「あれ?……」
 セレスが何があったかを理解するより早く、ケイナは池に走り寄るとあっという間に飛び込んでいた。
 ケイナは池の中心あたりまで泳ぐと大きく息を吸って水の中に潜っていった。
 岸から見た感じでも中心あたりはかなり深かったはずだ。リアでも背は立たないだろう。
 セレスは息を詰めてふたりが水面にあがってくるのを待った。
 しばらくしてケイナがリアの頭を抱きかかえて浮かび上がってきた。
 岸まで泳いできたので、セレスは水に漬かりながらリアの体をケイナから受け取って引き上げた。
 リアは意識はしっかりしていたが顔をしかめている。咳をして少し水を吐いた。
「水、飲んだ? 大丈夫?」
 セレスがリアの背をさすった。
「足が痙攣したのか?」
 セレスはリアが右足を押さえるのを見て言った。
「もう、いやんなっちゃう……」
 リアは髪からしずくを垂らしながらつぶやいた。
「足、見せてみろ。」
 ケイナはずぶぬれでリアに近づくと、彼女の足に手をかけた。リアの白い足が剥き出しになって、セレスは思わず目を反らせた。
「虫に刺されたのか……? いつのだ、これ……」
 ケイナはリアのふくらはぎの裏に赤く腫れた点を見つけてつぶやいた。直径が4センチほどにふくれあがっている。
「ゆうべ、あんたたちを迎えに行くのに森に入ったときかもしれない……。虫避けの薬を塗るのを忘れたの」
 リアは濡れて顔に貼りつく髪を後ろにかきあげながら答えた。
「わたし、足は痛みを感じる神経が足りないのよ」
 セレスははっとしてまじまじとリアを見た。リアはそんなセレスを見て笑った。
「指は熱を感じないの。でも、同情なんかしないでね。わたしは不自由を感じたことなんかないんだから。時々こんなふうに思うようにならなくて悔しいだけよ」
 そして彼女は髪の先からしずくを垂らすケイナを見上げた。
「小さいときはケイナがよく庇ってくれてたのよね……」
 セレスはケイナの顔を見た。ケイナは黙ってリアを見つめていたが、やがて立ち上がると言った。
「とりあえず、テントに戻ろう」
 そしてリアに手を差し出したが、リアは首を振った。
「ひとりで帰れるわ」
 彼女は少しよろめきながら立ち上がると、脱ぎ散らかした服をとりあげようとしたが、案の定、腫れた足がうまく動かずよろめいた。
 そばにいたセレスが慌てて手を伸ばしたが、リアの柔らかい胸が腕に触れたのでセレスはみるみる顔を赤くした。かすかに彼女の髪から立ちのぼる花の香気が鼻をくすぐる。
 ケイナはため息をつくとリアの体に手を回して軽々と彼女を抱き上げた。
「セレス、リアの服を持ってやって」
 ケイナがそう言ったので、セレスはリアの服を拾い集め、リアを抱いて歩き始めたケイナのあとに続いた。
 リアはケイナの首に手を回してしがみついている。
 自分で歩けるって拒否していたくせに、ケイナが抱いてくれるとしがみつくんだ……。
 ケイナの肩に頭をもたせかけているリアの姿を見ながら、セレスは妙な気持ちにとらわれていた。
 何だろう、この気持ち……。なんだか今すぐにでもリアをケイナの腕から引き摺り下ろしたいような気分だ。
 セレスは思わず首を振った。そして自己嫌悪に陥った。
(おれ、どうかしてる……)
 トリのいるテントにリアを連れていくと、トリは丁重にふたりに礼を言った。
「ちょっと彼女に意識をそんなに向けられなかったもので……」
 トリはリアをケイナから受け取るともう一度礼を言ってテントに入っていった。
 セレスとケイナはそれを確かめて自分たちのテントに向かった。
 途中でケイナが小さなくしゃみをひとつした。
「大丈夫? 風邪ひいたんじゃない?」
 セレスが言うと、ケイナは肩をすくめた。
「風邪なんかひかねえよ。昔から免疫力が普通と違うんだ」
 それを聞いてセレスは笑った。 そしてためらいがちにケイナに言った。
「ねえ、ケイナ。リアがあんなふうだったって知ってた?」
「あんなふうって……?」
 風邪はひかないと言いながら、ケイナは鼻をすすりながらセレスを見た。
「リアの足のことや手のこと」
「覚えてるわけねえだろ」
 ケイナは即座に言い放った。セレスはまだ何か言い足りなく思えたが口をつぐんだ。
 言えば言うほど不本意なことを口にしてしまいそうだった。
 女の人って、あんなふうに柔らかくていい匂いがするものなんだ……。
 セレスはリアを抱きとめたときのことを思い出していた。
 リアは美人だし、頭も良さそうだ。
 ケイナだって男だ。あんなリアを抱いていったいどんな気持ちなんだろう。
 ケイナの顔を見たが彼の表情からは何も感じ取れなかった。
 フィメール……。
 ふと思い出した。夢の中でケイナはそう言った。
 自分にもフィメールの部分があると。
 この目の前のケイナはそのことを知っているんだろうか。
 セレスは自分の腕や足を眺めた。おれ、やっぱりどう見ても女じゃないんだけど……
「腕がどうかしたのか?」
 それに気づいてケイナが言ったので、セレスははっとして顔を赤くした。
「あ、いや、なんでも……」
 どぎまぎしながら答えるセレスをケイナは不審そうにしばらく見つめていたが、テントに入る前に今度は大きなくしゃみをした。
『いくら人とは違っても、ケイナも人間だから……』
 セレスは思った。

 その頃、トリはリアの足に薬を塗ってやっていた。
「すまなかったね。ちゃんと見てやれなかった」
「兄さんのせいじゃないわ。わたしが薬を塗っておかなかったからいけないのよ」
 リアは答えた。
「リア」
 薬を塗り終えて、トリはリアの顔を見上げた。
「ケイナはおまえのことは覚えていないよ。もし思い出しても、そばにいるのはもうおまえじゃない。あの子には太刀打ちできないよ」
 リアの顔がみるみる苦痛に歪んだ。
「どうしてよ…… どうしてそんなこと言うの……」
「リア……」
 トリは辛そうにリアを見つめた。
「ケイナが帰ってくるって言ったのは兄さんよ。それなのに、どうして今ごろそんなこと言うの」
「ぼくにだって全部が全部見えるわけじゃないよ。ケイナがあの子を連れて帰るまでは分からなかった」
「悔しいわ。あの子のことになるとケイナは本当に敵でも見るような目でわたしを見るわ」
「それはおまえが不用意に剣を向けるからだ」
「わたしがずっとケイナのそばにいたのよ。ずっとずっとケイナのそばにいるって決めていたのよ。ふたりでいつも抱き合って眠ってたのよ。それをどうして……」
「おまえが記憶にとどめている彼からすでに11年もたっているんだ。子供の頃のようなわけにはいかない」
「そんなことないわ!」
 リアは叫んだ。
「わたしはケイナが好きよ! ケイナも好きだって言ってくれてたわ。そのことを忘れてるはずがないわ。あんな子が何なの! 頭が悪そうな子供じゃないの!」
 トリはため息をついてリアを見つめた。
 何をどう言ってもリアは決して納得しないだろう。
 ケイナがいない間も彼女がずっとケイナのことを考えつづけていたのは知っていた。
 でも、リアはケイナに関する記憶を一部消されたままだ。
 ケイナのことを神聖化し過ぎている。何だろう、この意固地さは。何かを認めたくないような意固地さだ。
 同じ双児のせいなのか、リアの心の深淵だけはトリにもどうしても読めない部分があった。
 どうすればいいのかまだ判断できなかった。
 ただ、彼女の存在がケイナの重荷にならなければいいが、と思った。