ケイナの顔は恐ろしいほど平静で全く無表情だった。
「トリ、ちょっと休ませてやってくれないか」
アシュアが口を挟んだ。
「セレスが…… やばそうだ……」
セレスは顔色を青くしてかすかに震えていた。無理もない。自分と同じ緑色の髪と目の者の話なのだから。
「だ、だいじょうぶだよ……」
セレスは引きつった笑みを浮かべてアシュアを見た。
「そ、それより…… おれ、よく、ここに来れたなって思う…… みんな、おれのこと怖がってるんじゃないの?」
「ぼくが招き入れたんだから、大丈夫だと安心しているんだよ」
トリは気づかうように言った。
「で、でも、おれ…… おれはもしかしたらその…… グリーン・アイズかもしれないんじゃないの? ある日いきなり人を殺すことしか考えないように……」
トリは息を吐いて首を振った。
「ぼくには予見の能力があるけれど、今のきみとケイナを見ても何の警告も感じられない。昔の…… あの時のケイナはもっと禍々しさがあった。そばに近づいただけでぼくは肌が切れそうだった。毎日ケイナの悪夢を食べるのはものすごく体力のいることだったんです。でも、今のケイナにはそれがない。もちろん、セレス、きみにも何の負の力も感じないんだ」
「トリ…… マレークは…… どうして死んだ?」
ふいに口を開いたケイナの言葉にアシュアとセレスはぎょっとしてケイナを見た。
ケイナは無表情のまま床を見つめている。
「彼が生きているんなら…… 日記は見られないはずだろ……」
トリは辛そうに目を伏せた。
「ケイナ、きみが彼を殺した」
「トリ!」
アシュアは思わず口を挟んだ。
「大丈夫だよ」
トリはアシュアに言った。
「でも……」
アシュアはケイナがまだ暴走するのではと不安を覚えていたが、渋々口をつぐんだ。
「ぼくの父親のユードは機械を扱うのは得意だったけど、あんまり深くものを考えない人でね。余計なことばかりするんだ。人づきあいが下手だったのかな……。マークが時々父のやることにいろいろ困っているのを幼いながらもぼくは知っていた。剣をリアとケイナに与えたこともマークはかなりうっとうしく思っていたと思うよ。だけど、あんなことになったからって、父が作った剣を無碍に捨てることがマークにはできなかったみたいだ。父は手先が器用だったからね。剣の柄にも一生懸命細かい紋様を彫り込んで、リアにはピカピカに磨いた黒い石を、ケイナの剣には白い石をはめこんでやっていた。父なりの愛情だったんだ。マークにもそれは分かっていたんだろう。
彼はリールをしとめたその剣をずっとケイナの目の届かないところに置いていた。でも、ひょんなことからケイナはそれを見つけてしまったんだ。
剣を見た途端、ケイナはリールをしとめたときの高揚感を再び味わいたくなり、剣を持ったままテントの外に出た。そのまま獲物を探し始めたんだ」
セレスはケイナをちらりと見遣ったが、やはり彼は無表情のままだった。
しかし、その手がかすかに震えているのをアシュアもセレスも見てとった。右手で包帯を巻いた左手を掴んでいる。
そうだ、ケイナはアルのコテージで自分を押さえるためにこの手を傷つけた。
まさかまだケイナの中の邪悪な部分が出て来そうなのだろうか。
アシュアは眉を潜めた。トリの話をここで打ち切ったほうがいいのではないだろうか。
アシュアの不安をよそに、トリはそのまま話を続けた。
「早朝で…… まだ、誰も目覚めていなかった。ぼくは隣に寝ていたからケイナがいないことにいち早く気づき、マークを起こしてきみを探しに出た。そして最初に見つけたきみの獲物は…… ぼくだったんだ。
きみはぼくの姿を見つけて目を輝かせて剣を振りかざした。差し込んだ日の光に金色の髪を輝かせて……。きみの姿は美しくて…… 恐ろしかった……。ぼくはとてつもなく大声で叫んでいたみたいだ。声を聞きつけてマークが駆けつけ、ぼくが目を閉じて自分の命の終わりを覚悟したとき、剣の切っ先は彼の胸を貫いていた……」
トリは当時のことを思い出しているのか、うつむいた顔がかすかに青ざめていた。
「マークはぼくときみの間に立ちはだかって剣を体で受けていた。彼の後ろにいて、ぼくは彼の背中から見えている剣の切っ先から、彼の血がぽたぽたと垂れて足元の草を真っ赤に染めていくのを見ていた……。
マークは貫かれたまま最後の力を振り絞ってきみを抱き締めるとそのまま地面に倒れた。ぼくはきみの顔を見た。きみは全くの無表情だった……。足元のマークを見て、きみはひとことぽつりとつぶやいたんだ。『あっけない』と……」
トリは数回まばたきをして少しためらうような表情をし、そして続けた。
「それを聞いたとき、ぼくは全身の血が逆流したような気持ちになったんだ……。
ぼくは叫んでいた。『闇の淵へ落ちろ、ケイナ』と……。ケイナ、きみは無へ。二度と目覚めることなかれ……!」
「いっ…… つっ……」
ケイナがいきなり頭を押さえて椅子の上で体を折った。
アシュアががたんと立ち上がり、セレスは慌ててケイナを庇うように腕を彼の背に回した。
トリははっとしたように瞬きした。
「し…… 失礼…… 少し波を飛ばしてしまったかも……」
ケイナはすぐに身を起こすと、肩で息をついてトリを少し睨みつけた。
「申し訳ない…… 大丈夫かい?」
トリはすまなさそうにケイナを見た。ケイナはうなずいた。
この男、なんか妙な力を持っている。
カインも同じ予見の力を持っているのに、こんな危うい能力はなかった。
この男は危険かもしれない……。アシュアは思った。
「きみはその場に崩れ折れ、そしてぼくも意識を失った」
トリは話を続けた。
「あのときのグリーン・アイズは娘が葬った。本来なら同じグリーン・アイズでしか封じ込められなかったはずのきみの力を封じ込めたのは単に幸運だったからなのか、それともきみが金髪碧眼で、純粋にグリーン・アイズじゃなかったからなのか…… それは分からない……。
でも、自分に出せるすべての力を出し切ったぼくはしばらく廃人のようになった。きみは昏睡状態に陥っていたけれど、もし目覚めたらもうぼくにはきみを封じ込める力は残っていなかった。
それでも数か月間、きみは意識を失ったままで…… そしてある日、軍が私たちにコンタクトを取ってきたんです」
「ケイナを手放す決心をしたのか……」
アシュアの問いにトリはうなずいた。
「そうするしかなかった……。そうするしかなかったんです……」
アシュアは気づかわしげにケイナの顔を見た。ケイナは黙って目を伏せている。
その横顔からは何を考えているかは分からなかった。
「そんな忌まわしい記憶を作ったのに…… どうして……」
しばらくしてケイナは目を伏せたままつぶやいた。
トリはケイナを見つめて言った。
「きみの心はからっぽで……」
ケイナは思わずトリの顔を見た。
「からっぽっていうのは、何も考えていないのとは違うんだよ……」
トリは静かに言った。ケイナは戸惑ったように目を伏せた。
トリはアシュアとセレスを指差した。
「彼と、彼」
トリは笑みを浮かべた。
「きみの中にはふたりのことしかなくて…… 助けなくちゃ、助けなくちゃって、そればっかりで……」
アシュアが顔を伏せた。
ケイナ、おまえ……。
「ケイナ、ノマドは後悔をしている……。きみにだけじゃない。67年前のあのグリーン・アイズのときから、ずっと。……ぼくがどうしてコリュボスに来たか、分かりますか」
ケイナは黙ってトリを見つめた。
「本当にきみが来るかどうか、運命が本当にそのとおりに動くのかどうか、それを確かめるために1年かかった」
トリはケイナを見つめ返した。
「ぼくらはもう沈黙しない。ケイナ、ぼくらはきみを迎え、助ける。今度はもう諦めない」
トリは服の下から小さなディスクを一枚取り出した。
「これ、見せようか見せまいか、迷ったんだ……」
トリはためらいがちに言った。
「マレークは恥ずかしがりやというか…… 自分の姿を映像に残すことをひどく嫌がったんだ。人間は死んだら土に還る。自分の望みはこの星と一体になってこの星の養分となり命の一部分になることだって。そんなことを時々言ってた。生きているときの姿をいつまでも残すことは悔やみを残すことになるからって……。日記も最終的には誰にも見せるつもりはなかったんだろうね……」
トリは笑みを浮かべた。
「例のごとく、ぼくの父がいらぬお世話をしたんだよ……。マレークがさっきの日記以外で自分の姿を残したのはこれが最初で最後だった」
トリはディスクをレコーダーに入れた。
しばらくして金色の髪の小さな男の子が目の前に立ち、ケイナがぎょっとしたようにかすかに身をこわばらせた。
「ケイナだ……」
セレスがつぶやいた。
4歳くらいのケイナだろうか。頬を上気させている。誰もがケイナを見て幸せになったというのが分かるような気がした。目の前に立つケイナは幼く、あどけなく、その笑みは輝かんばかりだ。
『お父さん! お父さん!』
ケイナは呼んだ。続いて優し気な女性があらわれると、ケイナの髪についていた木の葉のくずを指でつまんで下に落した。
『マーマ!!』
ケイナは彼女に抱きつくと頬にキスをした。女性はきっとユサだ。豊かな黒い髪を太い三つ編みに編んで背に垂らしていた。
『ケイナ、お父さんは恥ずかしがりやね……』
彼女は幼いケイナを抱いてくすくす笑った。
『おとうさん、お帰りなさいをしようよ!』
ケイナが叫んだ。
「やめ……」
セレスは横にいたケイナがかすかにつぶやいたように思った。
しばらくして渋面をしてマレークが現れた。
『おとうさん、お帰りなさいをしようよ!』
再び幼いケイナが叫んだ。
「やめて…… くれないか……」
セレスが目を向けると、ケイナは両手を握りしめていた。
マレークは少し恨みっぽい目をこちらに向けた。
『ユード、きみはほんとに……』
『マーク』
ユサがたしなめた。マレークは目をしばたたせると口をつぐんだ。目の前の3人が抱き合った。
ケイナががたんと立ち上がった。
「やめろって言ってんだろ!!」
まん中のケイナにユサとマレークは両側からキスをした。
『おかえりー!』
幼いケイナの高い声が響き、ケイナは荒々しくテントから出ていった。
「ケイナ!」
セレスが追おうとするのをトリが引き止めた。
「ぼくが行くよ…… きみたちはテントに戻っていて……」
セレスはためらったが、不安な顔をしながらもうなずいた。
トリは急いでテントを出てケイナを追った。そして早足で歩いて行く彼の腕を掴んだ。
「きみは足が速いね……」
「気安く触るな!」
ケイナは振り向きざまにトリの手を振り払った。
「見せようかどうかと迷うんなら、見せるな。こんな人たちを…… おれが殺したのだと、そう思わせたいのならもう充分だろ! これ以上……」
「ユサはまだ生きてるよ。地球にいる」
ケイナの声を遮ってトリは言った。ケイナははっとしてトリを見つめた。
「リアと一緒で、あの事件のことだけはごっそり記憶を封印してる…… でも、彼女は生きてる。マレークは病気で死んだと彼女は思ってるはずだ……」
ケイナの目に戸惑いの色が浮んだ。
「思い出して欲しかったんだ」
トリは言った。
トリは一枚の紙をとりだしてケイナに突き出した。
「殴られるかな……」
トリは笑った。
「例のごとく、ぼくの父のおせっかいだ。きみたち家族を映像にとって出力した」
ケイナは紙に目を向けた。ユサとマレークと幼い頃の自分が写っている。下に華奢な文字で『お帰り、ケイナ』と書いてあった。
「マレークの字だよ……」
トリは言った。
「マレークは几帳面な字を書いた……。彼はこの言葉が気に入ってくれてたんだ。ぼくらにはね、こんにちはや、いってらっしゃいや、おめでとうより大切な言葉があるんだよ」
ケイナはもう聞きたくない、というように顔をそらせた。
「ぼくらはもっと早く決心するべきだったのかもしれない。ぼくにもっと確固とした予見の力があれば、きみを早く迎えに行けたのかもしれない。自責の念に駆られているのはぼくらのほうだよ」
ケイナの苛立たしそうな表情は変わらなかった。
「すまなかった、ケイナ…… ずっとひとりだと思っていたんだろうね……」
震える息をがケイナの口元から漏れた。
「誰も来ないから泣いてもいいよ」
トリは笑って言った。
「今ここで泣いておかないと、後悔するよ。これから勝負するんだから」
ケイナはトリから目をそらせたままだ。
「きみはもう分かってるんだろ。ぼくはごっそり遺伝子分析の機器をこっちに運んでる。セレスときみを助けるよ」
「マレークは…… おれを連れて来たことを後悔しただろうか……」
ケイナはつぶやいた。
「まさか」
トリは答えた。
「最期まで、マレークの心にはきみへの愛情しかなかった。ぼくはそれを感じたから、あのとき全部の力を使ってきみを封印したんだ……」
ケイナは思わず自分の口を押さえた。漏れそうになる声をこらえるかのようだった。
「お帰り…… ケイナ」
トリはそんなケイナを見て言った。
ケイナの目から大粒の涙が地面に落ちた。
テントに戻って来たときケイナは平静を取り戻していた。
セレスはケイナの顔を覗き込んだ。
「大丈夫? ケイナ」
ケイナは怒ったような顔で何も答えなかった。
「鼻の頭、赤い」
アシュアがにやにやしながら言ったので、ケイナは思わず自分の鼻先に手を触れかけて彼を睨みつけた。
「おれたちの前でも平気で泣けるようになってくれると嬉しいんだけどな」
「うるせえ!」
ケイナはそう怒鳴ると再びテントの外に出て行ってしまった。
「おまえは大丈夫か?」
アシュアはセレスに尋ねた。セレスは少し笑みを浮かべてうなずいた。
「まだよく分からないんだ……。ショックのような実感ないような……。これから少しずつトリが話してくれるんだろうけど…… 大丈夫だよ。ここに来たらいいふうにいくような気がする。『ノマド』はきっとおれたちの味方になってくれるよ」
「そうだと…… いいな」
アシュアはうなずいた。
日が暮れて森の中は闇に包まれた。
3人は用意してあった食事をつついたが、いつもはたくさん食べるアシュアも疲れ切ったような感じであまり食欲がなさそうだった。彼は食事を取るとさっさとベッドに潜り込んだ。
「アシュア、体流さないの」
セレスは言ったが、アシュアは毛布の影から手をひらひら振った。
「んん、明日の朝……」
アシュアは昨日もそのままだったはずだ。
「ほっとけ」
どうしよう、という顔でケイナを見ると、彼は不機嫌そうな顔でそう突っぱねた。
セレスはまんじりともしないでベッドの上でテントの頂点を見つめていた。
アシュアは高いびきをかいている。ケイナも眠ったかもしれない。
今日はとても疲れただろう。
辛かっただろうな……。
『グリーン・アイズ』というのはみんなあのような運命を辿るのだろうか。
ケイナがもし『グリーン・アイズ』の血を引いているとすれば、ケイナの暴走体は『グリーン・アイズ』の血から来たものだったのだろうか。
じゃあ、自分は? おれもいずれは暴走体に乗っ取られてしまうんだろうか……。
自分を愛してくれた人や、好きな人も誰かれ構わず殺そうとしてしまうんだろうか。
いや、もし、おれが『グリーン・アイズ』だとしたら、兄さんや、父さんや母さんはいったい誰?
考えても、考えても何の結論も出なかった。
無理に目を閉じてみたが、やはりとても眠れそうになかった。
ゆうべも眠っていないのに……。
ふいに、隣のベッドで眠っているはずのケイナが身を起こしてベッドから出る気配を感じた。
暗闇の向こうでケイナはテーブルに近づき、どうやら水を飲もうとしているらしかった。
「ケイナ」
セレスはアシュアを起こさないように小声でケイナに声をかけた。
「なんだ…… 起きてたのか……」
少しびっくりしたような声が聞こえた。
「なんだか全然眠れないんだ」
セレスは言った。
「おまえ、ゆうべも眠ってないだろう」
ケイナはそう言ってしばらく躊躇するように沈黙してから再び口を開いた。
「おれ、外に行こうかと思ってるんだけど……」
その言葉を待っていたようにセレスは起き上がった。
テントの外はぽつんぽつんと小さな焚火がいくつかあるだけで静まり返っていた。
みんな眠っているのだろう。。
「アシュアは、いつどんな時でも眠れるんだね」
セレスはテントを振り返って言った。
「だから、おれたちはアシュアに助けてもらえるんだよ」
ケイナは答えた。セレスはうなずいた。
確かにそうだった。眠れるときにアシュアが眠ってくれるからこそケイナをおぶってここまで来れたし、どんなときでも彼はどっしりと構えていてくれる。
たとえケイナがいたとしてもアシュアがいなかったらできなかったことは多い。
ふたりはテントの間をぬい、森の中へ入っていった。
「ケイナ……」
セレスはためらいがちに声をかけた。
「おれたちっていったい何だろう……」
「さあ……」
ケイナはつぶやいた。
「トリは遺伝子分析の機器をごっそりこっちに持って来てるって言ってた。それだったらいろいろ分かると思う」
「遺伝子分析?」
セレスはびっくりしたようにケイナを見た。ケイナは歩きながら髪をかきあげた。
「おれは小さい頃から定期的にカンパニーで検査をされていて、検査の目的は全く知らされていなかった。血液を取ったり、脳波を調べたり、いちいち運動能力を測定されたり…… おれひとりのそんなことを調べまくっていったい何の得があるのかと思っていたけど…… もともとあいつらはそういう目的でおれを作ったんだろうな……」
「作ったって…… どういうこと?」
「それを今から調べるんだろ」
ケイナは仏頂面で答えた。
「調べたら何が分かるの?」
ケイナはセレスをちらりと見たが、何も言わなかった。
「こっちにきれいな池があったよ。」
セレスは昼間行った池のほうを指差した。ふたりはそちらに向かって歩き始めた。
池に着くとケイナは水辺に近づいて手をつけた。
「地下の動力で水温が高いんだな……」
彼は言った。
「地下の動力?」
セレスは目を丸くした。
「『コリュボス』は地下に衛星維持の動力設備を埋め込んでるんだ。適当に作った地形なんだろうけど、たぶん、ここは地下の余った熱量を放熱するための池なんだろう。放熱と飲料用と…… 前に行った湖も半分はその理由からだ。昼間だったら泳ぐけど夜はごめんだ」
ケイナがそう言ったので、セレスはくすくす笑った。
「ケイナはほんとに水が好きなんだね」
「水を飲んだり、水につかってるとほっとするんだ……」
ケイナは草の上に腰をおろすと、仰向けに寝転がって答えた。
「ふうん……」
セレスもケイナの隣に腰をおろした。
「ねえ」
セレスはためらいがちに言った。
「おれも、前の『グリーン・アイズ』のようになると思う?」
「トリはもうおれたちには負の力はないって言ってただろ」
ケイナは答えた。
「でも、ケイナも暴走体を持ってただろ? 同じ『グリーン・アイズ』の血を引いているなら、おれだって……」
「そのときには今度はおれがおまえの中に入って暴走体と戦ってやるよ」
ケイナは空を見つめたままつぶやくように答えた。
「ケイナが?」
セレスは目を丸くした。ケイナはそれを見てかすかに笑みを浮かべた。
「おまえがそうしておれを助けてくれたんだ。今度はおれが助ける」
セレスはまじまじとケイナの顔を見た。
「なんだよ……」
ケイナは顔を赤らめるとセレスを睨んで目を反らせた。
「ケイナが、そんなふうに言ってくれるなんて思わなかった……」
セレスは言った。
「なんか…… 嬉しいや。ケイナがそばにいてくれて良かった。ちょっと安心したよ」
ふいにケイナは身を起こすと髪をかきあげた。戸惑ったような表情をしている。その顔を見てセレスは言った。
「ケイナ、さっきのマレークの日記を見て、いろいろ思い出した?」
ケイナはかぶりを振った。
「漠然と…… 楽しかった頃の記憶はあるけれど…… トリとリアやマレークのことは全然覚えていない……。きっと、記憶を消されてるんだろ……」
「全く、何も?」
「『ノマド』の…… 慣習で…… ひとつだけ…… 思い出した」
ケイナは膝を抱えた。
「お帰りって…… 言うんだ……。誕生日とか、嬉しいときとか、ほかの挨拶の言葉は普通に使うこともあるんだけど、大切な人や大切なときに…… お帰りって…… 言うんだ……」
「……いい言葉だね」
セレスはうなずいた。
「だからあのときお帰りって言ってたんだ……」
ケイナは目をしばたたせた。
「さっき、やっぱり泣いてた?」
セレスが悪戯っぽく言ったのでケイナが険しい目を向けて何かを言おうとしたとき、ふいにふたりは背後に気配を感じて振り向いた。
「なにしてるの? こんな時間に」
リアがふたりを見てびっくりしたような顔で立っていた。
「リアこそ……」
セレスは不思議そうにリアを見つめた。
「あたし?」
リアは肩の髪を後ろにぱさりと投げた。
「水浴びしに来たの。あんたたちも水浴び?」
そう言うとリアが平気で衣を脱ぎはじめたのでセレスは度胆を抜かれた。
「リ、リア!」
セレスが素頓狂な声をあげたので、リアはさらに怪訝な顔をした。
「嫌ならあっち行ってよ。ここじゃみんなこんなもんよ」
リアはくすくす笑った。
「全部脱ぐわけないじゃない。あんたたちも泳いだら? 気分が晴れるわよ」
リアは薄い衣を一枚だけ残すとさっさと水の中に飛び込んでいった。
しかし剣は腰につけたままだ。
「かたときも剣を離さねえ……」
ケイナは呆れたようにつぶやいてリアを見つめた。
「おいでよ! セレス、あんた泳げるでしょ?!」
リアはすぐに池の一番深いまん中あたりまで泳いでいくと、ふたりに手を振ってみせた。
「ケイナ、テントに戻ろう」
セレスは言った。ケイナはうなずいて立ち上がった。
「なによ、面白くないったらありゃしない……」
リアが悪態をつくのが聞こえたが、ふたりは知らん顔をして池のそばから立ち去ろうと背を向けた。
「ケイナ!」
リアが叫ぶのが聞こえた。
「昔は一緒に泳いだりしたじゃない! ねえってば…… あっ…… ぐっ……」
ケイナがはっとしたように振り向いた。セレスも彼女の声の異変に気づいて池に顔を向けた。
さっきまであったはずのリアの姿がない。彼女がいたとおぼしきところに水の輪が広がっていた。
「あれ?……」
セレスが何があったかを理解するより早く、ケイナは池に走り寄るとあっという間に飛び込んでいた。
ケイナは池の中心あたりまで泳ぐと大きく息を吸って水の中に潜っていった。
岸から見た感じでも中心あたりはかなり深かったはずだ。リアでも背は立たないだろう。
セレスは息を詰めてふたりが水面にあがってくるのを待った。
しばらくしてケイナがリアの頭を抱きかかえて浮かび上がってきた。
岸まで泳いできたので、セレスは水に漬かりながらリアの体をケイナから受け取って引き上げた。
リアは意識はしっかりしていたが顔をしかめている。咳をして少し水を吐いた。
「水、飲んだ? 大丈夫?」
セレスがリアの背をさすった。
「足が痙攣したのか?」
セレスはリアが右足を押さえるのを見て言った。
「もう、いやんなっちゃう……」
リアは髪からしずくを垂らしながらつぶやいた。
「足、見せてみろ。」
ケイナはずぶぬれでリアに近づくと、彼女の足に手をかけた。リアの白い足が剥き出しになって、セレスは思わず目を反らせた。
「虫に刺されたのか……? いつのだ、これ……」
ケイナはリアのふくらはぎの裏に赤く腫れた点を見つけてつぶやいた。直径が4センチほどにふくれあがっている。
「ゆうべ、あんたたちを迎えに行くのに森に入ったときかもしれない……。虫避けの薬を塗るのを忘れたの」
リアは濡れて顔に貼りつく髪を後ろにかきあげながら答えた。
「わたし、足は痛みを感じる神経が足りないのよ」
セレスははっとしてまじまじとリアを見た。リアはそんなセレスを見て笑った。
「指は熱を感じないの。でも、同情なんかしないでね。わたしは不自由を感じたことなんかないんだから。時々こんなふうに思うようにならなくて悔しいだけよ」
そして彼女は髪の先からしずくを垂らすケイナを見上げた。
「小さいときはケイナがよく庇ってくれてたのよね……」
セレスはケイナの顔を見た。ケイナは黙ってリアを見つめていたが、やがて立ち上がると言った。
「とりあえず、テントに戻ろう」
そしてリアに手を差し出したが、リアは首を振った。
「ひとりで帰れるわ」
彼女は少しよろめきながら立ち上がると、脱ぎ散らかした服をとりあげようとしたが、案の定、腫れた足がうまく動かずよろめいた。
そばにいたセレスが慌てて手を伸ばしたが、リアの柔らかい胸が腕に触れたのでセレスはみるみる顔を赤くした。かすかに彼女の髪から立ちのぼる花の香気が鼻をくすぐる。
ケイナはため息をつくとリアの体に手を回して軽々と彼女を抱き上げた。
「セレス、リアの服を持ってやって」
ケイナがそう言ったので、セレスはリアの服を拾い集め、リアを抱いて歩き始めたケイナのあとに続いた。
リアはケイナの首に手を回してしがみついている。
自分で歩けるって拒否していたくせに、ケイナが抱いてくれるとしがみつくんだ……。
ケイナの肩に頭をもたせかけているリアの姿を見ながら、セレスは妙な気持ちにとらわれていた。
何だろう、この気持ち……。なんだか今すぐにでもリアをケイナの腕から引き摺り下ろしたいような気分だ。
セレスは思わず首を振った。そして自己嫌悪に陥った。
(おれ、どうかしてる……)
トリのいるテントにリアを連れていくと、トリは丁重にふたりに礼を言った。
「ちょっと彼女に意識をそんなに向けられなかったもので……」
トリはリアをケイナから受け取るともう一度礼を言ってテントに入っていった。
セレスとケイナはそれを確かめて自分たちのテントに向かった。
途中でケイナが小さなくしゃみをひとつした。
「大丈夫? 風邪ひいたんじゃない?」
セレスが言うと、ケイナは肩をすくめた。
「風邪なんかひかねえよ。昔から免疫力が普通と違うんだ」
それを聞いてセレスは笑った。 そしてためらいがちにケイナに言った。
「ねえ、ケイナ。リアがあんなふうだったって知ってた?」
「あんなふうって……?」
風邪はひかないと言いながら、ケイナは鼻をすすりながらセレスを見た。
「リアの足のことや手のこと」
「覚えてるわけねえだろ」
ケイナは即座に言い放った。セレスはまだ何か言い足りなく思えたが口をつぐんだ。
言えば言うほど不本意なことを口にしてしまいそうだった。
女の人って、あんなふうに柔らかくていい匂いがするものなんだ……。
セレスはリアを抱きとめたときのことを思い出していた。
リアは美人だし、頭も良さそうだ。
ケイナだって男だ。あんなリアを抱いていったいどんな気持ちなんだろう。
ケイナの顔を見たが彼の表情からは何も感じ取れなかった。
フィメール……。
ふと思い出した。夢の中でケイナはそう言った。
自分にもフィメールの部分があると。
この目の前のケイナはそのことを知っているんだろうか。
セレスは自分の腕や足を眺めた。おれ、やっぱりどう見ても女じゃないんだけど……
「腕がどうかしたのか?」
それに気づいてケイナが言ったので、セレスははっとして顔を赤くした。
「あ、いや、なんでも……」
どぎまぎしながら答えるセレスをケイナは不審そうにしばらく見つめていたが、テントに入る前に今度は大きなくしゃみをした。
『いくら人とは違っても、ケイナも人間だから……』
セレスは思った。
その頃、トリはリアの足に薬を塗ってやっていた。
「すまなかったね。ちゃんと見てやれなかった」
「兄さんのせいじゃないわ。わたしが薬を塗っておかなかったからいけないのよ」
リアは答えた。
「リア」
薬を塗り終えて、トリはリアの顔を見上げた。
「ケイナはおまえのことは覚えていないよ。もし思い出しても、そばにいるのはもうおまえじゃない。あの子には太刀打ちできないよ」
リアの顔がみるみる苦痛に歪んだ。
「どうしてよ…… どうしてそんなこと言うの……」
「リア……」
トリは辛そうにリアを見つめた。
「ケイナが帰ってくるって言ったのは兄さんよ。それなのに、どうして今ごろそんなこと言うの」
「ぼくにだって全部が全部見えるわけじゃないよ。ケイナがあの子を連れて帰るまでは分からなかった」
「悔しいわ。あの子のことになるとケイナは本当に敵でも見るような目でわたしを見るわ」
「それはおまえが不用意に剣を向けるからだ」
「わたしがずっとケイナのそばにいたのよ。ずっとずっとケイナのそばにいるって決めていたのよ。ふたりでいつも抱き合って眠ってたのよ。それをどうして……」
「おまえが記憶にとどめている彼からすでに11年もたっているんだ。子供の頃のようなわけにはいかない」
「そんなことないわ!」
リアは叫んだ。
「わたしはケイナが好きよ! ケイナも好きだって言ってくれてたわ。そのことを忘れてるはずがないわ。あんな子が何なの! 頭が悪そうな子供じゃないの!」
トリはため息をついてリアを見つめた。
何をどう言ってもリアは決して納得しないだろう。
ケイナがいない間も彼女がずっとケイナのことを考えつづけていたのは知っていた。
でも、リアはケイナに関する記憶を一部消されたままだ。
ケイナのことを神聖化し過ぎている。何だろう、この意固地さは。何かを認めたくないような意固地さだ。
同じ双児のせいなのか、リアの心の深淵だけはトリにもどうしても読めない部分があった。
どうすればいいのかまだ判断できなかった。
ただ、彼女の存在がケイナの重荷にならなければいいが、と思った。
「これは例えだよ。堅い頭蓋骨が割れるなんてことはもちろんない。しかし人間は脳ばかりが成長を遂げてもバランスはとれない。増える神経伝達は類い稀な運動能力や感覚を作るだろう。しかし、脳は人の心も司る。バランスを失った体と心でいずれ彼は死に至るのは目に見えていた」
死に至る……。
ドキリとした。ケイナが死ぬ……。
「だが、私が行ったときにはそのスピードを押さえるための治療法はすでに確立されていた。改めて私が出すまでもなかった。意見を求められたが、おそらくこれでいけるんじゃないかという見解は出した。遺伝子治療を行うんだ。あの年齢から始めれば生き残る可能性は90%以上だ。ただ、彼の場合、外界からの刺激で脳の発達は促されていくから、ある程度の遮断をする必要はあった。そうだな、感情を抑制するような機器をつけるか薬品を服用するのは効果的かもしれん。遺伝子治療と外界遮断で、だいたい5年から10年でほぼ正常な体を取り戻すはずだ」
カインの体に震えが走った。赤いピアス…… 感情抑制装置……?
「ドク……」
カインは震える声でレイに言った。
「もし…… もし仮に彼が何も治療をされていなければ、彼の寿命はどれくらいだとドクターは思いますか……」
「治療をされていないと?」
レイは訝しそうにカインを見た。
「そんなはずはない。彼は生きているんだろう? 今いくつくらいになるかな……。そうだ、きみと同じ年じゃないか?」
「ドクター、頼みます、答えてください」
レイは顔をしかめていたが、しばらくして答えた。医者である彼にとって治療をしないなどという行為は考えられないことなのだろう。
「前例がないから何とも言えんがね、18歳か、19歳あたりで何らかの症状は出て来るかもしれんな……」
カインは絶望感を感じた。
18歳のタイムリミット……。やっぱりそうか。
ケイナは…… 治療されていない……。
「ドクターは彼の検査の意味について何も知らされていないんですか?」
カインのすがるような目にレイは困惑した。
「いったいどうしたんだ……」
「ケイナは18歳になったら仮死保存されるという契約を交わされているんです。彼はただデータをとられてただけじゃないかと思うんです。でなければ18歳で彼を仮死保存する必要なんかない。治療すれば治るんでしょう? 死んでは困る。だけど、治癒されても困るんだ……」
カインは身を起こした。
「起きちゃいかん」
レイが押しとどめたが、カインは彼の手をはらいのけた。
「その理由はケイナを保存して第二のケイナを作るとか?」
「そんなばかな」
レイは険しい目を向けた。
「彼の生殖機能検査はプラス5クラスだった。次世代が欲しければきちんと治療して結婚して子供を作ればいいんだ。クローンやコピーは違法だよ」
「人並み外れた知能と運動神経と……」
カインはごくりと唾を飲み込んだ。
「人を殺すことを厭わない人間……」
「なんのことだ」
レイは訝し気にカインを見た。
「確かに彼の発達した脳は優れた知能と運動神経をもたらすがね、人を殺すことを厭わないなど、そんな子には見えなかったよ。もっとも、二ヶ月間、二回の検査といえば日数にすれば三週間ほどだ……。それだけで彼のことのすべてを知るのは不可能だろうが……」
レイはため息をついた。
「仮死保存なんて今初めて聞いた……。彼はそれが厭で逃げ出したのか?」
「ケイナはとっくの昔にそのことを知っていて、諦めてましたよ……」
カインは答えた。
「彼が『ライン』を出たのはセレスを助けたい一心でしょう。彼にとってセレスの存在は特別なんだ……。アシュアがいるからたぶんまだ逃げ延びてる。なんとしても会わないと……」
最後は半ば自分に言い聞かせるような口調だった。
レイは顔を伏せて首を振った。
「最初から知っていれば何とかできたかもしれんがね……。私はてっきり治療のための検査だと思い込んでいたんだ。だから、あとは後任に引き継いだ」
「ケイナの治療法を覚えていますか?」
カインの言葉にレイは彼を見て数回まばたきをした。
「あ、ああ…… もちろん、当時のものなら覚えているよ。ただ、今まで治療をされていないとなると同じ方法では追いつかん」
レイは答えた。
「今、早急にでも抑制装置をつける必要があると思いますか?」
「外部からの刺激はできるだけ脳には与えないほうがいいな。病状が進行する。今なら相当に強い薬なり機器が必要だろう。その上で早急な遺伝子治療が望まれる」
レイはそう言って暗い表情で床に目を落した。
「しかし、間に合うかな……」
「でも、助けないと」
カインはきっぱりと言った。
セレスがそばにいることが抑制装置の代わりになるだろうか。それでもあの赤いピアスは必要かもしれなかった。
「ケイナの治療法を思い出してデータにしてぼくにください。それとここの端末を貸して欲しいんです。できる限り『ホライズン』にアクセスしてみたい」
ベッドから降りようとするカインにレイは慌てた。
「きみは起きるのはまだ無理だよ」
「そんなこと言っていられない!」
カインは小さく怒鳴った。
「一日でも遅くなればケイナは死に近づく! 早く彼らと会わないと!」
早くケイナに会わないと…! 死ぬなんて絶対許さない…。カインは唇を噛んだ。
「ちくしょう…… こんな計画ぶっ潰してやる……」
これまで聞いたこともないカインの荒々しい言葉にレイは眉をひそめて彼を見つめた。
「食糧と小型通信機…… これはしばらく使ったことがないぞ。すまんが銃はわたしには手に入れられん」
数時間後、レイはベッドの上に一式を並べてため息をついた。
「これは薬。腕の傷を早く治したければきちんと飲むんだよ」
「すみません……」
薬の袋を置くレイにカインは詫びた。
「どうしても行くかね。私は今でも反対なんだがね」
レイの言葉にカインは目を伏せた。
「『ホライズン』のデータはやっぱりものすごく固くガードされてる。……所員のデータすら取りだせないんです。特定のIDが分からないと入れない」
カインはここに来るまで着てきた服に苦労して手を通しながら答えた。
「盗んで来た所員のIDでもだめだった。これ以上はドクにも迷惑がかかってしまう恐れがあるので諦めました。一度地球に戻らないとどうしようもないけれど、それよりもケイナに抑制装置をつけさせないと……」
「彼らと通信機で連絡を取るわけにはいかないのかね」
レイは言ったがカインはかぶりを振った。
「アシュアは通信機を持っていたけれど、だいぶん前からアクセス不能なんです。あっちで切ってるのか、壊れたのか、それは分からない。だけど彼らは逃げ延びてる。それは分かるんです。どこに逃げたかを知ってるかもしれない人がいる。だから、その人に会います」
カインの頭にはジェニファの姿があった。
ジェニファに渡した通信機は繋がらなかったが、何とかして彼女とコンタクトを取るつもりだった。
「カイン」
ふいに病室にレイの妻のマリアが顔を覗かせた。相変わらず彼女の体は大きい。遠慮がちに部屋に入ってきたが、その巨体はレイとひと回りほども違う。
「おまえ、診察は」
レイが咎めるような口調で言うとマリアは肩をすくめた。
「今、ジュナのほうにしか患者がいないの。トイレに行くフリをして来たわ」
彼女はそう答えるとカインに向き直った。
「怒られるかもしれないけど、これ、持っていって」
マリアの差し出した小さな袋にカインは怪訝な顔をした。受け取ってみると、中に紙幣が入っていた。
「現金はかさ張るかもしれないんだけど、これが一番安全よね……? 持ってって。普段お金は持ち歩いてないでしょう?」
何とも言えない気がした。財閥の息子がお金を持っていない。盗みをはたらき、めぐんでもらおうとしている。
「必ず返しますから」
カインは言った。
「そんなの……」
言いかけるマリアをレイは押しとどめた。カインのプライドを察したのかもしれない。
「もし、トウからの使いが来たら何も知らないを通してください。たぶんここでは手荒なことはしないはずです」
「分かっているよ」
レイは答えた。
「それで、これは大事なものだ。もし、うまく彼に会ってしかるべき治療先が見つかったら渡しなさい。彼の治療計画書だ。ずいぶん昔のものだからうまくいくとは限らんがね。もしどこも受け取り先がなかったらもう一度連絡をしておいで」
レイは小さなディスクをカインに差し出した。最初にトウから渡されたケイナの情報が入ったディスクと同じタイプのものだった。それがなんとも皮肉に思えた。
「急に転がりこんで…… すみませんでした」
カインは荷物をレイが用意してくれた小さなバックに詰め込むと、ふたりに言った。
マリアが心配そうな顔をしながらカインを抱き締めた。
「くれぐれも無理はするなよ。せめて一週間は左腕を使うな」
念を押すレイにカインはうなずいた。
ふたりに促されながら家の外に出ると、レイの息子のジュナが白衣のままで立っていた。
彼は自分の横のヴィルを顎で差した。
「ぼくのヴィルです」
ジュナは言った。
記憶を辿ってもカインは9歳年上のレイの息子と話をした覚えはほとんどなかった。顔もあまり見たことはなかっただろう。
ジュナはマリアそっくりの黒いくせっ毛を少し揺らした。
「ヴィル、いるでしょう? 放置した場所を連絡する気があったらあとで教えてください。取りに行きます。そのままにしてるとまずいから」
「……すみません」
カインは答えた。ジュナは母親ゆずりの大きな目をじろりと向けた。
「カインさん。申し訳ないけれど、ぼくは父や母のようにあなたには好意的ではないから。できればもう父には近づかないでいただきたい」
「ジュナ、やめなさい」
レイが口を挟んだが、ジュナはきかなかった。
「ミズ・リィが最初にカンパニーの仕事を担ったのはかなり若い時期でしたよね。あなたは大切に大切に育てられてそんな強行な試練は受けていない。だけどね、そろそろちゃんと考えたほうがいいんじゃないですか」
「なにを…… おっしゃりたいんですか」
カインはジュナを見つめた。ジュナは肩をすくめた。
「先代のシュウ・リィ氏はTA-601の保障をすべて終えていないですよ。トウ・リィはそれを反古にしている」
「TA-601?」
カインはつぶやいた。
「ジュナ、それはカインぼっちゃんの責任じゃない。やめなさい」
「責任じゃない?」
ジュナは父親の言葉に笑みを浮かべた。
「彼はカンパニーを背負って立つんでしょう? 蝶よ花よで大事にされ過ぎてるからこんな甘ったれ坊主になるんだ。何の苦労もしていない。顔見れば分かりますよ。緊張感の先ほどもない」
これまで黙っていたマリアがジュナに近づいていきなり頬を叩いた。
「もうやめなさい。あなたはカインのこともミズ・リィのことは何も知らないでしょ?」
「知ってますよ」
ジュナは口を歪めた。
「トウ・リィは血も涙もない冷たい女で、カイン・リィはただの頭の足らない子供だ」
「ジュナ!」
ジュナはカインにヴィルのキィを放った。カインはそれを空中で受け止めた。
「認証指示は与えてありますから」
「TA-601って何のことです」
カインの言葉にジュナは鋭い目を向けた。
「自分で調べろ」
彼はそう言うと肩をいからせて家の中に入っていった。カインが戸惑いを隠せない目をレイに向けるとレイは首を振った。
「きみのやろうと決めたことがきちんと終わったらもう一度連絡をしておいで。ミズ・リィは厳しい人だけれど、あいつが言うような人ではないよ。確かに若すぎる年齢であんな大きな組織を担うことになった軋轢はいろいろあったがね」
カインはジュナが投げたヴィルのキイを見つめた。
蝶よ花よで大事にされた甘ったれたお坊っちゃん……。悔しかったが何も言い返せなかった。
「カイン、本当に連絡してきてね。私もレイも、あなたがこんな小さい時から知ってるのよ。頼ってもらって構わないのよ」
マリアは自分の腰より下を手で指し示した。
「ミズ・リィはね、本来免疫力が強いはずのあなたがちょっと熱を出すたんびにおろおろして、なだめるのが大変だったのよ。あの人はあなたを失うことが何より怖いのよ」
カインはマリアに顔を向けず、振り切るようにヴィルのエンジンをかけた。
「ありがとうございます。迷惑かけてほんとにすみません」
カインはそう言うとレイに目を向けた。
レイは手をあげて気にするなというように笑ってみせた。
カインはヴィルを飛び立たせた。
目が覚めた時、カインは直接顔に当たった光に思わず顔をしかめた。
「おっと失礼…… ブラインドを開けたものでな」
聞き覚えのある声が頭上で聞こえ、ブラインドをおろす低い音がした。
カインは右手で目をこすった。
「気分はどうだ?」
年老いた顔が自分を覗き込むのが分かった。
まだぼんやりとした視界の先に見覚えのあるその顔を見てカインはほっとした。
ドクター・レイだ。彼の家に何とか辿り着くことができたのだ……。
「さっきミズ・リィから連絡があったよ」
点滴のボトルを確認しながらレイがそう言ったので、カインは思わず顔をこわばらせた。
かつてのホームドクターだったレイのところにトウが連絡しないわけがなかった。そんなことにも気づかないなんて……。
「心配しなさんな。何も言っておらんよ。あ、右手、点滴の針がついとる。気をつけて」
レイはカインの顔を見て笑った。
「きみとはここ5年ほど顔も合わせていないと言っておいた。とても信用してもらえたとは思わんが、嘘をつく理由も彼女には察しはつかんだろう。ただ、明日あさってにはあっちからひとり誰かが来るだろうね。来たらどうする?」
「帰りませんよ、ぼくは」
再び顔を覗き込むレイにカインはきっぱり言い放った。レイは呆れたようにかぶりを振った。
「無茶もここまで来ると感心するよ。きみがアライドのハーフでなければとっくの昔に危険な状態だし、下手をすると左腕が使えなくなったぞ。私は迎えに応じて帰ったほうがいいと思うがね……」
レイはカインのベッドの脇の椅子に腰をおろした。
この人はめっきり歳をとった。髪も薄くなって真っ白だし、顔には深いしわが刻まれている。
小さい頃はとても大きな身体に見えたのに……。
「眠っている間、がんがん促進機にかけたから明日には動けるだろうけれど……。ちゃんと左腕が使えるようになるには数週間かかる。何があったんだ、こんな傷」
カインは大きく息を吐いて天井を見た。
病室じゃないんだな……。天井も壁もごく淡く小さな花模様が散っていた。
きっとレイの妻、マリアの趣味だ。マリアは体が大きくて逞しく男勝りな感じがする。
しかし、その見かけとは裏腹にとても繊細で女性らしい部分があった。気がつくとベッドのシーツも淡いピンクの花が咲いている。
「別に無理に話さなくてもかまわんよ。体力を消耗する」
レイはカインが黙っているので答えたくないのだと思ったらしい。
「こっちでは何かニュースが流れていませんでしたか?」
カインが言うと、レイは怪訝な顔をした。
「何のニュースかね? 一般メディアで?」
「ええ……」
レイは首をかしげた。
「いや…… 特に目立ったものは何もないように思ったが……」
「そうですか……」
あれだけ『ライン』で大騒ぎしてもオフレコということか……。
「ドクター…… 迷惑かけてすみません。ぼくはカンパニーには戻れないんです。助けなきゃいけない友人がいる。明日にはここを出ますから…… それまででいいですから……」
「助けたいって……」
レイはため息をついた。
「こんな体でもぼっちゃんが行けばなんとかなるようなことなのかね」
痛いところを突かれた。カインは口を引き結んで黙り込んだ。
レイはしばらくカインの顔を見つめていたが、再び点滴に手を伸ばした。
「そういえば、あの女の子は元気にしとるかね」
彼なりに話題を変えたつもりらしい。
「あの女の子?」
カインは目を細めてレイを見た。
「ほれ、前に検査した子だよ。88の中毒になっとった」
カインの堅い表情を見て、レイはこの話題も失敗したと悟った。
「なんだか問題がややこしそうだな……」
「ぼくが助けたいと思っているのは、その“女の子”ともうひとり……」
カインは答えた。
「ホライズンのほうから動きだしてしまった……。ラインから逃げ出したんです」
「報告したのか? 彼女の染色体のことを……」
「報告なんかしませんよ」
カインはとんでもないというようにレイを見た。
「するわけがないでしょう……。本人だって知らない…… いや、知ってるかな……」
ケイナの夢の中のことを思い出した。
もしその記憶が残っていればセレスは知っているかもしれない……。自分が覚えているんだから、彼も覚えているだろう。
ケイナ自身はどうなんだろう……。分かっているんだろうか。
「きっと業を煮やしたんだと思います……。ぼくはずっと報告をごまかしてきたし……。やっぱりトウの目をごまかすなんて無理だったんだ……」
レイは困惑したような顔になった。
「なんだか、状況がよく飲み込めんが……」
カインは笑みを浮かべた。
「ぼくが『ライン』に配属したのは、『ライン』の訓練を受けるためじゃないんです。『ライン』に入っていたケイナ・カートをガードするためだったんです。アシュア・セスって相棒と一緒に。トウからの命令だった。……ドクターが“彼女”という少年は、そのケイナが異様に関心を示した人間なんです。ケイナは……」
「ケイナ・カートは知っとるよ」
レイがそう言ったので、カインはびっくりした。
「知ってる? どうして」
「レジー・カート司令官の息子だろう?」
レイは薄くなった頭を撫でた。
「知っているといっても彼を二回ほど検査しただけだがね。それも8年くらい前になる。カンパニーを辞める直前にこれまで彼の検査を担当していた医師が急死したからというので引き止められた。私の同期の医師でな、同じ脳医学が専門だったんだよ。だからよく覚えとる」
「ケイナの何を検査していたんです?」
レイがホライズンに行ったことなど全く知らなかった。カインの言葉にレイは笑った。
「何って、私は脳みそ専門だよ。決まっとるだろう」
レイは自分の頭をコツコツと叩いた。
「彼の脳を調べていたんだ」
「何のために?」
カインは眉をひそめた。
「何のため?」
レイは呆れかえったようにカインを見た。
「何でもない人間を調べるものか。彼は脳に大きな障害を抱えている。その経過確認だ」
「脳に障害?」
思わず大きな声が出た。
「し、失礼……」
「こっちは住居だから大丈夫だよ。診察室からは離れとる」
レイは笑った。
「障害、と言うには少し誤りがあるかもしれんが、彼は先天的に不思議な症状を抱えていたんだよ。当時彼はまだ10歳にも満たなかったんじゃないかな」
そして少し肩をすくめた。
「実はこのことは他言するなと誓約書を書かされているんだが……。カート家といえば名門だから、こういうことは外に出したくないという意図もあったんだろう。まあ、今は治癒しとるだろうし、ぼっちゃんならかまわんだろう。ただし、ほかで言わないでくれよ」
カインは不安を感じた。聞くと後悔するかもしれない……。そんな思いにとらわれつつ、レイの顔を見つめた。
「あの金髪の子はびっくりするようなきれいな顔立ちで、検査のあとは礼儀正しく礼を言って帰るようなところがあったよ。会えばまあ忘れることはできんだろうな。あんな小さな子が何度も検査、検査で可哀想だと思ったよ。痛い思いをするものもあったからね。だが、症状は深刻だったな。早期の治療が望まれた。彼の脳は外から見ただけでは分からないが信じられないスピードで細胞分裂を行っていたんだよ」
「細胞分裂……」
カインはつぶやいた。
「脳細胞というのはだいたい生まれる前にほぼ完成しておってな、細胞同士を繋ぐシナプスも乳幼児期にほぼ大人と同等の量になる。そのあとは経験などでシナプスをより強固に太く繋いでいくというのが普通の人間の発達だ。つまり脳細胞自体は増えることはないんだよ。だが、彼の場合は成長を重ねるごとにどんどん細胞が増えて行き、当然それを繋ぐシナプスも増えていく」
レイはカインを見た。
「だがね、限界があるんだよ。例えて言えば風船だ。頭をひとつの風船とする。風船は息を吹き込めばどんどん膨らむが、膨らませ過ぎるとどうなる?」
カインはごくりと唾を飲み込んだ。
「ばーん……」
レイは両手を広げた。
「風船は割れてしまう」
カインは思わず顔を背けた。
カインはシティに出るとすぐに服を着替え、目深にキャップ式の帽子をかぶった。
伸び切っていた黒髪は赤く染めた。髪を染めたら特徴だった切れ長の目が目立たなくなった。
いつものようにすぐに短く切らずに髪を伸ばしていたのは正解だったかもしれない。
もう、どこにカンパニ-の人間がいるかわからない。ケイナに会うまでは誰にも邪魔されたくなかった。
こんな服、今まで着たことも興味を示したこともなかったのにな……。
少年たちが着る少し派手なマークのついた黒いジャケットを眺めてカインは苦笑した。
でも、そのほうがかえって見つからない。
いくらなんでもカンパニーの御曹子が流行りの少年のファッションをしているなどと誰も思わないからだ。
左手は首から吊って固定していると目立つので包帯だけを残して外した。
痛みがないのでうっかり使ってしまう危険を避けるために左手だけ動かしにくい固い革の手袋をはめた。
見慣れた『中央塔』を横目に見ながら、カインはカフェのコンピューターを使って割り出した密売者とコンタクトを取るために狭い路地の中へ入っていった。
どこへ行ってもこういう場所はあるんだな……。
カインはゴミの散らばった細い道を眺めて思った。
男は路地の隅の小さな扉の影に立っていた。
「カサ・ディ?」
カインは言った。
「そうだよ。あんたか? 銃が欲しいってのは」
背の低い男はカインの頭の先から足の先までじろじろと眺め回した。顔が真四角で大きな鼻が不格好にひしゃげていた。
「ガキが威勢をつけるために銃か? 似合わねえな」
「さっさと出せよ」
カインは言った。舐められると銃は手に入らない。
男は鼻に皺を寄せてカインを胡散臭そうに見やると、足元に置いた大きなケースを開いた。
「軍のお流れ品が多いな。前の持ち主用にきっちり合わせてあるからそれを解除する手数があって割高になるぜ」
男は言った。
「大きな銃はいらない。ST-50かベルグ……」
カインはケースの中を眺めながら言った。男の目が細くなった。
「いやに詳しいな……」
「ないんだったらほかを当たる」
カインがそう言ったので、男はカインを睨みつけながらケースの下をひっかき回した。
「LOA-2型だ。軽くて持ちやすい。だけど標的をほとんど逃さないのが利点だぜ」
「エネルギーは?」
カインは男が出した黒い色をした小さな銃を見て尋ねた。
「改造してあるから、気がついたときにそこいらの電源に充填装置をはめときゃいい。 2、30秒で完了する。携帯用のエネルギーカードは500にしとくぜ」
男は得意そうに言った。
「じゃあ、そんなに威力はないな……」
カインがつぶやいたので、男は少しむっとした顔をした。
「ガキのケンカにゃそれくらいで充分だよ」
「いや…… 威力がないほうがいいんだ。ちょっとだけケガさえしてくれりゃいい」
カインは答えた。男は口をへの字に曲げて目を細めた。
「いくら?」
カインの言葉に男はにやっと笑った。
「10万でどうだ?」
カインはため息をついた。こんなおもちゃみたいな銃に10万? 冗談じゃない。
「性能的にはいいところ3万だ。それ以上は出さない」
「おい、いい気になるなよ。欲しがってんのはそっちだ。10万より下はない」
カインはかすかに笑みを漏らした。
「だったら、1回充填しただけでダメになるような銃じゃなくて、ちゃんとしたものを出してくれ」
「何?」
男の目が細くなった。カインは笑った。
「LOA-2型は普通の補填エネルギーには合わないんだ。改造してあるものはたいがい使い捨て式になる。おまけに使える発射回数は30発ときてる。裏取り引きでも相場は3万だよ」
「おまえ、何者だ?」
男は警戒したように身構えた。
「別に警備関係の人間じゃないから安心しろよ」
カインはそう言うと、男のケースからすばやくひとつの銃を取り出した。
「あっ!」
男が慌てて取り戻そうとしたが、カインはさっと男から離れた。
「こっちを10万でもらうよ」
「冗談じゃない! そりゃ、30万のものだ!」
「10万。TT3、バージョン2」
カインは男を見つめた。
男は頬をひくひくと痙攣させていたが、やがて渋々うなずいた。
カインはポケットから紙幣を取り出して男に差し出した。男はそれをひったくるようにして取り上げた。
「あんた、いったい誰だ? TT3を知ってる人間は何か特別の訓練を受けたやつだぞ?」
男はカインを睨みつけて言った。カインは銃をジャケットのポケットにしまい込むと何も言わず笑って男の前から立ち去った。
「何か特別の訓練を受けたやつ…… か」
カインはつぶやいた。
そうだよな。TT3は『ビート』で訓練に使用したことがある銃だ。
ほかで使っているとすれば『ビート』とは別のカンパニーの私設部隊か、軍の部隊か……。
威力の調整ができるので最小にすれば『ライン』の『点』程度の威力しかない。実戦では使い分けるのだ。
でも、なんでこんなものが闇ルートに流れるのかな。
まあ、そんなことはもう、どうでもいいか……。
カインは表通りに停めておいたヴィルに飛び乗った。そしてウェスト・タウンに向かって飛び立った。行き先はケイナのアパートだ。
アパートにうまく入れるだろうか。その保証はなかった。
しばらくしてアパートが見えたとき、カインはアパートの窓から空を見上げる人物に気づいた。
「ジェニファ……?」
カインはびっくりして、そしてすばやく下を見回した。誰もいる気配はない。
彼女はカインのヴィルに気づいたのか、しきりに自分の腕を差してみせた。
そうか……。通信機のスイッチを入れたのか……。
カインはアパートを通り過ぎるとさらにその先の湖まで飛んだ。たぶんあそこは誰も来ない。
目指す湖が見えて来たので、カインはヴィルを林の手前に降り立たせた。
そしてレイからもらった通信機を取り出してジェニファの持っている通信機のコードを入力した。すぐにジェニファが出た。
「カイン、良かった。分かってくれたか心配だったわ。今、どこにいるの?」
「西の湖です」
「分かった。すぐに行くから待ってて」
彼女はすぐに通信機を切ってしまった。音声通信するのは彼女にはそれが精一杯だったのだろう。カインは苦笑した。
湖に目をやると、静かな水の面に光がちらちらと反射して揺れていた。
どこかで見た風景だ。どこだっただろう……。
ああ、そうだ…… ケイナの意識の中だ……。
カインは林を抜けて湖に歩み寄った。透明な水が静かに寄せていた。
ケイナはこの湖が好きだったんだ……
顔をあげると、ケイナの意識があちらこちらに残っているのが感じられた。
向こうから彼が歩いてくるような錯覚に陥るのは、ここに残る彼の意識が強いせいだ。
「ケイナ…… 今、どこにいる……」
カインはつぶやいた。
「ここで呼んでも…… ぼくの声は届かないか……」
カインは規則正しく足に近づく水を見つめた。
寄せて返す水の動きに混じって小さな光る点がちらちらと見えた。
4つ…… 3つかな…… なんだろう…… 何か『見えて』いるんだろうか……
しばらくして気配を感じたので振り向くと、ジェニファが体をゆすりながら砂浜の向こうの林から必死になって歩いてくるところだった。砂浜におりる前にカインは彼女に手を差し出した。ジェニファは半ばすがりつくようにカインの手を掴んだ。
「ご、ごめんなさいね。ここ、来るの何ヶ月ぶりかしら」
そしてカインの顔を見てびっくりしたような顔をした。
「痩せたわね」
カインはかすかに笑みを浮かべた。
「それに、どうしたの? その格好は。髪まで染めて……」
「立場的にはケイナたちと同じですよ。ぼくも人に見つかるとまずいんだ」
カインは答えた。
「あのときいなかったから、どうしたのかと思っていたのよ……」
ジェニファは首を振って言った。
「生きていてくれて安心したわ」
カインはうなずいた。
「ここは滅多に人が来ないのよ。とりあえず座りましょう」
ジェニファはそう言うと湖に体を向けて砂浜に腰をおろした。カインもその隣に座った。
「ここまで、どうやって来たんです?」
カインが尋ねるとジェニファは肩をすくめた。
「アパートにヴィルを持ってる人がいるの。ちょうどいたから助かったわ。でも、もう帰りは歩いて帰るわ。空の上なんて金輪際ごめんよ。怖くて怖くてたまらなかったわ」
カインは思わず笑った。そしてすぐに真顔に戻った。
「ケイナの催眠療法はうまくいったんですよね」
ジェニファはちらりとカインを見てうなずいた。
「ええ…… たぶんね。でも、ケイナの中の余計な人格は根本から消えたわけじゃなくて、とりあえず出なくなるようにした、ということなんだけど……。ケイナが自分でそういう自信がつけばいいということなの。セレスが一緒にいればたぶん問題ないと思うわ」
「良かった」
湖を見つめながらつぶやくカインの横顔をジェニファは見た。
「あなたはケイナの中に入ってきたでしょう」
カインはうなずいた。
「ええ……。ちょうど吸入系の鎮痛剤を使ったんです。怪我をしてたので勧められて。たぶん、それで引き込まれたんでしょう」
「なるほどね。それで納得いくわ。タイミングが合ってしまったのね」
ジェニファは大きくうなずいた。
「ケイナはかなり無理をしたのよ。術に逆らって必死になってセレスを助けようとしてた」
「ええ…… 知ってます」
カインは目を伏せた。ケイナの声はあのときかすかに聞こえていた。
「あんなアクシデント、予想もしていなかったからびっくりしたけれど、結果は良かったんだから私はこれでいいと思うわ」
ジェニファはそう言うと笑みを浮かべた。
「それで、何が知りたいの? 彼らのいる場所?」
彼女の言葉にカインはうなずいた。ジェニファは少し息を吐いた。
「『ノマド』のコミュニティに行けばって勧めたのよ。サウス・ドームの森よ。辿りつけなければ嫌でも森の外に出てくるから、行くだけでも行ってみればって」
「たぶん、そうだろうと思っていました」
カインは答えた。
「出てきた気配がないから…… 辿り着いたんだ思うわ。でも、あなたは行くのは無理よ」
ジェニファの言葉にカインは彼女に目を向けた。
「あなた…… カンパニーの人間なのね。悪いけど…… 『ノマド』はカンパニーを受け入れないと思うわ」
そして慌てたように手を振った。
「いえ、あなた自身に敵対心を持ってる、というわけじゃないのよ。でも、あなたがカンパニーを捨てたというなら話は別だけど、そういうわけではないんでしょう?」
カインは俯いた。そういう答えは予想していたことだった。『ノマド』がカンパニーの人間を近付けるわけがない。いくら自分がカンパニーのことを心良く思っていなくても、リィの跡取りであることが消えているわけではないからだ。
「はっきりとは分からないんだけど、おそらく今、あの森にいるのは昔ケイナのいたコミュニティから分岐した群れだと思うの。彼と波長が似てたのよ。だから行くように勧めたの。きっと何か分かるかもしれないと思って。ただ、私にもそこまでのことしか分からない。私ももう『ノマド』の人間じゃないから。彼らと交信できるのは、シエルが亡くなったときのような場合だけよ……」
ジェニファは申し訳なさそうに言った。
「ぼくひとりで森に入っても無駄だということですね」
カインの言葉にジェニファはうなずいた。
「あなたが一緒でもだめなんですか?」
「私が?」
ジェニファは目を丸くした。そして顔を背けた。
「私はだめよ。もう『ノマド』を離れたの。戻れないわ……」
カインは彼女の顔に強固な意思を感じて諦めざるをえないことを悟った。
どうすればいいだろう……。
困惑したようなカインの表情をジェニファはしばらく見つめたのち、ポケットから小さな水晶玉を取り出した。
「これで試してみる? 私が『ノマド』にいた頃の精を留めている唯一のものなのよ。もしかしたら迎えが来てくれるかもしれないわ。もしかしたら、よ。保証はできないけど」
カインはジェニファの手のひらに乗った水晶玉を見つめた。
「ケイナたちが行ったコミュニティはたぶん感応者の多いコミュニティだと思うの。もうだいぶん衰えてる精だからうまくキャッチしてもらえるかどうか分からないけれど……」
「大切なものじゃないんですか?」
カインはジェニファの顔を見た。ジェニファは笑みを浮かべた。
「もう持ってたってしようがないわよ。こっちではこっちの水晶を持ってるんだし」
カインはゆっくりと水晶玉を受け取った。
「それからね……」
ジェニファはふいに言いにくそうに目をそらせた。
「あれからよく水晶板で見るんだけど…… ケイナは必ずしも『ノマド』に行ったからって平穏無事でもないようだわ…… 水晶はあそこにいれば数年は追手から逃れるように示しているけれど……」
「なぜ?」
カインはどきりとしてジェニファを見た。ジェニファは目を伏せた。
「ケイナを飲み込もうとする黒い影が消えないのよ……。あの子の中の余分なものを閉じ込めたのに影が大きくなってる。どうしてなのか分からないの」
「黒い影……」
カインはつぶやいた。ケイナの病状はもしかしたら進行しているんだろうか。
「あなたには何か見える?」
ジェニファの声にカインは首を振った。
「いえ…… 全然……」
ジェニファはがっかりしたように顔を背けてうなずいた。そして再びカインに目を向けた。
「あなたが私にコンタクトを取ってきたとき、水晶に少し動きがあったの。あなたを示す影に黒い影が怯えたように身を縮込ませた。あなた、何かキイを担っているんじゃないかしら……」
「キイ……?」
ドクターのくれた治療ディスクだろうか……。
「ただし、微妙よ。あなたのこれからの動きが黒い影に勝つか、それとも飲み込まれるかは、これからのあなたの行動次第だと思うわ。よく考えてから行動することね」
カインは口を引き結んだ。
勝つか、飲み込まれるか……。ぼくの動き如何でケイナの運命が変わってしまうのか?
「あなたがケイナのことを大切に思っている気持ちはよく知ってるわ」
ジェニファは言った。
「たぶん、ケイナもあなたのこと、同じくらい大切に思っていると思う。あなたが無茶をすると彼は本気で怒るわよ。そのことが足を引っ張りかねないからね」
カインは思わずジェニファを見た。ジェニファは笑ってカインの左腕を差した。
「ずいぶんひどい怪我をしたみたいね。私の目には燃えてるみたいに見えるわよ」
「薬をもらったから大丈夫ですよ」
カインは答えた。ジェニファはうなずいた。そして湖に目を向けた。
「ここは、ケイナの意識がずいぶん残ってるわね……」
「ええ……」
カインは目を伏せた。
ケイナがひとりでここに来ては湖を見つめていたときの寂しさとも怒りともつかない思いが砂浜に座っていると痛いほど感じられた。ジェニファもきっと同じことを感じているのだろう。
やがてふたりは立ち上がり、ジェニファはカインがバイクを停めた場所まで一緒に歩いて来ると、バイクに乗るカインに言った。
「うまくいくように願ってるわ」
「ありがとう。ジェニファ」
カインは答えた。
「それと…… 4つの点のうち、ひとつが消える……。あなた、見てた?」
ジェニファの言葉にカインは一瞬ぎくりとした。
「ええ…… 知ってます……。」
気づかないふりをしていようと思ったのに……。カインはくちびるを噛み締めた。
4つの点。
その光が見え始めたのはいつからだっただろう。
明確に意識したのはついさっきだ。
もしかしたらもっと前から見えていたのだろうか。
本能的に不穏に思えてあえて見まいとしていたのかもしれない。
「予見は絶対的なものじゃないのよ。予言じゃないの。啓示でもない。いくらでも変わるものなのよ。それだけは信じていなさいね」
ジェニファは丸い目でカインをひたと見つめて言った。
カインはその目をしばらく見つめ返したあと、ジェニファの口の端に顔を近づけてキスをした。
「あら……!」
ジェニファの目がさらに大きく見開かれた。
「ノマド式の一番親愛の挨拶でしたよね」
カインは言った。
「ケイナがよくやってた」
ジェニファは嬉しそうに顔を赤らめた。カインは笑みを浮かべた。
そしてヴィルを飛び立たせた。
ジェニファはカインの姿が見えなくなるまで、ずっと湖のほとりに佇んでいた。
「遺伝子分析……」
セレスは不安そうにトリを見た。
「遺伝子分析って、何をするの?」
トリの横にはちょうどセレスの兄ハルドと同じくらいの年齢の黒髪の男が立っている。
名前をリンクといった。温厚そうな表情の青年だった。
トリは笑みを浮かべた。
「きみたちに負担をかけるのは血液を採取させてもらうときだけですよ。ケイナは知っていると思うけれど……」
トリがケイナを見たが、彼は浮かない表情だった。
「『グリーン・アイズ』の遺品が残っているはずなんです。彼の子どもは行方不明になってしまったけれど彼自身は『ノマド』の慣習どおりに遺髪は土に還らないように梱包されて埋葬されている。地球でエリドが探してくれています。かなり前のことなので、森も変わっています。でも、見つかったら連絡があるので、そのときにはリアに行かせようかと考えています」
トリの言葉にケイナは無言だった。
ケイナの表情がセレスには不思議でしようがなかった。昨日も検査のことを聞いても何も答えてくれなかった。ケイナの不安はなんなんだろう……。
「彼は…… リンクは臨床検査の技術があるんだ。医術の心得もある。11年前にやらなければならなかったことをこれからやるんだよ」
セレスはうなずいた。
「任せるよ。おれ、まだ何がなんだかよく分かってないかもしれないけど」
トリが目を向けたので、それを見たリンクは準備のためにテントを出ていった。
「遺伝子検査はいいけどよ、『コリュボス』も地球もカンパニーの手のひらに乗ってるのも同じようなもんだぜ。おれたちがここにいることだっていずれバレる。それまでに何かが分かって、何らかの手が打てるのか?」
アシュアが腕を組んで言った。
「確かに今ここにカンパニーが来たら、ぼくらは何もできない。11年前と同じようにケイナとセレスを渡すしかない」
トリは答え、そしてアシュアをちらりと見た。
「即戦力はきみたち自身しかいないから」
アシュアが怪訝な顔をしたので、トリは笑みを浮かべた。
「剣を入手しよう。ここではそれが精一杯だけど最終的には地球に渡ることになるだろうし、あっちの『ノマド』なら銃も手に入るかもしれません。ほかの武器も」
「何をするつもりだ……?」
アシュアは目を細めた。
「昨日言いましたよね。ぼくらはもう諦めないと」
「『ノマド』は戦力を持たないはずだろ? クーデターでも起こすつもりか?……」
「クーデターね……。まあ、そうかもしれない……」
トリは目を伏せた。アシュアはケイナの顔を見たが、彼の表情からは何も読み取れなかった。
「とりあえず血液を取らせてください。リンクがあっちで用意をしているから」
トリはそう言うと3人を促してテントを出ようとした。
「ちょっと待って……」
「トリ」
アシュアが再び口を開こうとしたが、ケイナが口を挟んだ。
「要は『ノマド』も同じ立場だったってことか?」
セレスとアシュアはケイナの顔を見た。彼が何を言っているのか分からなかった。
「あんた、長老になって、教えてもらってんだろ。 ……いや、ある年齢になるとみんな知ることになるのかな……」
「そうだよ」
トリはかすかにうなずいて目を伏せた。
「彼らはぼくらと約束をした。もう二度と遺伝子操作した人間なんか作らないと。だけどそれを破った。だからぼくらも武器を持たないという約束を破るんだ」
「二度と遺伝子操作した人間なんか作らないって……」
アシュアがつぶやいた。トリはちらりとアシュアを見た。
「ぼくらの祖先は遺伝子操作で生まれた人間だってことだよ」
「え……」
アシュアとセレスが目を丸くした。
「……約束は絶対だと信じてた。思えば、ケイナがここに来たときに…… いや、『グリーンアイズ』が来たときに約束は破られてしまっていたのかもしれない……」
トリはもう一度テント内に足を向けると椅子にこしかけた。
「良かったら、きみたちも座らない? お茶を入れるよ」
「お茶なんか飲む気分じゃねえからいいよ」
アシュアがそう言ってトリの前に座った。トリは少し笑った。
「短命で次世代が続かない……。もともとはその改良が目的だったんです。だけど、最終的に純粋な地球人というのがいなくなって遺伝子を操作した者だけが生き残ったって何の意味もない……」
「遺伝子操作って、遺伝子治療とは違うの?」
セレスがアシュアの隣の椅子に腰をおろしながら尋ねた。ケイナは仏頂面で腕を組んで立ったままトリを見つめている。
「遺伝子治療は治療でしょう? 病気などを治すということ。操作するというのは、生まれてくる世代に人為的な指令を遺伝子に与えて思うような人間を作るということだよ」
トリは静かに答えた。
「誰がそんなこと……」
セレスは目を細めた。
「政府と軍と研究者たち…… いや…… もう、軍と研究者と言ってもいいのかな……」
セレスはトリの顔を無言で見つめたのち、突っ立ったままのケイナを見上げた。ケイナはやはり不機嫌そうな顔のままだ。もしかしたらケイナはこれからトリが言おうとしていることの察しがすでについているのかもしれない。
「遺伝子操作にはふたつあった。ひとつはほかの血が混じっても子孫永続を願った者たちへの闇の商品として。商品だからね。失敗は許されない。もうひとつは純粋に研究のための実験のための操作。こっちで彼らは何を作ろうとしていたんだろうね……」
トリは息を吐いた。
「『リィ・カンパニー』の前身は医薬品と医療機器の開発から大きくなった組織でね。遺伝子操作をしながら自社の技術開発のデータにしていたのかもしれない。それとも、何かの能力に長けた人類らしからぬ人類を作ろうとでもしていたのかもしれない……。ぼくらはね、彼らが研究のために作った人種。突出した能力と引き換えに必ずどこかに負の遺伝子を持つんだ」
「負の遺伝子……?」
アシュアが呟いた。
「そう。負の遺伝子。例えばリアは人より聴覚や嗅覚がとても優れてる。でも足と手に障害がある。ぼくは予見の力があるけれど走ることができない。心臓が弱いので。父は機械に異様に強かったけれど、感情不安定で、母はぼくと同じように予見の力があったけれど体力がなかった。マレークと結婚したユサは勘が鋭いけれど言葉がうまく出ない。……みんなどこかリスクを負ってる……。それでも三世代ほど経て少し改善されてきてはいるんだ」
トリはかすかに口を歪めた。
「ぼくらは、失敗作だったわけだよ。逆を言うと、安定した遺伝子は人としての能力は平均化されてしまうんです。寿命も長くなるだろうし、体力もあるだろう。だけど、そんなに突出した能力を持つわけじゃない。一番安定していて成功例と言われたのはアライドのハーフだよ」
「アライドのハーフ?」
セレスが声をあげた。
「アライドのハーフは遺伝子操作で生まれた人種なの?」
「そう」
トリは答えた。
「今、アライド人と言われているのは本来ハーフで、今ハーフと言われている人はクォーターだよ。さらに元を正せば、アライド人はアライドの環境で世代を繋いだそもそもの地球人です。あの時期何万人もの人が遺伝子操作を受けたから、もう分からなくなってる。」
「じゃあ、カインは……」
セレスはつぶやいた。
「遺伝子操作されて生まれたクォーター以降ってことになるな」
アシュアが答えた。
「カインはそれを知ってるのかな」
「知るわけないだろう……」
セレスの言葉にアシュアはぶっきらぼうに答えた。
「何にしても……」
ケイナがふいに口を挟んだ。
「商品ではなく研究として作られた人種が反抗して、結局政府の側が折れたんだな……」
トリはうなずいた。
「正しくはカンパニーが折れたというべきかもしれない。あの時代に正式には『リィ・カンパニー』はなかった。いくつかの企業が集まった組織だった。それらを統括して立ち上がった『リィ・カンパニー』の創業者として知られるシュウ・リィ氏は創立と同時に研究の中止を決意したんだ。同時にぼくたちの祖先に永劫の保障を約束した。ぼくらは自由に生き、中央に決してとらわれることのない生き方を望んだ。それを約束してくれるなら、ぼくらは武器を持たないと誓った」
「『ノマド』が武器を持たないというのがそんなに威力を持つことなのか?」
アシュアが怪訝な目でトリを見て言った。
「人の遺伝子をいじくった代償だよ。ぼくらを甘くみてはいけない。彼らはその恐ろしさを知ったから決意したんだよ。シュウ・リィは冷静な人間だったね」
「その約束を誰が破ったの?」
セレスの言葉にトリは肩をすくめた。
「さあ……。今のカンパニーの総領はトウ・リィという女性だと思うけれど」
「トウは67年前には生まれてないぞ。『グリーン・アイズ』が来たときには」
アシュアがすかさず口を挟んだ。
「では、彼女ではないのかもしれない」
トリは答えた。
「何にしても、ケイナとセレスの遺伝子を調べれば何らかの結果が出ますよ」
「『グリーン・アイズ』との血縁が分かるっていうこと?……」
セレスは不安をかくせない様子でトリを見た。
「血縁だけじゃない。人為的に触られた部分も分かる」
ケイナの顔がこわばった。
「遺伝子検査にはどれくらいかかる?」
彼はトリを見て言った。
「きみたちの検査は数日で。あとは『グリーン・アイズ』の遺髪がいつ届くかによるね。その間に剣の手配をしておきます。剣もたぶん数日で手に入るでしょうから、扱いに慣れる時間も作れると思います。しばらくは疲れを取るためにもご自由になさっていてください」
ケイナは口を引き結んだ。
「あの…… とても疲れをとって自由にしている気分じゃないんだけど……」
セレスが戸惑ったような顔で言った。
「おれたちに何かできることないの……」
トリは笑みを浮かべた。
「気を使っていただかなくてもいいですよ」
「そうじゃなくて…… 頭が混乱して不安なんだ……。なんか、知らないことばっかりで……。おれ、今まで何にも知らなかった……。何にも知らなくて……。なんかやってないと分からないことでずーっと頭の中が堂々回りしてそうなんだ」
「また、話をするよ。心配しなくても、ぼくらはきみを助けるよ」
セレスはそれを聞いて黙り込んだ。
「一気には無理だから…… また少しずつということにしよう。いずれは全部分かるよ」
トリの諭すような口調にセレスはまだ納得いかないような顔していたが、やがてうなずくと立ち上がった。
それを見たアシュアも立ち上がった。
アシュアとセレスがテントを出たのを確かめたケイナはトリを振り返った。
「計算合わねえじゃねえか」
トリはそれを聞いて笑みを浮かべた。
「そう?」
「シュウ・リィは稀に見る長生きで12年前に死んでる。97歳だ。リィ・カンパニーができた頃、シュウ・リィは9歳か10歳で組織の代表になったことになる」
「間違いなく彼は代表になってるよ」
トリは答えた。
「リィ一族と最初に事業をしていたのは誰だ」
ケイナは譲らなかった。
トリはそんな彼の顔をしばらく見つめた。
「カート一族」
トリは答えた。
「レジー・カートの四代前」
ケイナは不機嫌そうに髪をかきあげた。
「11年前…… おれを引き渡したのは、保護をしてくれると思ったから?」
「結果的にそうじゃなかった。リィを押さえていたのはカート一族だったけれど、100年たって情勢が変わった。カートの権威は薄れ、リィは暴走してる」
ケイナは黙っていた。何かを考え込むような顔をしている。
「外にコンタクトを取るのはもう少し待って欲しい」
その顔を見てトリは言った。
「今、たぶん躍起になってきみたちを探してる。磁場を強化してるんだ」
「セレスの兄さんが…… レジー・カートの下で任務についてた。彼の安否を知りたい」
「カートがどこの味方かぼくにはまだ分からない。今は無理だ」
トリは答え、ケイナはしかたなくうなずいた。
セレスとケイナが血液を採取して2日後、剣ができあがってきたとリアが3人を呼びに来た。
見せられたものを見て3人は目を丸くした。
「なんだよ、これ……。柄しかねえじゃないか……」
アシュアの言うとおりだった。ケースに収められていたのは剣の柄だけだった。
「刃はその剣を持つ者にしか見えません。持ってみれば分かりますよ」
トリの言葉にケイナはひとつ柄を取り出して持った。
重い。これは柄だけの重さではない。
やがて鋭い刃があることが分かった。見えているというより頭の中で認識している、という感じだ。柄の部分から頭の中で徐々に形づくられていく。
「長過ぎるし、重い……」
ケイナはつぶやいた。
「それはアシュアのです」
トリは笑って言った。
「きみのはこちら」
トリはそう言って別の柄を取り上げた。ケイナから剣を受け取ったアシュアはどうなっているのか全く合点がいかないようで、剣をまじまじと見つめていた。自分の刃は分かるが、横のケイナを見てもその先には何も見えない。見えないということは、戦うときも相手には見えない。刃の見えない剣は脅威だろう。
「こんなの見たことないよ。これ、地球のものじゃないよね……」
セレスは柄に彫り込まれた複雑な文様を見て言った。
「それはノーコメント。昨日こういうのが得意な者が君たち用に調整したんです」
トリは笑みを浮かべたまま言った。
「『ノマド』は武器をストックしとかねえんじゃないのか? こんなもん、どうして 1日や2日で手に入る?」
「武器じゃありません。研究用です」
アシュアの問いにトリは平然として答えた。
どうだか、と思ったがアシュアは肩をすくめただけで何も言わなかった。
「兄さん、私も欲しいわ……」
羨ましそうに見つめていたリアがねだるようにトリに言ったが、トリは首を振った。
「リアはだめだよ。きみには今腰に吊っている以上の武器は必要ない」
リアは不満そうに口をへの字に歪めた。
「これ…… ほんとにすごい……」
セレスは剣を見つめてつぶやいた。
「ずっと前から持ってたみたいに手になじむ」
ケイナがふとセレスに目を向けた。セレスの声に何かを感じとったような表情だった。
「刃の威力はきみたちそれぞれの意思と生体エネルギーでコントロールされます。相手を殺したくなければ刃は対象物を切らないし、逆を思えば相応の殺傷力を発揮します。きれいな殺し方をしませんから使い方にはお気をつけて」
トリは言った。
「およそ、あんたの口から出るような言葉じゃねえな」
アシュアが首を振った。トリは笑った。
「事実ですから」
セレスは剣をじっと見つめていた。
そういえば今までは銃ばかりで接近戦用の武器は短剣程度のものだった。こんなに長い剣を持ったのは初めてだ。
なんだろう…… まるで体中の血が逆流するような高揚感。何か切ってみたい……
そう思ったとたん、次に起こったことをセレス自身はすぐには理解できなかった。
気がついたらケイナに剣をはねとばされ、頬を思い切り殴られてテントの端に吹っ飛んでいた。
そこにいたケイナ以外の全員が凍りついたように立ち尽くした。
「トリ……」
ケイナは肩で息をしてセレスに剣を向けて言った。セレスが動いたらまだ戦闘モードに入るかのような雰囲気だ。
「セレスにはその剣を持たせちゃだめだ」
トリははっとして床に転がったセレスの剣の柄をとりあげた。
セレスはずきずきと頬が痛むのを感じながら口を手の甲で拭った。切れた口の端から流れた血がべっとりとついた。
「悪いけど、セレスにはリアと同じ剣を頼めるかな……」
ケイナはセレスを立ち上がらせてテントの外に向かいながら言った。トリはうなずいた。
「いったいどうしたっていうの……」
2人が出ていくのを見送りながらリアは兄の顔を見て言った。
「剣の持つエネルギーがセレスの血を呼び覚ますんだよ……。失敗した。ぼくには読めなかった……」
「なんてこった……」
アシュアが呻くように言った。
「痛むか?」
テントに戻ってベッドに座り、水で濡らした布で顔を冷やすセレスにケイナは尋ねた。
まだ心臓がどきどきしている。何があったのかを知るのは怖かった。でも聞かずにはいられなかった。
「おれ…… みんなを殺そうとしてたの……?」
自分の声が震えるのをどうしようもなかった。
「いや……」
ケイナは目を伏せて答えた。
「そうじゃないけど…… おまえは我を忘れそうになってた……」
セレスは布を取り落とすと手で顔を被って突っ伏した。ケイナはそれを黙って見つめた。
「やっぱり…… おれの中には……」
セレスは体を震わせた。
「ケイナ…… 怖いよ、おれ……」
ケイナは少しためらったのち、セレスの横に腰をおろし、彼の肩に腕を回した。
「おれが最初に気づいた。おれだけが気づいてた。あんなことはもう二度とない。絶対おれが気づいておまえを呼び戻す」
「ケイナだけが……」
セレスは顔をあげてケイナを見た。
「カンパニーはいったいおれとケイナに何をしたんだろう。おれは剣を持っただけだよ…… だのに……」
「だからおれが気づいて止めるって言ってるだろう!!」
ケイナは怒鳴った。
「おれが『止める』んだ! 何もない! それ以外は何もないんだよ!」
ケイナは荒々しく立ち上がった。顔が怒りで真っ赤になっている。
「ケイナ……」
セレスは呆然としてケイナを見上げた。
ふいにケイナの手が伸びて自分を抱き締めたのでセレスはびっくりした。
ケイナの中に入ったときに感じていたあの感触だった。彼のペパーミントの芳香とともに、柔らかな髪が頬に触れた。
「どんなことになっても、おれの声を聞け。お前を呼びつづけるから、おれの声を聞け。必ず正気を取り戻せ」
セレスは目を閉じた。ケイナの声が体に振動となって伝わって来る。
「おれたちはこうやってお互いを呼び続けるんだ。絶対に負けない。生き残る……!」
ケイナがいてくれると安心する。こうやってお互いを呼び続ける。ずっと呼び続けるんだ。
セレスは思った。
その夜、セレスはショックもあって疲れ切ってしまい、半ば気を失うように眠ってしまった。
そんなセレスをちらりと見てテーブルの水差しに手を伸ばすケイナにアシュアは声をかけた。
「大丈夫か?」
「こいつはそんなやわじゃないよ」
ケイナは答えた。
「セレスのことじゃないよ」
アシュアは言った。
「おまえのことを言ってんだ」
ケイナはアシュアに目を向けたがすぐに目をそらせ、カップに水を注いだ。
「ありがとう、アシュア」
「おまえにしちゃ、しおれた返事だな」
アシュアは笑った。
「あの剣は能力者は見極めて使わないといけないんだとトリは言ってた。おまえはなんだかんだ言っても自分のことをあらかじめ知っているから無意識に剣を制御できるんだが、セレスは無防備だからすぐに捕らわれるんだと」
「こんなもん振り回してどこまで太刀打ちできるんだか……」
ケイナは柄だけの剣を見てつぶやいた。
「この先何をどうすりゃいいのかさっぱり分からねえしな……」
アシュアもうなずいた。
「遺伝子検査をすると、具体的に何が分かるんだ?」
「人為的に何らかの手を加えられた形跡は出てくると思う。それと、もし『グリーン・アイズ』の遺髪が手に入れば、彼との血縁関係も分かるだろう。彼からいったいどんな操作をされたのかもたぶん推測がつく」
そして心の中で 『おれとセレスの関係も分かる』と付け加えた。
気が重い。おれはセレスのことをどう思っているんだろう。
ケイナには分からなかった。
セレスはいつも必ず答えを求めようとする。返事をしても笑っても怒っても、セレスはそれが何をあらわしているのかを必死になって探ろうとする。
ケイナにとってはそれがうっとうしくもあり、説明しうるだけの容量のない自分がとてももどかしかった。
それなのにたまらなく愛おしくなることがある。あの緑色の目で見つめられると体中の血が逆流して全身の毛が逆立つような気分に陥ることがある。自分の中で訳の分からない独占欲と渇望が渦巻く……。
これはいったいどういう感情なんだろう……。
「……でな……」
アシュアの声にケイナは我に返り、水差しを持ち上げて答えた。中身がもうあまりない
「なに?」
「なんだよ、聞いてなかったのか?」
アシュアが口を歪めた。
「腕の通信機をリアが壊しちまったんだが、トリに言ったら、軍の隠し機能を取り払って修理できる人間がいるっていうんだよ。それで一度カインに連絡を取ってみようかと思うんだ。もっとも、あいつが通信機を身につけていなけりゃ無駄に終わるがな」
「そうだな……」
ケイナはうなずいた。
「カインは案外もうこっちに来ているのかもしれない」
「一度連絡をしてきてるしな……。例のごとく無茶なことをしてるんだろうさ」
アシュアは頬杖をついてため息まじりに言った。
「水を汲んでくる」
ケイナは水差しを持ち上げてそう言うとテントを出た。
アシュアは無言でそれを見送った。
飲料水は集落の一番外れのテントの中にある。独自にろ過消毒して汲み溜めているのだ。
ケイナは水を汲んで戻りかけてふと人の気配に気づいて足を止めた。
振り向くとリアが同じように水差しを抱えて立っていた。
「水がなくなったの? 言ってくれれば私が汲んであげたのに……」
リアはケイナの手にある水差しを見て言った。ケイナは無言だった。
ケイナが立ち去ろうとすると、リアはそれを引き止めるかのように再びケイナに声をかけた。
「ねえ」
ケイナは足をとめてリアに目を向けた。
「このあいだ…… ありがとう。ちゃんとお礼を言ってなかったわ」
一瞬何のことか分からなかったが、池で溺れそうになったのを助けたことだと悟り、ケイナは曖昧にうなずいた。
「セレスの様子はどう?」
リアの言葉にケイナはやはり何も答えず目をそらせた。
彼女と話をする気分ではなかった。今のケイナにはリアはうっとうしい部類に入る。
リアはそんなケイナの顔を見て少しためらったのち口を開いた。
「あの…… こんなときこんなこと言うのは悪いかなって思うんだけど…… 今度あたしと手合わせしてもらえないかしら……」
ケイナは思わずリアの顔を見た。
「ケイナは外で訓練を積んできてたんでしょ? あたしに手ほどきしてもらえない?」
「断わる」
きっぱりとしたケイナの言葉にリアは口を歪めて目を伏せた。
「そう言うと思ったわ」
リアは首を振った。
「でも、私、もっとちゃんと剣を使えるようになりたいのよ。それ以外に何もできることがないんだもの」
ケイナは何も言わなかった。どう懇願されてもリアに剣の手ほどきをする気は毛頭なかった。
「悔しいの。私はハーブの知識もないし、医術も占術もできない。料理もできない。せいぜい子どもの相手をしてやれるってことくらいだわ」
「それでいいじゃないか」
ケイナはリアを見つめて言った。
「子どもは『ノマド』でなくったって貴重な存在なんだ。その子供の相手ができるんなら十分だろ。教えてやれよ。『ノマド』での生き方を」
そう言ってケイナは再びリアから目をそらせた。
「トリのそばにいてやれよ。兄妹なんだろ。彼はそんなに体が強くない」
「いくら兄妹でも、いつかは離れなくちゃいけないわ」
リアは少しため息をついて足元に視線を落とした。
「兄さんだって、いつかは結婚するわ。あたしがいつまでもそばにいちゃ悪いわよ」
「それはお互いさまだろ……」
「ケイナ……」
リアは思わずケイナが身構えそうになるまで近づくと、ケイナを見上げた。
「ほんとに何も覚えてないの?」
ケイナは目を細めてリアを見た。
「昔のこと、あたしたちと一緒に暮らしたこと、何も覚えてないの?」
リアの目にはすがるような色が浮かんでいた。
ケイナはリアの目を見つめた。薄やみの中でリアの整った顔の造作がくっきりと陰影となって浮かび上がっている。気性が荒い癖に、彼女の表情はいつも泣き出しそうな感じだ。
「あたしたち、何も剣だけを振り回して遊んでいたわけじゃないのよ。森に行ってハーブも摘んだ。一緒に水あびもした。ケイナはあたしのことをきれいだと言ってくれたわ。あたしもケイナが大好きだった。夜はふたりで抱き合って眠った」
これ以上リアにせっつかれるのは避けたかった。ケイナはリアから目をそらそうとしたが、リアはそれを許さなかった。視線の先に回り込むリアをケイナは睨みつけた。
「あたしたち、結婚しようって約束してたのよ。大人になったら結婚しようって」
「子供の頃の話だろ……」
ケイナが口を挟もうとすると、リアはさらにケイナに顔を近づけた。
「子供の頃の話でも、ずっと待っていたのよ。必ず帰って来るって信じてた。急にいなくなって、毎日泣いて暮らしたのよ。一緒にいるってあなたは約束してくれたのよ」
リアのかすかに花の香りを含んだ呼気がケイナの顔にかかった。
「ケイナはきれい……。ケイナの髪に指を絡めて眠るのが大好きだった。私たち、キスしながら眠ったのよ」
リアはそっと指を伸ばすとケイナの髪に触れて言った。ケイナの目が険しくなった。
細くしなやかな指先の感触は決して嫌悪をもたらすものではなかったが、どうしようもなく気持ちが苛ついた。
「キスしてよ。昔みたいにキスしてよ。どうして帰って来たのに知らん顔するの」
そのリアの言葉にケイナは一瞬苛立ちの表情に顔を歪めたあと、リアの頭を掴んで自分に引き寄せた。