「おまえはケイナじゃない」
セレスは手に食い込んだ水晶を確かめるように見て握りしめた。
「そんな石、通用するものか」
ケイナは笑った。そしてすばやくセレスの右手を絞めるように掴んだ。あまりの痛さにセレスは顔をしかめた。
「石は石だ」
ケイナは嫌悪を感じるような禍々しい笑みを浮かべてセレスの顔を覗き込んだ。
セレスは鈍い音をたてて自分の肉を裂いて水晶が砕け散るのを感じた。手のひらから流れた血がケイナの手に伝わっていく。
「こんなことでしか自分を表現できないのかよ」
セレスはケイナを睨みつけながら言った。
「おれは言ったよな。人間ていろんな思いで生きてるんだって」
セレスは掴まれていない自分の左手を握りしめた。ケイナの表情が変わった。
「みんなのいろんな思いが重なるから生きていくのが辛いし悲しくもなるんだ。おれの中に流れてるのはケイナのたったひとつだけの思いじゃない。ケイナだけの思いじゃない」
セレスの左手が光を放ち始めた。ケイナが危険を感じてよけるよりも早く、セレスは彼の顔を殴りつけていた。
閃光が散り、ケイナの鋭い叫び声が響いた。
彼はセレスから手を離すとひたいをおさえてうめきながら後ろによろめいた。彼の指の間から真っ赤な血が吹き出して水に落ちた。
セレスは荒い息を吐いてカインがうずくまる場所まで後ずさりした。
「セレス、あれはケイナじゃない……」
カインが苦し気に言うのが聞こえた。
「分かってる……」
セレスは答えた。
「おれを解放したら、苦しむことも、後悔することもないのに……」
ケイナは血がしたたり落ちる顔をあげた。
ひたいがぱっくりと裂けている。その裂け目から赤い血とともに 目をそらしたくなる頭蓋の中身が見えていた。
「そのかわり人を信じることも、愛することもなくなるよ」
負けない。もう負けない。
セレスは自分に言い聞かせた。
「ケイナ、分かる? あんたの利き腕は左だ。今おれの左手があんたの手だよ。自分でいらない奴をやっつけろ」
セレスはぎゅっと目を閉じたあと、大きく息を吸い込むとケイナに向かって再び手を振り上げた。
「出ていけ!!」
セレスは勢いよくケイナに飛び掛かり、そして再びぴたりと左手を彼の裂けたひたいに押し当てた。水の中に倒れ込んだふたりの周りに音のない水の光が散らばった。
再び閃光が走り、光の向こうでケイナの目が大きく見開かれてセレスを捉えたあと、その顔が見る間に溶け始めた。
セレスはどんどん彼の皮膚が溶け、眼球が落ちていっても目をそらさなかった。
これは本当のケイナではない。
今はその確信があった。
最後にケイナは小さな光になり、そして消えた。
セレスは肩で息をついて立ち上がった。
「終わったよ……」
背後で声がしたので、セレスは振り返った。静かな顔をしたケイナが立っていた。
彼は近づくとセレスを抱き締めた。
「目が覚めたら、こんなふうに抱き締めることができたことを、きっと忘れていると思う……」
セレスはケイナに抱き締められながら、その肩ごしにカインが戸惑い気味に目をそらせるのを見た。
「セレス、暗示を解くのは簡単だ」
ケイナは言った。
「大切に思えばこそ。それだけだよ……」
そしてふっとその姿が消えた。
セレスはしばらく呆然として立ち尽くしていたが、はっとして水の中にうずくまるカインに駆け寄った。
「カイン、ごめんよ…… 現実の痛みを夢の中でも思い出させることになってしまって……」
「そろそろ目覚める頃だからいいんだよ」
カインは力のない笑みを見せた。セレスはカインに近づくとその肩を抱きしめた。
カインは驚いて動くほうの腕でセレスを受け止めた。
「カイン、生きててくれてほんとによかった。あんたには絶対死んで欲しくないんだ」
「きみは…… きみを殺そうとしたのに、ぼくを憎いと思わないの」
セレスは身体を離してカインの顔を見た。
「カインは命がけでおれを助けてくれたじゃないか。綺麗な海を教えてくれたじゃないか」
そしてカインの顔をまじまじと見つめた。
「おれ、カインの目をこんなによく見たことはなかったかも…… メガネはどうしたの?」
「ああ……」
カインは笑った。
「壊れたんだ…… ぼくは父ほど目が弱いわけじゃない。もうメガネは必要ないかもしれない」
セレスはそうつぶやくカインを見つめたあと、再び口を開いた。
「トウって…… カインのお母さんなの?」
「え?」
カインは目を見開いた。
「いや…… 叔母だ。どうしてトウのことを?」
「なんとなく…… トウって人の名前が、おれ、聞こえたような気がしたから」
カインはセレスを見つめ返した。そして笑った。
「女性の姿で『おれ』『おれ』と言うのはなんだかへんな感じだな。早く元の姿に戻らないか?」
セレスは空を仰いだ。
「そうだね。アシュアとジェニファが呼んでる」
「ぼくも帰らないと。本体は地球にいるんだ」
カインは立ち上がった。
「どうやって帰るの?」
セレスはびっくりして言った。
「大丈夫。もうぼくたちは元の世界に戻ろうとしてる」
カインはセレスの足を指差した。セレスが目を向けると、下から少しずつ空中に溶けていっているところだった。
「カイン」
セレスは言った。
「おれ、女なの? 男だよね?」
カインは笑みを見せた。
「たぶん…… 今はまだケイナを守らないといけないから男なんだよ。でも、きっといつか……」
カインは消えた。
「大丈夫?」
カインが目を開けると、女が心配そうな顔をして覗き込んでいるのが目に入った。
カインは額に濡らしたタオルが乗せられているのに気づいた。彼女はずっと看病をしていてくれたのだ。
「ええ……」
カインは少し笑みを見せた。女はほっとしたような顔をした。
「良かった…… 薬が合わなかったのかと心配したわ。 悪夢にうなされているような感じだったから……」
「薬のせいか……」
カインはつぶやいた。地球と『コリュボス』の間の真空間を飛び越えて意識がケイナの中に入り込むなんて、普通ならできっこない……。
「悪い夢じゃなかったの?」
女が怪訝そうに言った。
「え?」
カインは女を見た。彼女は肩をすくめた。
「だって、何だか表情が全然違うわよ。安心したような感じだわ」
カインは笑った。
「ええ…… 悪い夢じゃなかった」
カインは起き上がって左腕をさすった。包帯が新しいものに取り替えられている。
不思議と病院を抜け出したときよりも痛みが薄らいでいるような気がした。
「ほんの少しだけど麻酔薬があったから使ったわ。『コリュボス』に着くまではもつと思うけど」
カインの表情に気づいたのか、女は言った。
「立てる? そろそろエアポートに行かないと」
カインはうなずいて立ち上がった。
セレスは身を起こしてあたりを見回した。
「セレス! 気がついたか!」
アシュアが嬉しそうに顔を覗き込んだ。
「一時はどうなるかと思ったわ」
ジェニファはそう言うとセレスの頭を抱き締めた。
セレスはしばらくぼんやりとしていたが、やがてジェニファの肩ごしに横たわるケイナを見つけて、彼女を押し退けるとケイナのそばに行った。
「大丈夫よ。術は解けてるんだけどしばらくは目覚められないと思うわ。術に逆らってあなたを助けようとしたのよ」
ジェニファはそれを見て言った。セレスは目を閉じたままのケイナの頬にそっと手を触れた。
「うん…… 知ってた」
そう答えてアシュアとジェニファを振り返った。
「ケイナだけじゃないよ。アシュアも、ジェニファも、カインも…… みんなでおれを助けてくれたよ」
「おれ?」
アシュアが目を丸くした。セレスは笑みを浮かべてうなずいた。
「アシュアの声が聞こえたよ。 ……あ、そうだ。水晶を返さないと……」
セレスは慌てて自分の手を見た。
「そうだ…… 砕けたんだっけ……」
「もう必要ないでしょ?」
ジェニファは笑って言った。
「それにしても、これからどうするかな……」
アシュアは眠ったままのケイナを見つめてつぶやいた。
「まさか、目覚めるまでここに寝かせておくわけにはいかないし……」
「これは提案なんだけど……」
ジェニファはためらいがちに言った。
「あなたたち、『ノマド』に行ったら?」
「どうやって行くの? 『ノマド』ってあっちこっち移動してるんだろ?」
セレスは面喰らったように言った。
「ここは『ノマド』の森なのよ。何年か前にふたつかみっつのコミュニティが地球からコリュボスに渡って来たって聞いたの。だからいるはずだわ。奥は結界がはってあるから普通の人間には辿りつけないんだけど、向こうは侵入者をちゃんと把握してる。ましてや術を使う者となるとなおさらよ。ここでやってたことは全部知ってると思うわ」
「じゃあ、おれたちが森の奥へ入って行ったらどこかで『ノマド』に会えるってこと?」
セレスは尋ねた。ジェニファはうなずいた。
「たぶんね。向こうが受け入れてくれれば。きっとあなたたちにはそのほうが安全よ」
「もし、受け入れてくれなかったら?」
アシュアは目を細めた。
「いやでもまた森の入り口に戻ってくるわ。でも…… ケイナがいるから大丈夫よ。彼は昔『ノマド』にいた身だもの。それに、もしかしたらセレスもね」
「え?」
セレスはそれを聞いて再び目を丸くした。
「おれが?」
ジェニファは笑った。
「ケイナに少し前に言ったのよ。詳しい話はできなかったけど、『ノマド』には緑色の髪と目を持つ人間がいたという言い伝えがあるの。『ノマド』の古いメンバーはだいたい知ってるわ」
「緑色の髪と目……」
セレスはつぶやいた。
「あんたたちは『ノマド』に帰るべきなのよ。帰ればきっと教えてくれるわ。今ここでは全部を説明している時間もないでしょう」
ジェニファの言葉にセレスは戸惑い気味にうなずいた。
アシュアはケイナを抱き起こすと苦労して彼を背負った。
「とりあえず、ジェニファの言うとおりにしたほうがいい……。いったいどれくらい歩かないといけないのかな」
「さあ…… 1時間かもしれないし、1週間かも……」
「1週間も森の中を彷徨ったら死んじまうぜ」
アシュアは仰天して言った。ジェニファはくすくす笑った。
「冗談よ。ケイナの目が覚めれば思い出して自分で道を見つけるでしょうよ。もしかしたらセレスが見つけるかもしれないし」
セレスとアシュアは顔を見合わせた。
「とにかくどこか分からないけどほかにいい考えも浮かばねえ。行こう」
アシュアはセレスにそう言うとジェニファに向き直った。
「ジェニファ、いろいろありがとう。あんたにも危ない橋を渡らせてしまった」
「気にしないで。夢がいい方向に向かってるからほっとしてるのよ」
ジェニファは笑みを見せた。その顔をしばらく見つめたセレスはためらいがちにジェニファに言った。
「ジェニファ、あなたはどうして『ノマド』から離れたの?」
ジェニファの顔が一瞬暗い翳りを見せた。彼女はあまり言いたくなさそうだったが、口を開いた。
「子供ができたのよ。『中央塔』に勤める若い男の。もう30年も前の話だわ」
「子供…… その人は……」
「もういないわ」
セレスの言葉を遮るようにしてジェニファは言った。
「子供も男も病気で死んだ。私は自分から『ノマド』を出て行ったからもう戻らないと決めたの」
セレスは目を臥せるとうなずいた。
「幸運を祈ってるわ」
ジェニファは言った。
ふたりは森の奥へと足を踏み出した。
セレスは手に食い込んだ水晶を確かめるように見て握りしめた。
「そんな石、通用するものか」
ケイナは笑った。そしてすばやくセレスの右手を絞めるように掴んだ。あまりの痛さにセレスは顔をしかめた。
「石は石だ」
ケイナは嫌悪を感じるような禍々しい笑みを浮かべてセレスの顔を覗き込んだ。
セレスは鈍い音をたてて自分の肉を裂いて水晶が砕け散るのを感じた。手のひらから流れた血がケイナの手に伝わっていく。
「こんなことでしか自分を表現できないのかよ」
セレスはケイナを睨みつけながら言った。
「おれは言ったよな。人間ていろんな思いで生きてるんだって」
セレスは掴まれていない自分の左手を握りしめた。ケイナの表情が変わった。
「みんなのいろんな思いが重なるから生きていくのが辛いし悲しくもなるんだ。おれの中に流れてるのはケイナのたったひとつだけの思いじゃない。ケイナだけの思いじゃない」
セレスの左手が光を放ち始めた。ケイナが危険を感じてよけるよりも早く、セレスは彼の顔を殴りつけていた。
閃光が散り、ケイナの鋭い叫び声が響いた。
彼はセレスから手を離すとひたいをおさえてうめきながら後ろによろめいた。彼の指の間から真っ赤な血が吹き出して水に落ちた。
セレスは荒い息を吐いてカインがうずくまる場所まで後ずさりした。
「セレス、あれはケイナじゃない……」
カインが苦し気に言うのが聞こえた。
「分かってる……」
セレスは答えた。
「おれを解放したら、苦しむことも、後悔することもないのに……」
ケイナは血がしたたり落ちる顔をあげた。
ひたいがぱっくりと裂けている。その裂け目から赤い血とともに 目をそらしたくなる頭蓋の中身が見えていた。
「そのかわり人を信じることも、愛することもなくなるよ」
負けない。もう負けない。
セレスは自分に言い聞かせた。
「ケイナ、分かる? あんたの利き腕は左だ。今おれの左手があんたの手だよ。自分でいらない奴をやっつけろ」
セレスはぎゅっと目を閉じたあと、大きく息を吸い込むとケイナに向かって再び手を振り上げた。
「出ていけ!!」
セレスは勢いよくケイナに飛び掛かり、そして再びぴたりと左手を彼の裂けたひたいに押し当てた。水の中に倒れ込んだふたりの周りに音のない水の光が散らばった。
再び閃光が走り、光の向こうでケイナの目が大きく見開かれてセレスを捉えたあと、その顔が見る間に溶け始めた。
セレスはどんどん彼の皮膚が溶け、眼球が落ちていっても目をそらさなかった。
これは本当のケイナではない。
今はその確信があった。
最後にケイナは小さな光になり、そして消えた。
セレスは肩で息をついて立ち上がった。
「終わったよ……」
背後で声がしたので、セレスは振り返った。静かな顔をしたケイナが立っていた。
彼は近づくとセレスを抱き締めた。
「目が覚めたら、こんなふうに抱き締めることができたことを、きっと忘れていると思う……」
セレスはケイナに抱き締められながら、その肩ごしにカインが戸惑い気味に目をそらせるのを見た。
「セレス、暗示を解くのは簡単だ」
ケイナは言った。
「大切に思えばこそ。それだけだよ……」
そしてふっとその姿が消えた。
セレスはしばらく呆然として立ち尽くしていたが、はっとして水の中にうずくまるカインに駆け寄った。
「カイン、ごめんよ…… 現実の痛みを夢の中でも思い出させることになってしまって……」
「そろそろ目覚める頃だからいいんだよ」
カインは力のない笑みを見せた。セレスはカインに近づくとその肩を抱きしめた。
カインは驚いて動くほうの腕でセレスを受け止めた。
「カイン、生きててくれてほんとによかった。あんたには絶対死んで欲しくないんだ」
「きみは…… きみを殺そうとしたのに、ぼくを憎いと思わないの」
セレスは身体を離してカインの顔を見た。
「カインは命がけでおれを助けてくれたじゃないか。綺麗な海を教えてくれたじゃないか」
そしてカインの顔をまじまじと見つめた。
「おれ、カインの目をこんなによく見たことはなかったかも…… メガネはどうしたの?」
「ああ……」
カインは笑った。
「壊れたんだ…… ぼくは父ほど目が弱いわけじゃない。もうメガネは必要ないかもしれない」
セレスはそうつぶやくカインを見つめたあと、再び口を開いた。
「トウって…… カインのお母さんなの?」
「え?」
カインは目を見開いた。
「いや…… 叔母だ。どうしてトウのことを?」
「なんとなく…… トウって人の名前が、おれ、聞こえたような気がしたから」
カインはセレスを見つめ返した。そして笑った。
「女性の姿で『おれ』『おれ』と言うのはなんだかへんな感じだな。早く元の姿に戻らないか?」
セレスは空を仰いだ。
「そうだね。アシュアとジェニファが呼んでる」
「ぼくも帰らないと。本体は地球にいるんだ」
カインは立ち上がった。
「どうやって帰るの?」
セレスはびっくりして言った。
「大丈夫。もうぼくたちは元の世界に戻ろうとしてる」
カインはセレスの足を指差した。セレスが目を向けると、下から少しずつ空中に溶けていっているところだった。
「カイン」
セレスは言った。
「おれ、女なの? 男だよね?」
カインは笑みを見せた。
「たぶん…… 今はまだケイナを守らないといけないから男なんだよ。でも、きっといつか……」
カインは消えた。
「大丈夫?」
カインが目を開けると、女が心配そうな顔をして覗き込んでいるのが目に入った。
カインは額に濡らしたタオルが乗せられているのに気づいた。彼女はずっと看病をしていてくれたのだ。
「ええ……」
カインは少し笑みを見せた。女はほっとしたような顔をした。
「良かった…… 薬が合わなかったのかと心配したわ。 悪夢にうなされているような感じだったから……」
「薬のせいか……」
カインはつぶやいた。地球と『コリュボス』の間の真空間を飛び越えて意識がケイナの中に入り込むなんて、普通ならできっこない……。
「悪い夢じゃなかったの?」
女が怪訝そうに言った。
「え?」
カインは女を見た。彼女は肩をすくめた。
「だって、何だか表情が全然違うわよ。安心したような感じだわ」
カインは笑った。
「ええ…… 悪い夢じゃなかった」
カインは起き上がって左腕をさすった。包帯が新しいものに取り替えられている。
不思議と病院を抜け出したときよりも痛みが薄らいでいるような気がした。
「ほんの少しだけど麻酔薬があったから使ったわ。『コリュボス』に着くまではもつと思うけど」
カインの表情に気づいたのか、女は言った。
「立てる? そろそろエアポートに行かないと」
カインはうなずいて立ち上がった。
セレスは身を起こしてあたりを見回した。
「セレス! 気がついたか!」
アシュアが嬉しそうに顔を覗き込んだ。
「一時はどうなるかと思ったわ」
ジェニファはそう言うとセレスの頭を抱き締めた。
セレスはしばらくぼんやりとしていたが、やがてジェニファの肩ごしに横たわるケイナを見つけて、彼女を押し退けるとケイナのそばに行った。
「大丈夫よ。術は解けてるんだけどしばらくは目覚められないと思うわ。術に逆らってあなたを助けようとしたのよ」
ジェニファはそれを見て言った。セレスは目を閉じたままのケイナの頬にそっと手を触れた。
「うん…… 知ってた」
そう答えてアシュアとジェニファを振り返った。
「ケイナだけじゃないよ。アシュアも、ジェニファも、カインも…… みんなでおれを助けてくれたよ」
「おれ?」
アシュアが目を丸くした。セレスは笑みを浮かべてうなずいた。
「アシュアの声が聞こえたよ。 ……あ、そうだ。水晶を返さないと……」
セレスは慌てて自分の手を見た。
「そうだ…… 砕けたんだっけ……」
「もう必要ないでしょ?」
ジェニファは笑って言った。
「それにしても、これからどうするかな……」
アシュアは眠ったままのケイナを見つめてつぶやいた。
「まさか、目覚めるまでここに寝かせておくわけにはいかないし……」
「これは提案なんだけど……」
ジェニファはためらいがちに言った。
「あなたたち、『ノマド』に行ったら?」
「どうやって行くの? 『ノマド』ってあっちこっち移動してるんだろ?」
セレスは面喰らったように言った。
「ここは『ノマド』の森なのよ。何年か前にふたつかみっつのコミュニティが地球からコリュボスに渡って来たって聞いたの。だからいるはずだわ。奥は結界がはってあるから普通の人間には辿りつけないんだけど、向こうは侵入者をちゃんと把握してる。ましてや術を使う者となるとなおさらよ。ここでやってたことは全部知ってると思うわ」
「じゃあ、おれたちが森の奥へ入って行ったらどこかで『ノマド』に会えるってこと?」
セレスは尋ねた。ジェニファはうなずいた。
「たぶんね。向こうが受け入れてくれれば。きっとあなたたちにはそのほうが安全よ」
「もし、受け入れてくれなかったら?」
アシュアは目を細めた。
「いやでもまた森の入り口に戻ってくるわ。でも…… ケイナがいるから大丈夫よ。彼は昔『ノマド』にいた身だもの。それに、もしかしたらセレスもね」
「え?」
セレスはそれを聞いて再び目を丸くした。
「おれが?」
ジェニファは笑った。
「ケイナに少し前に言ったのよ。詳しい話はできなかったけど、『ノマド』には緑色の髪と目を持つ人間がいたという言い伝えがあるの。『ノマド』の古いメンバーはだいたい知ってるわ」
「緑色の髪と目……」
セレスはつぶやいた。
「あんたたちは『ノマド』に帰るべきなのよ。帰ればきっと教えてくれるわ。今ここでは全部を説明している時間もないでしょう」
ジェニファの言葉にセレスは戸惑い気味にうなずいた。
アシュアはケイナを抱き起こすと苦労して彼を背負った。
「とりあえず、ジェニファの言うとおりにしたほうがいい……。いったいどれくらい歩かないといけないのかな」
「さあ…… 1時間かもしれないし、1週間かも……」
「1週間も森の中を彷徨ったら死んじまうぜ」
アシュアは仰天して言った。ジェニファはくすくす笑った。
「冗談よ。ケイナの目が覚めれば思い出して自分で道を見つけるでしょうよ。もしかしたらセレスが見つけるかもしれないし」
セレスとアシュアは顔を見合わせた。
「とにかくどこか分からないけどほかにいい考えも浮かばねえ。行こう」
アシュアはセレスにそう言うとジェニファに向き直った。
「ジェニファ、いろいろありがとう。あんたにも危ない橋を渡らせてしまった」
「気にしないで。夢がいい方向に向かってるからほっとしてるのよ」
ジェニファは笑みを見せた。その顔をしばらく見つめたセレスはためらいがちにジェニファに言った。
「ジェニファ、あなたはどうして『ノマド』から離れたの?」
ジェニファの顔が一瞬暗い翳りを見せた。彼女はあまり言いたくなさそうだったが、口を開いた。
「子供ができたのよ。『中央塔』に勤める若い男の。もう30年も前の話だわ」
「子供…… その人は……」
「もういないわ」
セレスの言葉を遮るようにしてジェニファは言った。
「子供も男も病気で死んだ。私は自分から『ノマド』を出て行ったからもう戻らないと決めたの」
セレスは目を臥せるとうなずいた。
「幸運を祈ってるわ」
ジェニファは言った。
ふたりは森の奥へと足を踏み出した。