「ミズ・リィ…… 朝食をおとりになりませんか……」
 秘書のクーシェは言った。
 トウは疲労で真っ赤になった目を彼女に向けた。その目があまりにも鬼気迫っていたので、クーシェは思わず身をこわばらせた。
「ほっといて」
 トウは突っぱねるように答えた。
「自分の仕事をちゃんとやってちょうだい」
「分かりました……」
 彼女はがっかりしたような様子でトウに背を向けた。
 それを見てもトウは可哀相などとは思わなかった。頭の中は別のことでいっぱいだったからだ。
 トウは明るくなってきた窓の外に目を向けた。近づくと眼下のシティがまるでおもちゃの街のように見える。
 こんなに敗北感を感じたことはない。
 カインは病院を脱走し、アシュアは裏切り、ケイナもセレスも行方がしれない。
 わずか17、8歳の子供に対して、訓練を積んだ男どもが全く何の役にもたたない。
 全員が行動をともにしているのは察しがついた。おそらくカインも何らかの方法で3人と合流するつもりだ。
「ばかな子たち……」
 トウはつぶやいて下のシティを見下ろした。
「自分たちでなんとかできるとでも思っているの」
 トウはデスクに向き直った。
 熱いコーヒーを飲みたかった。頭のすみでぼんやりとコーヒーのことを考えながら、彼女はコツコツと指でデスクを叩いていた。
「手後れになるっていうのが…… 分からないの…… 早くしないと……」
 トウはつぶやいた。
 それだけではなかった。
 彼女は自分の足元が頼りなく揺らいでいることを感じていた。
 私は間違ってないわ……。
 トウは自分に言い聞かせた。
 私は間違ってない。
 間違ってなんかないわ。
 命を救うんだから…… 間違ってるはずがない。


 血を吐くような思いでドクター・レイの家の前に辿り着いたカインは体力を使い果たして失神寸前だった。
 地球で助けてくれた女がつけてくれた麻酔薬はとっくに切れており、高熱で口がからからに渇ききっていた。
 ドクターの家のインターホンを押したあと、カインはずるずるとドアにもたれかかるようにして地面に倒れ込んだ。
「どなた?」
 しばらくして頭上でインターホンのモニターから声がしたが、カインは返事をすることすらできなかった。
 きっとドクターの妻、マリアだろう。
 誰の姿も見えないのでもしかしたら警戒してドアを開けてもらえないかもしれない。
 しかし、ドアは開かれた。
 カインは顔をあげたが、目がかすんでよく見えなかった。女性にしてはたくましい足がぼんやりと見え、それが見覚えのあるマリアの足だと知ってほっとした。
「カイン……!!」
 驚愕の声をあげ、彼女が自分を抱き起こすのを感じた。
「ジュナ! ジュナ! パパを起こして! 早く!!」
 その声を聞きながらカインは気を失った。


「カイン……?」
 セレスはふと立ち止まって後ろを振り向いた。
「どうした」
 アシュアがそれに気づいて言った。
「カインの声が聞こえたような気がした。ケイナを呼んでた」
「え?」
 セレスの言葉にアシュアは目を細めた。
「おれも聞こえた……」
 先を歩いていたケイナも言った。
「カインがここにいるはずがない」
 アシュアはかぶりを振る。
「おれもそう思うよ」
 ケイナは足をとめると森の奥を眺めながら答えた。
「でも…… すごくはっきりと聞こえたような気がした……」
 セレスは腑に落ちないようだった。
 ケイナは立ち止まったままずっと森の奥を見つめている。その様子がさっきまでのケイナと違うことに気づいたアシュアは彼に近づいた。
「何か気になることがあるのか?」
 ケイナはアシュアを見た。
「聞こえないんだ……」
 ケイナは言った。
「うるさいくらいおれを呼ぶ声がしていたのに…… カインの声が聞こえたと同時に何も聞こえなくなった」
「え……」
 アシュアは面喰らった。
「それ、もしかして、どこに行けばいいのか分からなくなったってことか?」
 ケイナは何も言わなかった。 アシュアはため息をついてかぶりを振った。
「やれやれ……」
 彼は両手をあげて嘆くと近くの木にもたれかかった。その途端に顔をこわばらせた。
「動かないように」
 ボーイソプラノのような細い声がしたかと思うと、見たこともない白く光る剣が木の後ろからアシュアの首に水平につきつけられていた。
 セレスが仰天してアシュアに駆け寄ろうとするのをケイナが慌てて止めた。
 アシュアの首元に剣を突きつけたまま、声の主が木の影から姿をあらわした。
 すすけたような灰色の布をすっぽりと頭からかぶり、見えているのは目だけだ。
 セレスはその人間が実に原始的な布製の編みあげ靴を履いているのを見た。
「申し訳ありませんが、あなたの腕の通信機を外してください」
 彼、とも彼女、とも分からぬその者はアシュアに言った。
「誰だ、おまえ……」
 アシュアは鋭い目を相手に向けた。訓練を積んだアシュアや、ましてやケイナにさえ気配を悟られずに近づくなど普通ではなかった。
「トラスの者です。『ノマド』のコミュニティの1つです。この森は今、我々が管理しています」
「トラス……」
 ケイナはつぶやいた。全く憶えのない名前だった。
「通信機を」
 再びその者が言ったので、アシュアは渋々腕から通信機を外した。
「とっくに壊れているぜ」
 アシュアはそう言ったが、その者はちらりとアシュアを見て通信機を受け取ると、それを下に落して勢いよく剣を突き立てた。
 通信機はかすかに放電して赤かった画面に何も映らなくなった。
「この通信機に追尾装置がはめこまれていることを御存じではありませんでしたか?」
 灰色の布の奥からその者は言った。
「追尾装置?」
 アシュアは目を丸くした。
「軍仕様のものにはたいがい極秘にセットされているんです。裏切らないように見張るためです。普段は作動しませんが、管理者のほうで暗号を入れると居場所を知らせる信号が自動で発信されます。森は強力な磁場で保護されていますから大丈夫ですが、これから先のコミュニティには磁場が設置してありません。居場所を知られては困るのです」
 アシュアは何も言えずに目を見開いて相手を見つめていた。
 追尾装置が設置してあるなど全く知らないことだった。
 灰色の者は剣を腰のさやにおさめるとケイナに向き直った。
「長老があなたのことを覚えています。御案内します」
 そう言うとその者は先に立って歩き始めた。

 あれだけ森の中を彷徨い人の気配すら感じられなかったというのに、ものの10分ほど歩くと3人は周囲に複数の気配を感じるようになった。
 木の幹に刃物のあとがあったり、草の上にも自分たちのものでない足跡が見られるようになった。
 やがて3人は森の木々に囲まれた中に20ほどのテントのようなものが集まっている光景をまのあたりにした。
 大小さまざまな大きさのテントがひときわ大きなテントを中心にして散在している。テントの屋根は尖っていて、壁を構成する布にはそれぞれに色鮮やかな文様が描かれていた。
 上を見上げると、まるで集落を覆い込むように森の木々が高い天井を形づくっていた。
 その枝葉の隙間から夢見るような光がいく筋も地上に落ちている。
「きれいだ……」
 セレスは思わずつぶやいた。
 確かに美しい光景だった。とても『コリュボス』の人工の森の風景とは思えない。
「こんな広い場所に陣取ってて、全然分からなかったとはな……」
 アシュアは導かれるままに歩きながら周囲を見回して言った。
「今日はあなたがたを連れてくるというので、みなにはテントの中に入ってもらっています。 今くらいの時間ならもっとにぎやかなのですが」
 先に立って歩いていた灰色の服の者が振り向いて言った。
「ここ、ケイナのいた『ノマド』?」
 セレスが尋ねると、ケイナはかぶりを振った。
「違うと……思う……。テントの文様も…… 憶えがない。」
「あなたはエスタスにいたんですね」
 そう言うと、灰色の服の者が頭から布をとった。栗色の髪がこぼれ落ちるように肩に広がった。
 アシュアが目を丸くした。
「女……?」
「女です。いけませんか?」
 彼女はアシュアを見てにっこりと笑った。口元がふっくらとして愛らしい笑顔だった。
「い、いや…… そんなわけじゃ……」
「リアです。ケイナ。」
 彼女は言った。セレスはそっとケイナの顔を見た。
「リア……?」
 ケイナはつぶやいた。
「なんで、おれの名前を?」
「私もエスタスにいたから」
 リアは微笑んで言った。しかし、ケイナはわずかに首を振って目を伏せた。
「あんたのことは知らない」
「そうだと思うわ。あのときはお互いに子供だったから。でも、私はすぐにあなたのことが分かった」
 彼女はもう一度微笑むと、3人を促して再び先に立って歩き始めた。艶のある髪が光の中で揺れた。
 いくつかのテントの前を通り、リアは中央の大きなテントの前に来て立ち止まった。
「長老のテントです。あなたがたに会いたいということなので……」
 リアはそう言うと入り口の覆いを持ち上げ、3人に入るように目で合図した。
 3人は一瞬ためらったがケイナが意を決して先に中に入り、そのあとにセレスとアシュアが入った。最後にリアが続いた。
 テントの中は一部に布で仕切りがしてあったが、かなり広かった。布を通して外の光が透けて明るい。
 一角に外と同じ文様が施された織物が敷いてあり、その上にいかにも手作りらしい木のテーブルと椅子が数脚並べてあった。
 どちらもかなり古びたものだ。
「長老が来ますから、座って待っていてください」
 リアはそう言うと、仕切りの布が張ってある奥に引っ込んでいった。
「何か不思議なにおいがしないか?」
 椅子に腰掛けながらアシュアが言った。セレスは鼻をくんくん鳴らした。確かに甘い匂いがする。植物の香りに思える。
「ハーブオイルを焚いているんだ…… 『ノマド』ではどこでもよくやってる。ジェニファの部屋もこんな感じだった」
 ケイナは言った
 しばらくして、気配がしたので3人は仕切りのほうに目を向けた。
 青と黒の幾重にも重ねた布でできた服を着た、背の高い男が近づいてくるのが見えた。
 その顔を見たとき、3人は思わず目を見張った。リアにそっくりだったからだ。しかし、リア自身は後ろからついていきている。
「驚いた…… そっくりじゃねえか……」
 アシュアはつぶやいた。
「ようこそ…… ぼくはトラスの長老、トリといいます」
 男は笑みを浮かべた。リアと同じ栗色の髪が肩の下まで垂れていた。
 リアと違うのはその髪の長さと背丈くらいかもしれない。
「リアとぼくは一卵性双生児なのです」
 トリは言った。
「一卵性では同性になるんじゃねぇの?」
 アシュアが言うと、トリはほほえんだ。
「普通はそうでしょうね」
 ケイナは黙ってトリを見つめた。
 どこかで会ったような気がする。でも、思い出せなかった。
「無理に思い出すことはないよ。きみはエスタスを出るとき、記憶を消されているから」
 ケイナの心を読んだようにトリは言った。ケイナは目を細めた。
「そんなはずはない。覚えていることもある……。森で遊んだことや、みんなで誕生日に祝ってくれたことや……」
「でも、人の顔は思い出せないでしょう?」
 トリの言うとおりだった。ケイナは戸惑ったように目を伏せた。
「あの…… ト、トリは…… ケイナと同じコミュニティ?に…… いたの?」
 セレスが言った。
 トリは空いていた椅子に腰をおろすとセレスを見た。落ち着いた静かなまなざしだった。
 同じ目でもリアは攻撃的な目とは全く違う。
「そうですよ。ケイナとはよく一緒に遊んでいた。ぼくは3年前にエスタスを離れたんです。エスタスは少し大きくなり過ぎたから。コミュニティはだいたい30人から50人くらいが一番動きやすいんです。ぼくはエスタスの長老に自分が統率しやすいメンバーを引き抜いてひとつのコミュニティを形成させるように言われました」
 アシュアはトリの顔をまじまじと見た。
 トリはどんなにひいき目に見ても、自分とそう年が違わない。こんなに若い者が30人以上もの人間を統率している『ノマド』とはいったい何なのだろう。
「一度は『ノマド』を離れたきみが、もう一度自分から戻ってくるとは思わなかった」
 トリはケイナを見つめて言った。しかし、ケイナはその視線から逃れるように目を伏せて首を振った。
「離れたとか、戻ったとか…… 全部おれの意思じゃない。そもそも、おれは自分がいったい誰なのかも分からない……」
 トリはケイナを黙って見つめた。
 心配そうにふたりを見つめていたセレスはふいに異様な殺気を感じた。
「セレス!」
 アシュアが叫ぶのが聞こえた。