Toy Child -May This Voice Reach You-

 夕方になってリアがテントに顔を覗かせた。
「トリがもしよければテントにいらっしゃいって言ってるわ」
 アシュアはつい数分前に目覚めて大欠伸をしていたが、リアの顔を見た途端に不機嫌そうな表情になった。
 しかし、リアはそんなアシュアの様子には全く頓着しないようだ。
「どうぞ」
 リアに促されて3人は外に出た。
 森の中は再び薄闇が訪れていた。
 セレスはリアが神経質そうに剣の柄をいじくっているのを見た。
 何がそんなに彼女を駆り立てるのだろう。また隙あらば挑んでみたいと彼女が思っているのがよく分かる。
「お兄ちゃん!」
 聞き覚えのある子供の声がしたのでセレスが振り向くと、クレスが顔を赤らめて走ってくるところだった。
「これ、見て」
 クレスは木で作った馬を得意そうに掲げて見せた。子供の手のひらに乗るほどの小さなものだ。5歳の子供が作ったにしてはなかなかいいできばえだった。
「上手だね」
 セレスは笑みを浮かべた。
「ほんと? じゃあ、あげる」
 クレスはセレスに差し出した。セレスは面喰らった。
「え、でも……」
「穴、あけてあるの。これにね、ヒモ通すと首にかけられる」
 クレスは馬の首のところの小さな穴を指差して言った。
「せっかく作ったんだろ?」
 セレスはクレスを見た。クレスは笑った。
「みんなに1個ずつ作るよ。ケイナもあげるね」
 クレスがケイナを見たので、セレスは振り返ってケイナの顔を見た。彼がいい返事を返せるかどうか心配だった。
 ケイナは案の定あまり嬉しそうな顔はしていなかったが、かすかに笑みを浮かべてクレスを見た。
「楽しみにしてるよ」
 アシュアがその後ろで欠伸をしている。
「おれのはもうちょっとデカイのな」
 アシュアの言葉にクレスは嬉しそうにうなずいた。そして再びケイナを見た。
「ケイナはどうしていつも怒った顔をしているの?」
 セレスは顔をしかめてケイナの顔をちらりと見た。子供にくらい愛想よくすればいいのに、と少し思った。
「なんでだと思う?」
 ケイナは言った。クレスは小首をかしげた。やがてにっこりと笑った。
「リアがずっとケイナを睨んでいるからだ」
「当たり」
 セレスはそれを聞いてはっとして振り向いた。
 知らない間にケイナの右手にはリアの剣が握られていた。
 その切っ先は彼女の鼻先につきつけられている。
「ケイナ!」
 セレスは思わず叫んだ。アシュアを見ると、にやにや笑っている。
「おれの後ろで殺気を飛ばすな」
 ケイナはリアに言った。
 いったいいつの間にリアの腰から剣を抜き取ったのだろう。セレスは呆然としてケイナを見つめた。
 何より仰天しているのはリアのほうだった。
「リアの負けだ!」
 クレスが叫んだ。
「あっちへおいき!」
 リアは真っ赤な顔をして怒鳴った。クレスは笑い転げて走っていった。
「剣を返して」
リアはケイナを睨みつけて言った。
「あんたの殺気と気配なんかとっくに覚えたよ。あんまり度を越すと本気で怒るぞ」
 ケイナは少し怒気を含んだ声で言った。
「剣を返してよ」
 リアは再び言った。ケイナは柄をくるりと回すとリアに差し出した。
 彼女はひったくるようにして剣を受け取ると、もどかしそうに腰の鞘におさめた。そしてケイナをもう一度睨みつけると再び歩き始めた。3人はそのあとに続いた。
 セレスは満足そうな笑みを浮かべるアシュアの横腹をつついた。
「アシュア」
 たしなめるように小声で言ったが、アシュアはにやにやしたまま知らん顔をしてそっぽを向いた。嬉しくてしようがない、といったふうだ。セレスはため息をついた。

 朝来た長老のテントに入ると、トリがテーブルに向かって小さなデータディスクのようなものを積み上げていた。
 彼は4人の姿を見ると笑みを浮かべた。
「少しは休めましたか?」
「おれはもう元気一杯だけどね」
 アシュアが上機嫌で答えた。セレスは呆れたように首を降った。
「どうぞ」
 トリは椅子をさして促した。
 テーブルの上にはカップと温かいお茶の入っているらしいポットが乗っている。
 リアが椅子に座ろうとしたとき、トリは彼女を手で制した。
「リア。きみは外に行きなさい」
 リアの顔がぱっと赤くなった。
「はい……」
 彼女はうなだれるとすごすごと出ていった。トリは今までのことが分かっていたのかもしれない。
 セレスはしょんぼりとしてテントを出ていくリアを複雑な思いで見送った。少し可哀相な気もしないでもなかった。
「彼女のことは心配しなくていいんですよ」
 セレスの心を読んだようにトリは言った。
「相手になるような者がいなくて。きみたちが来たので嬉しかったんでしょう」
「冗談じゃねえよ。いちいち剣で襲いかかられたんじゃ身がもたねえ」
 アシュアは吐き出すように言った。トリは微笑んだ。
「彼女は少し痛い思いをしたほうがいい。『ノマド』の武器持ちはあくまでも防衛のためなのですから。けしかけるなんてもってのほかです。あまりしつこいようなら厳しく接してもらっても構いません。いい薬だ」
「リアは……」
 セレスはリアの出ていったテントの出口を見て言った。
「リアは…… そんなに人と戦ってみたいかな…… おれ、分からない……」
「彼女が棒っ切れを剣代わりに振り回して遊び始めたのは1歳くらいのときです。それ以来棒が剣に変わっただけで全く同じです。生まれついて猫のように敏しょうだし、勘も鋭い。身の内に溜まるエネルギーを出したくてしようがないんでしょうね。でも、しょせんそれだけだ。本当に本気で戦ったこともなければきちんとした武術のレクチャーをされたわけでもない」
 トリはポットを持ち上げてそれぞれのカップにお茶を注ぎながら答えた。
「きちんと指導されればかなりの戦力になると思うけどね」
 アシュアが目の前に置かれたカップを口に運びながら言った。
「不用意に剣を振り回すこともなくなるぜ」
 毛嫌いしているわりには冷静なことを言うアシュアをセレスは訝し気に見た。アシュアはそれに気づいて肩をすくめてみせた。
 トリはアシュアの言葉を聞いて少し寂し気な笑みを浮かべた。
「『ノマド』では必要ないんです。そんな力は」
 そして視線を泳がせた。
「昔から男のように走り回っていたリアがどうしても勝てなかったのが、ケイナですよ」
 興味がなさそうに自分の手許を見つめていたケイナが目をあげた。
「勝つも負けるもないだろ…… おれがここにいたのは4歳までだ。」
 ケイナは肩をすくめて嘲笑するように口を歪めた。
「4歳までじゃないですよ.」
 トリは答えた。ケイナは目を細めた。トリは少し眉を吊り上げて目を伏せた。
「きみが覚えているのが…… 4歳までだ、ということです。……実際はそれからさらに2年、きみはノマドにいたんです」
「そんなはずはない……」
 ケイナはトリを見つめて言った。
「レジーやユージーのことを覚えてる…… おれは2歳年上のユージーのあとを追いかけて…… ユージーはあのときロウスクールの3年生だったし、おれはレジーに引き取られてすぐにスクールに入って、ユージーはしばらく一緒に登校して……」
 ケイナはふと言葉を切って視線を泳がせた。
 記憶が合わない。そんなことに今まで気づかなかった。
 セレスはケイナの顔を心配そうに見た。ケイナの目に動揺が浮んでいる。
 アシュアは厳しい表情でじっとトリとケイナを見つめていた。
「私もそれに気づいたのは長老になってからでした。私はそれまできみと同じように記憶を封印されていたんです。リアも同じです。でも、リアは今も全部を思い出してはいません。もし思い出していたら、滅多なことできみに剣など向けられませんよ。彼女の記憶にあるのはきみとの楽しい思い出だけだ。あのとき、きみと一緒のコミュニティにいた者は、いまでも一部の記憶を閉じ込められたままだと思います」
「なんで?」
 セレスは思わず口を挟んだ。
「なんで記憶を封じ込めないといけなかったんだ……」
「ケイナ……」
 トリはテーブルの隅に積み重ねられた小さなデータディスクの山を細い指で持ち上げてケイナの前に置いた。
 ケイナはディスクを見つめてから訝しそうにトリの顔を見た。
「ケイナを『ノマド』に連れてきたのは、『マレーク・ロード』という地質学者です。これは…… 彼がノマドに来てから書いていた…… 日記」
 3人は言葉もなくディスクの山を見つめた
 小さな丸いレコーダーにトリがディスクを差し込むと、目の前に見知らぬ男が現れた。
 彼が『マレーク・ロード』なのだろう。まるで一緒にテーブルについているような感じだ。
 歳は30代後半くらい。髪は茶色で伸びきっていて後ろにひとつにまとめて結んでいた。
 鼻筋の通った理知的な顔だちで、細身だが引き締まった体つきに見える。
 彼は恥ずかしそうに額をこすった。

 『苦手なんだ。こういう姿も一緒に残るやつって。なんだか照れくさい。
 ……だけど、ここにはこのタイプしかないって言うから……。
 まあ、これをケイナが見る頃には笑い話になるよな』

 3人は男の顔を無言で見つめた。

 『ぼくはずいぶん長い間、環境調査研究団に所属していた。
 毎日、毎日、野暮ったい酸素マスクをつけてドームの外の荒れ果てた岩場の土を集めて回るんだ。それをきちんと分析して、レポートにして、地質改善のあらゆる方法論を添付して提出する。
 それがぼくの仕事だった。ぼくはその仕事に誇りを持っていたよ。
 地球は美しい星だ。今はちょっとだけ病気にかかっているだけだ。
 ぼくのやっていることは、きっと未来に役立つと…… そう信じていた』

 『エストランド教授が調査団を辞めてもうどれくらいになるだろう。
 彼は辞めるときにぼくに言った。
 政府は地球の環境改善には興味を持っていないよ、と。
環境汚染は倍々に加速している。彼らは気が遠くなるような時間を要する環境改善に多額のお金を使うくらいなら、別の環境を整えたほうが効率がいいと思っている。
 手始めが植民衛星コロニー2の開発だ。 今はもうすでにコリュボスという新しい衛星に着手している。次が衛星フォリスだ。
 バックアップをしているのはリィ・カンパニーという巨大企業だ。
 あの企業の政府との癒着は誰もが知っているところだが、企業組織力があまりにも強大過ぎて反発することもできない。
 かつては細かく区切られていた地球上の国が、同じ経済基盤を元に存続していく道を選んでから相当の年月がたった。
 人の生命力の衰退の影に気をとられて、東洋のあの小さな企業は密かに野心を燃やしていた。
 気づくのが遅かったんだ。
 先端技術を持っているという理由であまりにも優遇し過ぎた。
 それでも昔は小さな企業だったはずだ。名前も違っていた。
 それがいつの間にかこの経済をリィ一族が牛耳るようになっている。
 ぼくもとうの昔にそのことは分かっていたんだと思う。
 ぼくのやっていることは、名目上のことでしかないんだと……
 ぼくは察していながらそれを認めたくはなかったんだと思う。
 認められっこないよ……。
 ぼくには本当にこの仕事しかなかったんだ……』

 『エストランド教授は「ノマドに行く」と言っていた。
 ほんとうに行ったのかどうか、ぼくには分からない。
 だけど、小さくはあるけれど確実に木々を増やしつつある彼らの仕事を考えると、やる気のない政府の依頼にこのまま一生をフイにするよりは、ノマドに行って彼らと共に木々を植えたほうがいいというのはぼくにも分かる。
 だけど、ぼくにはとてもそんな勇気はなかった。
 彼らの宗教観や、この近代社会の中で小さな森の中にテントを張って、手で湯を沸かして風呂に入って、木々を燃やして料理を作り、病気になれば野草を摘んでそれを煎じたり、変なまじないで治療して…… ぼくが聞いた話はそんなものばかりで、ぼくはそういうのは厭だったんだ……』

 『あの日…… ぼくはいつものように外に土の採取に出かけていた。
 ぼくはね…… その…… あんまり人づきあいがよくなかったんだ。
 不器用だったんだよ。ひとりのほうが気楽なんだ。
 だから助手なんかいない。
 いつもひとりで出かけた』

 『けっこうイライラしていたな。その日は……。
 何が理由ってわけじゃないけど、なんだか無性に空しさを感じていた。
 目の前に広がる岩場は見渡す限り草も木も一本もなくて、荒れた土地だった。
 ぼくはわずか1平方メートルに草が生えているのを生きている間に見ることはないだろう。
 でも、ノマドたちはそれをやってのけていて……。
 ノマドとの技術提携ができれば、地球はあっという間に緑に戻るのにな、と思った……。
 ノマドのコミュニティのひとつが7キロ離れたノース・ドームの外れの森に拠点を構えているらしい、という話を聞いたことがあって、だからそんなことを考えたのかもしれない。
 7キロっていえば、バイクで行ってだめでもすぐ戻れる距離だよな、と……
 人間って不思議だよ。
 ぼくはあれだけ厭だって思っていたのに、ちょっと行ってみるか、なんて考えたんだ。
 ぼくはくそ重い土の入ったサンプルバックを持ち上げて、自分のバイクの停めてある場所まで戻った。
 そのとき、気づいたんだ。
 バイクのそばに変な黒い筒が置いてあったことに』

 『変なものだったな。
 直径が40センチ、長さが60センチほどもある大きな筒なんだ』

 マレークは両腕を広げて大きさをジェスチュアで伝えるような素振りをした。
 彼の目には今でもその筒が写っているのだろう。

 『放射能のメーターを見たら感知していなかったから持ち上げてみた。
 なんだか不思議な重さなんだ。ずっしりっていうわけでもないけど、中に何かが入っているという感触だったな。
 表面はすべすべした金属で、側面にうっすらと継ぎ目のような部分があったけど、どうやって開くのか分からなかった。
 不法投棄物にしちゃなんだか異様だし、こんなところに人が来るはずもないし、気味が悪かったけれど、一応環境調査に携わっていて、こんなもの置いて帰れないじゃないか。
 ぼくはしかたなくそれを持ち帰ることにしたんだ。
 筒をバイクの後部に乗せていたバックを納める箱に入れた。
 バックは肩で担いでいくしかないと思った。
 バランスを取るのが難しくなるだろうが、しかたがなかった。
 そしてバイクのエンジンをかけた。
 その途端に背後でかん高い音が響いたから仰天したんだ。
 振り向くと、さっき入れた筒が音をたてて開こうとしていた。
 びっくりしたよ……。
 その次の瞬間にはバイクを飛びおりて一目散に逃げていた』

 マレークはくすりと笑った。

 『何か音や振動に反応して開くようになっていたんじゃないかというのは察しがついた。
 爆弾みたいなものだったらとんでもないなと思った。
 こんな赤い岩しかないようなところで木っ端微塵になって死ぬのは嫌だしな。
 走れるだけ走って遠ざかって、岩のひとつに身をひそめてじっと様子をうかがった。
 ……だけど、何分待っても何にもおこらない。
 ぼくはおそるおそるバイクに戻った。
 戻ったとたんにどかん、てのはかんべんしてほしいと心から願ったね』

 『口がからからに乾いていた。そしてこわごわ筒を覗き込んで、ぼくはあっけにとられたよ。
 筒は宝石箱が開くようにぱっくりと開いていて、中には透明な筒がもうひとつ入れてあったんだ。
 その中身なんて、絶対誰にも想像できないようなものだったよ。
 どんなに想像力の逞しいやつだってこればっかりは無理だっただろう。
 筒の中には…… 赤ん坊が…… 赤ん坊が眠ってた』

 『急に筒から声がした。
 聞いたこともない女性の声だった。
 彼女は言ったんだ。
 「あなたにこんなことをお願いする失礼をお許しください。
 そして、私が名を名乗ることもできないことをお許しください。
 私たちはあなたのことを調べさせていただきました。
 あなたがひとりで地質調査にでかけることも調べました。
 この子を助けるためにはあなたに託すしかありません。
 どうか私たちの願いを聞き入れてください。
 この子をノマドに渡してください。
 この子はこのままこちらにいると危険なのです。
 彼らならきっと助けてくれます。
 どうか、この子をノマドに渡してください。
 お願いします……」』

 『冗談じゃないと思ったよ。
 ふざけるにもほどがある。こんなばかげた話をどうやって信じろと?
 見も知らぬ人間に勝手に調べられて? いきなり願いを叶えろと?
 ノマドにどうやって渡すんだよと思った。
 無理に決まってるじゃないか。ぼくは何の『願い』も叶えられない。そんな力はない。
 でも、連れて帰るにしたって、ぼくは…… ぼくは子供の育てかたなんか知らない。
 だけど…… だけど……』

 マレークは片手をあげて手のひらを上に向け、じっと見つめた。

 『こんな小さい赤ん坊だった……。
 頭が、ぼくの手のひらにすっぽりおさまってしまいそうなんだよ……。
 きれいな子だった。金色の髪が小さな頭で光っていた。
 眠っていたから目の色は分からなかったけど、口も鼻も小さくて…… 小さくてとても品のある子だった。
 ぼくの親指のさきっぽくらいしかない小さなこぶしを…… 顔の前に握りしめていた。
 その子は…… 生きていたんだ……』

 マレークは手をおろして目を臥せると小さく首を振った。

 『ぼくは人付き合いは悪かったけど、家に猫が一匹いた。
 もう5年以上も一緒に暮らしているやつだ。
 黒と白のブチで、こいつも相当無愛想なやつだったけど、いい相棒だったよ。
 名前はチェシャといった。
 ケイナはきっと知らないな。
 おそろしいほど昔の物語に出て来るネコの名前なんだよ。
 鳴いた顔がな、いかにも人をバカにしてるみたいな笑った感じでな。
 それ見るとくだらないことにいちいち愚痴こぼすなよ、と言われてるみたいだった。
 あいつはぼくが帰らなくなってもひとりで生きていくかな、と思った。
 分からない。
 ぼくは家の鍵は全部締めて出る。
 もしかしたら死ぬかもしれない。
 だけど、気持ちは固まっていたんだと思うよ。
 ぼくは赤ん坊に話しかけていた。
 おまえの命はぼくの大事な友人の命とひきかえだな…… と。
 そしてバイクにまたがったんだ。
 いつものくせでバックを持ち上げて、ばかばかしくなって思わず笑ったよ。
 もう、戻ってくることはないだろうとなんとなく予感していた。
 マレーク・ロードは今日で失踪することになるんだ…… 』
 『ノース・ドームにへばりついている森はそんなに大きな森じゃなかった。
 だけど、ノマドの集落になんかたどり着けるものなのかどうか、ぼくにはさっぱり分からなかった。
 赤ん坊が途中で起きて泣き出したらどうしようかと思った。
 ミルクなんてもちろん持っていないし、水も持っていないことをそのとき初めて気がついた。
 だけど、ずっと眠っていたな。
 ……幸せそうな顔をして。
 ぼくがたどりつけなかったら、こいつも死んでしまうんだな。
 そう思った。
 ぼくは…… そんな楽しい人生でもなかったけど、別に生きてきたことに悔いはなかった。
 でも、もしここで死んだら、猫のチェシャと、この赤ん坊を死なせてしまうことを悔いて死ぬだろうなと……
 なんだかそんなことをぼんやり考えたよ』

 『森に入ってからどれくらい歩き続けたのか覚えていない。気づいたら、目の前に誰かが立っていた。
 導かれるようにその影について歩いた。
 しばらくして、大きなテントがたくさん立っている場所に出た。
 何が一番嬉しかったって、
 出迎えてくれた人たちのひとりの腕にチェシャの姿を見たときだった。
 なんでこいつがここにいるんだ、なんてことはその時は考えなかったな……。
 あの無愛想ネコはぼくの顔を見てミャアと啼いた。
 だから言ったろ?
 つまんないことくよくよ悩むなって。
 そんなふうに見えたよ』

 『ぼくは長老のエリドに筒に入ったままのおまえを渡したんだ。
 彼は言った。
 「苦労しなくてもいいように、出迎えてやってもよかった。
 しかし、本当にきみがここに来る運命なのかどうかを確かめたかった」
 エルドは長老というにはまだ若々しいがっちりとした体格をしていた。
 年の頃は40歳くらいだろう。
 相手の顔をひたと見つめるあたりは長老というにふさわしい表情だった。
 「じゃあ、この子は確かにノマドの子供として育ててくれますね」
 ぼくは言ったんだ。
 そうしたら、彼は笑って言ったんだよ。
 「共に、この子の父親としてここに留まる気はありませんか?」
 呆れて…… そして涙が出そうになった。
「猫まで連れてきて、最初っからそのつもりだったんでしょう?」
 ぼくは…… もうそのときには覚悟はできていたんだと思うよ。
 ノマドで暮らすことの』

 『ぼくはユサと結婚した。
 今、向こうで眠ってる……。
 夜中なんだ。
 こっそり起きてしゃべってる。
 はは……。見つかったら変な顔をされそうだな……。
 ユサは物静かであんまり話をしないおとなしい人だ。
 しゃべることが得意じゃないらしい。
 だけど、ぼくは彼女が大好きだ。
 彼女がたまにぼくのことを「マーク」と呼ぶ声にはいろんな大切な意味がこめられてるんだよ。
 ぼくにはそれが分かるんだ。
 ぼくが結婚を申込んだとき、ユサは最初にケイナにキスをして、それから「マーク」と言ってぼくにキスをしてくれた。
 彼女は…… 子供ができにくい体質で…… ぼくはそのことが彼女に負担を与えるんじゃないかって心配していたんだけど、その…… ぼくも、なんというか、未婚の父であったわけだし……。
 一緒にケイナを育てるということをこんなに喜んでくれるとは思わなかった。
 ぼくはユサを愛してる。
 ケイナ、おまえのことも愛してる。
 守るべき家族ができたって…… こんなに、こう…… 気持ちが充実するものだって、知らなかった。
 そうだ……。
 ケイナ、おまえの名前の由来を教えておくよ。
 ぼくがここに来たとき、みんながぼくを歓迎して宴を開いてくれたんだ。
 ケイナっていうのはそのときに長老が吹いた笛の名前なんだ。
 ここにいれば、わざわざ言わなくてもいずれは分かってしまうことだけどね。
 ぼくがそれを宣言したとき、ユサは「マーク」ってひとこと言ってたしなめるみたいに笑ったけど、ぼくは絶対これしかないと思ったよ。
 ケイナは『神の笛』という意味があったんだ。
 ケイナ、神様というのはおかしいかもしれないけど、
 ぼくはおまえが今のぼくの幸せをくれたと思ったんだ』

 マレークの姿がふっと揺らいで再び現れた。
 長かった髪を少し切ったらしく、ひとつにまとめた先が短くなっていた。
 さっきよりも少し痩せていたが、ずっと健康そうに見える。
 マレークの口調は物静かで遠慮がちな雰囲気があったが、声は前に比べて張りがあった。
 『ノマド』での生活が彼に大きな幸福をもたらしてくれただろうことが見てとれた。

 『ケイナが2歳になった。
 誕生日が分からなかったから、ぼくがここに来た日をおまえの誕生日に決めた。
 もしかしたら本当はもう少し年齢は上になってるのかもしれないな。
 まあ…… 数カ月くらいの差だろうけど……
 おまえは美しい子供だ。最初は分からなかったけれど、瞳の色は深い藍色で金色の髪は風になびくと小さな音色でも聞こえそうな錯覚に陥った。
 カタコトで話す仕種がかわいくてしようがない。
 ぼくだけじゃない。
 ケイナのそばにいるとみんな幸せな気持ちになれるんだ。
 ケイナ、おまえの成長が楽しみだ。
 大きくなれ、ケイナ。
 ぼくはそれを願ったよ……』

 『ケイナが最近双児のトリとリアと一緒によく遊ぶようになった。
 3つ…… いや、4つ歳が離れているのかな。
 トリは内気でほとんどしゃべらない男の子だ。
 彼らの父親のユードが、トリは悪夢をよく見るんだと言っていた。
 ぼくはまだちょっとよく分からないけれど、母親に予見の力があったからその血を引いてるんだということだった。
 大きくなって自分で悪夢を選別できるようになれば明るくなるんじゃないかって、長老のエリドが言っていた。
 リアはおませな女の子だよ。
 チェシャに負けないくらい敏しょうだ。
 あんなに身軽な女の子は見たことがないな。
 ふたりとも朝起きてから眠るときまでずっとケイナと一緒にいたがるんだ。
 トリはケイナといると安心できるみたいだ。
 リアはまるでケイナのことを自分のお人形か何かと思っているようだよ。
 しょっちゅうケイナの頭をなでまわしてキスしている。
 おませだからおまえと結婚するんだって言い回ってるよ。
 はは…… おまえが4歳年上の奥さんがいいって言ってくれればいいけどね。
 あと10年したら、どうなっているかな。
 ノマドにいて良かったのかもしれない。
 外の世界だったら、どうも女性関係でもめそうな気がする。
 ……ばかだな、ぼくは…
 そんなこと、そのときになってみなけりゃ分からないってのに』

 『ぼくは外にいたときのように地質調査をして、それを木々を植える担当者にデ-タ化して渡している。
 ここに来て分かったけど、ノマドの組織構成は極めて簡単なものだった。
 長老がひとりいる。その下に企業なら秘書とおぼしき者がひとりから2、3人いる。あとはみな横並びにみな同じだ。
 外からわざわざノマドに来る人間はあんまりいないようだけど、全くないというわけでもないらしい。
 エストランド教授のことを聞いてみたけど、それは分からなかった。
 でも、もしどこかのコミュニティにいるのだとしたら、どこかで会えるかもしれないな。
 エリドにどうしてぼくをここに受け入れたのか聞いてみたことがあるよ。
 彼は笑って言うんだ。
 「簡単だよ。心がからっぽだったから」
 心がからっぽ?
 無欲とか無我という意味ならぼくはほど遠い状態だと思ったけど……
 まあそれはどうでもいいかと思うことにした。
 でもノマドは本当に分からない種族だ。
 びっくりしたのは、あの原始的なテントの中にものすごい計器類やコンピューターがぎっしり詰められているのを見たときだな。
 ぼくのいた組織も相当に最先端の機器を導入していたと思うけど、こんなのは見たこともなかった。
 なんでこんなものがあるのかエリドに聞いてみたけど、そのうち分かるとか何とか……。
 おまえがもう少し大きくなる頃にはぼくもノマドのことがいろいろ分かってくるようになるのかもしれない』
 『トリが最近浮かない顔をする。
 もともとあまり表情の出ない子なんだが、ケイナを見るときに悲しそうな顔をするんだ。
 ケイナのことが嫌いなのかと聞いたら、そうじゃないって言うんだ。
 ケイナはいい子過ぎて、いつかそれが大変なことになりそうな気がするって……。
 ぼくにはよく分からなかった。
 ケイナ、おまえは確かにいい子だよ。明るくてよく笑う。
 小さな手でお父さん、お父さんとぼくのほっぺたを撫で回すんだ。
 あの無愛想チェシャがおまえにだけはスリよっていく。おまえがしっぽを掴んでも怒らなかったな。
 明日からドームの南側に移動することになった。しばらくは数カ月置きに転々とするんだそうだ。
 少しずつでも緑が増えていくっていうことはぼくの夢だったし、やりがいがあるよ。
 これも、おまえがぼくに与えてくれたんだなと思う……。
 ケイナ、ぼくはおまえが大好きだ。
 大変なことなんて…… 起こりっこない』

 『ケイナが6歳になった。
 ずいぶんと頭のいい子だ。びっくりしたよ。
 ぼくが20歳くらいのときにやっと解いた数式を解いちまった。
 親ばか…… かな。天才じゃないかと思ったよ。
 リアとよく剣士ごっこをしている。
 彼女は昔から棒っきれを振り回していて、ときどきユサがたしなめていたけど聞く耳持たなかった。
 最近はケイナと遊んでも負けてばっかりみたいだ。負けず嫌いだから顔を真っ赤にして怒っているよ。
 ケイナはリアに負けないくらい動きがすばやい。
 どうも見ていると、リアが怪我しないように考えて動いているみたいだ。
 リアは勘が鋭いからそのことをよく分かっていて、それが余計悔しいんだと思う。
 ぼくはあんまりスポーツをしたことないからよく分からないんだけど、なんだかおまえは相手の動きを最初から読んでるような顔をする。
 誰が教えたわけでもないのに、受け身の方法もちゃんと知ってる。
 不思議な子だな……』

 『ユードが刃はついていないけれど、金属製の剣をふたりに作ってやった。
 まあ…… 刃がないんだから大丈夫だとは思うけれど、ぼくはちょっと不安だ……。
 ユサも不安そうにしている。まだ子供だし…… 剣っていうのは戦うためのものだから…。
 困った……。
 ユードは悪気があるわけじゃない。だけど、あの人のやることは時々考えなしだから不安だよ。
 長老のエリドは様子を見ようと言ってるからそれに従うことにする。』

 ふっとマレークの姿が消えた。
 次に現れたときの姿を見てセレスたちは目を丸くした。
 憔悴しきって、まるで病気のような顔色の悪さだ。
 彼はあらわれるなり大きく息を吐いた。

 『リアが…… 高熱を出して寝込んでる。
 ……もう10日になるかな…… いや、もっとかもしれない。
 脳に影響あるほどじゃないし、時々意識が戻るから、大丈夫だとは思うけど…… まだ小さいから早く下げてやらないと体力がもたないんじゃないかと思う。
 ずっとユサがつきそって看病してる。
 ユードはただうろたえてるだけだよ……。
 あの人はほんとうにどうしようもない……。
 ああ…… まずいな……。
 こんな記録はもう誰にも見せられない……。
 あとで消しておかないと……』

 『剣なんか…… やめておけばよかったんだ……。
 子供には棒っきれで充分だよ。
 森の中にふたりでリールをしとめに行ったらしい。
 クマの突然変異種で、夜行性なんだがけっこう気が荒い。
 だけど、刺激を与えなければ人を襲うことなんかないと聞いた。
 誘ったのはリアらしい。勝負をしたんだと。
 自分が負けたら宝物の青い石をやる、だけど勝ったら唇にキスをしろ、とケイナに言ったんだそうだ。
 森から帰ったときは錯乱状態で、聞き出すのがやっとだった。
 ケイナ…… おまえは最後まで行かないと抵抗したそうだな……。
 当たり前だ。
 刃のない剣であんなものに挑むなんて正気の人間がすることじゃない……』
 トリが見ていたから、教えてくれた。
 慌ててエリドと腕っぷしの強いバークを連れて行ったよ。
 見つけたときは、一瞬足がすくんで動けなかった。
 リールは倒れていて、その上におまえは乗っていた。
 リアは気が狂ったように大声で何か訳の分からないことを喚き散らしていた。
 おまえの持っていた刃のない剣はべっとりと血で濡れていて、その血はおまえが嘗めたかのように、おまえの口にもついていた。
 バークがリールの首根っこに剣のささった跡を見つけた。
 刃のない剣が堅いリールの皮膚を突き破って致命傷になるほどの威力があるとは思えないって…… 言っていた……』

 姿が消えて次に現れたマレークの姿は前よりも疲弊していた。
 目は落ち窪み、げっそりと痩せている。
 視線が落ち着かなげにふらふらと動いた。

 『毎晩飛び起きて訳のわからないことを叫び散らして森の中へ走っていく……。
 そのたんびに探しに行く。
 ケイナ、おまえの小さな体が震えながら森の中にうずくまっているのを見つけても、ぼくには抱き締めてやることしかできない。
 いったい何に怯えているのか、何がおまえを狂気に駆り立てるのか……
 ケイナ、お父さんはここにいる。
 ここにいると抱き締めてもおまえに声が届かないんだ……
 ケイナ……。
 お父さんの声が聞こえないか……。
 以前のように笑ってくれ……』

 『昨日からトリが添い寝をすると言ってきた。
 自分ならケイナの悪夢を食べてやれると言うんだ。
 半信半疑で言うとおりにしたら夜の奇行はなくなった。
 だけど、毎日テントに篭りっきりで少しも外に出ようとしない。
 目がぎらぎらして…… 以前のケイナの面影がない……。
 ユサがひどく怯えてる……。
 あんなにケイナを可愛がっていた彼女がケイナの傍に近づこうとしない。
 しかたがないから…… ユードのテントでずっとリアを見るようにさせた。
 ユードはしばらく長老のテントに行く。
 ケイナのそばにはトリがいる。
 だのに、ケイナはトリの顔を見ようともしない。
 トリはずっとケイナの手を握ってる。
 そしてぼくに言うんだ。
 ケイナの横に緑色の目の人がいる、と……。
 ほうっておいたら連れて行かれると……
 ぞっとした……。
 エリドに相談したんだ。
 エリドはあんまり言いたくなさそうだったけれど、話してくれた。
 50年ほど前に緑色の目と緑色の髪の少年がノマドにやって来たんだそうだ。
 美しい顔立ちで、頭も良く、明るく屈託ない性格で、すぐに溶け込んだと。
 20歳くらいでコミュニティの女性と結婚し、女の子が生まれた。
 同じ緑色の目と緑色の髪を持つ美しい子だったそうだ。
 だけど、その子が7歳になったときに事件が起こった。
 親のグリーン・アイズが豹変した。
 しばらく飢えた獣のように目をぎらぎらさせていた。
 数日後、彼はコミュニティの人間を片っ端から殺していった。
 彼は小さな料理用のナイフだけしか持っていなかった。
 それで逃げまどう人を容赦なく彼は切り刻み、最後の一家族が犠牲になろうというとき、彼の娘が彼の前に立ちはだかった。
 ……そして彼を葬った……。
 娘はただひとこと、「ノー」と言ったんだそうだ。
 彼は自分で自分の首を切った……』

 マレークの目から涙があふれた。
 彼はぽたぽたとこぼれ落ちる涙を拭おうともせず、肩を震わせていた。

 『あのとき…… あの筒の中から聞こえた女性は言っていた。
 ……この子はこちらにいたら危険なんです、と。
 そのことに早く気づいていれば良かった……。
 外の世界が危険なのではなく、おまえ自身が危険だったのだ……。
 ノマドはグリーン・アイズのことを知っていた。
 エリドは気づいていたのかもしれない。
 いや、金髪碧眼のおまえとグリーン・アイズを結びつけるのは難しかっただろうか。
 親を葬った娘のグリーン・アイズは行方不明になったとエリドは言った。
 おまえの中にはその血が入っているんだろうか。
 ぼくには分からない。
 だけど、ノマドの中にはたくさん術者がいるんだ。
 もっと幼い頃におまえの中の危険な人格を閉じ込めることだってできたかもしれない。
 でも、もう遅い……
 いや、遅くない……
 ケイナ、頼むから元に戻ってくれ。
 私の息子だ。
 元に戻ってくれ……。
 戻ってくれるんなら、なんでもする』

 マレークの姿が揺らいで消えた。
 ケイナの顔は恐ろしいほど平静で全く無表情だった。
「トリ、ちょっと休ませてやってくれないか」
 アシュアが口を挟んだ。
「セレスが…… やばそうだ……」
 セレスは顔色を青くしてかすかに震えていた。無理もない。自分と同じ緑色の髪と目の者の話なのだから。
「だ、だいじょうぶだよ……」
 セレスは引きつった笑みを浮かべてアシュアを見た。
「そ、それより…… おれ、よく、ここに来れたなって思う…… みんな、おれのこと怖がってるんじゃないの?」
「ぼくが招き入れたんだから、大丈夫だと安心しているんだよ」
 トリは気づかうように言った。
「で、でも、おれ…… おれはもしかしたらその…… グリーン・アイズかもしれないんじゃないの? ある日いきなり人を殺すことしか考えないように……」
 トリは息を吐いて首を振った。
「ぼくには予見の能力があるけれど、今のきみとケイナを見ても何の警告も感じられない。昔の…… あの時のケイナはもっと禍々しさがあった。そばに近づいただけでぼくは肌が切れそうだった。毎日ケイナの悪夢を食べるのはものすごく体力のいることだったんです。でも、今のケイナにはそれがない。もちろん、セレス、きみにも何の負の力も感じないんだ」
「トリ…… マレークは…… どうして死んだ?」
 ふいに口を開いたケイナの言葉にアシュアとセレスはぎょっとしてケイナを見た。
 ケイナは無表情のまま床を見つめている。
「彼が生きているんなら…… 日記は見られないはずだろ……」
 トリは辛そうに目を伏せた。
「ケイナ、きみが彼を殺した」
「トリ!」
 アシュアは思わず口を挟んだ。
「大丈夫だよ」
 トリはアシュアに言った。
「でも……」
 アシュアはケイナがまだ暴走するのではと不安を覚えていたが、渋々口をつぐんだ。
「ぼくの父親のユードは機械を扱うのは得意だったけど、あんまり深くものを考えない人でね。余計なことばかりするんだ。人づきあいが下手だったのかな……。マークが時々父のやることにいろいろ困っているのを幼いながらもぼくは知っていた。剣をリアとケイナに与えたこともマークはかなりうっとうしく思っていたと思うよ。だけど、あんなことになったからって、父が作った剣を無碍に捨てることがマークにはできなかったみたいだ。父は手先が器用だったからね。剣の柄にも一生懸命細かい紋様を彫り込んで、リアにはピカピカに磨いた黒い石を、ケイナの剣には白い石をはめこんでやっていた。父なりの愛情だったんだ。マークにもそれは分かっていたんだろう。
 彼はリールをしとめたその剣をずっとケイナの目の届かないところに置いていた。でも、ひょんなことからケイナはそれを見つけてしまったんだ。
 剣を見た途端、ケイナはリールをしとめたときの高揚感を再び味わいたくなり、剣を持ったままテントの外に出た。そのまま獲物を探し始めたんだ」
 セレスはケイナをちらりと見遣ったが、やはり彼は無表情のままだった。
 しかし、その手がかすかに震えているのをアシュアもセレスも見てとった。右手で包帯を巻いた左手を掴んでいる。
 そうだ、ケイナはアルのコテージで自分を押さえるためにこの手を傷つけた。
 まさかまだケイナの中の邪悪な部分が出て来そうなのだろうか。
 アシュアは眉を潜めた。トリの話をここで打ち切ったほうがいいのではないだろうか。
 アシュアの不安をよそに、トリはそのまま話を続けた。
「早朝で…… まだ、誰も目覚めていなかった。ぼくは隣に寝ていたからケイナがいないことにいち早く気づき、マークを起こしてきみを探しに出た。そして最初に見つけたきみの獲物は…… ぼくだったんだ。
 きみはぼくの姿を見つけて目を輝かせて剣を振りかざした。差し込んだ日の光に金色の髪を輝かせて……。きみの姿は美しくて…… 恐ろしかった……。ぼくはとてつもなく大声で叫んでいたみたいだ。声を聞きつけてマークが駆けつけ、ぼくが目を閉じて自分の命の終わりを覚悟したとき、剣の切っ先は彼の胸を貫いていた……」
 トリは当時のことを思い出しているのか、うつむいた顔がかすかに青ざめていた。
「マークはぼくときみの間に立ちはだかって剣を体で受けていた。彼の後ろにいて、ぼくは彼の背中から見えている剣の切っ先から、彼の血がぽたぽたと垂れて足元の草を真っ赤に染めていくのを見ていた……。
 マークは貫かれたまま最後の力を振り絞ってきみを抱き締めるとそのまま地面に倒れた。ぼくはきみの顔を見た。きみは全くの無表情だった……。足元のマークを見て、きみはひとことぽつりとつぶやいたんだ。『あっけない』と……」
 トリは数回まばたきをして少しためらうような表情をし、そして続けた。
「それを聞いたとき、ぼくは全身の血が逆流したような気持ちになったんだ……。
 ぼくは叫んでいた。『闇の淵へ落ちろ、ケイナ』と……。ケイナ、きみは無へ。二度と目覚めることなかれ……!」
「いっ…… つっ……」
 ケイナがいきなり頭を押さえて椅子の上で体を折った。
 アシュアががたんと立ち上がり、セレスは慌ててケイナを庇うように腕を彼の背に回した。
 トリははっとしたように瞬きした。
「し…… 失礼…… 少し波を飛ばしてしまったかも……」
 ケイナはすぐに身を起こすと、肩で息をついてトリを少し睨みつけた。
「申し訳ない…… 大丈夫かい?」
 トリはすまなさそうにケイナを見た。ケイナはうなずいた。
 この男、なんか妙な力を持っている。
 カインも同じ予見の力を持っているのに、こんな危うい能力はなかった。
 この男は危険かもしれない……。アシュアは思った。
「きみはその場に崩れ折れ、そしてぼくも意識を失った」
 トリは話を続けた。
「あのときのグリーン・アイズは娘が葬った。本来なら同じグリーン・アイズでしか封じ込められなかったはずのきみの力を封じ込めたのは単に幸運だったからなのか、それともきみが金髪碧眼で、純粋にグリーン・アイズじゃなかったからなのか…… それは分からない……。
 でも、自分に出せるすべての力を出し切ったぼくはしばらく廃人のようになった。きみは昏睡状態に陥っていたけれど、もし目覚めたらもうぼくにはきみを封じ込める力は残っていなかった。
 それでも数か月間、きみは意識を失ったままで…… そしてある日、軍が私たちにコンタクトを取ってきたんです」
「ケイナを手放す決心をしたのか……」
 アシュアの問いにトリはうなずいた。
「そうするしかなかった……。そうするしかなかったんです……」
 アシュアは気づかわしげにケイナの顔を見た。ケイナは黙って目を伏せている。
 その横顔からは何を考えているかは分からなかった。
「そんな忌まわしい記憶を作ったのに…… どうして……」
 しばらくしてケイナは目を伏せたままつぶやいた。
 トリはケイナを見つめて言った。
「きみの心はからっぽで……」
 ケイナは思わずトリの顔を見た。
「からっぽっていうのは、何も考えていないのとは違うんだよ……」
 トリは静かに言った。ケイナは戸惑ったように目を伏せた。
 トリはアシュアとセレスを指差した。
「彼と、彼」
 トリは笑みを浮かべた。
「きみの中にはふたりのことしかなくて…… 助けなくちゃ、助けなくちゃって、そればっかりで……」
 アシュアが顔を伏せた。
 ケイナ、おまえ……。
「ケイナ、ノマドは後悔をしている……。きみにだけじゃない。67年前のあのグリーン・アイズのときから、ずっと。……ぼくがどうしてコリュボスに来たか、分かりますか」
 ケイナは黙ってトリを見つめた。
「本当にきみが来るかどうか、運命が本当にそのとおりに動くのかどうか、それを確かめるために1年かかった」
 トリはケイナを見つめ返した。
「ぼくらはもう沈黙しない。ケイナ、ぼくらはきみを迎え、助ける。今度はもう諦めない」
 トリは服の下から小さなディスクを一枚取り出した。
「これ、見せようか見せまいか、迷ったんだ……」
 トリはためらいがちに言った。
「マレークは恥ずかしがりやというか…… 自分の姿を映像に残すことをひどく嫌がったんだ。人間は死んだら土に還る。自分の望みはこの星と一体になってこの星の養分となり命の一部分になることだって。そんなことを時々言ってた。生きているときの姿をいつまでも残すことは悔やみを残すことになるからって……。日記も最終的には誰にも見せるつもりはなかったんだろうね……」
 トリは笑みを浮かべた。
「例のごとく、ぼくの父がいらぬお世話をしたんだよ……。マレークがさっきの日記以外で自分の姿を残したのはこれが最初で最後だった」
 トリはディスクをレコーダーに入れた。
 しばらくして金色の髪の小さな男の子が目の前に立ち、ケイナがぎょっとしたようにかすかに身をこわばらせた。
「ケイナだ……」
 セレスがつぶやいた。
 4歳くらいのケイナだろうか。頬を上気させている。誰もがケイナを見て幸せになったというのが分かるような気がした。目の前に立つケイナは幼く、あどけなく、その笑みは輝かんばかりだ。
『お父さん! お父さん!』
 ケイナは呼んだ。続いて優し気な女性があらわれると、ケイナの髪についていた木の葉のくずを指でつまんで下に落した。
『マーマ!!』
 ケイナは彼女に抱きつくと頬にキスをした。女性はきっとユサだ。豊かな黒い髪を太い三つ編みに編んで背に垂らしていた。
『ケイナ、お父さんは恥ずかしがりやね……』
 彼女は幼いケイナを抱いてくすくす笑った。
『おとうさん、お帰りなさいをしようよ!』
 ケイナが叫んだ。
「やめ……」
 セレスは横にいたケイナがかすかにつぶやいたように思った。
 しばらくして渋面をしてマレークが現れた。
『おとうさん、お帰りなさいをしようよ!』
 再び幼いケイナが叫んだ。
「やめて…… くれないか……」
 セレスが目を向けると、ケイナは両手を握りしめていた。
 マレークは少し恨みっぽい目をこちらに向けた。
『ユード、きみはほんとに……』
『マーク』
 ユサがたしなめた。マレークは目をしばたたせると口をつぐんだ。目の前の3人が抱き合った。
 ケイナががたんと立ち上がった。
「やめろって言ってんだろ!!」
 まん中のケイナにユサとマレークは両側からキスをした。
『おかえりー!』
 幼いケイナの高い声が響き、ケイナは荒々しくテントから出ていった。
「ケイナ!」
 セレスが追おうとするのをトリが引き止めた。
「ぼくが行くよ…… きみたちはテントに戻っていて……」
 セレスはためらったが、不安な顔をしながらもうなずいた。
 トリは急いでテントを出てケイナを追った。そして早足で歩いて行く彼の腕を掴んだ。
「きみは足が速いね……」
「気安く触るな!」
 ケイナは振り向きざまにトリの手を振り払った。
「見せようかどうかと迷うんなら、見せるな。こんな人たちを…… おれが殺したのだと、そう思わせたいのならもう充分だろ! これ以上……」
「ユサはまだ生きてるよ。地球にいる」
 ケイナの声を遮ってトリは言った。ケイナははっとしてトリを見つめた。
「リアと一緒で、あの事件のことだけはごっそり記憶を封印してる…… でも、彼女は生きてる。マレークは病気で死んだと彼女は思ってるはずだ……」
 ケイナの目に戸惑いの色が浮んだ。
「思い出して欲しかったんだ」
 トリは言った。
 トリは一枚の紙をとりだしてケイナに突き出した。
「殴られるかな……」
 トリは笑った。
「例のごとく、ぼくの父のおせっかいだ。きみたち家族を映像にとって出力した」
 ケイナは紙に目を向けた。ユサとマレークと幼い頃の自分が写っている。下に華奢な文字で『お帰り、ケイナ』と書いてあった。
「マレークの字だよ……」
 トリは言った。
「マレークは几帳面な字を書いた……。彼はこの言葉が気に入ってくれてたんだ。ぼくらにはね、こんにちはや、いってらっしゃいや、おめでとうより大切な言葉があるんだよ」
 ケイナはもう聞きたくない、というように顔をそらせた。
「ぼくらはもっと早く決心するべきだったのかもしれない。ぼくにもっと確固とした予見の力があれば、きみを早く迎えに行けたのかもしれない。自責の念に駆られているのはぼくらのほうだよ」
 ケイナの苛立たしそうな表情は変わらなかった。
「すまなかった、ケイナ…… ずっとひとりだと思っていたんだろうね……」
 震える息をがケイナの口元から漏れた。
「誰も来ないから泣いてもいいよ」
 トリは笑って言った。
「今ここで泣いておかないと、後悔するよ。これから勝負するんだから」
 ケイナはトリから目をそらせたままだ。
「きみはもう分かってるんだろ。ぼくはごっそり遺伝子分析の機器をこっちに運んでる。セレスときみを助けるよ」
「マレークは…… おれを連れて来たことを後悔しただろうか……」
 ケイナはつぶやいた。
「まさか」
 トリは答えた。
「最期まで、マレークの心にはきみへの愛情しかなかった。ぼくはそれを感じたから、あのとき全部の力を使ってきみを封印したんだ……」
 ケイナは思わず自分の口を押さえた。漏れそうになる声をこらえるかのようだった。
「お帰り…… ケイナ」
 トリはそんなケイナを見て言った。
 ケイナの目から大粒の涙が地面に落ちた。

 テントに戻って来たときケイナは平静を取り戻していた。
 セレスはケイナの顔を覗き込んだ。
「大丈夫? ケイナ」
 ケイナは怒ったような顔で何も答えなかった。
「鼻の頭、赤い」
 アシュアがにやにやしながら言ったので、ケイナは思わず自分の鼻先に手を触れかけて彼を睨みつけた。
「おれたちの前でも平気で泣けるようになってくれると嬉しいんだけどな」
「うるせえ!」
 ケイナはそう怒鳴ると再びテントの外に出て行ってしまった。
「おまえは大丈夫か?」
 アシュアはセレスに尋ねた。セレスは少し笑みを浮かべてうなずいた。
「まだよく分からないんだ……。ショックのような実感ないような……。これから少しずつトリが話してくれるんだろうけど…… 大丈夫だよ。ここに来たらいいふうにいくような気がする。『ノマド』はきっとおれたちの味方になってくれるよ」
「そうだと…… いいな」
 アシュアはうなずいた。

 日が暮れて森の中は闇に包まれた。
 3人は用意してあった食事をつついたが、いつもはたくさん食べるアシュアも疲れ切ったような感じであまり食欲がなさそうだった。彼は食事を取るとさっさとベッドに潜り込んだ。
「アシュア、体流さないの」
 セレスは言ったが、アシュアは毛布の影から手をひらひら振った。
「んん、明日の朝……」
 アシュアは昨日もそのままだったはずだ。
「ほっとけ」
 どうしよう、という顔でケイナを見ると、彼は不機嫌そうな顔でそう突っぱねた。

 セレスはまんじりともしないでベッドの上でテントの頂点を見つめていた。
 アシュアは高いびきをかいている。ケイナも眠ったかもしれない。
 今日はとても疲れただろう。
 辛かっただろうな……。
 『グリーン・アイズ』というのはみんなあのような運命を辿るのだろうか。
 ケイナがもし『グリーン・アイズ』の血を引いているとすれば、ケイナの暴走体は『グリーン・アイズ』の血から来たものだったのだろうか。
 じゃあ、自分は? おれもいずれは暴走体に乗っ取られてしまうんだろうか……。
 自分を愛してくれた人や、好きな人も誰かれ構わず殺そうとしてしまうんだろうか。
 いや、もし、おれが『グリーン・アイズ』だとしたら、兄さんや、父さんや母さんはいったい誰?
 考えても、考えても何の結論も出なかった。
 無理に目を閉じてみたが、やはりとても眠れそうになかった。
 ゆうべも眠っていないのに……。
 ふいに、隣のベッドで眠っているはずのケイナが身を起こしてベッドから出る気配を感じた。
 暗闇の向こうでケイナはテーブルに近づき、どうやら水を飲もうとしているらしかった。
「ケイナ」
 セレスはアシュアを起こさないように小声でケイナに声をかけた。
「なんだ…… 起きてたのか……」
 少しびっくりしたような声が聞こえた。
「なんだか全然眠れないんだ」
 セレスは言った。
「おまえ、ゆうべも眠ってないだろう」
 ケイナはそう言ってしばらく躊躇するように沈黙してから再び口を開いた。
「おれ、外に行こうかと思ってるんだけど……」
 その言葉を待っていたようにセレスは起き上がった。

 テントの外はぽつんぽつんと小さな焚火がいくつかあるだけで静まり返っていた。
 みんな眠っているのだろう。。
「アシュアは、いつどんな時でも眠れるんだね」
 セレスはテントを振り返って言った。
「だから、おれたちはアシュアに助けてもらえるんだよ」
 ケイナは答えた。セレスはうなずいた。
 確かにそうだった。眠れるときにアシュアが眠ってくれるからこそケイナをおぶってここまで来れたし、どんなときでも彼はどっしりと構えていてくれる。
 たとえケイナがいたとしてもアシュアがいなかったらできなかったことは多い。
 ふたりはテントの間をぬい、森の中へ入っていった。
「ケイナ……」
 セレスはためらいがちに声をかけた。
「おれたちっていったい何だろう……」
「さあ……」
 ケイナはつぶやいた。
「トリは遺伝子分析の機器をごっそりこっちに持って来てるって言ってた。それだったらいろいろ分かると思う」
「遺伝子分析?」
 セレスはびっくりしたようにケイナを見た。ケイナは歩きながら髪をかきあげた。
「おれは小さい頃から定期的にカンパニーで検査をされていて、検査の目的は全く知らされていなかった。血液を取ったり、脳波を調べたり、いちいち運動能力を測定されたり…… おれひとりのそんなことを調べまくっていったい何の得があるのかと思っていたけど…… もともとあいつらはそういう目的でおれを作ったんだろうな……」
「作ったって…… どういうこと?」
「それを今から調べるんだろ」
 ケイナは仏頂面で答えた。
「調べたら何が分かるの?」
 ケイナはセレスをちらりと見たが、何も言わなかった。
「こっちにきれいな池があったよ。」
 セレスは昼間行った池のほうを指差した。ふたりはそちらに向かって歩き始めた。
 池に着くとケイナは水辺に近づいて手をつけた。
「地下の動力で水温が高いんだな……」
 彼は言った。
「地下の動力?」
 セレスは目を丸くした。
「『コリュボス』は地下に衛星維持の動力設備を埋め込んでるんだ。適当に作った地形なんだろうけど、たぶん、ここは地下の余った熱量を放熱するための池なんだろう。放熱と飲料用と…… 前に行った湖も半分はその理由からだ。昼間だったら泳ぐけど夜はごめんだ」
 ケイナがそう言ったので、セレスはくすくす笑った。
「ケイナはほんとに水が好きなんだね」
「水を飲んだり、水につかってるとほっとするんだ……」
 ケイナは草の上に腰をおろすと、仰向けに寝転がって答えた。
「ふうん……」
 セレスもケイナの隣に腰をおろした。
「ねえ」
 セレスはためらいがちに言った。
「おれも、前の『グリーン・アイズ』のようになると思う?」
「トリはもうおれたちには負の力はないって言ってただろ」
 ケイナは答えた。
「でも、ケイナも暴走体を持ってただろ? 同じ『グリーン・アイズ』の血を引いているなら、おれだって……」
「そのときには今度はおれがおまえの中に入って暴走体と戦ってやるよ」
 ケイナは空を見つめたままつぶやくように答えた。
「ケイナが?」
 セレスは目を丸くした。ケイナはそれを見てかすかに笑みを浮かべた。
「おまえがそうしておれを助けてくれたんだ。今度はおれが助ける」
 セレスはまじまじとケイナの顔を見た。
「なんだよ……」
 ケイナは顔を赤らめるとセレスを睨んで目を反らせた。
「ケイナが、そんなふうに言ってくれるなんて思わなかった……」
 セレスは言った。
「なんか…… 嬉しいや。ケイナがそばにいてくれて良かった。ちょっと安心したよ」
 ふいにケイナは身を起こすと髪をかきあげた。戸惑ったような表情をしている。その顔を見てセレスは言った。
「ケイナ、さっきのマレークの日記を見て、いろいろ思い出した?」
 ケイナはかぶりを振った。
「漠然と…… 楽しかった頃の記憶はあるけれど…… トリとリアやマレークのことは全然覚えていない……。きっと、記憶を消されてるんだろ……」
「全く、何も?」
「『ノマド』の…… 慣習で…… ひとつだけ…… 思い出した」
 ケイナは膝を抱えた。
「お帰りって…… 言うんだ……。誕生日とか、嬉しいときとか、ほかの挨拶の言葉は普通に使うこともあるんだけど、大切な人や大切なときに…… お帰りって…… 言うんだ……」
「……いい言葉だね」
 セレスはうなずいた。
「だからあのときお帰りって言ってたんだ……」
 ケイナは目をしばたたせた。
「さっき、やっぱり泣いてた?」
 セレスが悪戯っぽく言ったのでケイナが険しい目を向けて何かを言おうとしたとき、ふいにふたりは背後に気配を感じて振り向いた。
「なにしてるの? こんな時間に」
 リアがふたりを見てびっくりしたような顔で立っていた。
「リアこそ……」
 セレスは不思議そうにリアを見つめた。
「あたし?」
 リアは肩の髪を後ろにぱさりと投げた。
「水浴びしに来たの。あんたたちも水浴び?」
 そう言うとリアが平気で衣を脱ぎはじめたのでセレスは度胆を抜かれた。
「リ、リア!」
 セレスが素頓狂な声をあげたので、リアはさらに怪訝な顔をした。
「嫌ならあっち行ってよ。ここじゃみんなこんなもんよ」
 リアはくすくす笑った。
「全部脱ぐわけないじゃない。あんたたちも泳いだら? 気分が晴れるわよ」
 リアは薄い衣を一枚だけ残すとさっさと水の中に飛び込んでいった。
 しかし剣は腰につけたままだ。
「かたときも剣を離さねえ……」
 ケイナは呆れたようにつぶやいてリアを見つめた。
「おいでよ! セレス、あんた泳げるでしょ?!」
 リアはすぐに池の一番深いまん中あたりまで泳いでいくと、ふたりに手を振ってみせた。
「ケイナ、テントに戻ろう」
 セレスは言った。ケイナはうなずいて立ち上がった。
「なによ、面白くないったらありゃしない……」
 リアが悪態をつくのが聞こえたが、ふたりは知らん顔をして池のそばから立ち去ろうと背を向けた。
「ケイナ!」
 リアが叫ぶのが聞こえた。
「昔は一緒に泳いだりしたじゃない! ねえってば…… あっ…… ぐっ……」
 ケイナがはっとしたように振り向いた。セレスも彼女の声の異変に気づいて池に顔を向けた。
 さっきまであったはずのリアの姿がない。彼女がいたとおぼしきところに水の輪が広がっていた。
「あれ?……」
 セレスが何があったかを理解するより早く、ケイナは池に走り寄るとあっという間に飛び込んでいた。
 ケイナは池の中心あたりまで泳ぐと大きく息を吸って水の中に潜っていった。
 岸から見た感じでも中心あたりはかなり深かったはずだ。リアでも背は立たないだろう。
 セレスは息を詰めてふたりが水面にあがってくるのを待った。
 しばらくしてケイナがリアの頭を抱きかかえて浮かび上がってきた。
 岸まで泳いできたので、セレスは水に漬かりながらリアの体をケイナから受け取って引き上げた。
 リアは意識はしっかりしていたが顔をしかめている。咳をして少し水を吐いた。
「水、飲んだ? 大丈夫?」
 セレスがリアの背をさすった。
「足が痙攣したのか?」
 セレスはリアが右足を押さえるのを見て言った。
「もう、いやんなっちゃう……」
 リアは髪からしずくを垂らしながらつぶやいた。
「足、見せてみろ。」
 ケイナはずぶぬれでリアに近づくと、彼女の足に手をかけた。リアの白い足が剥き出しになって、セレスは思わず目を反らせた。
「虫に刺されたのか……? いつのだ、これ……」
 ケイナはリアのふくらはぎの裏に赤く腫れた点を見つけてつぶやいた。直径が4センチほどにふくれあがっている。
「ゆうべ、あんたたちを迎えに行くのに森に入ったときかもしれない……。虫避けの薬を塗るのを忘れたの」
 リアは濡れて顔に貼りつく髪を後ろにかきあげながら答えた。
「わたし、足は痛みを感じる神経が足りないのよ」
 セレスははっとしてまじまじとリアを見た。リアはそんなセレスを見て笑った。
「指は熱を感じないの。でも、同情なんかしないでね。わたしは不自由を感じたことなんかないんだから。時々こんなふうに思うようにならなくて悔しいだけよ」
 そして彼女は髪の先からしずくを垂らすケイナを見上げた。
「小さいときはケイナがよく庇ってくれてたのよね……」
 セレスはケイナの顔を見た。ケイナは黙ってリアを見つめていたが、やがて立ち上がると言った。
「とりあえず、テントに戻ろう」
 そしてリアに手を差し出したが、リアは首を振った。
「ひとりで帰れるわ」
 彼女は少しよろめきながら立ち上がると、脱ぎ散らかした服をとりあげようとしたが、案の定、腫れた足がうまく動かずよろめいた。
 そばにいたセレスが慌てて手を伸ばしたが、リアの柔らかい胸が腕に触れたのでセレスはみるみる顔を赤くした。かすかに彼女の髪から立ちのぼる花の香気が鼻をくすぐる。
 ケイナはため息をつくとリアの体に手を回して軽々と彼女を抱き上げた。
「セレス、リアの服を持ってやって」
 ケイナがそう言ったので、セレスはリアの服を拾い集め、リアを抱いて歩き始めたケイナのあとに続いた。
 リアはケイナの首に手を回してしがみついている。
 自分で歩けるって拒否していたくせに、ケイナが抱いてくれるとしがみつくんだ……。
 ケイナの肩に頭をもたせかけているリアの姿を見ながら、セレスは妙な気持ちにとらわれていた。
 何だろう、この気持ち……。なんだか今すぐにでもリアをケイナの腕から引き摺り下ろしたいような気分だ。
 セレスは思わず首を振った。そして自己嫌悪に陥った。
(おれ、どうかしてる……)
 トリのいるテントにリアを連れていくと、トリは丁重にふたりに礼を言った。
「ちょっと彼女に意識をそんなに向けられなかったもので……」
 トリはリアをケイナから受け取るともう一度礼を言ってテントに入っていった。
 セレスとケイナはそれを確かめて自分たちのテントに向かった。
 途中でケイナが小さなくしゃみをひとつした。
「大丈夫? 風邪ひいたんじゃない?」
 セレスが言うと、ケイナは肩をすくめた。
「風邪なんかひかねえよ。昔から免疫力が普通と違うんだ」
 それを聞いてセレスは笑った。 そしてためらいがちにケイナに言った。
「ねえ、ケイナ。リアがあんなふうだったって知ってた?」
「あんなふうって……?」
 風邪はひかないと言いながら、ケイナは鼻をすすりながらセレスを見た。
「リアの足のことや手のこと」
「覚えてるわけねえだろ」
 ケイナは即座に言い放った。セレスはまだ何か言い足りなく思えたが口をつぐんだ。
 言えば言うほど不本意なことを口にしてしまいそうだった。
 女の人って、あんなふうに柔らかくていい匂いがするものなんだ……。
 セレスはリアを抱きとめたときのことを思い出していた。
 リアは美人だし、頭も良さそうだ。
 ケイナだって男だ。あんなリアを抱いていったいどんな気持ちなんだろう。
 ケイナの顔を見たが彼の表情からは何も感じ取れなかった。
 フィメール……。
 ふと思い出した。夢の中でケイナはそう言った。
 自分にもフィメールの部分があると。
 この目の前のケイナはそのことを知っているんだろうか。
 セレスは自分の腕や足を眺めた。おれ、やっぱりどう見ても女じゃないんだけど……
「腕がどうかしたのか?」
 それに気づいてケイナが言ったので、セレスははっとして顔を赤くした。
「あ、いや、なんでも……」
 どぎまぎしながら答えるセレスをケイナは不審そうにしばらく見つめていたが、テントに入る前に今度は大きなくしゃみをした。
『いくら人とは違っても、ケイナも人間だから……』
 セレスは思った。

 その頃、トリはリアの足に薬を塗ってやっていた。
「すまなかったね。ちゃんと見てやれなかった」
「兄さんのせいじゃないわ。わたしが薬を塗っておかなかったからいけないのよ」
 リアは答えた。
「リア」
 薬を塗り終えて、トリはリアの顔を見上げた。
「ケイナはおまえのことは覚えていないよ。もし思い出しても、そばにいるのはもうおまえじゃない。あの子には太刀打ちできないよ」
 リアの顔がみるみる苦痛に歪んだ。
「どうしてよ…… どうしてそんなこと言うの……」
「リア……」
 トリは辛そうにリアを見つめた。
「ケイナが帰ってくるって言ったのは兄さんよ。それなのに、どうして今ごろそんなこと言うの」
「ぼくにだって全部が全部見えるわけじゃないよ。ケイナがあの子を連れて帰るまでは分からなかった」
「悔しいわ。あの子のことになるとケイナは本当に敵でも見るような目でわたしを見るわ」
「それはおまえが不用意に剣を向けるからだ」
「わたしがずっとケイナのそばにいたのよ。ずっとずっとケイナのそばにいるって決めていたのよ。ふたりでいつも抱き合って眠ってたのよ。それをどうして……」
「おまえが記憶にとどめている彼からすでに11年もたっているんだ。子供の頃のようなわけにはいかない」
「そんなことないわ!」
 リアは叫んだ。
「わたしはケイナが好きよ! ケイナも好きだって言ってくれてたわ。そのことを忘れてるはずがないわ。あんな子が何なの! 頭が悪そうな子供じゃないの!」
 トリはため息をついてリアを見つめた。
 何をどう言ってもリアは決して納得しないだろう。
 ケイナがいない間も彼女がずっとケイナのことを考えつづけていたのは知っていた。
 でも、リアはケイナに関する記憶を一部消されたままだ。
 ケイナのことを神聖化し過ぎている。何だろう、この意固地さは。何かを認めたくないような意固地さだ。
 同じ双児のせいなのか、リアの心の深淵だけはトリにもどうしても読めない部分があった。
 どうすればいいのかまだ判断できなかった。
 ただ、彼女の存在がケイナの重荷にならなければいいが、と思った。
「これは例えだよ。堅い頭蓋骨が割れるなんてことはもちろんない。しかし人間は脳ばかりが成長を遂げてもバランスはとれない。増える神経伝達は類い稀な運動能力や感覚を作るだろう。しかし、脳は人の心も司る。バランスを失った体と心でいずれ彼は死に至るのは目に見えていた」
 死に至る……。
 ドキリとした。ケイナが死ぬ……。
「だが、私が行ったときにはそのスピードを押さえるための治療法はすでに確立されていた。改めて私が出すまでもなかった。意見を求められたが、おそらくこれでいけるんじゃないかという見解は出した。遺伝子治療を行うんだ。あの年齢から始めれば生き残る可能性は90%以上だ。ただ、彼の場合、外界からの刺激で脳の発達は促されていくから、ある程度の遮断をする必要はあった。そうだな、感情を抑制するような機器をつけるか薬品を服用するのは効果的かもしれん。遺伝子治療と外界遮断で、だいたい5年から10年でほぼ正常な体を取り戻すはずだ」
 カインの体に震えが走った。赤いピアス…… 感情抑制装置……?
「ドク……」
 カインは震える声でレイに言った。
「もし…… もし仮に彼が何も治療をされていなければ、彼の寿命はどれくらいだとドクターは思いますか……」
「治療をされていないと?」
 レイは訝しそうにカインを見た。
「そんなはずはない。彼は生きているんだろう? 今いくつくらいになるかな……。そうだ、きみと同じ年じゃないか?」
「ドクター、頼みます、答えてください」
 レイは顔をしかめていたが、しばらくして答えた。医者である彼にとって治療をしないなどという行為は考えられないことなのだろう。
「前例がないから何とも言えんがね、18歳か、19歳あたりで何らかの症状は出て来るかもしれんな……」
 カインは絶望感を感じた。
 18歳のタイムリミット……。やっぱりそうか。
 ケイナは…… 治療されていない……。
「ドクターは彼の検査の意味について何も知らされていないんですか?」
 カインのすがるような目にレイは困惑した。
「いったいどうしたんだ……」
「ケイナは18歳になったら仮死保存されるという契約を交わされているんです。彼はただデータをとられてただけじゃないかと思うんです。でなければ18歳で彼を仮死保存する必要なんかない。治療すれば治るんでしょう? 死んでは困る。だけど、治癒されても困るんだ……」
 カインは身を起こした。
「起きちゃいかん」
 レイが押しとどめたが、カインは彼の手をはらいのけた。
「その理由はケイナを保存して第二のケイナを作るとか?」
「そんなばかな」
 レイは険しい目を向けた。
「彼の生殖機能検査はプラス5クラスだった。次世代が欲しければきちんと治療して結婚して子供を作ればいいんだ。クローンやコピーは違法だよ」
「人並み外れた知能と運動神経と……」
 カインはごくりと唾を飲み込んだ。
「人を殺すことを厭わない人間……」
「なんのことだ」
 レイは訝し気にカインを見た。
「確かに彼の発達した脳は優れた知能と運動神経をもたらすがね、人を殺すことを厭わないなど、そんな子には見えなかったよ。もっとも、二ヶ月間、二回の検査といえば日数にすれば三週間ほどだ……。それだけで彼のことのすべてを知るのは不可能だろうが……」
 レイはため息をついた。
「仮死保存なんて今初めて聞いた……。彼はそれが厭で逃げ出したのか?」
「ケイナはとっくの昔にそのことを知っていて、諦めてましたよ……」
 カインは答えた。
「彼が『ライン』を出たのはセレスを助けたい一心でしょう。彼にとってセレスの存在は特別なんだ……。アシュアがいるからたぶんまだ逃げ延びてる。なんとしても会わないと……」
 最後は半ば自分に言い聞かせるような口調だった。
 レイは顔を伏せて首を振った。
「最初から知っていれば何とかできたかもしれんがね……。私はてっきり治療のための検査だと思い込んでいたんだ。だから、あとは後任に引き継いだ」
「ケイナの治療法を覚えていますか?」
 カインの言葉にレイは彼を見て数回まばたきをした。
「あ、ああ…… もちろん、当時のものなら覚えているよ。ただ、今まで治療をされていないとなると同じ方法では追いつかん」
 レイは答えた。
「今、早急にでも抑制装置をつける必要があると思いますか?」
「外部からの刺激はできるだけ脳には与えないほうがいいな。病状が進行する。今なら相当に強い薬なり機器が必要だろう。その上で早急な遺伝子治療が望まれる」
 レイはそう言って暗い表情で床に目を落した。
「しかし、間に合うかな……」
「でも、助けないと」
 カインはきっぱりと言った。
 セレスがそばにいることが抑制装置の代わりになるだろうか。それでもあの赤いピアスは必要かもしれなかった。
「ケイナの治療法を思い出してデータにしてぼくにください。それとここの端末を貸して欲しいんです。できる限り『ホライズン』にアクセスしてみたい」
 ベッドから降りようとするカインにレイは慌てた。
「きみは起きるのはまだ無理だよ」
「そんなこと言っていられない!」
 カインは小さく怒鳴った。
「一日でも遅くなればケイナは死に近づく! 早く彼らと会わないと!」
 早くケイナに会わないと…! 死ぬなんて絶対許さない…。カインは唇を噛んだ。
「ちくしょう…… こんな計画ぶっ潰してやる……」
 これまで聞いたこともないカインの荒々しい言葉にレイは眉をひそめて彼を見つめた。

「食糧と小型通信機…… これはしばらく使ったことがないぞ。すまんが銃はわたしには手に入れられん」
 数時間後、レイはベッドの上に一式を並べてため息をついた。
「これは薬。腕の傷を早く治したければきちんと飲むんだよ」
「すみません……」
 薬の袋を置くレイにカインは詫びた。
「どうしても行くかね。私は今でも反対なんだがね」
 レイの言葉にカインは目を伏せた。
「『ホライズン』のデータはやっぱりものすごく固くガードされてる。……所員のデータすら取りだせないんです。特定のIDが分からないと入れない」
 カインはここに来るまで着てきた服に苦労して手を通しながら答えた。
「盗んで来た所員のIDでもだめだった。これ以上はドクにも迷惑がかかってしまう恐れがあるので諦めました。一度地球に戻らないとどうしようもないけれど、それよりもケイナに抑制装置をつけさせないと……」
「彼らと通信機で連絡を取るわけにはいかないのかね」
 レイは言ったがカインはかぶりを振った。
「アシュアは通信機を持っていたけれど、だいぶん前からアクセス不能なんです。あっちで切ってるのか、壊れたのか、それは分からない。だけど彼らは逃げ延びてる。それは分かるんです。どこに逃げたかを知ってるかもしれない人がいる。だから、その人に会います」
 カインの頭にはジェニファの姿があった。
 ジェニファに渡した通信機は繋がらなかったが、何とかして彼女とコンタクトを取るつもりだった。
「カイン」
 ふいに病室にレイの妻のマリアが顔を覗かせた。相変わらず彼女の体は大きい。遠慮がちに部屋に入ってきたが、その巨体はレイとひと回りほども違う。
「おまえ、診察は」
 レイが咎めるような口調で言うとマリアは肩をすくめた。
「今、ジュナのほうにしか患者がいないの。トイレに行くフリをして来たわ」
 彼女はそう答えるとカインに向き直った。
「怒られるかもしれないけど、これ、持っていって」
 マリアの差し出した小さな袋にカインは怪訝な顔をした。受け取ってみると、中に紙幣が入っていた。
「現金はかさ張るかもしれないんだけど、これが一番安全よね……? 持ってって。普段お金は持ち歩いてないでしょう?」
 何とも言えない気がした。財閥の息子がお金を持っていない。盗みをはたらき、めぐんでもらおうとしている。
「必ず返しますから」
 カインは言った。
「そんなの……」
 言いかけるマリアをレイは押しとどめた。カインのプライドを察したのかもしれない。
「もし、トウからの使いが来たら何も知らないを通してください。たぶんここでは手荒なことはしないはずです」
「分かっているよ」
 レイは答えた。
「それで、これは大事なものだ。もし、うまく彼に会ってしかるべき治療先が見つかったら渡しなさい。彼の治療計画書だ。ずいぶん昔のものだからうまくいくとは限らんがね。もしどこも受け取り先がなかったらもう一度連絡をしておいで」
 レイは小さなディスクをカインに差し出した。最初にトウから渡されたケイナの情報が入ったディスクと同じタイプのものだった。それがなんとも皮肉に思えた。

「急に転がりこんで…… すみませんでした」
 カインは荷物をレイが用意してくれた小さなバックに詰め込むと、ふたりに言った。
 マリアが心配そうな顔をしながらカインを抱き締めた。
「くれぐれも無理はするなよ。せめて一週間は左腕を使うな」
 念を押すレイにカインはうなずいた。
 ふたりに促されながら家の外に出ると、レイの息子のジュナが白衣のままで立っていた。
 彼は自分の横のヴィルを顎で差した。
「ぼくのヴィルです」
 ジュナは言った。
 記憶を辿ってもカインは9歳年上のレイの息子と話をした覚えはほとんどなかった。顔もあまり見たことはなかっただろう。
 ジュナはマリアそっくりの黒いくせっ毛を少し揺らした。
「ヴィル、いるでしょう? 放置した場所を連絡する気があったらあとで教えてください。取りに行きます。そのままにしてるとまずいから」
「……すみません」
 カインは答えた。ジュナは母親ゆずりの大きな目をじろりと向けた。
「カインさん。申し訳ないけれど、ぼくは父や母のようにあなたには好意的ではないから。できればもう父には近づかないでいただきたい」
「ジュナ、やめなさい」
 レイが口を挟んだが、ジュナはきかなかった。
「ミズ・リィが最初にカンパニーの仕事を担ったのはかなり若い時期でしたよね。あなたは大切に大切に育てられてそんな強行な試練は受けていない。だけどね、そろそろちゃんと考えたほうがいいんじゃないですか」
「なにを…… おっしゃりたいんですか」
 カインはジュナを見つめた。ジュナは肩をすくめた。
「先代のシュウ・リィ氏はTA-601の保障をすべて終えていないですよ。トウ・リィはそれを反古にしている」
「TA-601?」
 カインはつぶやいた。
「ジュナ、それはカインぼっちゃんの責任じゃない。やめなさい」
「責任じゃない?」
 ジュナは父親の言葉に笑みを浮かべた。
「彼はカンパニーを背負って立つんでしょう? 蝶よ花よで大事にされ過ぎてるからこんな甘ったれ坊主になるんだ。何の苦労もしていない。顔見れば分かりますよ。緊張感の先ほどもない」
 これまで黙っていたマリアがジュナに近づいていきなり頬を叩いた。
「もうやめなさい。あなたはカインのこともミズ・リィのことは何も知らないでしょ?」
「知ってますよ」
 ジュナは口を歪めた。
「トウ・リィは血も涙もない冷たい女で、カイン・リィはただの頭の足らない子供だ」
「ジュナ!」
 ジュナはカインにヴィルのキィを放った。カインはそれを空中で受け止めた。
「認証指示は与えてありますから」
「TA-601って何のことです」
 カインの言葉にジュナは鋭い目を向けた。
「自分で調べろ」
 彼はそう言うと肩をいからせて家の中に入っていった。カインが戸惑いを隠せない目をレイに向けるとレイは首を振った。
「きみのやろうと決めたことがきちんと終わったらもう一度連絡をしておいで。ミズ・リィは厳しい人だけれど、あいつが言うような人ではないよ。確かに若すぎる年齢であんな大きな組織を担うことになった軋轢はいろいろあったがね」
 カインはジュナが投げたヴィルのキイを見つめた。
 蝶よ花よで大事にされた甘ったれたお坊っちゃん……。悔しかったが何も言い返せなかった。
「カイン、本当に連絡してきてね。私もレイも、あなたがこんな小さい時から知ってるのよ。頼ってもらって構わないのよ」
 マリアは自分の腰より下を手で指し示した。
「ミズ・リィはね、本来免疫力が強いはずのあなたがちょっと熱を出すたんびにおろおろして、なだめるのが大変だったのよ。あの人はあなたを失うことが何より怖いのよ」
 カインはマリアに顔を向けず、振り切るようにヴィルのエンジンをかけた。
「ありがとうございます。迷惑かけてほんとにすみません」
 カインはそう言うとレイに目を向けた。
 レイは手をあげて気にするなというように笑ってみせた。
 カインはヴィルを飛び立たせた。
 目が覚めた時、カインは直接顔に当たった光に思わず顔をしかめた。
「おっと失礼…… ブラインドを開けたものでな」
 聞き覚えのある声が頭上で聞こえ、ブラインドをおろす低い音がした。
 カインは右手で目をこすった。
「気分はどうだ?」
 年老いた顔が自分を覗き込むのが分かった。
 まだぼんやりとした視界の先に見覚えのあるその顔を見てカインはほっとした。
 ドクター・レイだ。彼の家に何とか辿り着くことができたのだ……。
「さっきミズ・リィから連絡があったよ」
 点滴のボトルを確認しながらレイがそう言ったので、カインは思わず顔をこわばらせた。
 かつてのホームドクターだったレイのところにトウが連絡しないわけがなかった。そんなことにも気づかないなんて……。
「心配しなさんな。何も言っておらんよ。あ、右手、点滴の針がついとる。気をつけて」
 レイはカインの顔を見て笑った。
「きみとはここ5年ほど顔も合わせていないと言っておいた。とても信用してもらえたとは思わんが、嘘をつく理由も彼女には察しはつかんだろう。ただ、明日あさってにはあっちからひとり誰かが来るだろうね。来たらどうする?」
「帰りませんよ、ぼくは」
 再び顔を覗き込むレイにカインはきっぱり言い放った。レイは呆れたようにかぶりを振った。
「無茶もここまで来ると感心するよ。きみがアライドのハーフでなければとっくの昔に危険な状態だし、下手をすると左腕が使えなくなったぞ。私は迎えに応じて帰ったほうがいいと思うがね……」
 レイはカインのベッドの脇の椅子に腰をおろした。
 この人はめっきり歳をとった。髪も薄くなって真っ白だし、顔には深いしわが刻まれている。
 小さい頃はとても大きな身体に見えたのに……。
「眠っている間、がんがん促進機にかけたから明日には動けるだろうけれど……。ちゃんと左腕が使えるようになるには数週間かかる。何があったんだ、こんな傷」
 カインは大きく息を吐いて天井を見た。
 病室じゃないんだな……。天井も壁もごく淡く小さな花模様が散っていた。
 きっとレイの妻、マリアの趣味だ。マリアは体が大きくて逞しく男勝りな感じがする。
 しかし、その見かけとは裏腹にとても繊細で女性らしい部分があった。気がつくとベッドのシーツも淡いピンクの花が咲いている。
「別に無理に話さなくてもかまわんよ。体力を消耗する」
 レイはカインが黙っているので答えたくないのだと思ったらしい。
「こっちでは何かニュースが流れていませんでしたか?」
 カインが言うと、レイは怪訝な顔をした。
「何のニュースかね? 一般メディアで?」
「ええ……」
 レイは首をかしげた。
「いや…… 特に目立ったものは何もないように思ったが……」
「そうですか……」
 あれだけ『ライン』で大騒ぎしてもオフレコということか……。
「ドクター…… 迷惑かけてすみません。ぼくはカンパニーには戻れないんです。助けなきゃいけない友人がいる。明日にはここを出ますから…… それまででいいですから……」
「助けたいって……」
 レイはため息をついた。
「こんな体でもぼっちゃんが行けばなんとかなるようなことなのかね」
 痛いところを突かれた。カインは口を引き結んで黙り込んだ。
 レイはしばらくカインの顔を見つめていたが、再び点滴に手を伸ばした。
「そういえば、あの女の子は元気にしとるかね」
 彼なりに話題を変えたつもりらしい。
「あの女の子?」
 カインは目を細めてレイを見た。
「ほれ、前に検査した子だよ。88の中毒になっとった」
 カインの堅い表情を見て、レイはこの話題も失敗したと悟った。
「なんだか問題がややこしそうだな……」
「ぼくが助けたいと思っているのは、その“女の子”ともうひとり……」
 カインは答えた。
「ホライズンのほうから動きだしてしまった……。ラインから逃げ出したんです」
「報告したのか? 彼女の染色体のことを……」
「報告なんかしませんよ」
 カインはとんでもないというようにレイを見た。
「するわけがないでしょう……。本人だって知らない…… いや、知ってるかな……」
 ケイナの夢の中のことを思い出した。
 もしその記憶が残っていればセレスは知っているかもしれない……。自分が覚えているんだから、彼も覚えているだろう。
 ケイナ自身はどうなんだろう……。分かっているんだろうか。
「きっと業を煮やしたんだと思います……。ぼくはずっと報告をごまかしてきたし……。やっぱりトウの目をごまかすなんて無理だったんだ……」
 レイは困惑したような顔になった。
「なんだか、状況がよく飲み込めんが……」
 カインは笑みを浮かべた。
「ぼくが『ライン』に配属したのは、『ライン』の訓練を受けるためじゃないんです。『ライン』に入っていたケイナ・カートをガードするためだったんです。アシュア・セスって相棒と一緒に。トウからの命令だった。……ドクターが“彼女”という少年は、そのケイナが異様に関心を示した人間なんです。ケイナは……」
「ケイナ・カートは知っとるよ」
 レイがそう言ったので、カインはびっくりした。
「知ってる? どうして」
「レジー・カート司令官の息子だろう?」
 レイは薄くなった頭を撫でた。
「知っているといっても彼を二回ほど検査しただけだがね。それも8年くらい前になる。カンパニーを辞める直前にこれまで彼の検査を担当していた医師が急死したからというので引き止められた。私の同期の医師でな、同じ脳医学が専門だったんだよ。だからよく覚えとる」
「ケイナの何を検査していたんです?」
 レイがホライズンに行ったことなど全く知らなかった。カインの言葉にレイは笑った。
「何って、私は脳みそ専門だよ。決まっとるだろう」
 レイは自分の頭をコツコツと叩いた。
「彼の脳を調べていたんだ」
「何のために?」
 カインは眉をひそめた。
「何のため?」
 レイは呆れかえったようにカインを見た。
「何でもない人間を調べるものか。彼は脳に大きな障害を抱えている。その経過確認だ」
「脳に障害?」
 思わず大きな声が出た。
「し、失礼……」
「こっちは住居だから大丈夫だよ。診察室からは離れとる」
 レイは笑った。
「障害、と言うには少し誤りがあるかもしれんが、彼は先天的に不思議な症状を抱えていたんだよ。当時彼はまだ10歳にも満たなかったんじゃないかな」
 そして少し肩をすくめた。
「実はこのことは他言するなと誓約書を書かされているんだが……。カート家といえば名門だから、こういうことは外に出したくないという意図もあったんだろう。まあ、今は治癒しとるだろうし、ぼっちゃんならかまわんだろう。ただし、ほかで言わないでくれよ」
 カインは不安を感じた。聞くと後悔するかもしれない……。そんな思いにとらわれつつ、レイの顔を見つめた。
「あの金髪の子はびっくりするようなきれいな顔立ちで、検査のあとは礼儀正しく礼を言って帰るようなところがあったよ。会えばまあ忘れることはできんだろうな。あんな小さな子が何度も検査、検査で可哀想だと思ったよ。痛い思いをするものもあったからね。だが、症状は深刻だったな。早期の治療が望まれた。彼の脳は外から見ただけでは分からないが信じられないスピードで細胞分裂を行っていたんだよ」
「細胞分裂……」
 カインはつぶやいた。
「脳細胞というのはだいたい生まれる前にほぼ完成しておってな、細胞同士を繋ぐシナプスも乳幼児期にほぼ大人と同等の量になる。そのあとは経験などでシナプスをより強固に太く繋いでいくというのが普通の人間の発達だ。つまり脳細胞自体は増えることはないんだよ。だが、彼の場合は成長を重ねるごとにどんどん細胞が増えて行き、当然それを繋ぐシナプスも増えていく」
 レイはカインを見た。
「だがね、限界があるんだよ。例えて言えば風船だ。頭をひとつの風船とする。風船は息を吹き込めばどんどん膨らむが、膨らませ過ぎるとどうなる?」
 カインはごくりと唾を飲み込んだ。
「ばーん……」
 レイは両手を広げた。
「風船は割れてしまう」
 カインは思わず顔を背けた。