんかない。治療すれば治るんでしょう? 死んでは困る。だけど、治癒されても困るんだ……」
カインは身を起こした。
「起きちゃいかん」
レイが押しとどめたが、カインは彼の手をはらいのけた。
「その理由はケイナを保存して第二のケイナを作るとか?」
「そんなばかな」
レイは険しい目を向けた。
「彼の生殖機能検査はプラス5クラスだった。次世代が欲しければきちんと治療して結婚して子供を作ればいいんだ。クローンやコピーは違法だよ」
「人並み外れた知能と運動神経と……」
カインはごくりと唾を飲み込んだ。
「人を殺すことを厭わない人間……」
「なんのことだ」
レイは訝し気にカインを見た。
「確かに彼の発達した脳は優れた知能と運動神経をもたらすがね、人を殺すことを厭わないなど、そんな子には見えなかったよ。もっとも、二ヶ月間、二回の検査といえば日数にすれば三週間ほどだ……。それだけで彼のことのすべてを知るのは不可能だろうが……」
レイはため息をついた。
「仮死保存なんて今初めて聞いた……。彼はそれが厭で逃げ出したのか?」
「ケイナはとっくの昔にそのことを知っていて、諦めてましたよ……」
カインは答えた。
「彼が『ライン』を出たのはセレスを助けたい一心でしょう。彼にとってセレスの存在は特別なんだ……。アシュアがいるからたぶんまだ逃げ延びてる。なんとしても会わないと……」
最後は半ば自分に言い聞かせるような口調だった。
レイは顔を伏せて首を振った。
「最初から知っていれば何とかできたかもしれんがね……。私はてっきり治療のための検査だと思い込んでいたんだ。だから、あとは後任に引き継いだ」
「ケイナの治療法を覚えていますか?」
カインの言葉にレイは彼を見て数回まばたきをした。
「あ、ああ…… もちろん、当時のものなら覚えているよ。ただ、今まで治療をされていないとなると同じ方法では追いつかん」
レイは答えた。
「今、早急にでも抑制装置をつける必要があると思いますか?」
「外部からの刺激はできるだけ脳には与えないほうがいいな。病状が進行する。今なら相当に強い薬なり機器が必要だろう。その上で早急な遺伝子治療が望まれる」
レイはそう言って暗い表情で床に目を落した。
「しかし、間に合うかな……」
「でも、助けないと」
カインはきっぱりと言った。
セレスがそばにいることが抑制装置の代わりになるだろうか。それでもあの赤いピアスは必要かもしれなかった。
「ケイナの治療法を思い出してデータにしてぼくにください。それとここの端末を貸して欲しいんです。できる限り『ホライズン』にアクセスしてみたい」
ベッドから降りようとするカインにレイは慌てた。
「きみは起きるのはまだ無理だよ」
「そんなこと言っていられない!」
カインは小さく怒鳴った。
「一日でも遅くなればケイナは死に近づく! 早く彼らと会わないと!」
早くケイナに会わないと…! 死ぬなんて絶対許さない…。カインは唇を噛んだ。
「ちくしょう…… こんな計画ぶっ潰してやる……」
これまで聞いたこともないカインの荒々しい言葉にレイは眉をひそめて彼を見つめた。
「食糧と小型通信機…… これはしばらく使ったことがないぞ。すまんが銃はわたしには手に入れられん」
数時間後、レイはベッドの上に一式を並べてため息をついた。
「これは薬。腕の傷を早く治したければきちんと飲むんだよ」
「すみません……」
薬の袋を置くレイにカインは詫びた。
「どうしても行くかね。私は今でも反対なんだがね」
レイの言葉にカインは目を伏せた。
「『ホライズン』のデータはやっぱりものすごく固くガードされてる。……所員のデータすら取りだせないんです。特定のIDが分からないと入れない」
カインはここに来るまで着てきた服に苦労して手を通しながら答えた。
「盗んで来た所員のIDでもだめだった。これ以上はドクにも迷惑がかかってしまう恐れがあるので諦めました。一度地球に戻らないとどうしようもないけれど、それよりもケイナに抑制装置をつけさせないと……」
「彼らと通信機で連絡を取るわけにはいかないのかね」
レイは言ったがカインはかぶりを振った。
「アシュアは通信機を持っていたけれど、だいぶん前からアクセス不能なんです。あっちで切ってるのか、壊れたのか、それは分からない。だけど彼らは逃げ延びてる。それは分かるんです。どこに逃げたかを知ってるかもしれない人がいる。だから、その人に会います」
カインの頭にはジェニファの姿があった。
ジェニファに渡した通信機は繋がらなかったが、何とかして彼女とコンタクトを取るつもりだった。
「カイン」
ふいに病室にレイの妻のマリアが顔を覗かせた。相変わらず彼女の体は大きい。遠慮がちに部屋に入ってきたが、その巨体はレイとひと回りほども違う。
「おまえ、診察は」
レイが咎めるような口調で言うとマリアは肩をすくめた。
「今、ジュナのほうにしか患者がいないの。トイレに行くフリをして来たわ」
彼女はそう答えるとカインに向き直った。
「怒られるかもしれないけど、これ、持っていって」
マリアの差し出した小さな袋にカインは怪訝な顔をした。受け取ってみると、中に紙幣が入っていた。
「現金はかさ張るかもしれないんだけど、これが一番安全よね……? 持ってって。普段お金は持ち歩いてないでしょう?」
何とも言えない気がした。財閥の息子がお金を持っていない。盗みをはたらき、めぐんでもらおうとしている。
「必ず返しますから」
カインは言った。
「そんなの……」
言いかけるマリアをレイは押しとどめた。カインのプライドを察したのかもしれない。
「もし、トウからの使いが来たら何も知らないを通してください。たぶんここでは手荒なことはしないはずです」
「分かっているよ」
レイは答えた。
「それで、これは大事なものだ。もし、うまく彼に会ってしかるべき治療先が見つかったら渡しなさい。彼の治療計画書だ。ずいぶん昔のものだからうまくいくとは限らんがね。もしどこも受け取り先がなかったらもう一度連絡をしておいで」
レイは小さなディスクをカインに差し出した。最初にトウから渡されたケイナの情報が入ったディスクと同じタイプのものだった。それがなんとも皮肉に思えた。
「急に転がりこんで…… すみませんでした」
カインは荷物をレイが用意してくれた小さなバックに詰め込むと、ふたりに言った。
マリアが心配そうな顔をしながらカインを抱き締めた。
「くれぐれも無理はするなよ。せめて一週間は左腕を使うな」
念を押すレイにカインはうなずいた。
ふたりに促されながら家の外に出ると、レイの息子のジュナが白衣のままで立っていた。
彼は自分の横のヴィルを顎で差した。
「ぼくのヴィルです」
ジュナは言った。
記憶を辿ってもカインは9歳年上のレイの息子と話をした覚えはほとんどなかった。顔もあまり見たことはなかっただろう。
ジュナはマリアそっくりの黒いくせっ毛を少し揺らした。
「ヴィル、いるでしょう? 放置した場所を連絡する気があったらあとで教えてください。取りに行きます。そのままにしてるとまずいから」
「……すみません」
カインは答えた。ジュナは母親ゆずりの大きな目をじろりと向けた。
「カインさん。申し訳ないけれど、ぼくは父や母のようにあなたには好意的ではないから。できればもう父には近づかないでいただきたい」
「ジュナ、やめなさい」
レイが口を挟んだが、ジュナはきかなかった。
「ミズ・リィが最初にカンパニーの仕事を担ったのはかなり若い時期でしたよね。あなたは大切に大切に育てられてそんな強行な試練は受けていない。だけどね、そろそろちゃんと考えたほうがいいんじゃないですか」
「なにを…… おっしゃりたいんですか」
カインはジュナを見つめた。ジュナは肩をすくめた。
「先代のシュウ・リィ氏はTA-601の保障をすべて終えていないですよ。トウ・リィはそれを反古にしている」
「TA-601?」
カインはつぶやいた。
「ジュナ、それはカインぼっちゃんの責任じゃない。やめなさい」
「責任じゃない?」
ジュナは父親の言葉に笑みを浮かべた。
「彼はカンパニーを背負って立つんでしょう? 蝶よ花よで大事にされ過ぎてるからこんな甘ったれ坊主になるんだ。何の苦労もしていない。顔見れば分かりますよ。緊張感の先ほどもない」
これまで黙っていたマリアがジュナに近づいていきなり頬を叩いた。
「もうやめなさい。あなたはカインのこともミズ・リィのことは何も知らないでしょ?」
「知ってますよ」
ジュナは口を歪めた。
「トウ・リィは血も涙もない冷たい女で、カイン・リィはただの頭の足らない子供だ」
「ジュナ!」
ジュナはカインにヴィルのキィを放った。カインはそれを空中で受け止めた。
「認証指示は与えてありますから」
「TA-601って何のことです」
カインの言葉にジュナは鋭い目を向けた。
「自分で調べろ」
彼はそう言うと肩をいからせて家の中に入っていった。カインが戸惑いを隠せない目をレイに向けるとレイは首を振った。
「きみのやろうと決めたことがきちんと終わったらもう一度連絡をしておいで。ミズ・リィは厳しい人だけれど、あいつが言うような人ではないよ。確かに若すぎる年齢であんな大きな組織を担うことになった軋轢はいろいろあったがね」
カインはジュナが投げたヴィルのキイを見つめた。
蝶よ花よで大事にされた甘ったれたお坊っちゃん……。悔しかったが何も言い返せなかった。
「カイン、本当に連絡してきてね。私もレイも、あなたがこんな小さい時から知ってるのよ。頼ってもらって構わないのよ」
マリアは自分の腰より下を手で指し示した。
「ミズ・リィはね、本来免疫力が強いはずのあなたがちょっと熱を出すたんびにおろおろして、なだめるのが大変だったのよ。あの人はあなたを失うことが何より怖いのよ」
カインはマリアに顔を向けず、振り切るようにヴィルのエンジンをかけた。
「ありがとうございます。迷惑かけてほんとにすみません」
カインはそう言うとレイに目を向けた。
レイは手をあげて気にするなというように笑ってみせた。
カインはヴィルを飛び立たせた。
死に至る……。
ドキリとした。ケイナが死ぬ……。
「だが、私が行ったときにはそのスピードを押さえるための治療法はすでに確立されていた。改めて私が出すまでもなかった。意見を求められたが、おそらくこれでいけるんじゃないかという見解は出した。遺伝子治療を行うんだ。あの年齢から始めれば生き残る可能性は90%以上だ。ただ、彼の場合、外界からの刺激で脳の発達は促されていくから、ある程度の遮断をする必要はあった。そうだな、感情を抑制するような機器をつけるか薬品を服用するのは効果的かもしれん。遺伝子治療と外界遮断で、だいたい5年から10年でほぼ正常な体を取り戻すはずだ」
カインの体に震えが走った。赤いピアス…… 感情抑制装置……?
「ドク……」
カインは震える声でレイに言った。
「もし…… もし仮に彼が何も治療をされていなければ、彼の寿命はどれくらいだとドクターは思いますか……」
「治療をされていないと?」
レイは訝しそうにカインを見た。
「そんなはずはない。彼は生きているんだろう? 今いくつくらいになるかな……。そうだ、きみと同じ年じゃないか?」
「ドクター、頼みます、答えてください」
レイは顔をしかめていたが、しばらくして答えた。医者である彼にとって治療をしないなどという行為は考えられないことなのだろう。
「前例がないから何とも言えんがね、18歳か、19歳あたりで何らかの症状は出て来るかもしれんな……」
カインは絶望感を感じた。
18歳のタイムリミット……。やっぱりそうか。
ケイナは…… 治療されていない……。
「ドクターは彼の検査の意味について何も知らされていないんですか?」
カインのすがるような目にレイは困惑した。
「いったいどうしたんだ……」
「ケイナは18歳になったら仮死保存されるという契約を交わされているんです。彼はただデータをとられてただけじゃないかと思うんです。でなければ18歳で彼を仮死保存する必要なんかない。治療すれば治るんでしょう? 死んでは困る。だけど、治癒されても困るんだ……」
カインは身を起こした。
「起きちゃいかん」
レイが押しとどめたが、カインは彼の手をはらいのけた。
「その理由はケイナを保存して第二のケイナを作るとか?」
「そんなばかな」
レイは険しい目を向けた。
「彼の生殖機能検査はプラス5クラスだった。次世代が欲しければきちんと治療して結婚して子供を作ればいいんだ。クローンやコピーは違法だよ」
「人並み外れた知能と運動神経と……」
カインはごくりと唾を飲み込んだ。
「人を殺すことを厭わない人間……」
「なんのことだ」
レイは訝し気にカインを見た。
「確かに彼の発達した脳は優れた知能と運動神経をもたらすがね、人を殺すことを厭わないなど、そんな子には見えなかったよ。もっとも、二ヶ月間、二回の検査といえば日数にすれば三週間ほどだ……。それだけで彼のことのすべてを知るのは不可能だろうが……」
レイはため息をついた。
「仮死保存なんて今初めて聞いた……。彼はそれが厭で逃げ出したのか?」
「ケイナはとっくの昔にそのことを知っていて、諦めてましたよ……」
カインは答えた。
「彼が『ライン』を出たのはセレスを助けたい一心でしょう。彼にとってセレスの存在は特別なんだ……。アシュアがいるからたぶんまだ逃げ延びてる。なんとしても会わないと……」
最後は半ば自分に言い聞かせるような口調だった。
レイは顔を伏せて首を振った。
「最初から知っていれば何とかできたかもしれんがね……。私はてっきり治療のための検査だと思い込んでいたんだ。だから、あとは後任に引き継いだ」
「ケイナの治療法を覚えていますか?」
カインの言葉にレイは彼を見て数回まばたきをした。
「あ、ああ…… もちろん、当時のものなら覚えているよ。ただ、今まで治療をされていないとなると同じ方法では追いつかん」
レイは答えた。
「今、早急にでも抑制装置をつける必要があると思いますか?」
「外部からの刺激はできるだけ脳には与えないほうがいいな。病状が進行する。今なら相当に強い薬なり機器が必要だろう。その上で早急な遺伝子治療が望まれる」
レイはそう言って暗い表情で床に目を落した。
「しかし、間に合うかな……」
「でも、助けないと」
カインはきっぱりと言った。
セレスがそばにいることが抑制装置の代わりになるだろうか。それでもあの赤いピアスは必要かもしれなかった。
「ケイナの治療法を思い出してデータにしてぼくにください。それとここの端末を貸して欲しいんです。できる限り『ホライズン』にアクセスしてみたい」
ベッドから降りようとするカインにレイは慌てた。
「きみは起きるのはまだ無理だよ」
「そんなこと言っていられない!」
カインは小さく怒鳴った。
「一日でも遅くなればケイナは死に近づく! 早く彼らと会わないと!」
早くケイナに会わないと…! 死ぬなんて絶対許さない…。カインは唇を噛んだ。
「ちくしょう…… こんな計画ぶっ潰してやる……」
これまで聞いたこともないカインの荒々しい言葉にレイは眉をひそめて彼を見つめた。
「食糧と小型通信機…… これはしばらく使ったことがないぞ。すまんが銃はわたしには手に入れられん」
数時間後、レイはベッドの上に一式を並べてため息をついた。
「これは薬。腕の傷を早く治したければきちんと飲むんだよ」
「すみません……」
薬の袋を置くレイにカインは詫びた。
「どうしても行くかね。私は今でも反対なんだがね」
レイの言葉にカインは目を伏せた。
「『ホライズン』のデータはやっぱりものすごく固くガードされてる。……所員のデータすら取りだせないんです。特定のIDが分からないと入れない」
カインはここに来るまで着てきた服に苦労して手を通しながら答えた。
「盗んで来た所員のIDでもだめだった。これ以上はドクにも迷惑がかかってしまう恐れがあるので諦めました。一度地球に戻らないとどうしようもないけれど、それよりもケイナに抑制装置をつけさせないと……」
「彼らと通信機で連絡を取るわけにはいかないのかね」
レイは言ったがカインはかぶりを振った。
「アシュアは通信機を持っていたけれど、だいぶん前からアクセス不能なんです。あっちで切ってるのか、壊れたのか、それは分からない。だけど彼らは逃げ延びてる。それは分かるんです。どこに逃げたかを知ってるかもしれない人がいる。だから、その人に会います」
カインの頭にはジェニファの姿があった。
ジェニファに渡した通信機は繋がらなかったが、何とかして彼女とコンタクトを取るつもりだった。
「カイン」
ふいに病室にレイの妻のマリアが顔を覗かせた。相変わらず彼女の体は大きい。遠慮がちに部屋に入ってきたが、その巨体はレイとひと回りほども違う。
「おまえ、診察は」
レイが咎めるような口調で言うとマリアは肩をすくめた。
「今、ジュナのほうにしか患者がいないの。トイレに行くフリをして来たわ」
彼女はそう答えるとカインに向き直った。
「怒られるかもしれないけど、これ、持っていって」
マリアの差し出した小さな袋にカインは怪訝な顔をした。受け取ってみると、中に紙幣が入っていた。
「現金はかさ張るかもしれないんだけど、これが一番安全よね……? 持ってって。普段お金は持ち歩いてないでしょう?」
何とも言えない気がした。財閥の息子がお金を持っていない。盗みをはたらき、めぐんでもらおうとしている。
「必ず返しますから」
カインは言った。
「そんなの……」
言いかけるマリアをレイは押しとどめた。カインのプライドを察したのかもしれない。
「もし、トウからの使いが来たら何も知らないを通してください。たぶんここでは手荒なことはしないはずです」
「分かっているよ」
レイは答えた。
「それで、これは大事なものだ。もし、うまく彼に会ってしかるべき治療先が見つかったら渡しなさい。彼の治療計画書だ。ずいぶん昔のものだからうまくいくとは限らんがね。もしどこも受け取り先がなかったらもう一度連絡をしておいで」
レイは小さなディスクをカインに差し出した。最初にトウから渡されたケイナの情報が入ったディスクと同じタイプのものだった。それがなんとも皮肉に思えた。
「急に転がりこんで…… すみませんでした」
カインは荷物をレイが用意してくれた小さなバックに詰め込むと、ふたりに言った。
マリアが心配そうな顔をしながらカインを抱き締めた。
「くれぐれも無理はするなよ。せめて一週間は左腕を使うな」
念を押すレイにカインはうなずいた。
ふたりに促されながら家の外に出ると、レイの息子のジュナが白衣のままで立っていた。
彼は自分の横のヴィルを顎で差した。
「ぼくのヴィルです」
ジュナは言った。
記憶を辿ってもカインは9歳年上のレイの息子と話をした覚えはほとんどなかった。顔もあまり見たことはなかっただろう。
ジュナはマリアそっくりの黒いくせっ毛を少し揺らした。
「ヴィル、いるでしょう? 放置した場所を連絡する気があったらあとで教えてください。取りに行きます。そのままにしてるとまずいから」
「……すみません」
カインは答えた。ジュナは母親ゆずりの大きな目をじろりと向けた。
「カインさん。申し訳ないけれど、ぼくは父や母のようにあなたには好意的ではないから。できればもう父には近づかないでいただきたい」
「ジュナ、やめなさい」
レイが口を挟んだが、ジュナはきかなかった。
「ミズ・リィが最初にカンパニーの仕事を担ったのはかなり若い時期でしたよね。あなたは大切に大切に育てられてそんな強行な試練は受けていない。だけどね、そろそろちゃんと考えたほうがいいんじゃないですか」
「なにを…… おっしゃりたいんですか」
カインはジュナを見つめた。ジュナは肩をすくめた。
「先代のシュウ・リィ氏はTA-601の保障をすべて終えていないですよ。トウ・リィはそれを反古にしている」
「TA-601?」
カインはつぶやいた。
「ジュナ、それはカインぼっちゃんの責任じゃない。やめなさい」
「責任じゃない?」
ジュナは父親の言葉に笑みを浮かべた。
「彼はカンパニーを背負って立つんでしょう? 蝶よ花よで大事にされ過ぎてるからこんな甘ったれ坊主になるんだ。何の苦労もしていない。顔見れば分かりますよ。緊張感の先ほどもない」
これまで黙っていたマリアがジュナに近づいていきなり頬を叩いた。
「もうやめなさい。あなたはカインのこともミズ・リィのことは何も知らないでしょ?」
「知ってますよ」
ジュナは口を歪めた。
「トウ・リィは血も涙もない冷たい女で、カイン・リィはただの頭の足らない子供だ」
「ジュナ!」
ジュナはカインにヴィルのキィを放った。カインはそれを空中で受け止めた。
「認証指示は与えてありますから」
「TA-601って何のことです」
カインの言葉にジュナは鋭い目を向けた。
「自分で調べろ」
彼はそう言うと肩をいからせて家の中に入っていった。カインが戸惑いを隠せない目をレイに向けるとレイは首を振った。
「きみのやろうと決めたことがきちんと終わったらもう一度連絡をしておいで。ミズ・リィは厳しい人だけれど、あいつが言うような人ではないよ。確かに若すぎる年齢であんな大きな組織を担うことになった軋轢はいろいろあったがね」
カインはジュナが投げたヴィルのキイを見つめた。
蝶よ花よで大事にされた甘ったれたお坊っちゃん……。悔しかったが何も言い返せなかった。
「カイン、本当に連絡してきてね。私もレイも、あなたがこんな小さい時から知ってるのよ。頼ってもらって構わないのよ」
マリアは自分の腰より下を手で指し示した。
「ミズ・リィはね、本来免疫力が強いはずのあなたがちょっと熱を出すたんびにおろおろして、なだめるのが大変だったのよ。あの人はあなたを失うことが何より怖いのよ」
カインはマリアに顔を向けず、振り切るようにヴィルのエンジンをかけた。
「ありがとうございます。迷惑かけてほんとにすみません」
カインはそう言うとレイに目を向けた。
レイは手をあげて気にするなというように笑ってみせた。
カインはヴィルを飛び立たせた。