トリは急いでテントを出てケイナを追った。そして早足で歩いて行く彼の腕を掴んだ。
「きみは足が速いね……」
「気安く触るな!」
 ケイナは振り向きざまにトリの手を振り払った。
「見せようかどうかと迷うんなら、見せるな。こんな人たちを…… おれが殺したのだと、そう思わせたいのならもう充分だろ! これ以上……」
「ユサはまだ生きてるよ。地球にいる」
 ケイナの声を遮ってトリは言った。ケイナははっとしてトリを見つめた。
「リアと一緒で、あの事件のことだけはごっそり記憶を封印してる…… でも、彼女は生きてる。マレークは病気で死んだと彼女は思ってるはずだ……」
 ケイナの目に戸惑いの色が浮んだ。
「思い出して欲しかったんだ」
 トリは言った。
 トリは一枚の紙をとりだしてケイナに突き出した。
「殴られるかな……」
 トリは笑った。
「例のごとく、ぼくの父のおせっかいだ。きみたち家族を映像にとって出力した」
 ケイナは紙に目を向けた。ユサとマレークと幼い頃の自分が写っている。下に華奢な文字で『お帰り、ケイナ』と書いてあった。
「マレークの字だよ……」
 トリは言った。
「マレークは几帳面な字を書いた……。彼はこの言葉が気に入ってくれてたんだ。ぼくらにはね、こんにちはや、いってらっしゃいや、おめでとうより大切な言葉があるんだよ」
 ケイナはもう聞きたくない、というように顔をそらせた。
「ぼくらはもっと早く決心するべきだったのかもしれない。ぼくにもっと確固とした予見の力があれば、きみを早く迎えに行けたのかもしれない。自責の念に駆られているのはぼくらのほうだよ」
 ケイナの苛立たしそうな表情は変わらなかった。
「すまなかった、ケイナ…… ずっとひとりだと思っていたんだろうね……」
 震える息をがケイナの口元から漏れた。
「誰も来ないから泣いてもいいよ」
 トリは笑って言った。
「今ここで泣いておかないと、後悔するよ。これから勝負するんだから」
 ケイナはトリから目をそらせたままだ。
「きみはもう分かってるんだろ。ぼくはごっそり遺伝子分析の機器をこっちに運んでる。セレスときみを助けるよ」
「マレークは…… おれを連れて来たことを後悔しただろうか……」
 ケイナはつぶやいた。
「まさか」
 トリは答えた。
「最期まで、マレークの心にはきみへの愛情しかなかった。ぼくはそれを感じたから、あのとき全部の力を使ってきみを封印したんだ……」
 ケイナは思わず自分の口を押さえた。漏れそうになる声をこらえるかのようだった。
「お帰り…… ケイナ」
 トリはそんなケイナを見て言った。
 ケイナの目から大粒の涙が地面に落ちた。

 テントに戻って来たときケイナは平静を取り戻していた。
 セレスはケイナの顔を覗き込んだ。
「大丈夫? ケイナ」
 ケイナは怒ったような顔で何も答えなかった。
「鼻の頭、赤い」
 アシュアがにやにやしながら言ったので、ケイナは思わず自分の鼻先に手を触れかけて彼を睨みつけた。
「おれたちの前でも平気で泣けるようになってくれると嬉しいんだけどな」
「うるせえ!」
 ケイナはそう怒鳴ると再びテントの外に出て行ってしまった。
「おまえは大丈夫か?」
 アシュアはセレスに尋ねた。セレスは少し笑みを浮かべてうなずいた。
「まだよく分からないんだ……。ショックのような実感ないような……。これから少しずつトリが話してくれるんだろうけど…… 大丈夫だよ。ここに来たらいいふうにいくような気がする。『ノマド』はきっとおれたちの味方になってくれるよ」
「そうだと…… いいな」
 アシュアはうなずいた。

 日が暮れて森の中は闇に包まれた。
 3人は用意してあった食事をつついたが、いつもはたくさん食べるアシュアも疲れ切ったような感じであまり食欲がなさそうだった。彼は食事を取るとさっさとベッドに潜り込んだ。
「アシュア、体流さないの」
 セレスは言ったが、アシュアは毛布の影から手をひらひら振った。
「んん、明日の朝……」
 アシュアは昨日もそのままだったはずだ。
「ほっとけ」
 どうしよう、という顔でケイナを見ると、彼は不機嫌そうな顔でそう突っぱねた。

 セレスはまんじりともしないでベッドの上でテントの頂点を見つめていた。
 アシュアは高いびきをかいている。ケイナも眠ったかもしれない。
 今日はとても疲れただろう。
 辛かっただろうな……。
 『グリーン・アイズ』というのはみんなあのような運命を辿るのだろうか。
 ケイナがもし『グリーン・アイズ』の血を引いているとすれば、ケイナの暴走体は『グリーン・アイズ』の血から来たものだったのだろうか。
 じゃあ、自分は? おれもいずれは暴走体に乗っ取られてしまうんだろうか……。
 自分を愛してくれた人や、好きな人も誰かれ構わず殺そうとしてしまうんだろうか。
 いや、もし、おれが『グリーン・アイズ』だとしたら、兄さんや、父さんや母さんはいったい誰?
 考えても、考えても何の結論も出なかった。
 無理に目を閉じてみたが、やはりとても眠れそうになかった。
 ゆうべも眠っていないのに……。
 ふいに、隣のベッドで眠っているはずのケイナが身を起こしてベッドから出る気配を感じた。
 暗闇の向こうでケイナはテーブルに近づき、どうやら水を飲もうとしているらしかった。
「ケイナ」
 セレスはアシュアを起こさないように小声でケイナに声をかけた。
「なんだ…… 起きてたのか……」
 少しびっくりしたような声が聞こえた。
「なんだか全然眠れないんだ」
 セレスは言った。
「おまえ、ゆうべも眠ってないだろう」
 ケイナはそう言ってしばらく躊躇するように沈黙してから再び口を開いた。
「おれ、外に行こうかと思ってるんだけど……」
 その言葉を待っていたようにセレスは起き上がった。

 テントの外はぽつんぽつんと小さな焚火がいくつかあるだけで静まり返っていた。
 みんな眠っているのだろう。。
「アシュアは、いつどんな時でも眠れるんだね」
 セレスはテントを振り返って言った。
「だから、おれたちはアシュアに助けてもらえるんだよ」
 ケイナは答えた。セレスはうなずいた。
 確かにそうだった。眠れるときにアシュアが眠ってくれるからこそケイナをおぶってここまで来れたし、どんなときでも彼はどっしりと構えていてくれる。
 たとえケイナがいたとしてもアシュアがいなかったらできなかったことは多い。
 ふたりはテントの間をぬい、森の中へ入っていった。
「ケイナ……」
 セレスはためらいがちに声をかけた。
「おれたちっていったい何だろう……」
「さあ……」
 ケイナはつぶやいた。
「トリは遺伝子分析の機器をごっそりこっちに持って来てるって言ってた。それだったらいろいろ分かると思う」
「遺伝子分析?」
 セレスはびっくりしたようにケイナを見た。ケイナは歩きながら髪をかきあげた。
「おれは小さい頃から定期的にカンパニーで検査をされていて、検査の目的は全く知らされていなかった。血液を取ったり、脳波を調べたり、いちいち運動能力を測定されたり…… おれひとりのそんなことを調べまくっていったい何の得があるのかと思っていたけど…… もともとあいつらはそういう目的でおれを作ったんだろうな……」
「作ったって…… どういうこと?」
「それを今から調べるんだろ」
 ケイナは仏頂面で答えた。
「調べたら何が分かるの?」
 ケイナはセレスをちらりと見たが、何も言わなかった。
「こっちにきれいな池があったよ。」
 セレスは昼間行った池のほうを指差した。ふたりはそちらに向かって歩き始めた。
 池に着くとケイナは水辺に近づいて手をつけた。
「地下の動力で水温が高いんだな……」
 彼は言った。
「地下の動力?」
 セレスは目を丸くした。
「『コリュボス』は地下に衛星維持の動力設備を埋め込んでるんだ。適当に作った地形なんだろうけど、たぶん、ここは地下の余った熱量を放熱するための池なんだろう。放熱と飲料用と…… 前に行った湖も半分はその理由からだ。昼間だったら泳ぐけど夜はごめんだ」
 ケイナがそう言ったので、セレスはくすくす笑った。
「ケイナはほんとに水が好きなんだね」
「水を飲んだり、水につかってるとほっとするんだ……」
 ケイナは草の上に腰をおろすと、仰向けに寝転がって答えた。
「ふうん……」
 セレスもケイナの隣に腰をおろした。
「ねえ」
 セレスはためらいがちに言った。
「おれも、前の『グリーン・アイズ』のようになると思う?」
「トリはもうおれたちには負の力はないって言ってただろ」
 ケイナは答えた。
「でも、ケイナも暴走体を持ってただろ? 同じ『グリーン・アイズ』の血を引いているなら、おれだって……」
「そのときには今度はおれがおまえの中に入って暴走体と戦ってやるよ」
 ケイナは空を見つめたままつぶやくように答えた。
「ケイナが?」
 セレスは目を丸くした。ケイナはそれを見てかすかに笑みを浮かべた。
「おまえがそうしておれを助けてくれたんだ。今度はおれが助ける」
 セレスはまじまじとケイナの顔を見た。
「なんだよ……」
 ケイナは顔を赤らめるとセレスを睨んで目を反らせた。
「ケイナが、そんなふうに言ってくれるなんて思わなかった……」
 セレスは言った。
「なんか…… 嬉しいや。ケイナがそばにいてくれて良かった。ちょっと安心したよ」
 ふいにケイナは身を起こすと髪をかきあげた。戸惑ったような表情をしている。その顔を見てセレスは言った。
「ケイナ、さっきのマレークの日記を見て、いろいろ思い出した?」
 ケイナはかぶりを振った。
「漠然と…… 楽しかった頃の記憶はあるけれど…… トリとリアやマレークのことは全然覚えていない……。きっと、記憶を消されてるんだろ……」
「全く、何も?」
「『ノマド』の…… 慣習で…… ひとつだけ…… 思い出した」
 ケイナは膝を抱えた。
「お帰りって…… 言うんだ……。誕生日とか、嬉しいときとか、ほかの挨拶の言葉は普通に使うこともあるんだけど、大切な人や大切なときに…… お帰りって…… 言うんだ……」
「……いい言葉だね」
 セレスはうなずいた。
「だからあのときお帰りって言ってたんだ……」
 ケイナは目をしばたたせた。
「さっき、やっぱり泣いてた?」
 セレスが悪戯っぽく言ったのでケイナが険しい目を向けて何かを言おうとしたとき、ふいにふたりは背後に気配を感じて振り向いた。
「なにしてるの? こんな時間に」
 リアがふたりを見てびっくりしたような顔で立っていた。
「リアこそ……」
 セレスは不思議そうにリアを見つめた。
「あたし?」
 リアは肩の髪を後ろにぱさりと投げた。
「水浴びしに来たの。あんたたちも水浴び?」
 そう言うとリアが平気で衣を脱ぎはじめたのでセレスは度胆を抜かれた。
「リ、リア!」
 セレスが素頓狂な声をあげたので、リアはさらに怪訝な顔をした。
「嫌ならあっち行ってよ。ここじゃみんなこんなもんよ」
 リアはくすくす笑った。
「全部脱ぐわけないじゃない。あんたたちも泳いだら? 気分が晴れるわよ」
 リアは薄い衣を一枚だけ残すとさっさと水の中に飛び込んでいった。
 しかし剣は腰につけたままだ。
「かたときも剣を離さねえ……」
 ケイナは呆れたようにつぶやいてリアを見つめた。
「おいでよ! セレス、あんた泳げるでしょ?!」
 リアはすぐに池の一番深いまん中あたりまで泳いでいくと、ふたりに手を振ってみせた。
「ケイナ、テントに戻ろう」
 セレスは言った。ケイナはうなずいて立ち上がった。
「なによ、面白くないったらありゃしない……」
 リアが悪態をつくのが聞こえたが、ふたりは知らん顔をして池のそばから立ち去ろうと背を向けた。
「ケイナ!」
 リアが叫ぶのが聞こえた。
「昔は一緒に泳いだりしたじゃない! ねえってば…… あっ…… ぐっ……」
 ケイナがはっとしたように振り向いた。セレスも彼女の声の異変に気づいて池に顔を向けた。
 さっきまであったはずのリアの姿がない。彼女がいたとおぼしきところに水の輪が広がっていた。