セレスは何が起こったかを理解するのにしばらく時間がかかった。
 ケイナが隣にいたセレスをかばうように身を乗り出し、防御の姿勢を取っていた。
 アシュアも腕を伸ばしている。
 ふたりの前にはリアの振りかざした剣がわずか数センチのところでぴたりと空中で静止していた。
 リアは鬼のような顔をしていたが、やがてかすかな笑みを見せると剣を外し腰のさやにおさめた。
「失礼」
 リアはほほえんで言った。その横でトリはまったく表情を変えずに座っていた。
「なぜ、こんなことをする!」
 ケイナは怒りを剥き出しにしてリアに怒鳴った。アシュアもまだ体中に緊張をみなぎらせている。
「ケイナ、全然変わってないね」
 彼女はにっこり笑った。
「わたしはあなたの許婚者だったのよ」
 その言葉に3人はぎょっとした。
「ま、子供の頃の約束だけど」
 リアはくすくす笑いながらケイナを見て言った。ケイナはさらにリアを睨みつけた。
「リア。うしろに下がっていなさい」
 トリが静かにたしなめたので、リアはうなずいて大袈裟な身ぶりで3人に一礼すると仕切りの奥に入っていった。アシュアはそれを見て苛立たしそうにどっかりと椅子に腰をおろした。
「きみたちが来る予感はしていたよ」
 トリはなにごともなかったかのように3人に目を向けて言った。
「でも、まさかグリーンアイズを連れて来るとは思わなかった」
「グリーンアイズ? 緑の目と髪を持つ者のこと? やっぱりそういう人が『ノマド』にいたの?」
 セレスがリアの入って行った仕切りのほうを気にしながらトリを見た。トリはうなずいた。
「もうずいぶん昔の話だけれど。ぼくも生まれる前のことです」
「ジェニファは…… 『ノマド』に行けばいろいろ教えてもらえるかもって言ってたけど……」
 セレスはケイナの顔をちらりと見た。ケイナの顔は不機嫌そうだ。彼もやはりさっきのリアの行動をまだ怒っているのかもしれない。
 トリはしばらくじっとセレスを見つめていた。そして口を開いた。
「とても長い話になります。あなたがたは夜を通して森の中を歩いて来られた。少し休んでからにしませんか?」
「おれは別に大丈夫だけど……」
 セレスはつぶやいたが、トリはかぶりを振った。
「テントをひとつ用意してあります。食事も用意してありますから」
 トリはそう言うと仕切りを振り返った。
 声をかけてもいないのに再びリアが姿をあらわした。まるで心で通じ合っているような感じだ。
「案内します」
 リアは言った。
 どう言ってもトリは今話す気はないのだと悟り、3人は渋々立ち上がるとリアについてテントをあとにした。
「昔、一緒のベッドで眠っていたのよ」
 リアは歩きながらケイナに言った。
「あなたをまん中にして、わたしとトリであなたを挟むようにして」
 こんなふうに、というように両腕を前に出して誰かを抱えるようなジェスチュアをするリアにケイナは困ったように目をそらせた。記憶していた『ノマド』の生活のほとんどを忘れていることを知って戸惑いを隠せなかった。
「わたしたち、あなたが大好きだった。今でもそうよ。戻ろうとしてくれていることを知ってどれほど嬉しかったことか」
「リアは戦士なの?」
 セレスがリアのいでたちを眺めながら尋ねた。確かに腰に剣を吊って丈の短い服を着ているリアは戦士に見えないこともない。リアは笑ってセレスを見た。
「『ノマド』は戦士を持たない。一応、そういう名目よ。でないと政府から不穏分子として排除されるわ。わたしは『ノマド』に不要にコンタクトを取ろうとする者を近づけさせないようにするだけの存在。いわば見張り役みたいなものね」
「では、なぜ剣を持ってる?」
 アシュアが口を挟んだ。リアは微笑んだ。
「単に防衛のためだわ。人を殺めたりする武器じゃないわよ」
「じゃあ、さっき、セレスに剣を向けたのはなぜだ」
 再びアシュアが畳みかけた。まだ気が治まらないらしい。リアはアシュアに目を向けた。
「ケイナがどうするか見たかったのよ」
 そして彼女はケイナに目を向けた。ケイナは彼女を見つめ返してすぐに目をそらせ、何も言わなかった。
 リアはやがてひとつのテントの前に立ち止まると3人を振り返った。
「ここよ。奥に湯もはってあるわ。ゆっくり休んで」
 納得のいかない様子で3人はリアを見つめていたが、最初にアシュアがテントに入っていった。
 その次にケイナが入ろうとしたが、ふと気配を感じて彼は顔を巡らせた。
 セレスはそれに気づいて彼の視線の先を追った。
 小さな子供がこ近くのテントの影に半分身を隠すようにして立っていた。黒い巻き毛の5歳くらいの少年だ。
「まだ出てきちゃいけなかった?」
 男の子はおずおずと言った。リアは笑った。
「いいよ、もう。トリに会ったからね」
 それを聞いて男の子は嬉しそうに近づいてきた。そしてふたりを見上げ、片手を広げてみせた。
「ぼくね、5歳」
 ケイナとセレスは顔を見合わせた。ケイナは明らかに戸惑っているようだった。
「名前、なんていうの?」
 セレスは身をかがめて子供の目の高さに目線を合わせると尋ねた。
「クレス」
「おれと似た名前だね。おれ、セレスっていうんだ」
「セレス?」
 クレスは言った。そして今度はケイナを見上げた。
「このお兄ちゃんはケイナっていうんだ」
 セレスはクレスに言った。
「ケイナ? ケイナって笛の名前だよ?」
 クレスは不思議そうにケイナの顔を見た。
「おまつりの時に長老が吹く笛だよ」
 ケイナは肩をすくめた。
「(神の笛)だろ? でも、そういう名前なんだ」
 ケイナはどうしようもないだろ? というように答えた。
「ふうん……」
 クレスはすぐに興味をなくしたようだった。そして目の前にいるセレスの顔をまじまじと見た。
「きれいなおめめ」
「そう? ありがと」
 セレスは笑った。
「髪もきれいだね。葉っぱと同じ色だね」
「うん。昔っからそうなんだ」
「ねえ、触っていい?」
「え?」
 セレスはびっくりした。ケイナは訝しそうにふたりのやりとりを聞いている。
「いいよ。でも、おれ、昨日から風呂に入ってないから、髪、汚れてるよ」
 クレスはおかまいなしにセレスの髪に手を伸ばすと、くしゃくしゃとなでまわした。そしてくすくすと笑った。
「いいにおい。お日さまの匂いがする」
 セレスは笑った。
「クレス、お客人は疲れているの。もう、ママのところにお帰り」
 リアが言った。
 クレスはセレスの髪から手を離すと、うなずいてあっという間に向こうのテントに影に走っていってしまった。
「ごめんなさいね。クレスは一番人なつっこい子なの」
 リアが申し訳なさそうに言ったので、セレスは笑みを浮かべた。
「ううん。いいんだ。子供はきらいじゃないよ」
 リアはそれを聞いて安心したように笑った。リアも意外と子供好きなのかもしれなかった。
「それじゃ…… 夕方まで休んでもらっていいですから。また呼びに来ます。もし、外を歩きたければご自由にどうぞ。でも、結界の外には出ないでね」
 リアは言った。
「結界?」
 セレスは不思議そうにリアを見た。
「磁場の張ってある範囲だ。この集落から500m以上離れなければ大丈夫」
 ケイナが横から言った。
「よく覚えていたわね」
 リアがそう言うと、ケイナはちらりと彼女を見て、そしてテントの中に入っていった。
 セレスは彼女に少し笑ってみせてそれに続いた。
 リアはしばらくテントを見つめたあと、踵を返して去っていった。
 テントに入ると、アシュアがすでにテーブルの上にあったパンをとりあげてかぶりついているところだった。
「なんか気にくわねえ、あの女」
 アシュアはぶつぶつと文句を言った。
 ケイナは疲れたのか、すぐにベッドの上に身を投げ出した。
 木組みの台に毛皮を敷いて布をかけただけの簡素なベッドだった。
「リアは悪い人じゃないと思うよ」
 セレスは言った。
「おれはああいうのは虫が好かねえんだ」
「いきなり剣を向けたから?」
 セレスは椅子に腰掛けながら言った。アシュアはそれには答えず不機嫌そうにパンをほおばっている。
「ケイナ、お腹すいてないの? おいしそうだよ」
 セレスはテーブルの上に乗ったパンや焼いてスライスした肉、果物が盛り付けられた皿を見ながら言った。
「腹は減ってない……」
 ケイナはベッドに突っ伏したまま答えた。
「ミルクもあるよ」
「世話焼き女房みてえだな」
 アシュアがぶっきらぼうに言った。セレスはアシュアを睨んだ。
「おれに当たるなよ」
「けっ」
 アシュアは水差しの水を木製のカップに注いで勢いよく飲み干した。
「せっかく辿り着いたんだから、そんな不機嫌そうな顔をしないでよ、アシュア」
 セレスはミルクに口をつけながら言った。アシュアがこんなに機嫌を損ねるのはめずらしい。よほどリアのことが気に入らないのだろう。
「ケイナ」
 セレスは再びケイナを振り向いて呼んだ。
「なにか食べないともたないよ」
 しかし応答がない。セレスはまた何か冷やかされるかな、と思いながらアシュアをちらりと見て立ち上がるとケイナのそばに歩み寄った。
 そして顔を覗き込んでかぶりを振った。
「どうした?」
 アシュアが尋ねた。
「眠ってる」
 セレスは答えた。ケイナはすでに小さな寝息をたてて眠っていた。
「『ノマド』に来ると、やっぱり落ち着くのかな……」
 セレスはつぶやくと、そばにあった毛布をケイナにかけてやった。
「眠れるときに眠るのがいいさ」
 アシュアは言った。
「これから先、何があるか分からねえんだし」
「そうだね……」
 セレスはうなずいた。